◆99.掬枇庵(むすびあん)
そして文化祭当日。
妃沙達のクラスが催す和風執事喫茶『掬枇庵』は大盛況であった。
初日の今日は、午前中は各クラス共に準備にあたり、午後から生徒と教師にのみ開放される予定なのだけれど、午前中から既に列が出来ているほどの盛況ぶりである。
あまりの混雑ぶりに、事態を重く見たこの学園の理事長、結城 莉仁が妃沙に整理券を作るように指示を出し、準備が出来るまでの間に増え続けるだろう列の前に立って整理券の配布時間にもう一度来るようにと生徒達に告げなければその数はどんどん増えていただろう。
生徒達に紛れるようにして多くの教師達が並んでいたのには驚いたと、交通整理を終えた莉仁が苦笑して語っている。
「たかがおにぎり、されどおにぎり、という所でしょうか。この国の方々は本当に米を愛していらっしゃいますのねぇ」
関心したようにそう語りながらお櫃の中の米に天かすや青海苔を混ぜ込み、そこに絶妙なバランスでゴマ油やゴマを振りかけているのは、執事として接客する予定の一人、水無瀬 妃沙。
だが今は下準備に余念がなく、女子の制服の上にエプロンし、髪が落ちないように三角巾を被って忙しそうに手を動かしている。
彼女は執事の役割の他に、提供するおにぎりの監修という重要な役割を担っており、妃沙的には執事はあくまでおまけでこっちが本命だと思っているのだ。
「執事が握ってくれて、好きなようにカスタマイズしてくれるなんて普通の喫茶室じゃねぇもんな! アタシは提供する側だけど、客としても来てみたいって思うしなー」
妃沙の指示通りにその準備を手伝いながら楽しそうに語るのは彼女の親友・遥 葵。
彼女もまた執事として接客に廻る予定なのだけれど、今日は所属するバスケ部の模擬戦に参加したり、恋人の颯野 大輔と文化祭を廻ったりする予定なので接客は明日のみの予定だ。
そんな配慮はいらねぇぜと断っていた葵だけれど、親友の妃沙に涙ながらに言われたのだ、「今を大切にして下さいまし」……と。
妃沙としてはせっかくの文化祭、今しか感じ得ない感動を、ちゃんと大輔と二人で噛みしめて欲しかったのである。
高校生になり、妃沙は「今しか出来ないこと」に少しだけ敏感なのだ。
そしてそれは、自分が経験したいのではなく、周囲の人々に満喫して欲しいと考えていて、それが葵という最も心を砕いている対象ならば当たり前のことである。
「……なぁ、妃沙、やっぱり今日の接客、アタシも入るよ」
「駄目ですわ! 一度納得したことを翻すなんて葵らしくないですわよ。それに、明日はわたくしも部活動の案内係としてクラスの展示の方を離れる時間を頂いているのですもの、お互い様ではないですか」
「でも……」
尚も何か言いたげな葵に、妃沙はクスッと微笑んで「葵! はい、あ~ん!」と言って小さなおにぎりを葵の口元に運んでやる。
反射的にそれを咀嚼した葵は、次の瞬間、目を見開いて妃沙を見つめていた。
「……何コレ、うまッ!」
「フフ、葵ならそう仰って下さるかと思いましたわ。アレンジヴァージョン、プロトタイプX『そばめしタイプ』! 炭水化物に天かすを混ぜた上に更に焼きそばと紅ショウガを加えた、もはや悪魔ならぬ魔王のおにぎりですわッ!」
「焼きそばに天かすもあおのりも合うもんなー。女子ウケは期待出来ないかもしれないけど、アタシはこれがイチオシだな!」
ニカッと笑うその表情に、心配ごとや含むところはまるでない。
それでこそ自分の好きな葵だと、妃沙はなんだかとても嬉しくなったので、そのまま物凄い勢いで食材の準備を進めていた。
そんな妃沙を優しく見つめ、己の幸せはこの子と共にあるなと改めて実感したのか、葵は胸がいっぱいになったらしく、スッと妃沙の側に寄る。
「……大好きだよ、妃沙」
そう囁いて、そっとその柔らかそうな金髪にキスを落とす様はとても慈愛に満ちていたし、それを受ける妃沙の幸せそうな表情も相まって一枚の宗教画のようだ。
普段であればその麗しい光景に浸ったり写真を撮ったりしていた周囲、なのだけれど。
「……妃沙ちゃん、葵ちゃん!? 今、ちょー忙しいの解ってる!? 時間ないんだからイチャイチャは後にして手を動かして!!」
珍しく厳しい声をあげるこのクラスの委員長、栗花落 充は今──立派なメイド(ミニ)であった。
その声にハッとした表情をするクラスメイトの面々。だがその手は止まったままである。
「はぁ……。充様、本当に麗しいですわ……!」
妃沙の言う通り、立派なメイドと化した充の愛くるしさは視線を奪い、手を止めてしまう理由としては充分な破壊力があった。
元々の髪の色に合わせた金茶色のエクステは先端がクルクルと巻かれており、元の髪かと勘違いしてしまいそうな程に違和感がない。
透き通るように白い肌には軽くファンデーションが載せられ、長い睫毛はマスカラを塗った上で丁寧にビューラーで整えられて天を向いていた。
そして唇にはピンクのグロスが塗られており、艶々と光るその口から飛び出して来るのが少し高めとは言え高校生男子の声だとしても気にならない程に、そのヴィジュアルは完璧だったのである。
「だから妃沙ちゃん! 写真撮ってる暇があったら手を動かして! そのご飯が今回の出展の成功のカギなんだって解ってる!?
ほらまた……! 試作は今までに散々したでしょ!? 葵ちゃんも摘み食いしないで働いて! 時間ないんだから!!」
そんなお小言や、周囲に対しても適切な指示を飛ばしながらキビキビと準備を進める充。
その頬は確認するまでもなく、その瞳のように桃色に染まっており、多少の興奮はあったかもしれないけれど照れているのが丸解りであった。
妃沙を始めとした周囲はそんな充の強がりは充分に理解していたし、そしてまた今日まで執事の練習をしたり提供するおにぎりや茶の種類にまで拘って準備した喫茶室だ、絶対に成功させたいと願うのは全員の悲願でもある。
「そうですわね。それでは皆様でで協力して最後の仕上げを致しましょう! 理事長、申し訳ございませんがもう少しだけ教室前の交通整理をお願いしてもよろしいですか?」
オーケー、と楽しそうに微笑んだ莉仁が教室から出て行き、再び教室の前で列を作ろうしている生徒や教師たちに何事かを告げている。
そうして妃沙達は再びキビキビと準備を進めている。その表情はとても楽しそうで、青春を謳歌している高校生そのものだ。
(── 一度、こんな風にクラスメイトと参加してみたかったんだよな、文化祭! せっかくなら思いっ切り楽しんでやろうじゃねぇか!)
前世ではこんな風に週に溶け込む事が難しかった自分。
それで良い、と思っていた……つもりだったのだけれど。
どうやら自分は皆と協力して何かを作り上げる事に憧れを抱いていたようだと納得し、今、この時間を満喫しようと決意を新たにする。
差し当たって、彼女が今、一番興味を抱いていること、それは……
「充様! わたくしが設定したスカート丈を少し伸ばしましたわね!? 駄目ですわ、34.5センチ、これは絶対に譲れない長さですのに!!」
「ウッ!? 気付くの早いね、妃沙ちゃん!? ボクは普通の女子より背が高いしちょっと短いような気がして……。でも、長さより密度でお客様の対応をするから……」
「ダメダメダメったらダメですわッ! 手芸部の方々、事件ですわ! 今直ぐお花ちゃんのスカートの修正を……!」
イエッサー、と声がかかり、針と糸を持った面々が充を取り囲む!
「駄目です、水無瀬さん! お花ちゃんの抵抗が強くて作業が進みません!」
「ならばせめて覗くペチコートに一段長い物を追加して下さいまし! 今のままではペチコートの白が全く映えませんわ!」
「承知しました。引き続きスカートの修正も試みます!」
「頼みましたわ!!」
アーッという充の悲痛な叫び声が教室内に響く。
楽しそうな一団の周囲では、準備から離脱した彼らの分まで働くクラスメイトが犇めいており……だが、彼らも、激動の只中にいる妃沙も、そして充でさえも、とても楽しそうに輝いていたのであった。
───◇──◆──◆──◇───
「おかえりなさいませ、お嬢様」
優しくも凛々しい声が来訪者を包みこむ室内。
白い前掛けを揃いで掛け、洗練された仕草と表情で来賓を出迎えている悠夜と莉仁の指導を受けた洋装執事の面々と、前掛けはしていないけれど、襷で袖を上げて動きやすいようにしながら、こちらもまた洗練された袴捌きで室内を行き交う和装の執事達。
講師は知玲であり、自身は洋装部門のアドバイザーも務めながらも、真乃流華道の次期家元として和装は着慣れている銀平も執事として参加している。
妃沙の参加するクラスの出し物ではあるのだけれど、学園中から協力したいとの要請が引きも切らず、また、学園としても生徒会としても客寄せとしては最適なイベントであったので、理事長の莉仁、生徒会長の悠夜、副会長の知玲、書記の銀平に会計の聖といった面々も会長の号令のもと、時間限定とは言えサーヴ予定だ。
なお、もう一人の会計である月島 咲絢は講師としての協力のみに留まっているのは、無理に接客などさせようものなら問題が起きる予感しかしなかった悠夜の采配である。
「本日のお相手はわたくしが務めさせて頂きます」
そう言ってにこやにゲストを迎える、一人だけやたらと目立つ衣装を身に纏った美少年──に扮した美少女、水無瀬 妃沙。
彼女は今、紺地に金の飾り糸が印象的な貴族めいた衣装を纏っている。そのズボンの丈は当然のことながら、膝の少し上。
白いブラウスの胸元はキラキラした紅い飾りの付いたブローチでスカーフ状に纏められており、少年としては少し長めの髪は黒いベルベットのリボンでサイドに纏められている。
一際目立つのは頭に戴いている白いリボンに薔薇の飾りが印象的なシルクハット。
普段から人好きのする笑顔が印象的な妃沙だけれど、今日はその中にも何処か凛々しさが漂っており、立派な美少年にしか見えなかった。
この執事喫茶で接客を担当する執事は完全にランダムとされているが、実は接客担当の間では順番が決められており、ローテーションに従って接客をすることになっている。
指名権も検討されたのだけれど、それでは不平等な結果になってしまうかもしれないし、有名執事にばかり指名が集まっては、せっかく練習して来た他の執事達のモチベーションも下がってしまう。
接客担当者は研鑽を積み、誰がどのお客様を担当しても遜色ないレベルに達しているし、相手によって態度を変える訳でもないのでこうした措置がなされているのだが……
「えーー!? 萌菜の担当執事って妃沙ちゃんなのぉぉーー!? ヤダヤダ! 担当変更をお願いしちゃいます!!」
……中にはこうして我が儘を言う客もいるもので。
もっとも、妃沙に接客されて文句を言う客は初めてで、多くはあの子に接客を頼みたいという要望だったのだけれど……自称・ヒロインちゃんは特殊な思考回路をお持ちのようだ。
「河相様、ごきげんよう。基本的に担当の変更はお受けしておりませんけれど……今回はお連れ様の担当ということで、もう一人、わたくしと一緒におもてなし致しますからそれでご納得頂けませんか?」
知玲様、と妃沙が声を掛ける。
すると室内を行き交う執事の中から、一際動きが洗練された袴姿の黒髪の美丈夫がピッと妃沙の隣に付き従う。
一方の室内も一瞬だけピリッとした空気に包まれるのだけれど……実は、彼女の来訪は予測しており、最初からその担当は妃沙が、そして文句を言われた場合は知玲と一緒に担当すると決められていた。
本当は理事長の莉仁が「俺が妃沙の隣に立つ」と立候補していたのだけれど、知玲と妃沙がにこやかに「これを機会に確かめたいことがある」と言って説き伏せたのである。
そしてまた、花形執事の妃沙と知玲がこぞって担当するとの提案にダダをこねるようなら追い出そう、という協定が実しやかに結ばれている室内。
「……萌菜、俺に否やはない。今日は美味しいと評判のここのおにぎりと抹茶を楽しみにして来たのだろう? 俺が隣にいるのに店員になど目をくれるな。嫉妬で可笑しくなりそうだ」
萌菜の隣に立つ大男がキュッと眉を顰め、その細い腰を抱いて自分に引き寄せている。
だが、そんな彼の切ない表情は、彼女にはまるで見えていないようだった。
「キャーキャー!! 知玲せんぱァァーーい!! 萌菜ねぇ、知玲先輩にお茶を点てて欲しいのぉー! 『心を込めて、君に』イベント、ここでしか起きないんだもんッ! だからァー、お願い出来ますかァー?」
ドン、と長江 誠十郎を吐き放し、珍しく前髪を上げて額を出し、凛々しい微笑みを浮かべる和装執事・東條 知玲に駆け寄る彼女。
想定の範囲内だフッと息を吐く知玲と、少しだけモヤモヤしたものを感じる妃沙、そして寂しそうに眉を顰める長江、という三者三様の表情を浮かべる中、ヒロインはいつでも自分に正直だ。
「知玲先輩、萌菜、梅とじゃこと枝豆とチーズの二種を小さめで! あと抹茶! 目の前で抹茶点てて欲しいのぉーー!!」
叫ぶようにそう言って、案内されてもいないのに、たまたま空いていた茶室セットの方へ知玲を連行する萌菜。
取り残された妃沙は想定の範囲内だと苦笑しており、その隣では大きな身体全体で萌菜に対する愛情を迸らせている柔道部部長が残されていたのだけれど……当然、入口でそんな光景が繰り広げられていては後続に影響が出てしまう。
「長江先輩、知玲様は河相様に心を動かされる事はないと思いますわ。いつまでもここにいては後のお客様のご迷惑ですし、長江様のような大きな身体のお客様への特別メニューを考案しておりますので、お試し頂けませんか?」
ニコリと微笑んで妃沙が長江に声を掛ける。
その声にハッとした大男は、ニヒルに微笑んで言った。
「……アイツにも困ったものだ。だが水無瀬、お前の料理上手は校内でも噂になっている。その特別メニューとやらを食さないまま退場しては、末代までの恥だな」
微笑んで妃沙の案内に追随する様はとても穏やかで……彼を危険視しているメンバーはおや、と思う程である。
どうやら萌菜が近くにいない時は本当の彼の姿──穏やかで優しくて強い、男をして憧れる長江本来の姿でいられるようだと、その場にいた全員が認識を改めたのであった。
「長江先輩、ネギはお嫌いですか?」
「いや、むしろ好物だな。出来れば西都の味の濃いネギだと更に嬉しいが……」
「さすが長江先輩ですわ! 実は、明日の一般公開に向けて提案したいメニューがあるのですが……出来れば運動部の身体の大きな方に試して頂きたかったので、試食をお願い出来ますか?」
「引き受けよう」
そんな会話を交わしながら穏やかな雰囲気で一つの席に落ち着いた妃沙と長江。
以外な組み合わせなのだけれど、中の人の性別や性格などを考えれば何の問題もなかったし、実際、そこには何の危険要素も感じ得ない。
──だが、もう一方、茶室に案内された知玲と萌菜……警護の為に派遣された銀平の一角には不穏な空気が流れていた。
「……いや河相さん、そのご飯に餡子は合わないと思うし……」
「えー!? なんでェー!? 甘い物は別腹だって昔から言いますよねー!? 餡子の甘さを中身が中和してくれると思うし、お茶もあるなら尚更だよォー!」
「天かすも入ってるしさ……。餡子に油ものって、女の子は敬遠する組み合わせでしょ?」
「だいじょうぶー! 萌菜、ヒロイン補正がかかってるから太らないのぉー! 余計なものは全部胸に行っちゃって……だから成長しちゃうんだよネ。知玲先輩、触ってみるぅ?」
平和な妃沙サイドと危険な知玲サイド。
この時、知玲は少しだけ、彼女を引き受けた事を後悔していたのだけれど……それを理由にして妃沙を独占する時間を捻出出来たので良しとすることにしたというのは余談である。
◆今日の龍之介さん◆
龍「プロトタイプⅩも好評だったしなー。知玲のヤツも餡子くらい試してみりゃ良いのに……」
萌「そーだよ、そーだよ!!」
知「いやあの……さすがに合わないと解っているものを合わせるのもどうなのかな……?」
誠「……意外と合うのではないか?」
龍・萌・知「!!!!」
誠「なんだ?」
龍「……あとがき初登場……!」




