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「今度の花火大会、一緒に行こうよ」
急にそんなことを言われたものだから麻里子は危うく心臓を止めかけた。それも二人っきりで散々残業した挙句、ようやく一応の見通しが立って片づけを始めたこのタイミングで言い出すのだから、何の脈絡もない。
二人の時はいつも好きな子の話ばかりで、さっきまでどうしたら彼女に振り向いてもらえるのか、こともあろうことか自分に聞いてきたくせに、突然思い立ったように麻里子の思いもよらないことを言い出す。啓太というこの男は出会った頃からそういう男だった。
「あんた何言ってんの? そこはあたしじゃなくて千夏を誘うとこでしょうが。バカなの?」
「相変わらず、麻里子は口が悪いな」
啓太は苦笑する。先日誘ってみたけど断られたんだ、と。
「友達と一緒に行くんだってさ。だから僕とは行けないって」
「啓太はそれで納得したの? ホントに好きならもっと押さないとダメでしょ」
消極的で引っ込み思案。麻里子は啓太のそういうところが歯がゆくて仕方がなかった。同時になぜ自分がこんな男に2年間も片思いしているのかわからなくなる。しかもその相手の恋を応援しているのだから目も当てられなかった。
啓太の恋の相手は千夏といった。二人の共通の後輩であり、同じ部署の仲間でもあった。
啓太は千夏が入ってきた時に一目惚れをし、その前から啓太に片思いしていた麻里子は啓太が一目惚れしたとわかった瞬間に自分の恋が成就することはないのだと悟った。何故ならその時にこのどうしようもなく草食系を極めた男の恋を、自分が応援してしまうのだと気づいたからだった。気持ちを伝えられないから片思いをしていたんだし、自分に気持ちを伝える勇気がない事を麻里子は痛いほどわかっていた。
「仕方ないよ。ちなっちゃんには、ちなっちゃんの予定があるんだし、そこに僕が割り込んだりしたら悪いだろ?」
相変わらず、のほほんとしたその様子に麻里子は眉間をおさえた。笑いながら眉をはの字に曲げる啓太に、いつまでのんびりしているんだと言いたくなるのをぐっとこらえる。
「あんたねぇ……」
「だから、一緒に行こう?」
啓太に真っ直ぐ見つめられて麻里子はまた動きを止めた。この引っ込み思案な男がこうも真っ直ぐに見つめられるのは友達だと思っているからに違いない。そうわかっていても自分の意志とは無関係に鼓動は早くなってしまう。思い通りにならない心臓をいっそえぐり出してしまいたかった。
「あ、もしかして麻里子も予定あった?」
「……ないよ、バカ」
「じゃあ一緒に行こうよ。ひとり者同士、仲良くさ」
「人を寂しい人間みたいに言うんじゃねーよ」
思わず口から言葉が滑り出て麻里子は人知れずハッとする。強がると言葉がきつくなるのは麻里子の悪い癖だった。
男兄弟の末っ子として生まれた麻里子は、女の子らしく育ってほしいという両親の願いもむなしく、兄たちの影響を受けて男らしくすくすくと育った。その性格から、当然のように昔から麻里子の周りには男の友達ばかりで、そのせいでこれまで恋愛とやらには縁がなかったというのに性格というものは直そうと思っても直るものでもない。
「予定無いんだったらさ、いいじゃん。一緒に行こうよ」
幸い、啓太とは馬が合うためか麻里子が思わず地を出してしまったとしても気にも留めずこうして受け止めてくれる。麻里子が啓太を好きになったのもこうした啓太の広い心に惹かれたからだった。
「やけに熱心に誘うね。そんなにあたしと行きたいの?」
「ん? そうだね。麻里子とならきっと楽しいと思うんだ」
「仕方ないなぁ。そこまで言うなら一緒に行ってやるよ」
気持ちを悟られないようにするためにわざとそっけない態度をとるのが癖になっていた。どうせかなわない恋なら、せめて友達としてでもいいから啓太のそばにいたい。その為には自分の気持ちはおくびにも出してはいけない。そう思うたびに麻里子の胸はチクリと痛んだ。もしかしたらこのままこんな態度をとり続けたら友達としても一緒にいられなくなってしまうのではないかと不安になる。
「うん。じゃあ決まりだな」
恐る恐る啓太の顔を見るといつものようににっこりと笑っていたので麻里子はほっと胸をなでおろした。
会社を出ると先日梅雨が明けたばかりだというのに暑さの余韻が残っていてじっとりと空気が張り付くような気がした。一年で一番長い昼間のなごりが西の空にほんの少しの赤色を残しているが、空はほとんどが濃い藍色に変わっているのに、だ。
「じゃあ、今度の土曜日駅前で待ち合わせでいい?」
背中にじっとりと汗の感覚を感じながら麻里子はうなずいた。暑いのは夏のせいだけではないのかもしれない。そんなことが頭をよぎってかぶりを振る。すると啓太は不思議そうに首を傾げた。思わず「あ」と声が漏れる。
「……遅れるなよ!」
照れ隠しに口をついて出た言葉はやっぱりきつめだった。
啓太はほんの少しキョトンとした顔をしたがすぐに頬を緩めて、わかったよと言った。
じゃあ、と手を振り背中を向けた啓太は、そのまま振り返ることなく駅の方角へと消えていった。一度くらい振り返ってもいいじゃん。と思う反面もし振り返ったりしたら自分がずっと見送っていることがばれてしまう。毎度のこととはいえ啓太の姿を見えなくなるまで見送ってしまう自分が、麻里子はどうしようもなく恥ずかしかった。
兄たちの影響を受け、男の子に囲まれて育ったため性格は男っぽくなったが、麻里子の中にはどうしても隠しきれない少女の部分があって、隠そうとするたびにそれは大きくなっていくのを感じた。そしてその少女の部分は好きな人ができると自分の意思に反するように女の子らしい行動を取らせる。それが麻里子にとってどうしようもなく恥ずかしかったのだ。
それでも一人の時は自分に嘘をつく必要はない。今だけは啓太に恋をしている自分でいられた。
帰宅の途に就く麻里子の足元は軽やかだった。いつもは疲れのせいで仕事帰りは亀のように歩みが遅いのだが、今日に限って言えばまるで疲れを感じなかった。
アパートの前について自分が鼻歌を歌っていることに気付いてふと我に返る。もしかしてあたしは浮かれていたのか? と自分に問いかけると思わず赤面した。
自宅のカギを開けてドアを開ける。玄関からまっすぐに伸びた廊下は薄暗く、しんと静まり返っていて否応なしに麻里子を冷静にさせた。
あくまで自分は千夏の代わり。代打の分際で何を浮かれているんだ、と自分の中の誰かがそう囁いたような気がした。すると途端に疲れがどっと押し寄せる。
一度冷静になってしまうと今度は苛立ちが顔をのぞかせた。廊下の電気をつけて、苛立ち任せに脱いだ靴を揃えることもせずに、麻里子は部屋に入るなりソファに鞄を投げつけた。そのまま倒れるようにソファに体を沈める。
啓太の誘いは決してデートの誘いなんかではなく、友達として一緒に花火大会に行く相手のいない者同士で仕方なく行こうという誘いだ。啓太にしてみれば本当は千夏と一緒に行きたかったに違いないわけで、それがダメだったからやむを得ず麻里子を選んだのだからなんのことはない、代打にもなり得ていないのだ。言ってしまえば自分は敗戦処理を任された投手のようなものだ。誰もそんな選手に期待なんかしないだろう。
啓太も自分に何も期待なんかしていない。だから自分も何も期待したりはしない。そう言い聞かせて麻里子は静かに目を閉じた。