#07 きみのいない世界に
「……ちょっと、それどういうことよ……」
千都の突然の告白に困惑と驚きが隠せない初乃。
「演技するの、もう疲れたんです」
「え?」
「本当のあたしはこんなんじゃない。なんで無理してまで笑わないといけないんですか?」
「無理してって……」
いつも舞台の上で見せていた笑顔は、普段見せてくれていた笑顔は全て嘘だったのだと気付いた初乃は心が粉々に砕け散るのを感じた。
「あたしにはもう、笑う意味も理由もありません」
千都はそう言い残して、どこかへ走り去ってしまった。
「ちょっとチト!」
「僕、追いかけてみます!」
朔弥は無我夢中で楽屋を飛び出し、千都を探した。
辺りを見回すが、どこにも千都の姿はない。
何か嫌な予感がする。
早く見つけなければ、取り返しのつかないことになるような気がするのだ。
過去の記憶が朔弥をそう直感させた。
――……さっくんのせい…………。
大好きだった〝声〟が朔弥の中に響く度に、胸が締め付けられるように苦しくて息が途絶えそうになる。
そして彼女もあのときこんな苦しみを味わっていたのだなと思い知らされるのだ。
それでも彼女が伝えたかったことを朔弥はまだ理解出来ずにいた。
「チトちゃん……どこ行ったんだ……」
無意識に走り続けていると、IRUAの裏にある公園に辿り着いた。
小さな公園にはベンチが一つ。遊具は滑り台くらいしかなく、あとあるのは砂場程度だ。
殺風景な公園に似合わない華やかな衣装を身にまとう少女がぽつんとベンチに座っていた。
――千都だ。
「チトちゃん……!」
千都はそっと朔弥の方を見る。
「建城さん……。よくあたしがここにいるって分かりましたね……」
「たまたまだよ……。でも、無事でよかった」
「……え?」
「もう少し遅かったら、手遅れになってたから……」
朔弥の目線の先――千都の手には、鋭利な刃が嫌に黒く光るカッターが握りしめられていた。
「……それで首、切ろうとしてた?」
千都は肯定も否定もせずに、俯いてただカッターの刃先をじっと見つめている。
「あなた……一体、何者なんですか……?」
何でも手に取るように全て当ててくる朔弥の飄々とした笑顔ともとれるその顔が千都には妙に恐ろしく思えたのだ。
「僕はただの大学生だよ」
朔弥は穏やかに答える。
「ただのって何なんですか。普通ってことですか? 普通って何なんですか!?」
カッターを握りしめたまま、千都は力強く問う。
こんな刃物を持った死のうとしている人を目にしても、動揺もせずに冷静なままでいる人がとても普通だとは思えない。
千都に普通とは何なのか、それを分からせてくれるものは何もなかった。
理解出来なかった。
「普通っていうのは、何もないってことだよ。能力も特徴もなんにも。だから普通の人間は集団の中でやたらと目立つ。普通であるということは、それと同時に誰よりも異常でなければならないんだ」
「……意味が分かりません。普通なのに異常って矛盾してるじゃないですか」
「そんなもんだよ。人間だって常に矛盾を抱えて生きている。常に違う二つ以上の意識を持っている。みんな、演技をしてるんだよ」
千都ははっとし、カッターを地面に落とす。
自分を偽っているのは自分だけじゃないのだと気付いたのだ。
「あなたも……演技してるんですか?」
朔弥はカッターを拾い上げ刃をしまうと、千都には返さずにジーンズのポケットに入れた。
「さあ、どうだろ。異常である僕を隠すために普通を演じているのかもね。無意識のうちに」
「むしろ、異常を演じているんじゃないんですか? あたしにはあなたは異常にしか見えません」
「それって演技が上手いってこと?」
「そうですね。あたしにはあなたの本当の姿が全く見えないですから」
「チトにゃんが素直に褒めてくれた! 嬉しいなぁ!」
子供みたいにはしゃぐ朔弥。
その様子を見て、千都は何故か朗らかな気持ちになる。
日の光も差さない高層ビルに囲まれた公園で、早く全て終わらせてしまおうだなんて考えていた自分が馬鹿馬鹿しく思えた。
でも、次の舞台が終わる頃には殺されてしまう。
遅かれ早かれ、今日までの命――。
少し恐怖感をおぼえた。
「あ、そうだ。チトにゃんはアイドルを辞めて何がしたいの? また役者に戻るの?」
「いえ、そのつもりはありません。もともと、演技なんて出来ないから子役辞めたので」
「え、じゃあ……『真っ白な闇』に出たときのあの演技は……?」
朔弥は混乱した。
千都は主人公――ノアの、両親や周りの愛していた人が皆いなくなり、独りになってしまった悲しみに押しつぶされそうになりながらも耐え抜き、乗り越えてゆく姿。辛さのあまりに自分が吸血鬼だと錯覚させようとする狂った姿。街の少年――トワとの出逢いで外の世界を知り、目を輝かせる姿。そんな、さまざまな喜怒哀楽を演じていた。
確かにそうだったはず。
ただの弱冠八歳の女の子には出来ないことだ。
あの演技は万人に天才とまで言わしめるものであった。
それなのに、演技が出来ないというのはどういうことなのか。
朔弥にはただの謙遜ではないような気がしたのだ。
「あれは演技なんかじゃありません」
「どういうこと?」
「あたしは、あの物語を演じてなんかいません。ありのままの自分でいただけです。ノアは……まるであたしそのものなんです」
「え?」
朔弥には訳が分からなかった。
数奇な人生を送ったノアと、芸能界に入るまでは恐らく普通の女の子であった千都が同じということが全く理解出来ずにいる。
「あたしの家は周りと比べると割と裕福な方で、母親が幼稚園から大学まで完備した学校の理事長をしていました。あたしは学校にいても家にいるのと同じような気分でした。あたしだけはみんなとは違う教室で母親から直々に指導されていましたから」
「それ、学校にいる意味ないよね……?」
「そうですね。だからあたしはクラスメイトというものを知りませんでしたし、社会から隔離されているも同然でした」
「外の世界を知らないノアと重なるね……」
朔弥はようやく納得した表情をする。
「それだけじゃありません。父親は作家で多忙を極めていましたから、両親から親としての愛情を受けたことがないんです」
「それも重なるね。それでノアはチトちゃんそのものだって? そのくらいなら、ありふれたことじゃないけど他にも同じような境遇の子はいると思うよ?」
「そうですね。そのくらいならあたしもただの偶然だと思ったでしょうね。でも、それだけじゃなかったんです……」
俯き、暗い表情になる千都。
夏らしくない冷たい風が吹いてくる。
「あたしの両親は、あたしが七歳のときに二人同じ日に亡くなりました」
朔弥は背筋が凍るような恐ろしさを感じた。
そこまで同じになることがあり得るのか、不信感を抱く。
千都は思ったより平気そうだ。
普通これほどのことがあれば、思い出すだけで辛くて仕方なくなるはず。思い出すのも嫌なくらいだ。
大切な人の死の辛さは朔弥にも痛いほど分かってしまう。
「悲しくありませんでした。理解出来なかったわけではないです。ああ、両親は死んでしまったのか……って。何故か涙も出なかったんです」
心のない声で千都は話す。
「一人になったのに?」
「もともと一人ぼっちと変わりはありませんでしたから。家族団らんなんて初めからなかったです」
話を聞いている朔弥の方が悲しみに打ちひしがれるような気分になった。
大切な人なんて初めからいなかったという千都の心があまりに寂しすぎて、吹き抜けてゆく風が凍えるように冷たく感じた。
「え、でもじゃあ、チトちゃんは今、一人で生活してるの?」
「いいえ」
「誰が、いるの……?」
千都もノアと同じように吸血鬼を信じている。
まさか吸血鬼と一緒だなんて言わないだろうなと朔弥は心配そうに尋ねる。
「初乃さんが来てくれています。毎日じゃありませんけど」
予想外の解答に朔弥は胸をなで下ろした。
「初乃さんはあたしの母親代わりをしてくれていて、両親が亡くなってからずっとあたしの面倒をみてくれているんです」
「チトちゃんと初乃さんは親戚か何かなの?」
「はい。でも関係はかなり遠いみたいで、初めて会ったのは両親の通夜のときでしたけど」
――五年前
両親が亡くなったという事実を告げられたそのときこそ、千都はショックを受けた。
母親の仕事の関係者に連れられて通夜の会場に行くと、見たことない数の人が訪れていて、千都は圧倒された。
皆悲しみの表情を浮かべ、涙までする中、千都一人だけは目を輝かせ、辺りを見回していたのだ。
一人になって初めて、この世界には人が沢山いることに気がついた。
その知った喜びでいっぱいであった。
両親の無惨な遺体を前に千都は初めて生きた目をして、息吹をあげる。
そんな罰当たりな、罪深き少女に惹かれる女性がいた。
雪代初乃だ。
通夜という空気が重く暗い場に、一人明るい少女を決して良いと思ったわけではない。
しかし、初乃は少女から目が離せなくなった。
そして千都が天涯孤独の身だと知ると、後見人に名乗り出て、千都の生活を支えることにした。
初乃は当時から芸能事務所を経営していたこともあり、千都を招き入れ、子役としての道を開かせた。
直後に千都は、デビュー作『真っ白な闇』で大ブレイクしたのであった――。
「きっと、運命だったんでしょうね。あたしはこうなるために生まれてきた。ノアになるために。そして、外の世界を見て死ぬために」
「それは違うんじゃないかな」
朔弥は冷たく言い放つ。
「え?」
「生まれてくることに意味も理由もない。生きるのは死ぬためじゃない。チトちゃんはチトちゃんだ。ノアじゃない」
「でもここまで来たら、もう運命としか思えないんです」
「初乃さんがトワと重なるから?」
「初乃さんはあたしにとってのトワとはちょっと違うと思います。確かに、あたしに外の世界を教えてくれたのは初乃さんなんですけど」
「じゃあ一体……」
「きっと、あなたがそうなんでしょうね」
トワはノアの初めての友達になった。
それと同じように朔弥は千都の友達になろうとした。
千都には朔弥がそのように映ったのだ。
「この運命を断ち切りたかったんです。だからあたしは友達になるのを拒否したんです。あなたがあたしのトワだから」
「トワがノアの人生を変えたように、僕がチトちゃんの人生を変えるって言うの?」
「あなたは何かを変えてくれる……そんな気がするんです。あたしはもうすぐ殺されちゃいますけど」
千都は諦めたように作り笑いを浮かべる。
「チトちゃん、死ぬのは怖い?」
「いざ死の間際まで来ると、少し怖くなってきちゃいました」
馬鹿みたいでしょ、と千都は微笑みながら涙を落とした。
とても透き通った、綺麗な雫を一つ二つ……と――
「もう、死ぬなんて言わない?」
「いや、あたしは死なないといけないんです。そういう運命ですから」
「ノアも外の世界を知ったあとすぐに死んじゃったからそんなこと言うの? チトちゃんはノアじゃないんだよ?」
「いや、これはあたしが悪いんです。もし死ぬべき命があるとするなら、それはきっとあたしのことなんです」
「死ぬべき命なんて……」
「ありますよ。人の命を奪った者が生きていて良いわけないじゃないですか」
その言葉は朔弥の胸に深く突き刺さった。
そしてまた〝声〟が朔弥の頭の中を駆け巡る。
――全部、さっくんのせい……。
「それ……どういうこと……」
「あたしは人を殺しました」
「あのー……、これは一体……?」
帷は頬を真っ赤に染めていた。
「可愛い! 超可愛いよ!」
その横でダズンはそれなりに女子高生らしくきゃっきゃっとはしゃいでいる。
「は、恥ずかしいです~……!」
「なんでなんで? 凄い似合ってるのに」
「ダズンさん、トバリのこと騙しましたね!?」
――今から約三十分前
「トバリちゃん、吸血鬼信者の会? ……だったっけ。それに入るつもりなのか?」
ダズンからしてみれば、迷惑極まりないことには間違いなかったが、それ以前にいかにも胡散臭い雰囲気が漂うその集団に、こんな無垢な少女が関わって良いものかと一抹の不安に駆られていた。
「はい!」
そんなダズンの思いなどつゆ知らず、帷は元気良く返事する。
「一年千都と仲良くなりたいだけなら、そんな怪しい団体に入る必要はないと思うぞ?」
「吸血鬼は怪しくなんてありません! よくは分からないんですけど、きっと吸血鬼の皆さんもトバリたちと同じように普通に生活しているんだと思いますよ」
「そんなものなのかな」
苦笑いするダズン。
「あ! さてはダズンさん、吸血鬼を信じていませんね!?」
「え? いや……別に信じても信じてなくも……」
雄大が未だに吸血鬼を認めていないことに呆れていたダズンであったが、いざ考えてみると、自分が信じているのか否かよく分からなかった。
「どっちなんですか!」
「まあ……どっちでもないが、どうせなら……信じるよ」
「ですよね! 信じますよね!」
「ていうか、トバリちゃんはなんで吸血鬼なんて信じてるの?」
「蒼咲リリ先生の小説に影響されたからです!」
昨日、雄大も言っていたな……とダズンは思い返す。
何か、雄大のことをどこかで見てたかのようにリアルな描写が目立っていたとか。
「その蒼咲リリって何者なんだ?」
「えっと、ネットのサイトに小説を投稿しているアマチュア作家さんなんですけど、女子中高生を中心に人気が急上昇していらっしゃるんです! デビュー作の出版の話も出てるとか」
「へぇー。そういやリオもどこかに作品を投稿したとか言ってたな」
「えっと、同居人の方でしたっけ? リオさんも小説を書かれているんですか?」
「文芸部でな。なかなか面白い話を書いている」
ダズンも文芸部なのかと訊かれ、読む専門だが……と答えると、トバリはクスクスと笑った。
「トバリは漫画研究会に入っているんです。お互いお話を創る部活に入る者同士、何かの機会に合作が出来ればいいですね!」
「それはいいな! きっとリオも大賛成するはずだ」
「じゃあ早速、ちょっとあらすじを考えてみましょう!」
ダズンは少し考えてみるが、いつも読者で話なんて書いたことがないのでなかなか思いつかない。
「うーん……。よし、とりあえずトバリちゃんの髪をツインテールにさせてくれ」
「えぇ! なんでそうなるんですか!?」
文脈から全く接点が見いだせなかった帷は驚きを隠せず、思わず立ち上がる。
「いや、私は考え事をするときは髪を触るのが癖なものでな」
「じゃあ自分の髪をいじってて下さいよ!」
「せっかくだからさ。トバリちゃん、私の髪型真似たいんだろ?」
「……そういうことなら、お願いします……」
するとダズンは慣れた手つきで髪をまとめてゆく。
「私はいきなり上にまとめることが出来るが、慣れていないならまずは二つに分けた髪を下で仮止め程度にまとめるといい」
「なるほど。分かりました!」
「はい、出来た」
ダズンは帷に手鏡を渡す。
すると帷は大きく目を見開き、光を満たした。
「うわぁ! 凄いです! 凄いです~!! これが本当にトバリ……?」
帷は歓喜の声をあげ、はしゃいでいる。
「うん、やっぱり似合ってる」
「ダズンさんのおかげです! ありがとうございますっ」
可愛くはにかんだ帷の顔を見て、ダズンは胸が熱くなった。
感謝なんてされたことがなかったからだ。
「そうだ。何かアイデアは思い付きましたか?」
途端に冷や汗をかくダズン。
夢中になってしまっていて、そんなことすっかり忘れてしまっていた。
「いや、まだ……。もっとトバリちゃんを可愛くしないと思い付きそうにない」
「?」
「騙したなんて人聞きの悪い。おかげでちゃんと良いアイデアが思い付いたよ」
「人にコスプレをさせて思い付くアイデアが良いものだとはとても思えません!」
帷はそのまま街を歩くには少々恥ずかしい格好をしていた。
白いレースやフリルがふんだんにあしらわれたパステルピンクのメイド服に身をまとい、猫耳のカチューシャまで付けているのだ。
「いや、それは偏見だ。良いアイデアというのはどこに眠っているか分からないものだ」
「じゃあ……どんなのですか?」
「大好きな兄に内緒でメイド喫茶でバイトをする少女の奮闘記……みたいな?」
からかうような笑みを浮かべて話すダズン。
帷は頬の赤みを増している。
「なっ……なんですか、それ! トバリは内緒でメイド喫茶でバイトなんてしません! もちろん奮闘も!」
「大好きな兄っていうのは否定しないのか」
帷はしまったと手で口を押さえ、恥ずかしそうに目を逸らした。
「兄者は……その……。あれですよ……あれ……」
どぎまぎしながらぎこちなく話す帷に見かねてダズンは口を開く。
「分かってるよ。リオも同じような感じだから」
「リオさんも……?」
「ああ。リオはあいつのことが好きみたいなんだ。あいつらの関係は兄妹じゃなくていとこなんだけどな」
「雄大さんのことが好きなんですか」
自分以外にも同じような想いを持つ者がいることを知ると、帷はほっとして安心感のようなものを感じた。
「まったく、この世の愛はどうなっているんだ? 家族への恋愛感情ばかりじゃないか」
「そんなことないと思いますよ。兄者はちゃんとした恋をしていますから……」
「ユラ君も誰かに恋をしているのか。そのことをトバリちゃんはどう思っているんだ?」
「素直に応援したいです。でもやっぱり、どこかで上手くいかないでほしいって、トバリの方に振り向いてほしいって思っているんだと思います……」
揺と真子がお互いにお互いを想っていることは帷にはよく分かっていた。
それでも、かなわないと分かっていても、諦めきれない。
〝恋〟とはそういうもの。
〝愛〟とはそういうものなのだ。
「リオもそうなのかもしれないな……」
ダズンは思いつめたような表情をする。
「どうしたんですか?」
「リオもよく、あいつのことで悩んでいるんだ。あいつにも一応、好きな人はいたらしいから」
「いた……?」
その過去形が妙に引っかかった。
「あいつには恋人とまではいかないが、相思相愛の仲であった女がいたんだ。去年、仕事中の事故か何かで亡くなったんだけどな……」
「そうだったんですか……。雄大さんは今でもその方を想っているのですか?」
「さあ、どうだろう。……過去には囚われないとは言っていたけどな」
「なら、雄大さんは今は別の誰かのことを好きかもしれないですね。リオさんもいくら雄大さんが愛していたとしても亡くなった方にライバル意識は持たないはずですし」
「あいつ、もう恋はしないって言っていたが……。失うのが嫌だから誰も愛さないって」
あの悲しみや絶望、虚無感、喪失感…………そういうもの全てもう二度と感じたくないと、涙を流しながら雄大は言ったという。
「恋は辞めようと思って辞められるようなものじゃないですよ」
「何かの薬物みたいだな……」
「理性が利かなくなっちゃいますから、薬物と同じくらい恐ろしいかもです。でも恋は、始めようと思って始められるものでもないですよ」
「故意に恋は出来ないと……」
「なんですか、それ。ダジャレですか?」
帷は無邪気にケラケラと笑った。
「いや、全然全くもってそんなつもりなかったから! 私も恋してみたいな……とか思ってたからさ」
「ダズンさん、恋したことないんですか!?」
「ああ」
「小学生のときとか、中学生のときも?」
少し思い返してみるダズン。
すると、ダズンは途端に顔色を真っ青にさせ、頭を抱えてしゃがみ込んだ。
「どうしたんですか!?」
帷は慌てて駆け寄るが、明らかに様子がおかしい。
呼吸が乱れて、小刻みに震えている。
まるで何かに怯えるように。
「……しょ……がくせい……? なに……? わたしが…………」
「どうしたんですか! ダズンさん、しっかりしてください!」
身体を揺さぶるが、ダズンは息を荒げて挙動不審な言葉を吐くばかりで帷の声には反応を示さない。
「ダズン…………。だれ……だれが…………ダズン? いつ……? わた……しに…………そんな…………」
「何言ってるんですか! ダズンさんはあなたです!」
「トバ……リちゃん…………、こわい……。怖いよ……。わ……たしは……誰なの? 何なの……?」
ダズンは涙を溜めた紅い眼を見開いて帷に訴えかけた。
「あなたは久遠寺ダズンさん。トバリのお友達ですよ」
帷は穏やかに微笑み、ダズンを抱き寄せる。
すると、ダズンは少しずつ落ち着いてきたようだ。
「……はぁ…………」
「大丈夫ですか?」
「ああ……。でも、怖かった……」
「一体どうしたんですか?」
「私が小学生だったときのことを思い出そうとしたんだ。でも、何も思い出せない……。私の記憶は六年前に雄大たちと出会った頃からしかないんだ……」
「記憶喪失……ですか?」
「そうなのかな」
「でも、六年前ならダズンさん小学生ですよね?」
「それが、私は六年前も今と変わらない姿だったんだ。六年前、桜の木の下に今と全く変わらない姿で立っていた。そのときにあった記憶は自分の名前と親にあたる者の顔だけだった」
帷はその事実を理解するのに少し時間がかかった。
成長が遅いとかそういうことでは片付けられない。
今のダズンの身長はざっと見て百五十センチメートルちょっとだ。
小学校高学年なら珍しくもない。
そのときから成長が止まっていたとしても、身長の面は納得がいくが、髪型まで変わらないのはおかしいと感じたのだ。
いくら成長が遅い帷でも六年前と比べれば、髪は随分伸びた。
少し考えた帷はある結論に辿り着いた。
「姿が変わらないなんて、まるで吸血鬼みたいですね」
冗談混じりに笑いながら話していると、ダズンがまんざらでもない顔をしているので、帷はきょとんとしてしまった。
「……なんでトバリちゃんは吸血鬼なんて信じているんだ?」
「だから蒼咲リリ先生の小説……」
「それだけじゃないだろ? さすがに小説だけでは信じないだろ?」
「うーん……そうですね。やっぱり、トバリが信じたいって思っているから信じるんですよ」
「吸血鬼を信じて何があるんだ?」
「分かりません。でも人間を信じても何もないじゃないですか。それと同じですよ。吸血鬼も人間と同じように当たり前に存在してる。そう考えるのはだめですか?」
それを聞くとダズンは静かに涙をぽろぽろ落とした。
「わわぁ……っ、どうしたんですかぁ?」
帷は何か悪いことをしてしまったのかと、おろおろと慌てふためいている。
「いや……嬉しくてな……」
「え?」
「こんな自分でも自分が何なのか分かっていない私のことをトバリちゃんは受け入れてくれた……」
「えっと、ちょっと待って下さい……。じゃあ、ダズンさんは……」
「トバリちゃんになら言ってもいいかな。
私は――」
千都の衝撃的な告白に朔弥は開いた口が塞がらないでいた。
「嘘……だよね……?」
「本当です」
淡々と告げられたその言葉が朔弥に強いショックを与えた。
「あたしは恩人の命を奪いました」
「なんで……?」
「あたしが余計なことを言ったから……。あんなこと言わなかったらあの人は死ななくてすんだはずなんです……!」
「何……言ったの……?」
朔弥で怖くて仕方がなかった。
人を殺めてしまう程の言葉を、朔弥は知っていたから。
「あの人は、困ったことや何か大変なことがあったらすぐに教えてとあたしに言ってくれました。だからあたしはあの日、公園で高校生くらいの女の人二人がもめているのを見てすぐに連絡したんです……」
「まさかそれでその人を殺したって? それはきっと関係ないよ。でも女子高生の喧嘩一つを大変なことだと認識するとは……ね」
やはり千都のような少女がそんなことするはずがないと朔弥は安堵の表情を浮かべる。
「ただの喧嘩じゃなかったんです……。一人は刃物を持っていて、誰か人を連れてこないと殺すとか、あの女が許せないとか言ってもう一人を脅していました」
「それ、誘拐事件か何かなんじゃ……?」
「だから助けを求めたんです。でも、そしたらあの人が……殺されたって……っ」
千都は後悔と悲しみが入り混じった涙を流す。
「そうだったんだ……。でもそれはチトちゃんは悪くないと思う。だからそんなに抱え込まないで」
「でも……あたしが何も言わなかったら……」
「そうしたら、別の誰かが死んでいたかもしれない。そうなると、あのとき何もしなかったからあの人は死んでしまった……って考えるんじゃない? どちらにせよ犠牲は避けられなかったかもしれないんだ。チトちゃんは悪くない」
泣きじゃくる千都を優しい言葉でなだめる朔弥。
「でも……」
「そんなこと言ったら僕はどうなるんだ。僕も言葉で人を殺したよ」
「え?」
――さっくんなら出来るよ!
――そりゃあ私だって頑張るよ? 夢、叶えたいし。
――やっぱりさっくんは凄いね。うらやましいよ。
――いつかさっくんと一緒にステージに立って歌いたいなぁ……。
――………………。
――………………。
――………………。
――“さっくんなら出来るよ!”
「僕には一緒に夢を追いかけていた親友がいたんだ」
「親友……ですか」
「コノカって名前の子で、好きに歌で好歌。名前通りに歌が大好きな子だったよ。将来は歌手になるって毎日張り切って練習してた」
千都は何の努力もしないで今、こうしてアイドル歌手をしている自分がなんだか情けなく感じ、言葉が出ないでいた。
「僕も歌うことは嫌いじゃなかったし、自慢じゃないけど上手かったらしいから歌手を夢見た。僕たちは一緒に歌手を目指して日々鍛錬していった。……まあ、結果的にこんな感じにのうのうと普通の大学生をしているわけだけど」
朔弥はこのざまだと自虐的に笑ってみせる。
「その親友……好歌さんをあなたは殺したっていうんですか?」
「……そういうことになるね。僕はコノカを殺した。しかも夢まで奪って」
「どういうことなんですか……?」
千都にはわけが分からなかった。
朔弥が好歌を殺す理由も方法も何もかも。
「僕は最低の人間だ。でもこうして図々しく今を生きている」
「何も思わないんですか? 自分が悪いって分かっていて」
「いいや。でもあとになって言われたんだ。コノカ本人に。全部さっくんのせいだって」
「は?」
殺したという好歌に話しかけられたかのようなことを言う朔弥に千都は強い不信感を抱いた。
「それを聞いて僕、どう思ったと思う?」
「そんな声が聞こえるなんておかしいって思ったんですか?」
「いや違うよ。そういうことじゃない。コノカにそんなことを言われて僕はどう思ったと思う?」
「……自分が悪いって改めて思い知って、後悔とか自己嫌悪に陥ったんですか?」
「普通なら、そうだったかもね。ただ、僕は普通じゃないらしい」
「じゃあ一体……」
「コノカは死んでよかったんだって、それで幸せなんだって、それまで感じていた悲しみとか罪悪感とかもどこかへ行ったよ」
千都は得体の知れない恐怖感に苛まれた。
さっきから朔弥が話すことが全て理解出来なかったからだ。
「……まさか、幽霊となってまた出会えたからですか?」
「いや、そういうわけじゃないよ。ただ、コノカが笑っているように見えたからというのはあるかも」
「自分の夢を奪った上に自分を殺した相手に笑顔を向けていたって言うんですか? そんなの全部あなたの幻想なんじゃないんですか? そもそも幽霊なんて、馬鹿馬鹿しい」
いつまでも意味の分からないことばかり言い続ける朔弥に我慢の限界を迎えた千都は、力強く怒鳴るような言葉を投げかける。
「幻覚を見ていたのかもしれない。幻聴だったのかもしれない。でも僕は嬉しかったんだ」
そのとき初めて朔弥は涙を見せた。
「コノカの〝声〟をまた聴くことが出来たから」
古い木製の校舎の四階。
長い長い廊下の先、端っこにある教室から今日も聞こえてくる。
透き通った明るく綺麗な日だまりのような声とピアノの音色。
それは廊下の端から端まで包み込んだ。
朔弥は一度聴くと、そのハーモニーに魅了された。
引き寄せられるように音楽室の扉を開けると、そこには一人の少女の世界が広がっていた。
朔弥はその空気に圧倒され、扉のドアノブを握ったまま立ち尽くしてしまった。
少女の方も自分の世界にのめり込んだままで、朔弥の存在に気付きもしない。
「あ、あの!」
勇気を出して朔弥は声を張り上げてみる。
「うわっ! びっくりしたー! えっと……」
少女はアニメや漫画のテンプレートのような驚き方をしてみせた。
「三組の建城朔弥です……!」
「そ、そうそう建城くん。私、知ってたよ? で、どうしたの?」
「いや、歌上手だなーって思って。僕、いつも聴いてたんだ」
「ありがと。これでも歌手志望なんだ」
「そうなんだ。奏本さんならなれるよ、きっと!」
「コノカでいいよ。私もサクヤ……いや、さっくんって呼ぶから!」
中学一年の夏、こうして朔弥と好歌は出会った。
それから二人は放課後になると毎日のように音楽室で集まるようになり、歌を歌った。
「さっくん、歌上手だね!」
「そ、そう?」
「音域が凄く広い! 男の子で高いソより高い音出る人なんてそういないよ」
「そうなの? 僕、まだ声変わりしてないからじゃないかな」
「それだけじゃないよ! 声質も何か惹かれるものがあるし、これは一種の才能だね。胸を張って自慢していいと思う!」
好歌がきらきらとした眩しい笑顔でそんなことを言うものだから、朔弥はすっかりその気になってしまう。
「初めて言われたよ、そんなこと。 僕も歌手、目指してみよっかな……」
「ホントに!? じゃあ、一緒に頑張ろ?」
「うん!」
それからというもの、二人の歌手を目指して毎日歌の練習に励んだ。
「いやー、やっぱり上手いね。つい、聴き入っちゃうよ。さっくんなら本当に歌手になれるって!」
「コノカの方が上手だよ。コノカの声は人を魅了する力があると思う」
朔弥はいつもつい好歌の歌に聴き入っていた。
「なれたらいいなぁ……。私には歌しか取り柄がないから」
好歌はふとピアノの鍵盤に視線を落とす。
「私から歌がなくなったら、なんにも残らないもん」
「そんなことないよ。もちろん、歌が一番だけどコノカには他にもいっぱい魅力があるよ!」
「……なーにそれ、もしかして告白?」
ちらっと朔弥の方を見ると、好歌は嬉しそうににやにやしている。
「え……いや、別に……」
朔弥は恥ずかしくなって顔を逸らした。
「相変わらずはっきりしないんだから」
「……悪かったね」
「さっくんのそんなところも私は好きだよ?」
「……やっぱりコノカの方が凄いや」
中学二年、ある秋の日。
朔弥はいつも以上に機嫌がよかった。
「僕、凄い特技見つけちゃった」
「なになに?」
「なんか喋ってみて」
「えーっと、じゃあ……。さっくん可愛いっ」
無邪気で少しいたずらっぽい目を見た朔弥は少し脈が高まるのを感じた。
「なんでそういうのチョイスするかなぁ」
「なんでもいいんでしょ?」
「いいけど、なんか恥ずかしい……」
頬を赤らめ目を逸らす朔弥を見ては好歌はクスクスと楽しそうに笑った。
「じゃあ、私の名前は奏本好歌です……っていうのは?」
「初めからそういうので来てよ……。『私の名前は奏本好歌です』」
朔弥は少し咳き込んだあと、まるで好歌の声そのものという程それに近い声を発した。
思わず好歌は目を見開く。
「え、何? 録音?」
「違う違う。僕の声だよ」
「嘘! え、なんで、どうやって?」
「なんか、一度聞いた声を割と精密に真似ることが出来るみたいなんだよね」
「凄い凄いすごーい! 超感動した! さすがさっくんっ!」
好歌はまるで自分のことのようにはしゃいでいた。
季節はあっという間に過ぎていき、二人は中学三年生になった。
「コノカ、高校どうする?」
「んーそうだね……。高校から専門学校に通うのはやっぱり経済的に負担かけちゃうし……」
「じゃあ、音楽科があるとことかは? 隣町の成星にあるはず」
「そこも良いなって思うんだけど遠いんだよねー。家から電車で片道一時間半ってなかなかきついから迷ってるところなんだ」
「隣町って言っても遠いよね……。でも僕はそこ、行くつもりなんだけど」
「え、さっくん音楽科行くの? 絶対女の子ばっかりだよ?」
そんなどうでもいいようなことを心配する好歌が朔弥には可愛くて仕方なく、思わずクスクス笑った。
「僕は普通科の方だよ。普通科でも音楽の勉強は出来るし、何より僕に音楽科に入れるような才能は無いよ」
「えー、さっくんなら大丈夫だと思うけどな。でもやっぱり女の子ばっかりだと息苦しいか」
「まあ……ね……」
朔弥は苦笑いする。
一番気兼ねなく話せるのは女の子なのに……。
「私も成星、目指してみよっかな。音楽科は競争率高いからもっと頑張らないと!」
「僕も精一杯サポートするよ!」
二人はこの日から勉強を始めた。
朔弥は一般的な受験勉強をしながらも、好歌の専門的な音楽の勉強にも付き合った。
二人とも模試の成績も上々で、そのまま不断の努力を続けた結果、無事に合格をしたのだ。
「合格おめでとう!」
「ありがとう! さっくんもおめでとっ! 私が合格出来たのも全部さっくんのおかげだよ」
好歌は涙を流して喜んだ。
こうして二人は揃って成星学園に入学を果たした。
好歌は入学早々、才能を見込まれ他の生徒以上に期待された。
朔弥も普通科の生徒としては異例となる音楽科への転科を勧められるなど、音楽の才能を評価され、二人は校内の注目の的となる。
そんな状況におかれても二人は何も変わらずに、放課後になれば音楽室に集まった。
そうして二人きりの音楽室で歌を歌っては、たわいもない会話で盛り上がる平和や日々がそこにはあった。
「僕、軽音部のボーカルにスカウトされたんだけど……」
「凄いじゃん!」
「でも自信ないんだよ……。僕より先輩の方がずっと上手いから……」
朔弥は力なさげに俯く。
「さっくんも上手じゃん。自信持ちなよ。さっくんなら出来るよ!」
そんな朔弥を、好歌は明るく元気な声で慰めた。
「そうかな。……じゃあ、ちょっと頑張ってみるよ」
「私、応援してるから!」
「コノカも頑張りなよ」
「そりゃあ私も頑張るよ? 夢、叶えたいし」
朔弥はその後、軽音楽部に入部し、一年生にして部内一の人気バンドのメインボーカルに選出された。
そして六月の中頃、ファーストライブが開催され、朔弥は校内で一躍脚光を浴びることとなる。
「さっくん! ステージ見たよ! 感動した! あれだけ大きいホールを満員にするバンドのメインボーカルをしてるなんて、なんかさっくんが随分遠くに行っちゃったみたいだなぁ」
「僕なんて大したことないよ。全部先輩たちの力だよ」
「やっぱりさっくんはすごいな……。うらやましいよ」
カーテンの隙間から差し込む夕陽に照らされた好歌の影のある笑顔が朔弥の胸を締め付ける。
「コノカだって文化祭の音楽科のコンサート出るって聞いたよ。一年生で出るってすごいことじゃん! うちの音楽科、全国でも有名だからテレビ局とか芸能プロダクションの人とか来るって話だよ」
「まあ、チャンスっていったらチャンスなんだけどね……」
「何かあるの?」
「あんまり目立ちすぎると先輩からの目とかあるし……。上からのプレッシャーってすごいんだよね……」
好歌は思いを素直に打ち明けた。
いつだってそうであった。
好歌は絶対に一人で抱え込んだりしない。
何か悩み事があればすぐに打ち明ける。
朔弥の中での好歌はそうであった。
何かを抱え込んでいるような顔をした好歌に不安や心配の念が隠しきれない朔弥であったが、いつもと変わらない好歌に安心した。
「そんなの気にしていたら歌手になんてなれないよ?」
「そうなんだけど……。やっぱり怖いんだ。この先、一人で歩んでいくのが怖いの。上手くいってもいかなくても」
「そんなの僕も一緒だよ。一人で不安じゃない人なんていない。でも――いつかはみんな、一人になる」
このとき朔弥はどこかで一人になることを示唆していたのだろうか。
目頭が熱くなり鼻の奥がつんとなるのを感じていた。
「やっぱり私は、いつかさっくんと一緒のステージに立って歌いたいなぁ……。それが私の夢だから」
理想を語る好歌はとてもいきいきとしていて、輝いていた。
朔弥もそうなればいいなと思っていた――はず。
「あんた、奏本のカレシでしょ」
パーマをかけた金髪にがっつりメイクという出で立ちの女子が朔弥に声をかけてきた。
「ち、違いますけど……」
「あっそ。まあ、どーでもいいわ。うちら、ぶっちゃけ奏本のこと超ウザいって思ってんの。ついでにお前も」
仲間の女子が次々と現れ、朔弥を囲むように壁側に追い込む。
「……なんでですか?」
「一年のクセに調子乗りすぎなんだよ!」
怒鳴りあげられた声に朔弥はすっかり竦んでしまう。
制服に付けた校章を見てみると、全員音楽科の二年生であった。
好歌を責めていた先輩というのはこの人たちかと気が付き、言い返そうとするが圧倒されてそれもかなわない。
「お前のせいでうちのカレシはボーカルクビになるし、奏本のせいでうちは文化祭ステージ出られないし」
「まじ、サイアク」
「早い話、とりあえずお前さバンド抜けてくんない?」
「抜けなかったら、奏本にあ~んなことやこ~んなことしちゃうけど」
「まあ、抜けてもお前らが周りからちやほやされて、にこにこ二人でいるの見たら奏本をうちのやつらのオモチャにするけど」
先輩たちはけらけら楽しそうに笑いながら立ち去って行った。
朔弥はどうすれば良いか必死に考えた。
自分がどう動いても好歌に危害が及んでしまう。
何故、自分ではなく好歌ばかり責めるのか、卑怯だと歯を強く噛みしめた。
このままでは醜い嫉妬のせいで好歌が傷ついてしまう。
何も出来ないことに朔弥は苛立ちをおぼえていた。
そして、一週間ほど考えた末に苦渋の決断をくだした。
文化祭一ヶ月前のことだ。
いつものように音楽室へ向かおうとする好歌を引きとめて廊下の物陰に連れ込み、朔弥は重い口を開く。
「……もう、僕には関わらないで」
「なんで……?」
好歌は今にも泣き出しそうな顔をしていて、声もとても弱々しかった。
「僕とは口をきかないで」
「どうして? なんでいきなりそんなこと……」
「迷惑になるんだ」
混乱する好歌とは違い、朔弥はどこまでも冷たく淡々としている。
「……一緒に歌うとか、無理だから」
「…………」
好歌は少し黙り込むと、納得したようにすっきりとした表情を浮かべた。
「…………分かった。さっくんがそうしたいって思ったんだよね」
朔弥には頷くことも首を横に振ることも出来なかった。
「さっくんは私のこと、そんな風に思ってたんだ」
「……うん…………」
「…………じゃあね」
好歌はそのまま走り去っていった。
朔弥にはその〝声〟が永遠の別れのようにも聞こえた。
どんどん遠くへ行ってしまう好歌を追いかけることはおろか、見届けることすら出来なかった。
でもこれでよかったのだと自分に言い聞かせ続ける。
好歌もきっと理解してくれているはず。
迷惑だなんて、全く思っていないことを。
あの言葉を最後に好歌の〝声〟を聞くことはなくなった。
好歌の姿を見ることもなくなった。
どうやらずっと学校を休んでいるらしい。
もう二週間もたつ。
家にも帰っていないそうで、朔弥は不安に駆られた。
もしかしたら、全部本気だと捉えられてしまっていたのではと。
文化祭十日前。
いつもの音楽室からピアノの音色が聞こえてきた。
間違いなく好歌だ。好歌がいる!
でも〝声〟は聞こえない。
朔弥は無我夢中で音楽室へ走った。
扉を開けてみると好歌は静かに涙をぽろぽろ流してピアノを引いていた。
好歌は朔弥にすぐに気がつき、その悲しそうな目で静かに朔弥を見つめる。
「…………」
「…………」
「……僕の方から関わるなって言ったのに、のこのこ現れて何なんだと思ってるよね」
「…………」
「こんな僕とはもう、口もききたくないよね……」
好歌は首を横に振った。
そしてまた涙をぽろぽろと鍵盤に落とす。
「僕もここに来たのはいいけど、何を話せばいいか分からないんだ。コノカもそうなんでしょ?」
「…………」
「僕と話すことなんて……もう無いか」
「…………」
「散々話したし、もう十分か」
「…………」
「だから、何も答えてくれないんでしょ?」
ずっと黙ったまま悲しい目で見つめる好歌は、護るためとはいえあんなことを言ってしまった自分のことをきっと酷く嫌っているのだと思っていた。
「…………」
「その涙のわけも僕には分からないんだ。教えてくれるかな……?」
朔弥がそう言うと好歌は立ち上がって音楽室を後にしようとする。
その去り際に涙を流して口をぱくぱくさせ、何かを朔弥に伝えた。
「ちょっと、どこ行くの?」
廊下に出てみると好歌の姿はもうどこにもなかった。
朔弥は何か嫌な予感がして、校内を必死に探した。
どうして泣いていたのだろう。
どうして何も言ってくれないのだろう。
自分のことを嫌っているのなら涙なんて流さないはず。
話したくないわけではないと首を振っていたのに何も言ってくれなかった。
いつも何でも言ってくれる好歌が何も教えてくれなかった。
何を一人で抱え込んでいるのか朔弥には少しも分からなかった。
最終下校の時間頃だろうか。
ホールの方から悲鳴が聞こえた。
朔弥が何事だと思い行ってみると、そこには信じられない……信じたくはない光景が広がっていた。
ホールのステージの真ん中にいる好歌の姿。
しかし好歌はステージには立ってはいない。
天井から垂らされたロープが首に巻き付いていて…………ぐったりしていた。
朔弥は何が起きているのか分からず、呆然と立ち尽くしてしまっていた。
すぐにはっとして慌てて駆け寄り、ロープを解いて、下ろしたが――もう遅かった。
好歌のカーディガンのポケットに折り畳まれた紙が一枚入っていた。
折られた面には“さっくんへ”と書かれてあった。
さっくん、ごめんなさい。
ホントにごめんなさい。ごめんなさい。
そんなこともちゃんと伝えられなくてごめんなさい。
どれだけ謝っても謝り足りないんだ。
あの日、さっくんに迷惑だって言われてすごくショックだった。辛かった。
どうすればいいか分からなかった。
辛さを紛らわそうといつもみたいに音楽室にこもって、いつもより大声で歌おうとしたの。
でもダメだったの。
歌おうとすると、ずっと喉の奥に何かがつっかえてるみたいで、苦しくてたまらなくなった。
咳き込んで咳き込んでずっと苦しかった。
苦しくて、倒れちゃったみたい。
気がついたら真っ暗な夜だった。
さっくんと一緒にステージに立って歌いたいって夢はもう、叶えられないのかな。
私のさっくんと出会ったときからの夢だったのにね。
もし、これをさっくんが読んでいたらどう思うのかな。
どうも思っていないだろうね。
こんなの私のひとりごとだもん。
口にも出せないただのひとりごと。
こんな私のひとりごとに興味なんてないよね。
見たくもないし、もちろん、ききたくもないよね。
迷惑、だもんね。
私はあの日からずっとさっくんを避けてきた。
さっくんは私の顔も見たくないって思っているんだって知っちゃったから。
学校にも行かなくなったし、遠くに行った。
さっくんに絶対見つからないくらい遠くに。
迷惑、だもんね。
私、何か悪いことしたかな?
ごめんなさい。私には分からないんだ。
なんでさっくんがあんなことを言ったのか分からない……。
私はさっくんのこと、大好きだったのに。
なんでなの?
ちゃんとききたいよ……。
どうして?
どうしてさっくんはあんなこと言ったの?
ホントにそんなひどいこと思ってたの?
あれがさっくんの本心だったの……?
ちゃんとききたい。でもダメ。ダメなの。
きけない。だから、だから……。
さっくんから私に答えをくれたらいいのに……。
私のもとに現れて全部嘘だって言ってくれたらいいのに。
でも……もしあれが本心だったら私はどうすればいいの?
ねえ、教えてよ……。
ずっとこのままなんていや……。
ちゃんと自分の声でさっくんにききたいよ……。
でもなんでだろ。
どうしてなんだろ……。
どうしてそんなことも出来なくなっちゃったんだろ。
私はどうなっちゃったの……?
辛いよ……。
さっくんの声がききたいよ……。
さっくんにあいたいよ……。
ねえ、どうしてなの?
私、もう、歌も歌えなくなっちゃったよ…………。
辛い。辛い。辛い……。
私から歌がなくなったらなんにも残らないもん…………。
そんなの、生きてる意味ない。
なんで、こんなことになっちゃったの?
私が悪いの……?
ごめんなさい、やっぱり分からない。
どうしてなの……?
さっくんは、さっくんはどう思っているの?
私のこと、嫌いなの?
もう、私はどうしたらいいの……?
さっくんと、話がしたいよ……。
もっともっといっぱい話がしたかったよ…………。
前みたいに二人きりの音楽室で笑いたかったよ…………。
この手紙がさっくんの手元にあるってことは、たぶん私はもう死んじゃってるんだろうね。
私はそういう道を選ぶって決めたから。
こういうのを遺書って言うんだろうね。
ごめんなさい。
ちゃんと自分の声でごめんなさいって言えなくてごめんなさい。
逃げてばっかりでごめんなさい。
なんにも分からなくてごめんなさい。
なんにも出来なくてごめんなさい。
自分勝手でごめんなさい。
声を失った私はもう、生きる意味が分からなくなりました。
最後に一つだけ言わせてください。
最後の最後までわがままでごめんなさい。
もし、さっくんが私のことをまだ嫌っていないならお願いがあります。
私の代わりに夢を叶えてください。
…………さっくんなら出来るよ!
コノカ
その手紙はところどころインクが滲んでいて、端は強く握りしめていたのかくしゃくしゃになっていた。
「僕はコノカから歌を奪って命も奪った。その罪悪感からかな。一週間くらい経って、僕のもとにコノカが現れた。そして僕に“全部さっくんのせいだ”って。確かにコノカの声だったよ。
僕は恨まれているのかな。でもコノカに声が戻ったんだって思うと嬉しくて仕方なかった。
コノカは死んでよかったんだって心から思ったよ」
「……狂ってる」
笑顔で平然とそんなことを語る朔弥を千都は思いきり睨みつける。
「ああ、僕は狂っているさ。それに気付いていて僕は平然としているんだ。さらに狂ってる」
「何を……」
「僕は狂おしいまでにコノカの声が好きだった。愛していたよ。その声も僕が奪ったんだ。永遠に奪ってしまったんだ。僕の前に今でも現れるコノカの姿も声も幻だって分かっている。
そうだよ、あのときコノカは死んだんだ。僕はコノカに自ら命を絶つ道を選ばせたんだ。
僕はずっと過去に囚われている。コノカに恨まれ続けている。僕はそこからは動くことが出来ない」
そこに高校一年生の建城朔弥は立っていた。
何も変わらないまま。一人で。
「自殺って自ら命を絶つことだと思ってるでしょ?」
「そうじゃないんですか」
「自殺しようとしている人はそう思うかもしれない。でも誰かは自分のせいであの人は死んでしまったって思っているかもしれない」
「そんな……。あたし、誰かのせいだとか思ってなかったのに……」
自分がしようとしていたことが誰かを犯罪者のように思わせていたと知ると、千都にはそれが急に怖ろしく思えた。
「だから自殺なんて絶対しちゃ駄目。絶対にしないで」
「もう、そんなこと言いません」
「じゃ、戻ろっか。もうすぐ二部の準備をしないと」
「そうですね……」
千都は重い足取りで楽屋に戻る。
次のステージが最後だと思うと、急に悲しくなってきたのだ。