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啓太、と声をかけようとしたが、なぜか言葉が喉を通って出てこない。自分の中の誰かが麻里子から声を奪ってしまったかのようだった。花火の光に照らされて鮮やかに色を変える啓太の顔をじっと見たまま麻里子は動くことができなかった。
今の啓太になんと声をかけたらいい?
「残念だったね、千夏に彼氏がいたなんて」
「まさか、あんな場面に出くわすなんてね。奇跡的な確率だと思わない?」
「くよくよすんなよ。女の子は千夏だけじゃないんだぞ」
頭の中を様々な言葉が駆け巡るが、いずれも口にした途端に啓太を傷つけてしまうことは明らかだった。一緒に笑いあって、にこにこと笑顔の啓太となら何気ない会話や他愛のないやり取りを何も考えずにできていたはずなのに、この啓太にかける言葉を自分は持っていないのだと思うと麻里子は自分が深い谷底に落ちていくような感覚に陥った。
今まで啓太が気軽に話しかけてくれることをいいことに仲のいい友達を演じてきたのは、少しでも啓太のそばにいたいという自分の小さな欲求を満たすための自己満足に過ぎなかったのだと気づいてしまった。楽しい会話ならできるのに、こういう時にかける言葉がない事が何よりの証拠だった。今なんとか声をかけたとして、それがもとで啓太を傷つけてしまう事よりも、その事がもとで啓太のそばにいられなくなることのほうが怖かったのだ。
ドン、ドンとリズミカルに音が響く。漆黒の夜空に次々と花火が打ちあがる。
啓太は口を真一文字に結んでただじっとその光を見つめている。
いったい何を考えてるの?
さっきまでにっこりと笑っていたのにどうしてそんな顔をするの?
こっちを見て。二人でいるときは他の事考えないで。
叫びにも似た感情が麻里子の中で大きく膨らみ、はじけた。すると啓太はじっと花火を見つめていた目を麻里子に向けた。思わず啓太と目が合う形となって麻里子はぎょっとする。もしかして声に出ていたのかと思ったが、そういう事でもないようだった。
「さっきさ」おもむろに口を開いた啓太はやはりにっこりと口の端を広げてそう言った。
「ちなっちゃんを見かけたよ」
突然の言葉に麻里子は言葉が出なかった。やっぱり気づいていたんだ。疑念が確信に変わると今度はどうしよう、どうしよう、と焦りばかりが募り落ち着かない。
「白い浴衣着てさ、麻里子は気づかなかった?」
「え?」気付かないわけがないでしょ。
「向こうはきっと気付かなかったんだろうね。それとも隣にいた人に遠慮したのかな?」
「え?」隣にいた人って手をつないでた人でしょ。
「あれはきっと恋人なんだろうねぇ」
その時ばかりは目線を遠くへ飛ばし、まるで他人事のように、もしくは物語の一部を語るかのように啓太はそう言った。
なんで? 麻里子の頭には「なんで?」ばかりが浮遊する。なんでそんなに落ち着いてるの? なんでそんなに平然としていられるの? なんで、笑ってるの?
遠くの空からまた一つドン、と大きな音が響いた。それを合図にどちらともなく打ちあがった花火に目をやると、大きく咲いたであろう一尺玉が最後の残り火をチカチカと点滅させていた。
「あー、そっか」
消えかけの花火をじっと見つめながら啓太は何かを悟ったように呟いた。思わずえ? と聞き返してしまう。
「あー、そっか。って思ったんだ。やっぱりねって」
「あんた、知ってたの?」
だからあんな場面に遭遇したというのにこんなにも落ち着いているのか。そう納得しかけたが啓太はすぐさま、ゆっくりと首を振った。
「知らなかったよ。ちなっちゃん、そういうこと言わなかったから」
「じゃあ、なんで?」
「なんとなく、かな」
薄々気づいていたんだ、と啓太は笑った。いつもと変わらない笑顔のはずが、その時ばかりは自嘲気味に笑ったように見えた。
「勘かな? と言っても今までろくに人付き合いもしてこなかった僕の、拙い勘に過ぎないんだけど。なんとなく、ちなっちゃんには恋人っていうか、好きな人がいるんじゃないかって」
好きな人、と幼稚な表現を使うあたりに啓太の純朴さがうかがえて麻里子は胸がぐっと苦しくなる。薄々叶わないと知りながらいったいどんな気持ちで自分に恋愛相談をしていたのかと思うと目頭が熱くなるようだった。
「今日のちなっちゃん、可愛かった。普段よりもずっと。あれは浴衣を着ていたからってだけじゃなくて、きっと隣にいた人のおかげなんだろうね」
「あんたはそれでいいの?」
考えるより先に口が動いていた。千夏に恋人がいることを知って、それでいいのか? このまま引き下がるのか? と。おそらく自分で思っている以上に言葉はきつく、責めるような口調になっていたかもしれない。
「だって、好きなんでしょ? 千夏に彼氏がいようがいまいが関係ないじゃん。あんたの気持ちを伝えないまま終わっていいのかよ。そんな終わり方で納得できるのかよ」
ほとんど最後は怒鳴るような形になっていた。言い終わった後で、またやってしまったと後悔が襲ってくる。
啓太は困ったように眉をはの字に曲げながら、相変わらず麻里子は口が悪いな、と笑った。
「だって、なんか悔しいじゃん」
「ちなっちゃんは悪くないよ?」
「そういう事じゃないでしょう」
「僕が意気地なしだったからね」
「でも、こういう終わり方って」
「麻里子がいてくれて良かった」
啓太があまりにもこともなげにさらっというものだから、それに花火の打ち上がる音と重なるものだから、今しがた聞こえた言葉を麻里子はポロリと落としてしまった。
慌てて拾おうとするが落ちてしまった言葉は足元の暗闇に吸い込まれどこにも見当たらない。思わず啓太の顔を見る。え? と訊きかえしていた。
「今、なんて……」
「ん? 今日ここに麻里子がいてくれて良かったって」
ようやく聞こえた言葉はやはり先ほど落としてしまった言葉と同じで、なぜ今そんなことを言うのか話の流れと全く関係のない言葉がうまく理解できない。
「なんでそうなるのよ」思わず口調が荒くなる。
「一人だったらショックが大きかっただろうからね」
「そんなのあたしがいたって同じでしょ」
「いや、そんなことないよ」
そう言って啓太はじっと麻里子の目を見た。今の今までにっこりと広げていた口の端もぎゅっと真一文字に結んで、まるでその目で麻里子を吸い込もうとしているかのように。
「麻里子は迷惑だったかもしれないけど、今まで相談に乗ってくれてた麻里子がいたから、今こうして冷静に現実を受け止められてるんだと思うんだ。だって、もし他の人だったらちなっちゃんを見かけてからずっと、話すこともできずに自分一人で悶々と悩まなくちゃいけないでしょ? そうなったらきっと何にも解決できないままだったと思うんだ」
ありがとう。と言った啓太の顔は晴れ晴れとしていて、その顔が今の言葉に嘘がない事を物語っていた。
「それは」確認のためなのか保身のためなのか麻里子は尋ねずにはいられなかった。
「友達、だから?」
「うん。麻里子は僕の今までの人生の中で一番の友達だよ。きっと親友と言ってもいいんじゃないかな」
それはきっとなんのてらいもない真っ直ぐな称賛の言葉だったのだろう。だからこそ麻里子は、あぁ、これでいいんだ。と思うことができた。
これでいい。あたしは啓太の親友としてこれからも傍にいられる。たとえ啓太に恋愛感情がなくても、今はこのままで。傍にいられるだけで十分。
にっこりと笑いあう二人越しに、遠くの空で大きな花火が打ち上がった。