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「ちなっちゃんは、今度の花火大会行くの?」
休憩中、千夏を見つけた啓太は、長い長い葛藤の末ようやく声をかけた。社会人になり、一人暮らしをするようになって徐々に人見知りも治ってきていたが、やはり啓太にとって好きな女の子に話しかけるということはかなりの勇気を必要とした。
スマートフォンをいじっていた千夏は、ゆっくりと振り向き啓太の顔を見てから、お疲れ様ですと言った。
「花火大会ですか?」
「そう。来週の土曜日の」
「行きますよ」千夏はにっこりと笑って言い、ほんの少し間をあけて「友達と」と付け加えた。
「あ、そうなんだ?」
啓太はと言えば、もし千夏に予定がなければと淡い期待をもって話しかけたのだから平静を保つのがやっとだった。それも、恐らく近しい友人から見れば落胆の色はバレバレだったのだが。
「ここまでくれば大丈夫かな」
ほっと溜息をつきながら麻里子は思わず言葉が出てしまったことに気付かなかった。
「ん? ああそうだね。これだけ離れればだいぶ人も少ないよね」
「え?」
「麻里子って人ごみ苦手だったの?」
まるで見当違いにそう尋ねられて麻里子はとっさに「そうなんだよ」と答えた。
「人が多いとなんかイライラしてさ」
「そうなんだ? 意外だな」
「うるさいな、いいでしょ別に」
啓太はくつくつと笑う。「なんか麻里子っぽくないな」
気が付くと先ほどまでいた土手からはだいぶ離れていた。とにかく早くあの場から離れたくてぐんぐんと歩いているうちにずいぶんと遠くまで来てしまったようだった。
「ここからじゃ花火よく見えないかもね」
自分でここまで連れてきておいて麻里子は少しだけ啓太に悪いことをしてしまったような気がした。啓太は千夏に気付いていないようだったし、自分が知らないふりをしていればあの人ごみの中でもう一度千夏に会う可能性なんて無いに等しいはずだ。冷静に考えれば別に急いであの場から離れる必要はなかったのだ。
「打ち上げ会場からはかなり離れたからね」
啓太はまっすぐ打ち上げ会場のほうを見据えて静かにそう言った。
麻里子は啓太の顔を覗く。もしかしたらがっかりしているかもしれない。やっぱりあたしなんかを誘うんじゃなかったと後悔しているかもしれない。
「でもほら、ここなら障害物があんまりないから意外とよく見えるかもよ?」
啓太の指さす方向を見ると、なるほどほとんど障害物がなく、打ち上げ会場近くが良く見える位置だった。無意識に歩いてきて偶然にも花火を見るには絶好の場所にたどり着いたようだった。
「なんの迷いもなくここまで歩いてきたからこの場所を知っていたんだと思ったけど、違うの?」
「いや、あたしもこんなに見やすい場所があるなんて知らなかったよ」
ええ? と驚きの声を上げて啓太は麻里子の顔をまじまじと見た。
「なにも知らなくてここに来たの?」
「偶然だけど、思わぬ穴場を見つけたね」
麻里子がしたり顔をすると啓太は堪え切れずふき出した。つられて麻里子にも笑いがこみ上げる。
ああ、大丈夫だ。啓太はいつも通りの笑顔を見せてくれる。それならば自分があのことを黙っていれば何もなかったことになる。きっとこれから始まる花火を啓太と一緒に楽しい気分で見られるに違いない。そう確信して麻里子はまたほっと溜息をついた。
「あんた、彼氏とかいないの?」
その日珍しく帰りが千夏と一緒になったのを好機と、ロッカールームで着替えをしながら麻里子は率直に切り出した。
「え?」
えらくぶしつけに質問された千夏は一瞬怪訝な顔をしたが、すぐに元の笑顔を作った。千夏と接する者を自然と笑顔にさせる柔らかい笑顔だ。同性の麻里子から見ても素直に可愛いと思える、嫌みのない笑顔は彼女特有のものだった。
きっとこんな笑顔を作れる女を世の男性は好むのだろう。そう考えて自分にもこんな笑顔を作ることができたら、と麻里子は思ってしまう。啓太の心を瞬時に掴んだこの柔らかな笑顔を、もし自分もできたのだとしたらこれほど苦しむこともないのだろうかと。
「どうしたんですか? 突然」
千夏の顔に見惚れていた麻里子はハッと我に返る。「いや」と口にしながら脱ぎ掛けていたシャツのボタンを一気に外した。
「千夏は可愛いのに話してても恋人の話とか出てこないからさ、そのへんどうなのかなって。ちょっと気になったから」
「そう言う麻里子さんはどうなんですか?」
「あたし? あたしはほら、仕事一筋だからさ」
言いながら麻里子はめまいを覚える。自分が人知れず片思いをしているという事実がどうしようもなく恥ずかしくて叫びたい衝動に駆られたが、ぐっと堪えた。
「ええ? あたしから見たら麻里子さんこそすごく素敵な女性なのに恋人がいないなんてもったいないですよ」
追い打ちをかけるように千夏の口から飛び出したあからさまなお世辞に限界を超えた麻里子は知らずのうちに「いやいや」と声を上げた。かなり大きめに。
「あたしなんかあんたに比べたらてんで大したことないよ。もう何年も恋人もいないし、最近じゃ自分が女であることに後悔すらしてるのに」
「そんなことないですよ」
千夏は目を丸くしてそう言った。
「麻里子さんはあたしの憧れなんです。この会社に入って麻里子さんに出会えたことに感謝したいくらいです」
まっすぐ顔を見据えながら真剣に言う千夏の言葉はどこまでが本当でどこまでがお世辞なのか麻里子には判断が付かなかったが、自分の顔がみるみる赤くなっていくことだけははっきりと感じた。
千夏にもし恋人がいるなら啓太の恋は成就しなくなる。それならば自分にもまだチャンスはあるのではないかと淡くよこしまな期待を抱いていた麻里子は、千夏の巧みなおだてによって本来の目的を遂げる前にKOされてしまった。
「あ」と啓太が小さく声を上げた。その声に麻里子が顔を上げると、遠くの空に大きな花火が今まさに大輪の花を咲かせたところだった。真ん丸に開いた光の粒たちがキラキラと色を変えていく中、少し遅れてドンと大きな音が響く。
「キレイ……」
麻里子は無意識にそう呟いた。
「始まったね」
啓太はにっこりとほほ笑んでいた。
「やっぱり思った通りここならよく見えるね」
「麻里子のおかげだな。こんないい場所があるなんて今まで知らなかったよ」
「感謝しろよな」
続けざまに二つ、三つと夏の夜空に花火が打ちあがる。その光を静かに見つめる二人の間には穏やかな雰囲気が漂い、先ほどまで感じていた焦りにも似た感情がみるみるほどかれていくのを麻里子は感じていた。
あの時、とうとう千夏に彼氏がいるのか聞けないまま逃げるようにその場を後にしてしまったが、今になって思わぬ形で答えを得ることができた。千夏には彼氏がいたのだ。
今まで抑えていた気持ちがここにきて、さながらあの花火のように急激に膨らむのを麻里子は抑えることができなかった。これまで叶うはずがないと諦めていた反動からそれは大きな期待となって胸をつく。
もしかしたらあたしにもまだチャンスはあるのかもしれない。遠くの空で広がる花火の光に胸躍らせ、麻里子は啓太の顔を見た。
そして自分がどれほど浅はかだったかを思い知る。じっと花火を見る啓太の顔は決して晴れやかでも楽しげでもなく無表情で、寂しげだった。その顔を見て麻里子はようやく気付いた。啓太はあの時千夏の存在に気付いていた。もちろん隣にいた彼氏の存在にも。そしてそれを麻里子に悟らせないようにわざと気付かなかったふりをしていたのだ、と。