小悪魔とアマテラス
3.
「……以来、この時期に華音が仕事の話をするとあれなのだよ」
ふぅ、と溜息を吐いて、紫音さんはお茶を啜った。
「悪ぃ、うっかりしてた」
「いや。あの子が乗り越えねばならぬ課題だよ。自分が働くようになれば、華音の気持ちもわかるのだろうけどね。まだ時間が掛かりそうだね」
紫音さんと先輩は、そろって天井を仰ぐ。
あぁ……そんなことがあったんだ。
難しいなぁ。流音君も悪くない。華音さんだって悪くない。仕方なかったんだ。純粋な子供が大人の事情で傷付く事案は、ままある。わたしにだって憶えがある。でも流音君には、そんなときに諭す父親も、抱き締めてくれる母親もいない。
その役目は、主に紫音さんが担ってきたんだろう。けれど彼は兄。どうしたって親にはなれない。どこか、何かが違うのだ。たぶん。
「俺が悪いんだ……嘘吐きは俺さ……」
部屋の隅で置物になっていた華音さんが、ぽつりと呟いた。
あぁもう、こっちはこっちで世話が焼ける。
「華音さん、別に嘘は吐いてないんじゃないですか? きっちり約束したわけじゃないし……そりゃ小学生にはわかりづらい返事かもしれないけど……」
「違う。違うんだ」
華音さんが頭を振る。長い金髪が、駄々っ子のように震えた。
「俺……あのとき、電話しなかったんだ。また掛けるって言って……」
え、そうだったの?
「こ、怖かったんだ。どうやって断ろうか考えたら、頭グルグルしちゃって。流音の笑顔とか、泣き顔とか、いろいろ目に浮かんで……手が震えて……」
華音さんは、ぐずっ、と鼻を啜る。
「なんとかしようと思ったんだ。何度も事務所に掛け合ったんだ。けど、駄目で。メンバーにも迷惑が掛かるし……俺も……ここで成功しなきゃって思ってて……」
語尾はもう消え入りそうだった。
なのに、自己嫌悪の文句だけは立て板に水。途切れる事無く吐かれ続ける。
「だから俺が悪いんだ。流音が怒るの当然なんだ。あのとき、俺が毅然として説明すればよかったんだ。もっと良い方法がいくらでもあったんだ。俺がバカだから。あんなに悲しい思いさせちゃって……最悪だよ俺……兄失格だ。ていうか人間失格だ。もう明日から縁の下に住んで卵の殻でも食べて生きるよ……屑には湿った暗闇がお似合いさ……」
「華音さんしっかり! それじゃカタツムリですよ!」
「カタツムリ……ふっ……うふふふ」
「ウケないでください紫音さん!」
駄目だ。この人、とうとうカタツムリの域に到達したぞ。
これは何を言っても無駄かなぁ。
時間が解決してくれるのを待つしかない?
それも「大人の解決」?
……そんなの寂しいよ。
家族が一緒にいられる時間は、案外短いんだ。高校を卒業して都会に出て、就職して自分の道を歩み始めるならば。せいぜいが十八年とプラス帰省。平均的な人生の半分もないだろう。お父さんお母さんの顔を見られるのも。
今だけ、なんだ。
子供がちゃんと子供でいられる時間は。
兄弟がゲームなんかで無邪気に遊んでいられる時間は。
しこりは残してほしくない。
「い、今からでも流音君に謝りましょうよ」
「何度も謝ったよ……何年も謝ってる……許してくれないよ……」
「あ、じゃあ手紙とかどうですか? 手元に残るし、やっぱ現物があると……」
「三十通ぐらい書いた。全部目の前で破られたよ……」
「毎度律儀に破る流音君も凄いですね……」
「俺なりに……考えたんだけど……」
「そ、そうだ。流音君のために歌を作るとか。歌詞に流音君を出すんですよ。自然な流れで無理なら、縦読みでもなんでも……」
あっ、という先輩の声が、わたしの早口を遮った。
「な、なに? どうしたの?」
「ちょい待て。気になることがある」
コタツを抜け出して、先輩は隣接するリビングへ走った。
何をするのかと思ったら、テレビの横、壁面収納のフラップ扉を何枚か開いて、次々にゴソゴソと漁り始める。
「……年の……十二月……確かこの辺……お、あった」
そうして奥の方から引き摺り出したのは、一枚のディスクだった。
「DVD?」
「あの日の録画だ」
先輩は手早くDVDをプレイヤーにセットして、テレビの前に座った。
「もしかして霊でも映ってた?」
「いや。俺の記憶が間違ってなきゃ……」
再生が始まった。
軋んだギターの音がイントロを刻む。力強く叩かれるドラム。子気味良いベースラインが主張し、カメラは花形ボーカルのアップへ流れる。画面の向こうで、やや緊張した笑顔がぎこちないウインクを飛ばす。
それはまだ初々しさの残る、若い華音さん。若干十九歳だった彼が、必死に一つの仕事に取り組んでいる姿だった。
さすがに売り出し中のトップバッター、扱いは豪華である。持ち時間だって、他の出演者より多い。立て続けにメドレー形式で三曲。単純計算で三倍だ。
その曲目なのだが……、
一曲目 Love・Disaster
二曲目 流浪の心臓
三曲目 音速ブランコ
き……気になる。
確かに気になる。めっちゃ気になる。そこはかとなく気になる。
三曲目、メンバーは何を考えてこんな曲を作ったんだ。音速でブランコ漕いだら控えめに言って死ぬだろ。バラバラになるだろ。マッハだぞ。いや果たしてそれはブランコなのか。ただの有人兵器ではないのか。クリスマス特番だぞ。
しかし先輩が気になっていたのは、別のことだったらしい。メモ帳に書き出した曲目、その先頭の単語を円で囲み、下へ向けて矢印を引いた。
「見てみ、ここ」
「ん?」
「縦読み」
「…………あああぁあ!」
わたしは、素っ頓狂な声を上げた。
こ、これって。
――Love流音。
「か、華音さん! これ……もしかして……!」
僅かに面を上げ、華音さんの涙目が此方を見た。
「なんとかしようと思ったんだ……全然クリスマスっぽくはないけど……メンバーと事務所とテレビ局に無理言って……その三曲ゴリ押ししたんだ……」
いやいやいやいやアンタ。
「なんとかしてる」じゃねーか!
呆れるやらムカつくやら嬉しいやら。
込み上げる様々な感情に、わたしは胸が熱くなった。
何やってんですか、華音さん。もう。あなたって人は……!
「華音さん! なんで流音君に説明しないんですか!」
「え、だ、だって……名前呼べなかったのはホントだし……」
「そういう問題じゃないでしょう! どれだけ華音さんが頑張ったか! 知ってたら流音君だって、あんないつまでも拗ねてないですよ!」
「だって……結果的には……ただの言い訳になっちゃうし……」
わたしが華音さんの襟元を掴んでガクガク揺さぶっていると、おもむろに先輩が立ち上がった。手には、取り出したDVDがある。
「ぜ、世音? それどうするの?」
「今から流音に見せてくる」
「あっ、ちょっ……あんまり刺激しないであげて……」
「うるせーカタツムリ」
先輩は、リビングを出て行った。
少しして、二階で何か言い争う声。華音さんは不安げに天井を見上げている。
五分ぐらい経って、先輩だけが戻ってきた。
「あー、なんか一人にしてくれってさ。ガキはこれだから面倒臭ぇ」
苦い表情を作って首筋を掻く先輩は、どうしてだろう。
とても穏やかな、優しい眼をしていた。
†
そんなこんなで、十二月二十四日。
わたしは制服姿のまま仇志乃家へ直行した。いつもは部活で帰りの遅い先輩も、今日は既に帰宅して台所に立っている。料理はほぼ出来上がっていて、ホカホカと幸せな匂いが、リビングに漂っていた。
なんか、いいな。こういう空気。
子供の頃、わたしはクリスマスが大好きだった。プレゼントも貰えるし、ケーキも食べられるし、夕飯はちょっと高価い外食で、何よりお父さんとお母さんが一緒にいた。すべてが優しく輝く日だった。
流音君も、此処にいればいいのに……。
「瑠衣、ちょっと手伝え」
先輩に呼ばれて、わたしはキッチンへ行く。
冷蔵庫から出てきたものと、オーブンから出したばかりのもの。二つのケーキがワゴンの上に乗っている。片方はシンプルな生クリームで、もう片方はチョコ系のスフレみたいなやつだった。飾りにサンタさんの飴人形。可愛い。
いいね、気が利くね。ケーキの二大巨頭を同時に味わおうという趣向だな。
「こっちの十六センチは兄貴専用」
「まさかのホール食い!」
「うちの兄貴を甘く見るなよ。ほら、皿出せ」
言われるまま、わたしは食事の支度を手伝った。
先輩が盛り付けた大皿を、引っ繰り返さないよう慎重に、テーブルへ運ぶ。
あんまり落とすなよ落とすなよ、と言われるものだから、カリギュラ効果の実際を検証してやろうかと思った。
時刻は十八時を周り、居間でくつろいでいた紫音さんが移動してくる。
十分ほど押して、華音さんが二階から下りてきた。
華音さんの顔は浮かない。というか、全体的に憂鬱が貼り付いている。あれから数日、眠れぬ夜を過ごしたのだろう。目元には隈が落ち、頬はいくらか削れ、視線にも声にも覇気がない。心なし痩せたみたいだ。
四人でテーブルに掛ける。
その一角は、空席のまま。
「やっぱり……流音……許してくれないよね…………」
諦めたのか、わたし達に気を遣ったのか。
華音さんが薄く微笑んで、もういいとでも言いたげに片手を振った。
そのときだ。
ガラガラ、がちゃん。
玄関の引き戸が勢い良く開いて、閉まった。
ガタンと椅子を鳴らして、華音さんが立ち上がる。立ち上がってしまったんだ。
先輩が、目線だけをドアに流す。紫音さんが悪戯っぽく肩を竦める。
気付けばわたしも中腰を上げていた。
「…………ただいま」
流音君だった。
やや乱れた和毛。潤んだ眼。ふっくらした頬は薔薇色に染まり、可憐な唇からは若い息が弾む。小刻みに上下するコートの右肩、枯葉が一枚。冬の寒さと流音君の気持ちを含んで、寝そべっている。
「お友達と遊ぶのではなかったのかね?」
「あぁ、あれ? みんな彼氏とデートだって。中学生のくせにマセてるよね」
紫音さんの問いに、流音君は、しれっと答えた。
「しょうがないから、参加してあげる。ぼっちよりマシ。世音兄ちゃん、こんなに作っちゃってさぁ。やっぱりだよ。食べ盛りの中学生がいた方がいいでしょ」
何くれと悪態を吐いて、流音君はバタバタと階段を駆け上がっていった。
「ほんとはあっちの誘い断ったんだぜ」
頬杖を突いた先輩が、唇の端を持ち上げた。
「ラインやってるとこ後ろから見た。黙ってろって言われたんだけどさ」
くくく、と先輩は、何故か嬉しそうに笑う。
「ウソつき流音だからなぁ」
流音君は、呆気ないほどすぐに戻ってきた。
ラフなパーカーに着替え、綺麗にラッピングされた紙包みを持って。
「はい、華音兄ちゃん。クリスマスプレゼント」
「えっ?」
流音君は、その足でまっすぐに華音さんへと歩み寄り、紙包みを差し出した。
一方、勢いで立ち上がったはいいものの、結局どうするか考えていなかった華音さん。いやむしろ、どうすればいいかわかってない華音さん。オドオドと挙動不審で、紙包みと流音君の顔を交互に見る。
「勘違いしないでよね。僕は借りを作るのが嫌なだけ。セールだったし」
頬を膨らませ、流音君はそっぽを向く。
ようやく状況が飲み込めたのか、華音さんの頬を、ぽろり一筋の涙が伝った。
「……うん。ありがとう、流音。大事にするよ!」
「借りと言えば、後でこないだの続きやるからね」
「うん」
「今度は足引っ張らないでよ」
「うん」
「報酬全部くれるんだよね?」
「うん、うん! あげる! あげるよ!」
なんでもあげるよ……。
端正な顔をくしゃくしゃにして、華音さんは、紙包みを抱き締めた。
「これ、開けていいかい?」
「いいけど……」
子供みたいに笑って、華音さんは涙を拭った。
それから、丁寧にラッピングを剥がしに掛かる。保存しておくつもりなんだ。彼にとってこのプレゼントは、包装紙一枚、シール一枚までが、すべて宝物。きっとオッサンになってもお爺さんになっても、綺麗なまま原形を留めているだろう。
……よかったですね、華音さん。
わたしもなんだか目頭が熱くなっちゃった。
そうだ。流音君だって、いつまでも子供じゃない。いつか大人になる。
そしてそれは、決して寂しいだけの現実じゃないんだ。
「なんだろう。本かな、映画かな」
いそいそと、華音さんが紙包みの中身を引き出す。
わたしと先輩は、身を乗り出して覗き込んだ。
くいこみ☆ブルマ伝説! ~貧乳眼鏡はステータス~
とんでもねぇのが出やがった。
萌え絵というのか、アニメ絵というのか。眼の大きな女子高生が、プリップリのお尻を此方に向けてウインクしているイラスト。辛うじて局部を隠しているのは、今はもう懐かしのブルマである。堂々と貼ってあるR18の警告シール。
……エロゲだよ。
どう見てもエロゲだよ本当にありがとうございました。
「…………」
用意していた祝福の言葉は、ブルマの彼方へ吹っ飛んだ。
先輩は微動だにしない。華音さんは、心底しまったという顔で凍り付いている。たちまち大寒波に見舞われたリビングで、紫音さんだけが、不思議そうに首を傾げていた。
「前から欲しいって言ってたよね?」
そこへ流音君の追い打ち。時は動き出す。
「うわぁああぁあああああ!」
絶叫して、華音さんはテーブルの下に潜り込んでしまった。
「あ、ちょっ、華音さん!」
「ひゃはははは! こりゃ実用的なプレゼントだなおい!」
「先輩! 笑っちゃ駄目!」
「見ないでくれ言わないでくれ俺に構わないでごめんなさい!」
「華音さん、しっかり!」
「ごめんなさいごめんなさいごめんなさい」
「ところでサンタさんは私が食べてもいいのかね?」
「紫音さん、ちょっと待っててください! この状況ですから!」
「だってお腹が空いたのだよ」
「はははははっ! そっかーブルマが好きなのかアンタ!」
「うわぁああああああ」
「これ、サンタさんは食べてもいいのかね?」
頭を抱えて悶絶する華音さん。
爆笑する先輩。
通常運転の紫音さん。
和やかなパーティーが始まるはずだったのに、いつの間にかこの有様。どうにか宥めようと声を掛けても、恥ずかしさで爆発寸前の華音さんには届かない。まるで収拾の付く気配がない。これじゃ天岩戸だよ。キリスト教じゃなくて日本神話だ。
ちらり、元凶の四男を盗み見る。
してやったりの微笑みは、相変わらずの美少年。やっていることは悪魔の所業だというのに、その笑顔は、やっぱり、聖夜に舞い降りた天使みたいだった。
わたしの視線に気付いた流音君が、やれやれと眉尻を下げ、テーブルの下を覗き込む。さて、この愛され上手の四男は、いったいどんな顔をしていたのやら。彼は愛嬌たっぷりの猫撫で声で、不憫な天照大神に向かって、手を差し伸べた。
「メリークリスマス。華音兄ちゃん」
了




