卒業
今日は勤めてきた会社を、定年で退職する日だ。大学を卒業して、この会社でずっと働いてきた。いろいろなことがあったが、定年まで勤めてこられたのは家族の支えもあってのことだ。
定年退職は、勤め人からの卒業か。ふとそう思ったとき、これからの人生には期限が決まっていないことに気がついた。学校や会社はいつまでいられるのか、いつ卒業するのか最初からわかっていた。だが、これから先の私の人生には決まっている期限は何も無い。もちろん寿命という期限はあるけれど、私にはそれがいつなのか知るすべは無い。
「明日からは普通に会う事は無いなんて、不思議なもんだな。」
振り返ると同期入社の山崎が、いつも通りの笑顔で立っていた。
「そうだな、今までは会社でだいたい顔を合わせる機会があったからな。」
「入社式で初めて会ったあの紅顔の青年が、今じゃあこーんな白髪だらけのおじいちゃんになったんだ。…ずいぶん長い間一緒だったのになぁ。」
山崎の家は、私の家とは会社を挟んでほぼ反対側だ。休日に偶然にでも会うことは、子ども連れの遊園地ぐらいしかなかった。
「学校なら同窓会で集まることもあるだろうけど、同期で定年までいたのは俺たち二人だけだからなぁ。」
「まあ、何かの機会があれば連絡するよ。じゃあ元気でな、竹田。」
山崎が差し出した手を握り返し、私からも連絡すると伝えた。
小さな花束を餞別にもらい、帰宅の徒についた。送別会は私の希望もあって、少し前に催してもらっていた。最後の日は、なるべくいつもと同じようにしていたかった。別れの挨拶はしたけれど、明日も今日と同じように出勤できそうな気がしていた。
駅前の大きなカラオケ屋の近くでは、学生らしい集団でごった返していた。
「じゃあ、ここで解散するよー。みんな元気でなー。次は再来年の成人式で会おう!」
「おう! お前も元気でなー。」
「バイバーイ。また会おうねー、忘れちゃイヤだよー。」
解散すると言っていたが、あちこちで写真を取り合ったり話し込んだりしていて、みんなが別れ難く思っているようだった。
高校卒業か。昨日まで同じ高校に通っていた友人達が、地元を離れて一人暮らしを始めたり、就職して社会人になったりして、それぞれの人生を歩みだす旅立ちの時だ。私が卒業した時のことを思い出し、騒いでいる彼らがとてもまぶしく見えた。
卒業するたびに感じる一抹の寂しさと、私はもう現役ではなく二度と卒業することは無い悲しさも感じていた。
帰宅して妻に花束を渡しながら、さっきまで感じていたことを話した。
「あら? 私達が夫婦から卒業することもありますよ?」
妻のその一言で、私は感傷から一気に凍りついた。熟年離婚という言葉が頭をよぎる。これまでの彼女の様子にそういったものは無かったようだったが、私の独りよがりだったのだろうか。
「もし、私があなたより先に逝ってしまっても大丈夫なように、明日から家事を覚えましょうね。」
私の勘違いを見透かしたように、悪戯っぽく妻は微笑んでそっと手を重ねてきた。
「覚えなくても問題無いよ。もしそうなったら、すぐにお前の後を追うから。」
そう言った私の顔をじっと見て、妻はこう言った。
「そんな悲しいことを言わないで。あなたには長生きしてもらいたいの。」
「私は君にこそ長生きしてもらいたいよ。」
「じゃあ、一緒に長生きしましょうね。」
妻と私はお互いに微笑み、キスをした。
台所から妻が料理をしている音と、美味しそうな匂いが漂ってきた。明日からは一緒に料理をしたり、他の家事も覚えていこう。彼女と同じ時間を過ごし、お互いに助け合って生きていこう。
次の卒業は、人生からの卒業だ。残り時間はわからないが、私が生きてきたことの最後の総仕上げだ。
そう考えたら、何だか元気が出てきた。毎日悔いなく生き、やりたいことをやっていこう。何だか明日が待ち遠しくなってきた。
最後の卒業式にも、胸を張って出られそうだ。