◆103.鳳上パパラッチ
「……こ、これは……!?」
驚愕の表情で充が手にした『衣装』。
それを手にしたまま固まってしまっている充に、クラスを代表した妃沙がうっとりするような微笑みを浮かべ、その肩をポン、と叩いた。
「今回の出し物がお客様から多くの反響を頂く事が出来たのは、充様の覚悟と頑張りがあってのことだということはここにいる全員が納得しておりますわ。
そして、充様がこの出店の為に部活動とクラスを行き来していて、この文化祭の期間中に大切な婚約者様をご案内することはおろか一緒に過ごす事も出来ずにいることも」
そう言いながら妃沙が渡した『最後の衣装』、それは──充が普段着ている、この学園の『制服』であった。
臙脂色のジャケットに、紺地に赤と白の差し色が効いたスラックス、そして一年生のカラーである黄色の刺し色が利いたストライプのネクタイという一式だ。
「そんなの当たり前だよ、ボクは責任ある役割を任されているんだし、美子の事は大切だけど、それ以上に社会的な役目ってものが……」
「そんな言い訳はどうでも良いんだよ、充」
なおも何かを言いたそうな充に対し、やや大きな声でその言葉を遮ったのは妃沙の隣にいた葵──華美な飾りの付いた軍服めいた衣装を身に纏ったその姿は、充が演劇部の舞台で演じた親衛隊長もかくやといった様子だ。
「お前が誰よりも自分を犠牲にして頑張っていたのはみんな知ってる。もちろん美子先輩もそんなお前を応援してたから、アタシ達は『充に一番似合う服』を美子先輩に教えて欲しいって頼んだんだ」
な、と、隣に立つ妃沙と目を合わせて微笑み合う。
そして、ニコリと花が綻ぶような可愛らしい表情を浮かべた妃沙が、その言葉を引き取って言葉を続けた。
「詠河先輩は、真っ先に制服だ、と仰いましたわ。そして、長い人生の中で三年間しか着る事が出来ないからこそ、制服の充様をたくさん目に焼き付けておきたいとも。
……ねぇ、充様、詠河先輩は本当に素敵な方ですわ。メイドだ親衛隊長だと、非日常の衣装を纏うことを余儀なくされている貴方に、最後に身に纏って欲しいのは制服で……それを独り占めしたいのだと仰って。
正直、その時の詠河先輩の表情は可愛くてお綺麗で……あの方のような婚約者がいらっしゃる充様を、少しだけ羨ましく思った程ですのよ」
当時の事を思い出し、何処か遠くを見ながら優しく微笑む妃沙の姿には思わず目を奪われそうな程だ。
だが、その時その場に同席していた妃沙を深く思う面々──知玲、莉仁、悠夜以外の人々は、その表情よりも充と美子のエピソードに心を惹かれているようである。
そして妃沙はまた、自分の親友の婚約者が、高校生には高校生の時にしか経験出来ないものがあり、それを大切にして欲しいと願ってくれる人物であることに深く感動していた。
突然それを奪われる、という経験をしたからこそ、自分の周囲にいる人物にはそれを大切にして欲しいと願っていたし、この場合も美子の気持ちはとても良く理解出来たのだ。
「詠河先輩は校舎の屋上で充様をお待ちですわ。制服を着た充様と一緒に、そこで打ち上げ花火をご覧になりたいのだそうです」
そう、妃沙が告げた瞬間。
真顔でその言葉を聞いていた充──その表情はとても男らしいものであった──が、突然にババッとその場で身につけていたメイド服を脱ぎ出すではないか。
「ちょっ!? 充、落ち着けよ!?」
そう言って諌めようとしたのは彼の親友である大輔だけで、女子達は「キャッ!?」と可愛い悲鳴を漏らすどころか着替えのサポートに回る始末である。
中身が男子高校生の妃沙はもちろん、葵が男らしいと言われるのはこんな所ではあるのだけれど、そんな彼女らと同様の反応を示すクラスの女子達も大概だな、と、知玲あたりは苦笑する程だ。
「行ってらっしゃいまし、充様。貴方の頑張り、この水無瀬 妃沙、しかと見届けましてよ。身を粉にして働いたのですもの、一番褒めて欲しい方に労ってもらって下さいな」
あっと言う間にクラスメイトの前で着替えを終えた充。
その妃沙の言葉を受け、グイ、と手の甲で唇を拭い、口紅を拭い取る。
「……有り難う、妃沙ちゃん、葵ちゃん、みんな! 好きな人を待たせるなんて、男の風上にも置けないよね!」
行って来る、と、走り出そうとする充。
その腕をそっと取り、再び優しく微笑んで、妃沙は唇の端の肌に付いてしまっていた口紅をス、と自分の人差し指で拭い取った。
「高等部一年でしか作れない思い出、しっかり創って来て下さいましね。わたくしたちも、これからめいめいで後夜祭を楽しみますわ」
ありがとう、と微笑んだ充は、もう『愛くるしいメイド』の面影は何処にもない。
一人の高校生男子として、そして、一刻も早く恋する相手に会いたいと願う恋する一人の男として、妃沙を含めた周囲が微笑みを浮かべて言った。
「行ってらっしゃいませ、御主人様」
執事の役割を担った生徒達だけでなく、全員がそう言って恭しく頭を下げる様に、充は一瞬だけ動きを止めて涙を浮かべたのだけれど。
……屋上では今、自分の世界で一番大切な人が一人で自分の到着を待っているのだと思うと、嬉しさと、誰かに目を付けられたら、なんていう不安とで胸がいっぱいで。
──彼は走り出した、その『黄金の脚』を駆使して。
想い人が待つという、屋上へと。
───◇──◆──◆──◇───
「美子……!!」
元から持っていたものと、演劇を学ぶようになってから意識するようになった良く響く声が、落ちそうな夕陽が照らす屋上に響き渡る。
一人、手摺りにもたれてきっと来るだろう彼を待っていた釣り目がちな美人の彼女が、美しく微笑んで彼の名を呼んで振り向いた。
「充くん」
「美子……!」
物凄い速さで駆け寄った彼は、そのままの勢いで彼女に抱き付いてその華奢な身体を手摺りに押し付ける。
予想はしていたものの、その勢いに押されてしまった彼女は、いつの間にか自分より背が高くなり、力も強くなり声も低くなり……けれど決して変わらずに自分の名前を呼んでくれる彼の『制服の背中』に、そっと手を回した。
「……お疲れ様、充君。舞台もメイドさんも本当に素敵だったけど……私はやっぱり、高校生らしい今の充君が一番好き」
「美子、美子……!!」
ひたすらに彼女の名を呼んで抱き付き、ギュッとその腕に力を込める彼は、彼女の肩口に顔を埋めているから見えないけれど、伝わる温もりから、泣いているのだろうと想像させる。
そして彼の腕の中にいる自分の頬にも、同じような温度を持つ液体が流れている事を感じていたのである。
「……充君、最高に……格好良かった……!」
そういう彼女の身体を、一際強い力で彼が抱き締めた。
夕陽が染め上げる、最高にロマンティックでシリアスなその場面。
……だが。
「ちょっ、皆様!? そんなに前のめりになっては充様と詠河先輩に気付かれてしまいますわ!?」
「押すな押すな! アタシが見届けられないだろ!?」
「ちょっ! どさくさに紛れて妃沙に触ろうとするのやめてくれるかな!?」
「理事長が一番アブないですよね!? 妃沙、こっちにおいで!?」
「充ゥゥーー!!」
妃沙、葵、莉仁、知玲、大輔といった面々が屋上に続く扉に殺到しており。
やがて、ミシミシと音を立てて扉が外れ。
「キャーーーー!!」
そんな妃沙の悲鳴(本人的にはウォーと叫んでいるつもりのそれ)が響き渡り、出歯亀的な一団が、感動的な光景を展開していたカップルの美しい光景に乱入し。
「来るなとは言わなかったけど、空気を読むって事を知らないの!?」
……そう、『彼』に怒られたのはごくわずかの時間後のことであった。
───◇──◆──◆──◇───
「妃沙、お疲れ様」
そう言って知玲が差し出したマグカップには、少し濃い目に入れた抹茶にミルクを混ぜ、少量の砂糖を加えた飲み物だ。
普段は甘い物は排除、とでも言いそうな勢いで口にしない妃沙だけれど、疲れを取るのに糖分は有効であるし、その飲み物に知玲が加えたのは天然素材の甘味を加えたもので、知玲のオリジナルである。
更に言うと、この場で初披露したものではなく、妃沙も口にしたことがあり、その度に改良を加えた妃沙専用のドリンクなのである。
……今、二人がいるのは校庭が一望できる位置に面した理科準備室。
文化祭終了後の後夜祭を観覧するスポットとしては最高であると、三年を掛けて知玲が編み出した場所だ。
ここに妃沙だけを誘導するのには、様々な駆け引きと、恋敵たちとの攻防と、妃沙自身への説得と洗脳を経て成し遂げたものである。
なお、最後まで納得しなかった莉仁、悠夜の親戚コンビとは、最終的にジャンケンという原始的な方法でここにいる権利を勝ち取ったという涙ぐましい事実だけは伝えておく。
ありがとうございます、と微笑んでカップを受け取り、そっと口を付ける。
この世界で使える人物が少ないという『気』の魔法を駆使して温度を調節されたその中身は、少し猫舌な妃沙が丁度良い温度で飲み物を堪能できるように調整されていた。
自身も持参したカップの中にロイヤルミルクティーを淹れて持って来ていた知玲も、微笑みながら手にしたカップの中の飲み物を啜る。
「色々ありましたわねぇ、今回の文化祭。わたくしね……こんな風に一般生徒として文化祭を楽しむことに、少しだけ憧れていましたのよ。ですから……少しはりきり過ぎたかもしれませんわね」
満足気な表情の中に、少しだけ自嘲の色を乗せて微笑む妃沙に、知玲は側の椅子を窓に向けて二つ並べて、その一つに妃沙を誘導する。
理科準備室は校庭に向かう、最上部の隅にある部屋だ。
採光など考えなくても良いどころか、何処か薄暗いイメージのある部屋だけれど、この学園の化学担当教師というのが酷く採光を気にする人物だとかで、明るい部屋でしか仕事が出来ないと言い張ったそうである。
いくら恋をした相手とは言え、生徒にそんな内部事情を漏らすことなどしない莉仁だから、妃沙がその情報を知っているのは他でもない、当人が大っぴらに語っているからだ。
卓越した才能を持つ教師を呼び寄せる条件の一つに、この部屋を与えられたのだということはこの学園の生徒であれば比較的誰でも知っている事である。
繊細な管理が必要な薬剤などは湿度も温度も光度も制限された金庫の中で保管しているらしいので問題はない。
そしてまた、そんな恵まれた環境を与えられながらも、残業や余計な仕事はしないと言い張る化学教師の性格もあって、この部屋は無人なことが多いのだ。
……もっとも、今日は彼もこの部屋で後夜祭を楽しもうとしていたようなのだけれど、そこは知玲の『お願い』が通った結果が今の状況なのである。
「妃沙が楽しそうで、僕も本当に嬉しかったよ。おにぎりも美味しかったし、接客は僕も楽しかったし……舞台の上の君は本当に輝いて見えたよ、『マリアンヌ様』?」
「やめて下さいましッ! わたくし、つくづく演技というものは向いていないなと実感したのですわ! 『今世』の自分を偽る事も出来ていないのに、仮初の人物を演じるなどと……」
妃沙がそう言った瞬間、プ、と知玲は吹き出した。
演じる、なんて、確かに彼女には最も似合わない言葉だな、と思ったから。
「別に君はさ……演じようとなんかしなくたっていつだってキラキラしてるよ。今世も……前世もさ」
そんな君に、僕はずっと憧れていたよと囁きながら、隣に座った妃沙の細い肩をスッと抱き寄せる知玲。
思えば、文化祭の準備が始まってからというもの、妃沙はクラスと演劇部の応援で忙しく動いていたし、自分も生徒会、剣道部、そして妃沙達のクラスの手伝いでかなり忙しくて、こんな風に二人で話す機会がなかったのだ。
僕も妃沙不足だったのかもなと、知玲の表情に苦笑が浮かぶ。
「今はともかく、前世のわたくしは違いますでしょう? 別に、前世で出来なかった事を今、解消している訳ではありませんけれど……でも……こんな生活も、あるのですわね……」
そう呟いて窓の外を見上げる妃沙の大きな碧眼に、花火の光が映り込む。
どうやら重度の騒音嫌いであるこの部屋の主によって、理科準備室には不必要な程の防音仕様になっている為に音こそ聞こえないけれど、校庭では後夜祭用の花火が打ち上げられたようだ。
「これが僕と君が生きる世界、だろう? 僕は別に、以前の世界も嫌いじゃなかったよ。でも君にはきっと、今の世界の方が……自由に幸せを追求出来るんじゃないかと思う。
素直に気持ちを口にするには、以前の君の姿もそれを取り巻く世界も……少しクソッタレ過ぎたね」
だからさ、と、妃沙の手をキュッと握る。
「……復讐しようよ、二人で。思いっ切り幸せになってやることで、前世の世界にざまぁみろってさ……そして、突然僕達を失った家族たちに幸せな報告を、しよ。二人で」
「ええ、知玲様」
珍しく握り返された手は『夕季』が知っているそれよりもずっと小さいけれど……その温かさは変わらないなと、満足気に微笑み知玲の横で。
黙って花火を見上げる妃沙の顔に浮かんでいるのは、達成感と多幸感、そして少しの……寂寥感。
「けれど……前世の母親はきっと……わたくしのことなど忘れてきっと幸せにやっておりますわ」
「何を言うの。おばさんは、いつだって龍之介の事を……」
その知玲の言葉を、キッと彼の方に顔を向けた妃沙の白い人差し指がス、と押さえた。
突然のことに目を彼女を凝視する知玲の瞳に戸惑いが映り込む。
「考えても詮無きことですわ、知玲様。龍之介も夕季も死んだ。ですから決して戻れないのですもの」
また新たな花火が夜空に咲く。
その瞬きを瞳に浮かべた妃沙の表情は、言葉とは裏腹に、とても清々しくて凛々しくて……知玲には一瞬だけ、龍之介がそこにいるような錯覚すら覚えた程だ。
「わたくしは、もう充分。ですから知玲様や、葵や大輔様、充様……そしていつか、理事長や生徒会長にも『これぞ』いう幸せを見つけて頂きたいと願うのみですわ。わたくしは……大丈夫ですから、知玲様……」
「それは僕も同じ。僕を幸せに出来るのは君しかいないんだよ? そして僕は君より優しくないから、君を幸せにするのは僕でありたいって願ってる」
妃沙、と囁く知玲。
「……今日の分どころか、一週間分くらい貯まってそうだね。妃沙……君が、好きだよ」
囁いて、抱きしめて。
溢れだしそうな気持ちを必死で抑えつける努力は、いつまで続くのだろうと眉を顰める知玲。
……だが。
「……知玲様、この世界で幸せを見つける為には、前世に引き摺られていては叶いませんわね。
そしてわたくしも……『水無瀬 妃沙』として向き合わなければ、きっと……失礼ですわね」
決意に満ちた妃沙の横顔を見つめながら、知玲の心の中に仄かな期待と大きな不安が宿ったその時。
「悠夜!? そんなに押したら、この扉はそんなに頑丈じゃないんだぞ!!」
「馬鹿言ってんじゃねーぞ、莉仁! お前がなんでこんな所でくすぶってるのか不思議なくらいだぞ!? 今直ぐあの甘ったるい雰囲気を破壊しなきゃ……!」
「妃沙ァァーー!! アタシ以外にそんな雰囲気垂れ流すなァァーー!!」
「葵てめェ! 彼氏が隣にいるのに何血迷ってんだ!!」
出歯亀達がそんな想いを爆発させて扉に集結した結果は……
──案の定、だとしか表記出来ない事態だったのである。
◆今日の龍之介さん◆
龍「気を付けろ、知玲! 敵はすぐ近くにいるぞ!」
知「ん? どした?」
龍「感じるぞ……敵は三……いや、四人だな。あの扉の向こうに」
知「理事長と悠夜と葵さん達でしょ」
龍「ぬぁぁーー!!?? 格好良い雰囲気だったのにネタバレすんなぁー!」
知「ハァァ……。僕こそロマンチックな雰囲気を壊されてガッカリだよ」