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#05 終焉を告げるのは

 午後五時、都内の某雑居ビル。

 その三階の一室に構える小さな芸能事務所。

 一人の女性が十年程前に創設したこの事務所の会議室で、三人の少女たちと社長兼彼女たちのマネージャーである雪代初乃(ゆきしろはつの)は皆、一様に深刻な表情で机に向かっている。

 初乃の隣には一年千都(ひととせちと)、その向かいに春宮新菜(はるみやにいな)鳴瀬歌音(なるせかのん)が並んでパイプ椅子に座っている。

「チト、明日のライブは中止にしましょ? 今、あなたが舞台に立つのは危険過ぎるわ」

 初乃は静かに重々しく口を開く。

「あたしは別に構わないです」

 千都は淡々と返す。

「そうは言っても世間の目もあるし、今後のあなたの活動にも関わってくるわ」

 命を狙われているにも関わらず初乃は今後の――未来の心配をする。

 そんな初乃に千都は冷たい視線を向ける。

「そうだよ。ホントにチトが殺されるようなことがあったらカノンいやだよ……」

「ライブはうちらだけで頑張るからさ」

「そんなの絶対やだ。あたしは出るよ」

 二人は自分の心配なんてこれっぽっちもしていない。

 そんなことはよく分かっていた。

 彼女たちの前に立つ千都がいなくなってくれた方が良いとまで考えている。死んでくれたって構わないと。

 ――あたしがいなけりゃあんたたちなんて無名のままだったくせに。

 仲間ごっこのボロなんてすぐに出ていた。

 ここで二人の言葉を()に受けて弱気になったふりをして引き下がるのは(しゃく)に障る。

 だからといって、堂々と舞台に立ってまんまと殺されてしまって、二人の思う壺――というのも気に食わない。

 なかなか二人は策士だ。

 一度は死ぬと決めた千都であったが、迷いが生じはじめた。

 このままただ、殺されるだけでいいのだろうか……?

 そもそもサグとは誰なのか。一体、何なのか。

 犯行予告なんてそんなアニメやドラマみたいなこと、誰がしたのか。というか、そんなの全部嘘なんじゃないのか……?

 なんで今まで馬鹿正直に信じていたのだろう……。

 千都の頭の中でさまざまな感情が渦巻き、どんどん広がっていく。そして少女を混乱させていく。


 ――あたしは生きたいの? 死にたいの?

 ――あのときのお姉さんみたいに殺されるのが怖いの?

 ――大嫌いなこんな世界にバイバイって言えるんだから何も怖くないじゃん。

 ――カノンとニーナ? どうでもいいじゃん、そんなこと。死んじゃえば、あの子たちともサヨナラなんだから。

 ――そりゃ、この先あの子たちがのうのうと生きていくのはなんかムカつくけどさ。

 ――死んじゃえばそんな感情もどっかいっちゃうんだから。

 ――生きて苦しむのと、死んで楽になるの

 ――あたしならどっちを選ぶ?


 頭の中で語りかけてくる“声”が千都の心を揺さぶる。

 それは天使の(ささや)きなのか悪魔の囁きなのか。

「……ていうか、あんなの全部ウソだし。信じる方が馬鹿でしょ」

 千都は何かが吹っ切れたように鼻で笑い出す。

「チト、一年前の事件のことを知ってて言っているの……?」

 初乃は声を震わせて言う。(おび)えたような声で。

 初乃の脳裏には泣きじゃくる婦人と何の感情もこちらに感じさせない表情でただ俯いたままの少女の顔が浮かんでいた。

「じゃあホントってことでもいいですよ。別になんにも問題ないです。だからあたし、出ますよ」

 一方の千都は冷静に淡々としたままだ。

「なんでそこまでして出るって言うの……?」

「……これで最後だから。最後に……したいから」

 千都は顔を上げ、すっきりとした表情で堅い意志を初乃に伝える。

「止めても無駄ですよ。誰になんて言われようとも出るし、これで最後。……って決めましたから」

「ちょっとそれ……どういう……」

 千都が何を言っているのか初乃にはさっぱり分からなかった。

 一体、何が最後なのか。

 彼女は何を終わらせようとしているのか。何を辞めようとしているのか。

 それがきっと良いことでないことは感じ取れた。でも何なのかが何故か分からないのだ。

 分かっているつもりになるのが怖いと感じたのだ。

「じゃあ、そういうことなんで。明日、八時に事務所集合で十時からリハで間違いないですよね」

「え、ええ……ってちょっと……」

 初乃が戸惑うのをよそに千都は「今日はお疲れ様でした」と告げ、事務所をあとにした。

「チト、待って!」

 初乃の引き留める声も千都には届いてはいなかった。

「いいじゃないですか、チトがそう言ってるんだから好きにさせてあげれば」

「そーですよ。なんか、うちらと一緒にいるのがイヤみたいですし。ま、正直うちもちょっとうんざりしてきたところなんですよねー」

 歌音と新菜は携帯電話をいじりながら無関心そうに形だけの言葉を(つぶや)く。

「あなたたち……」

「初乃さんもチトに肩入れしすぎなんですよ。遠い親戚だかなんだか知りませんけど」

「別に肩入れなんてしていないわ」

「じゃあ、なんであの子をあんなに構うんですか」

 初乃はしばらく答えることが出来なかった。

「……チトだけじゃないわ。あなたたちの命が狙われるようなことがあったら私は全力であなたたちを守るつもりよ」

 大切な人のあんな顔はもう見たくないと、初乃のその目はとても真剣なものであった。

「本当ですよね? うち……信じますよ?」

「てっきりチトがいなくなったら事務所の経営がヤバくなるからだと思ってましたよ~。だからちょっと安心しました。……ちょーっと」

 歌音は悪そうに黒笑いする。

 (わず)かながらそのような意識もあったためか、初乃の表情は少し固くなる。

 千都の存在があるから今のこの事務所があることは否定出来ない。

 当時、たった九歳だった少女がこの事務所を――初乃を救ったことは間違いなく(まぎ)れもない事実だ。

 あの時彼女たちは助け合った、特別な関係なのだ。

 千都をひいき目で見ていた。肩入れしていた――ということは、言われてみれば事実なのかもしれない。

「そーいやさーカノン、遠い親戚って言うけどどこまでが親戚なんだろ?」

 ふと疑問に思った新菜が歌音にそう問う。

「ほら、よく知り合いを七人辿(たど)れば誰にでも繋がるっていうじゃん。だから血の繋がった人を辿って七人以内で辿り着く人のことを言うんじゃないの? 分かんないけど」

「それってほぼ他人じゃね?」

「言えてるー。カノンたちもフツーに繋がりそうだよね」

 二人がケラケラと笑いながら話すのを初乃は不服そうな目で見ていた。

「……で、初乃さんとチトってどのくらいの間柄なんですか?」

 初乃はどきっとした。

 初乃自身にも自分と千都の血縁関係が分からないのだ。

 五年程前に母から親戚の夫婦が亡くなったと聞き、葬儀に参列したときに初乃は初めて千都に出会った。

 幼いながらも綺麗な瞳をした可愛らしい少女であった。

 この場がどんな場所なのか、そんなことも分からないような無邪気(むじゃき)な瞳の少女が初乃には可愛らしくも可哀想にも見えたのだった。

 その瞳にどこか()かれた初乃は千都をスカウトし、現在に至る。

 さて、なんと答えようか……。初乃は悩む。

 適当に答えても何か言い返されそうだ。かと言って嘘をつくのもどうかと思い、またしばらく悩む。

「うーん……そうね…………。私がチトを娘だと、チトが私を本当の母親だと思い合えたら嬉しいって思える関係――かしら」



 午後六時、一塚前駅前。

 高くそびえ立つショッピングモールを見上げると、『九月四日(土) 十二時から一階センターステージにて新千歌(しんせんか)ライブ開催!』という文字とともに、造り笑いの千都と、さてどんな感情を抱いているのか分からない歌音と新菜の写る巨大なポスターが掲げられている。

 それを見て千都はうんざりだと眉間(みけん)にしわを寄せ睨みつける。

 一体、自分は何がしたいのか。さっぱり分からない。

 なんでまだこんなことをしているのだろう。

 なんでもっと早く辞めようとしなかったのだろう。

 誰もいない、何もないのにどうして……。

 見上げていた視線を地面に落とす。

 ――ああ、こっちの方がこんなに近いんじゃん。

 自分の(おろ)かさを噛みしめながら駅前広場の中心で立ち尽くす千都。

 その周りにはやはり誰もいない。

 その瞬間までは――。

「あれー? チトにゃん学校帰り? でも成星(せいじょう)ってこの駅じゃないよね? ていうか線も違うよね? なになに寄り道? でももう六時だよー? いくらまだ日が長いからって中学生だったらそろそろ門限気にした方がいいんじゃない?」

 見知らぬ声がする方を見ると見知らぬ顔があり、“誰ですか?”と声をかけようとした瞬間、彼が誰なのか理解した。

 こんな胡散臭(うさんくさ)そうかつ『チトにゃん』などというふざけた愛称で千都のことを呼ぶ人間など一人しかいなかった。

「疑問符、多いですね。ご心配どうもありがとうございます。でも、門限とかないんで。

 あ、そういや声治ったんですね」

 名前も知らない青年に千都はあくまで他人行儀で接する。

「そうなんだよ! いやーホント治らなかったらどうしようと思ったよ」

「良かったですね。確かにあの声をずっと聞き続けると思うとぞっとしますね」

「いやまあそれもそうなんだけども……。ほら、役者やアイドルは声が命じゃん。それと同じように僕も結構声が命だったりするんだよね」

「あなたも芸能関係の人なんですか?」

「そんな大したものじゃないよ。僕はただの大学生。今日も教授に“建城(たてぎ)君! また君だけレポートが出ていないぞ!!”って怒られてきたよ」

 平然としてやれやれという顔でへらへら笑いながら、教授のものまねなども挟みつつ何故か得意気に話す青年――建城朔弥(たてぎさくや)の高すぎるものまねのクオリティーよりも彼が大学生であったことに驚きが隠せない千都。

「あなた、高校生じゃなかったんですね」

「よく言われるよ。別に若作りしてるわけじゃないんだよ? でもよくいるじゃん、若く見える人。僕この前テレビで三十歳越えてるのに小学生に見える人見たよ。あれはびっくりしたなー」

 若く見える人――。見た目が成長しない――。

 千都は思わず吸血鬼を頭に思い浮かべる。

「……あなた、吸血鬼じゃないですよね?」

「さあ、どうだろ。血を吸わない吸血鬼だっているんだ。僕が気付いていないだけでもしかしたらそうなのかもしれないね。チトちゃんも――もしかしたら」

 朔弥は意地悪そうににやっと笑みを浮かべる。

 千都はどきっとして表情をこわばらせる。

 もしそんなことがあったら……。

「冗談だよ。チトにゃんって大人っぽくみえるけどやっぱり普通の中学生の女の子なんだね」

 さっきとは一転して朔弥は優しそうに微笑む。

「……失礼ですね。確かにあたし可愛げないですけど」

「そんなことないよ! チトにゃんはすっごい可愛いし、僕のみんなのアイドルだよ!!」

 さっきの失言(?)を取り繕うように朔弥は必死に訴えかける。

「あなたにはそう見えてるんですね……」

 千都は目をそらしぼそっと呟く。

「え?」

「……いえ、なんでもありません。さっきは変なこと訊いちゃってごめんなさい。あなたが吸血鬼なわけ――ないですもんね」

 千都が朔弥のことを高校生だと思っていたのは見た目が若いからではなかった。

 精神年齢が幼そうだからであった。

「チトにゃんもね」

「あたしは――どうでしょう」

 もし自分が吸血鬼なんだとしたら全て理解出来る気がする。

 何故、吸血鬼に惹かれたのか。それは同じ何かを感じ取っていたから。

 何故、吸血鬼を探すのか。友達が欲しいというのは建て前なだけ。

 吸血鬼でなければ駄目な理由。それは仲間が欲しいから。

 この世界の居心地が悪いのも、ここ――人間界にいるべきではないから。

 そうやって全て説明がつく。そんな気がした。そうであれば良いのにと千都は思った。

 それと同時にそうであって欲しくないとも思っていた。

「人って死んだらどうなるんでしょう」

「急にどうしたの?」

「ちょっと訊いてみただけです」

「そうだね……。それは死んでみないと分からないことだよね。でも死んじゃったら知ることが出来ない。知っちゃいけないことなんじゃないのかな」

 人間がどうやっても知ることが出来ないこと。

 それを知ることはとても大きな罪。

 その罪を背負う者がいるとすれば一体何者なのか。

「知ってはいけないことをどうして知りたがるんでしょう」

「それは死者に訊くしかないね」

「は?」

「あれ? 吸血鬼は信じても幽霊とかそっちの類は信じないタイプ?」

「ええ、信じてないです。幽霊が出て来る小説も読んだことありますけど信じてないですね」

「やっぱり幽霊は科学的根拠がないし、存在しないって証明されているからなあ……」

「あなたは信じているんですか?」

「うん。見たことあるし」

 この人の頭は大丈夫なのかと千都は疑った。

「さすがに話したりは出来ないと思うけど」

「それが出来ればあなたはとても国に貢献(こうけん)出来るでしょうね」

「まず被害者から犯人の特徴を聞き出して、あらゆる殺人事件の犯人をとっつかまえられるよね!」

 まるでヒーローになった気分だと子供のようにはしゃぐ朔弥。

「それじゃあ何も変わりませんけどね。亡くなった人たちは――帰っては来ないんですから」

 千都は目頭を熱くさせ、俯く。

「そうだね……」

「だから人はそっちに行こうとするんでしょうか。死ねばまた逢えると信じて」

「死後の世界なんてあるのかも分からないのにね。死って何なんだろうね。必要なものなのかな……?」

「きっと必要なものなんだと思いますよ。でも、望まない死は無くて良いはずです。みんな救われれば良いのに」

「――――どんな形でも生きていられればそれだけで幸せだって人もいるはずです」

 吸血鬼は瀕死の状態の人間を助けた。

 月夜見宵(つくよみよい)は本来は死ぬはずの人間であった。

 しかしそれはあのときではなかった。

 死期を間違えた少年はどういうわけか吸血鬼となって今も生きている。

 そんな風に死ぬべきではない命が皆、救われれば良いのに……と千都は願っている。祈っている。

「本当だよ。なんでこんなことになってるんだろうね」

「……え?」

「死ぬべきでない命が狙われている。つまり、チトちゃんの命が今狙われている」

「それは良いですよ……。あたしは別に死んだって構わないですし……」

「またそんなこと言って。チトちゃんはまだ死ぬべきじゃない。死んじゃいけないんだ」

 朔弥は千都の目をよく見て訴えかける。

「それって、誰が決めたんですか? いつ死ぬかなんて人に決められたくありません」

「そりゃ僕も嫌だよ。何も思い残すことなく安らかに眠りたいものだよ。だからって自殺がいいことだなんて勿論思ってない。当然、殺人なんて許されることじゃない。最低の行為だ」

 朔弥は穏やかに話しているかと思えば突然、人が変わったように切れた目をして誰かに怒鳴りつけるように叫んだ。

「いや、あたしはもうこの世に未練とかそういうのは無いからいいんですけど……。今のあたしに殺害予告ってタイミングが良すぎる気がしませんか?」

「何のタイミングかな?」

 誰もが怖じ気づく鬼の形相をしていたかと思いきや、また穏やかな表情で(とぼ)ける朔弥。

「あたし……死んじゃいたいって思ってるし」

「え、そんなこと思ってたんだ」

 白々しく何も知らないふりをする朔弥。

「知っていたくせに……」

「まあまあ。だからって好都合だとか思ってるんでしょ?」

「…………」

「サグは……まあ本当にチトちゃんを殺しにかかるだろうね。それでもいいの?」

「別に誰に殺されてもいいですよ。結果は同じですから。でも、あなたにだけは殺されたくないです」

「なんで!? なんで僕だけ!?」

「あれだけあたしに死ぬなって言ってた人に殺されるのはちょっと怖いです。どんな想いで殺すのか……考えただけで震えが止まりません」

 と話す千都はこの真夏の夕暮れに似合わず、吹雪く寒空の下、コートも着ずにいる冷え症の女性のように震えている――かと思いきや微動(びどう)だにしていない。

「……超冷静に見えるけど」

「と、とにかく、あなただけはあたしを殺さないで下さいねっ! あたし、あなたがサグじゃないって信じてますから」

「心配しなくていいよ。僕は絶対にチトにゃんを殺したりしない」

 朔弥は胸を張って千都に誓った。

 それは幼い姫君に忠誠を誓った若い騎士のように堂々としていた。

「僕はチトちゃんを護る。あ、そうだ!」

 朔弥は何かを思い立ったように手を叩く。

「どうしたんですか?」

「僕、チトにゃんのマネージャーするよ! 近くにいた方が護衛に便利だし」

「はあ……」

 千都は呆れた目で朔弥を見る。

「あらチト、まだ帰ってなかったの?」

 そこにたまたまタイミング良く通りかかった初乃が現れる。

「もう少ししたら帰りますから」

「ねえチトにゃん、この人誰?」

「あたしたちの事務所の社長兼マネージャーさんです」

「しゃ、社長!? は、初めまして……た、たた建城朔弥って言います……っ!」

 社長と聞き、急に何かしらの恐怖感と緊張感に襲われ変な汗が噴き出す。

 必死で挨拶をするも声は裏返るわ噛むわ……で悲惨なものになってしまった。

「よろしく。チトのお友達? そんなに緊張しなくていいのよ」

「は、はい! すいません!」

「別に友達とかじゃないです。この人、あたしのマネージャーしたいんですって」

「え、そんな急に言われても……」

「明日だけでいいんです! やらせてもらえませんか?」

 朔弥は精一杯、誠心誠意自分の想いを伝えた。

「そうね……。チトはいいの?」

「あたしは……認めてあげてもいいですけど」

「そういうことなら分かったわ。チトのこと任せたわよ、建城くん」

「はい! ありがとうございます!!」

 朔弥は太陽のように眩しい満面の笑みで深々と初乃に礼をした。

「じゃ、今日は私も家に行くから早く帰りなさいよ」

「はーい」

 初乃はショッピングモールへ姿を消した。

「……ホントに明日だけですよ」

 頬を薄い紅色に色づかせた千都がそっぽ向きながら小声で呟く。

「僕は全力でチトちゃんを護るだけだよ」

「信じてますからね」



 午後六時過ぎ、郊外のマンション。

 里桜と別れたあと、雄大は重い足取りで階段を上り自室へ向かう。

 八階建てのマンションの為、エレベーターは備え付けてあるが、雄大の部屋は三階にあるため階段で行く方が早いといつも階段を利用している。

 重い足取りというのは決して疲れているからではない。

 どうやらダズンが来ているらしい。

 話があるということらしいが全く見当がつかない。

 雄大自身もダズンと話したいことがあるので都合がいいのだが……。

 それより気がかりなのが、ダズンが自分の部屋に一人でいることであった。

 前から部屋に現れては好き勝手してくれていた。

 鍵をかけてもダズンには全く効果がない。

 今度は何をしてくれているのか。

 考えただけでも頭が痛くなる。

 それに考えても無駄なだけだ、もうやめよう。

 そう自分に言い聞かせ、恐る恐るドアを開ける。

 すると、不自然なまでに綺麗に女性もののローファーが一足並べてある。

 わざわざ玄関に置かなくてもいいのに……と思いながら雄大はその横で靴を脱ぐ。

 ぱっと部屋に目を遣ると、ダズンはいつもの定位置であるベッドにちょこんと大人しく座っている。

 脇には何冊かアルバムが置かれてある。

 その様子を見て、雄大はとりあえず安心して安堵の表情を浮かべた。

「やっと帰ってきたか。遅かったじゃないか」

「これでも生徒の最終下校時間より早く学校を出てるんだぞ。もし部活の顧問なんて任されるようにでもなったらもっと遅くなる」

 雄大は鞄を床に置き、(おもむろ)に椅子に座る。

「お前が任されるような部活なんてあるのか? 運動部――はどちらにせよ無理だろ? それともなんだ、お前のいた生物研究会みたいな根暗(ねくら)な部活が存在していてかつ、活動しているのか?」

 雄大は大学での部活動のことを思い出すとどきっとした。

 (よみがえ)ってくる風景。

 たった五人しか部員のいない第二生物実験室。

 真面目に目標に向かって活動をする部員の顔や声――

 支えてくれたかけがえのない仲間たち。そして、誰よりも自分のことを理解してくれた先輩。

 その顔を思い出す度にフラッシュバックする光景――――

 ああ……もう、思い出したくもない。

 胸が苦しくなる。息がしづらい……。

 なんで、なんであんなことになったんだ……!

 なんで彼女は…………


 死ななければならなかったんだ……?


 雄大は必死に息を整えて、ダズンに何の違和感も感じさせないように答える。

「……俺がいたのは生物研究会じゃないし、根暗でもない。鳥津(とりつ)には生物部はないけど、仮にあったとして別に生物教師が生物部の顧問をする必要はない。音楽の教師がテニス部の顧問をやってるくらいだ」

「そんなものなのか。文芸部の顧問が国語担当だから、顧問というのはその教科の教師がするものだと思っていたんだが」

 ダズンは雄大に買って貰った赤いリボンを結んだツインテールの毛先を(もてあそ)びながら話す。

「そういや、さっきリオちゃんが文芸部の会議があったって言ってたぞ。お前は行かなくてよかったのか?」

「ああ。私はいつもリオの書く物語を読むだけだからな」

「それって部活にいる意味あるのか……?」

 胸を張って堂々と言うダズンに疑問の目を向ける。

「そんなことはどうでもいいだろ。それより話があるんだ」

 今思い出したという軽い調子で言ったかと思えば、ダズンは途端に深刻そうな表情をする。

「……なんだよ」

 その表情を見て雄大は思わず息を()む。

「お前、あのことはもう知っているのか?」

 雄大にはその意図をすぐに理解出来た。

「……サグのことか」

「知っているのだな。なら話が早い。お前、今回の件をどう思う?」

 あまりに唐突な質問に雄大は少し戸惑った。しかし、答えることはそう難しいことではなかった。

「あのときと同じじゃないのか? サグではない誰かがサグを名乗って殺したいやつを殺す。あのときと違うのは、ターゲットが有名人の一年千都ちゃんだってことだけだ。有名人がターゲットってだけでこれだけニュースでも騒がれているけど」

「お前も随分、冷めたやつになったな。あの女のことはもうどうでもいいのか」

 ああ、なんでこうなるんだ。

 ああ……もう、思い出したくもない。

 それなのに……それなのに……!

「過去を悔やんでもどうにもならない」

 雄大は自分にそう言い聞かせた。

 この世界は常に一方通行だ。

 いつも何の保障もない日々を手探りに歩んでいくしかない。

 その先は光に満ちていても闇に包まれていてもどんな状況にあってもはっきりとは見えないものである。

 分かりきった事実は全部過去で変えることが出来なくて……。

 現実を突きつけられてまた、得体の知れない未来を信じるしか道がない。

 それがこの世に住む権利を与えられた者に課せられる義務。

「……それもそうだな」

 ダズンは少し言葉を詰まらせたように言う。

「いくら吸血鬼でも時間を戻すことなんて出来ないだろ?」

「まあな。せいぜい死にかけている人間を一人助けるくらいしか出来ないだろうな」

 かつて雄大も瀕死の状態のところを吸血鬼であるDC(ダカーポ)に助けられた。

 しかし、次に目覚めたときには雄大の身体は人間のものではなくなっていた。

「なあ、DCは今どこにいるんだ?」

「それは私にも分からない。彼女は私を作った親のような存在でありながら私自身でもある――つまり、私が存在している限りDCは存在出来ない。そんな気がするんだ」

「自分が自身の親って分裂でもしたのか……? いや、吸血鬼に人間の生物学を照らしあわしても無駄か。でも親と子が共存出来ないっていうのはおかしくないか?」

「……何か理由があるのかもな。私が彼女の顔をこの目で見た記憶がないだけで、どこかで逢っているのかもしれない訳だが」

 実際に見た記憶はないが、何故かDCの容姿はよく分かる。

 それはダズンがDCであるからなのだろうか。

 それとも何か他の理由があるのか。

 DCについてのことは雄大には勿論、ダズンにもよく分からないでいる。

「そうか……。お前でもDCのことは分からないか……」

「会いたかったのか?」

「ああ。こんな形になったとはいえやっぱり命の恩人だからな。あの日以来、姿を見てないし。たとえ、お前が彼女自身だったとしても抱いている想いが違う気がするんだ」

「なら私を犠牲(ぎせい)にすればいい。そういうことならしばらく姿を消そう」

 ダズンは平然としたまま淡々とそんなことを言った。

「なんでお前がそこまでする必要があるんだ。お前を犠牲にしてまで俺は逢いたくない」

「まあ、今すぐではないから安心しろ。それより、一年千都が吸血鬼信者を集めるって話、知らないか?」

 空気が悪くなるのを怖れてか、ダズンはあからさまに話題を変える。

「あー、なんか聞いたことはあるよ。それがどうかしたのか?」

「何故、吸血鬼を本気で信じる者が集まる程大勢いるんだ?」

「大勢いるかは知らないけどそれは多分、小説の影響だな。蒼咲(あおさき)リリってネット小説家がリアルな吸血鬼の日常を書いてるんだ。俺も読んでみたんだが、どこかで見られてたんじゃないかってくらいリアルでさ……」

 雄大は怯えたように辺りをきょろきょろ見渡す。

 隠しカメラでもあるのではと警戒しているのだ。

「そんなものがあるのか。で、奴らは集まって何をするつもりなんだ?」

「さあな。俺たちを殺しにでも来るんじゃないのか」

 馬鹿にしたように笑いながら雄大は冗談ぽく話す。

「それはまた無駄なことを……。まったく、人間というのはお前みたいな命知らずの(おろ)か者ばかりなのか?」

「そうかもしれないな。実際、死なんて一番自分たちとは無関係だと思って生きている奴がほとんどだろうから」

「生きている限り、死とは隣り合わせなのにな」

「まさか自分が死ぬなんて、その瞬間になっても人は気付きもしないんじゃないか?」

 雄大は実際に体験したからこその重みを持たせて話す。

 あのときもただなんとなく命の危機を感じただけで、死という感覚はなかった。

 そもそも死とはなんなのか、それはもしかすると誰も知らないのかもしれない。

「逆に生きているという自覚もするものじゃないけどな。いつ生まれたのかも分からない私は果たして生きていると言えるのか?」

 ダズンはどこを見るわけでもなく、(うつ)ろな視線を悲しげに落とす。

 気がついたら、そこにいた。

 今と変わらない姿であの場所に立っていた。

 自分が吸血鬼であることと、親に当たる存在が銀髪の少女――DCであること以外は何も知らない、分からない状態でダズンの意識は紅い目をしたツインテールの少女に宿った。

「そんなことを言ったら、俺はどうなるんだ。人間としては死んだようなものなのに、こうして今を過ごしている。生き返るなんて普通、有り得ないだろ?」

「その有り得ないことが実際に起きているんだろ。お前は異常なのか? ――吸血鬼は異常だと言いたいのか?」

「人間からすれば異常なんだろうな。俺も普通じゃないとは思ってる。でも普通じゃない=異常というのは違う気がする。限りなく近いものであることは間違い無さそうだけどな」

「そうか……。お前がそう思い続ける限り、DCには逢えないかもな」

 そう言い残し、ダズンは空気に溶け込むように姿を消した。

 玄関に靴を残したまま。

 雄大は、ふとベッドの脇に置かれたアルバムに目を遣る。

「なんであいつアルバムなんか……」

 重い表紙を開き、ぱらぱらとページをめくると幼き日の雄大と里桜の写真が何枚も現れた。

 今と変わらない明るくすっきりとした心からの笑顔の里桜と、生まれたときのままの無邪気な笑顔の自分が桜の木の下で並ぶ姿を見て、雄大は郷愁(きょうしゅう)にかられた。

 里桜はすぐそばにいるのに。

 さっき会ったばかりなのに。

 懐かしく思うのは何故だろう。

 これは里桜に対してのものではないのだろうか。

 この桜との思い出は里桜とのものが多かったが、決してそれだけではなかった。

 雄大が中学生になったばかりの頃はまだ、あの桜は呪われたものという噂は影も形もなかった。

 ただ一本だけが凛々しく堂々と、そして哀しげに天に向かって伸びているその場は町でも有数の花見スポットであった。

 雄大も新しく出来た友人と共に花見に行こうとしたこともあった。


 ――桜? そんな珍しいものでもないやん。

 ――うちが前に住んでた所も桜の名所やったんよ。ソメイヨシノがそれはもう綺麗で……

 ――でもうち、そんなみんなでこぞって見に行くものでもないと思うんよ。

 ――そんなんやったらうちは健気(けなげ)に咲いてるサクラソウ見てる方が良いわ。


 小さな一輪の花を見る目にかかる重い前髪。その横顔に少し癖のある黒髪が揺れている。

 典型的な関西弁で話す言葉のひとつひとつが雄大の心を暖かく撫でた。

 雄大はその素朴な少女に惹かれていた。

 雄大を郷愁に駆っていたのはそれであったらしい。

 ようやく気付いたと、雄大はすっきりとした表情を浮かべる。

 しかしそれは気付いたところでどうにもならない。

 あのとき、もう逢わないと約束したのだ。


 ――サヨナラ……なんだよね……。

 ――また逢おう……なんてわがまま、あたしは言わないよ。ユーダイのためだもん。

 ――今までありがと。ユーダイのおかげであたしは変われたんだと思うよ。

 ――あたしのこと、忘れないでね……っ。ずっと……友達なんだからね……っ!


 雄大の頭の中でぽろぽろ涙を流す少女の姿が映し出される。

 高校生になって急に変わりたいなんて言って髪を茶色に染めて、いかにも女子高生という出で立ちになり、口調も無理矢理変えて標準語に近付けようとしても、雄大の少女に対する想いは何も変わらなかった。

 そのまま何も変わらないまま別れを告げた。

 今になっても、想いも関係も何も変わらない。時間さえも止まったままで、何も変わらなかった。

 それは全て過去のことで今更変えることも出来ない。

 写真の中の笑顔溢れる幸せな世界は全て過去のこと。

 でも、それがあったことは何があっても変わらない事実だ。

 幸せな時間も笑顔も命とは違って、失ってもまた取り戻せるはず。

 きっと最悪の事態に気がついていればそれを未然に防ぐことは出来るのだ。

 未来なら、変えることが出来る。



 午後六時半。

 (ゆら)はいつものように夕食の支度をしていた。

 揺の両親は共働きで日付が替わってから帰宅することがほとんどだ。

 そのため、昔から家事や弟妹の世話は全て揺の仕事になっている。

 揺には妹が二人、弟が二人いる。

 その中で一番年上なのが中学二年生の妹――(とばり)である。

 中学二年生にもなると家事の一つや二つは普通は出来るものだ。

 しかしこの帷という少女はそれが何一つ出来ない。

 料理をすれば素材が跡形もなく消滅し、洗濯をすればありもしなかった汚れが出現する――というある意味、奇術的な才能を有している。

 それ故に揺は帷に家事を分担してもらうわけにもいかず、現在に至るまでその仕事を一人でこなしている。

 帷は今日も申し訳ない、情けないという気持ちを抱きながらも食卓に座ってテレビを見ている。

 見ていた番組がCMになったところで背を向けた揺に話しかける。

「兄者ー、IRUA(イルア)ってショッピングモール知ってますか?」

「あー、イチジョの近くの? そこがどうかしたの」

 兄妹の会話にしては不自然な敬語と素っ気ないトーンの声が小気味良く野菜を切る包丁のリズムと共に奇妙なハーモニーを奏でる。

「明日行くんですけど、行き方が分からなくて……」

「何しに行くんだ?」

「吸血鬼信者の集会があるんですよ。主宰者はなんと! あのひせちーなんです! すごいですよね!」

 帷の輝きに満ちた目は見えてはいなかったが、声の大きさやテンポに比例してテンションが上がっていることはよく分かった。

 しかしそれとは別に、帷が話をする途中で揺は野菜を切る手を止め、静かに口を開く。

「ひせちーって、一年千都のことだよな……?」

「はい! あの大人気アイドルの。トバリと同い年だとはとても思えないですよねー」

「……行くな」

 その揺の声は地を這うように低く、重く帷の脳に響いた。

「え?」

「明日、そこには行くな」

「なんでですか?」

 きょとんとしたまま平然と受け答えする帷が何を考えているのか揺には分からず、完全に手を止め、包丁を置き振り返る。

「トバリ、知らないのか……?」

「何をですか?」

 通りで変な訳だと一息つくと、揺は今から話すことは嘘じゃないという前置きをした上で話しだした。

「……一年千都に殺害予告が出されている。ニュースでも話題になってるだろ」

「え……知らなかったです、そんなこと……」

「だから明日、あの場所に行くのは危険だ。犯人は凶悪な殺人鬼かもしれないんだ」

 犯人はもしかすると一年前のあの事件と同一人物かもしれない。

 あんな恐ろしい事件の犯人がいるかもしれない場所に帷を行かせるわけにはいかないと、揺は真剣な眼差しで帷の幼く無垢(むく)な目を見て訴えかける。

「……いや、トバリ行きますよ」

 そんな揺の思いを振り払うかのように微笑みながらも強い口調でそう返す。

「なんで? トバリもただじゃすまないかもしれないんだぞ!?」

「兄者に心配も迷惑もかけることになるのは分かっています。でもトバリには明日、あの場所に行かなければいけない理由があるんです」

「吸血鬼信者の集会なんてどうでもいいだろ?」

「どうでもよくなんてないです!」

 それはとても真剣な叫びであった。

 こんな帷を揺は見たことがなかった。

 いつもいつまでも子供のように単純に笑ったり泣いたり怒ったりしていた帷の真剣で悲痛な叫び――。

 何か抱え込んでいたものが抑えきれずに言葉として外に解き放たれたような……そんな叫びのようだと揺は感じた。

「一体何があるって言うんだ……」

「ずっと黙っていたんですけど……トバリ、学校にお友達がいないんです」

「え……」

 そんなこと知らなかった。

 そんな素振り、見せたこともなかったのに。

 どうしてそんな大事なことに気がつかなかったのだ……?

 自分の不甲斐(ふがい)なさと悲しみに満ちた帷の顔が、揺の心を強く締め付けた。

「小学生の頃から引っ込み思案でクラスの人たちとちゃんとお話することも出来ませんでした。だからトバリはいつもクラスで一人ぼっち。頭も悪くてどんくさいし、ちっちゃいトバリはみんなに嫌われているんです」

 これ以上、言いたくなかったことをいらない勇気を振り絞って話す帷の声を聴きたくはないと、揺はもうやめてくれと重い空気を切り裂くように力強く言葉を放つ。

「それとこれになんの関係があるんだよ……」

 しかし帷は依然として話し続ける。

「この前、トバリがお昼に帰ってきたときがありましたよね。そのとき実は学校をサボっていたんです」

「なんでそんなこと……。それに学校からは何の連絡もなかったし……」

「トバリのことは先生も気にしていないんです。だから、いなくてもきっと……気付いてもくれていないです」

 帷は伏し目がちに俯きながらも、幼稚園児の工作のように不格好な笑顔を絶やさないでいた。

 その姿を見ると揺はますます胸が苦しく締め付けられるような思いになった。

 帷は自分によく似ている。

 臆病な自分にもクラスで一人ぼっちのときはあった。

 担任の教師も助けるだなんだということが無意味なことであるとよく分かっていて、不干渉だった。

 それでも思いつめることなんてなかった。

 それはいつもそばに親友がいたから。

 親友はいつもクラスの中心にいて、みんなの人気者でその上、先生からの信頼も厚かった。

 それなのに親友は自分なんかのことをいつも真剣に考えてくれていた。

 クラスが離れてもそれは少しも変わらず、教室で一人でいた自分のことなんて見て見ぬふりを決めていた先生のことを心から憎んでくれた。

 先生なんて、大人なんて……大嫌い――とまで言ってくれた。

 揺の親友――渡貫真子(わたぬきまこ)は自分の立場や地位、好感などは全て犠牲にして揺を護った。

 揺には護ってくれる存在がいた。

 だからこんなふうにはならなかった。

 しかし、帷にはその存在がいない。

 だからこんなふうに思いつめて、耐えきれなくなって、こんな顔をしなければならない状態になってしまったのだ。

 なんで今まで気付いてあげられなかったんだ……?

 揺はしばらく言葉を、全てを失ったように呆然(ぼうぜん)と立ち尽くしていた。

 一方の帷は自虐的(じぎゃくてき)な笑みを浮かべたまま、どんどん言葉を連ねてゆく。

「学校をサボったのはいいけど、どこに行くかなんてノープランでした。

 ただなんとなく駅の方まで行って、ぶらぶらしていました。そこでたまたまチトちゃんを見かけたんです。チトちゃんはマスクをした男の人とお話していました」

 揺より少し身長が高いとか、髪色は自然な焦げ茶色だとか……帷は千都と会話していた青年の特徴を事細かに説明する。

「トバリは悪い子です。二人の会話を聴いてしまっていたんです」

 とは言っても、青年の方はマスク越しであり何を話しているのかはよく分からなかったらしい。

「吸血鬼信者の集会のことを知ったのはそのときです。そのとき、集会をする本当の理由も聴いてしまったんです」

「……なんだったんだ?」

 ずっと沈黙を決めていた揺がようやく口を開いた。

「……友達が欲しい。あのとき雨が降ってきたんですけど、チトちゃんはきっと泣いていたのだと思います」

 そのとき帷は雨にしては不自然な流れを千都の頬に見出していた。

「トバリはびっくりしました。あんな大人気アイドルのチトちゃんに友達がいないなんて。……トバリと同じだなんて」

 帷はそれを知ったとき、辛いようで悲しいようで――僅かな嬉しさもあるような複雑な感情を抱いたらしい。

「トバリはチトちゃんの友達になりたいんです」

 そう言うと帷は立ち上がり、揺の目をじっと見た。

 揺からすれば立っていても座っていても目線の高さはほとんど変わらなかったが、帷の真剣や意志の強さはよく伝わった。

「だから明日、トバリはチトちゃんのところに行きます」

 普通なら友達を作るのに命がけになる必要なんてない。

 だが、揺は一人ぼっちの辛さを身にしみてよく知っていた。

 一人ぼっちのまま何日も過ごすことはもしかすれば死ぬことより辛いことなのかもしれない。

 命がけで友達を作ろうとする――その意味を揺は理解出来たのだ。

「……なら、俺も行く。いや別にチトちゃんと友達になりたいってわけじゃないけど。やっぱりトバリのことが心配だし、もともとIRUAには用があったんだ」

 しかしやはり心配なものは心配であり、大切な妹を危険な目に遭わすわけにはいかないと揺はあることを心に決めた。

「トバリのことは俺が護る」



 ネット世界というものは得体の知れないものだ。

 地球規模――いや、それ以上かもしれない莫大(ばくだい)な情報でその世界は構成されている。

 地球が生まれて何十億年――という想像も出来ない年月をかけて今の世界が成立している。

 しかしネット世界はたった数十年で今の世界を成立させた。

 その目覚ましい勢いで成長していく世界は衰えることを知らない。

 いつか地球が滅亡するなんて話をよく耳にするが、仮に地球が滅んだあともネット世界だけは生き続けているのだろう。

 誰も見ていないどこかで。

 一口に“ネット世界”と言ってもそれでは漠然(ばくぜん)としすぎている。

 掲示板やホームページ、ブログなどが世界を構成している。

 そのどれもが誰でも簡単に作ることが出来る。

 小学生でも中学生でも。

 そうして作り出された巨大な世界を誰もが小さな画面越しに享受(きょうじゅ)することが出来る。


 人はどこにいても人だ。

 人がいる場所に人は集まる。

 何があるわけでもなく、何をするわけでもなく。

 久々に活発になり始めた掲示板にも人は集まる。

 互いに姿形も声も分からない人々が同じ場所に集まる。


 ***

 »ウダウダさんが入室されました。

【どーも。ホンモノです】

〖こんばんは。〗

【ひせちーの件なんですけど……】

〖随分と唐突ですね。〗

【やっぱりあの事件の犯人と同一人物なんですかね】

〖まあ、そう考えるのが自然ですよね。〗

【でもあのときは予告なんてしていませんでしたよね?】

【そこがどうも引っかかってるんです】

〖それもそうですよね……〗

〖ワタシもそこ、気になってました。〗

【そもそもあの事件の犯人はサグのなりすましなんかだったんでしょうか】

〖周りが勝手にワタシたちを犯人に仕立て上げただけですからね……〗

〖あんな依頼の直後でしたから仕方ないのかもしれませんけど。〗

【あの依頼者はなりすましなんかすると思いますか?】

〖それもそうですよね……〗

〖やっぱり違う人なんでしょうか。〗

【それでボク明日、それを確かめようと思っているんです】

【実際にひせちーのもとへ行って】

〖名無しさんも行かれるんですか。〗

【もしかしてウダウダさんも?】

〖ワタシも気になるんで。あ、サクさんも行くらしいですよ。〗

〖あの人は個人的にひせちーのファンなだけらしいですけど。〗

【へー。じゃあ、ボクたちどこかで会うかもしれませんね】

【土曜日だから人多いし、遭遇率低いですけどw】

〖まず会ったところでどうするんだって話ですよね。〗

【ボクはウダウダさんがどんな人か気になるから会ってみたいですよ?】

〖別に普通ですよ。何の面白みもないと思います。〗

【それは会ってみて初めて分かることでしょ】

【じゃ、今日はこの辺で。明日出会えることを楽しみにしてますねー】

 »名無しの暗殺者さんが退室されました。

〖本当に別に何もないんですけど……〗

〖しかも多分明日、連れいるし……〗

〖困ったなあ……〗

 »ウダウダさんが退室されました。

 ***


 誰もいなくなった掲示板の一室には妙な余韻(よいん)が残っている。

『サグライダーの集い』にあるスレッドの中でも一番活発に動いているのが管理人たちのものである。

『サグ極秘会議』という中学生が付けたような安い名目のスレッドは、管理人たち以外が入って来られないようにわざわざ人数制限をかけてさらに、合い言葉まで設定してある。

 興味半分で侵入してみようとした者が前に合い言葉を入力してみたが、全く駄目であったらしい。

 そもそも数字なのかアルファベットなのかも分からないのに、むやみやたらにいろいろ試して解除しようとしても無駄であることは目に見えている。

 中を(のぞ)くことは出来ないが、現在何人が参加しているのかが分かる上、発言があると更新されて上部に表示される。

 それを見て、他の参加者たち――サグライダーは管理人の動きを確認している。

 勿論、管理人が誰なのかは誰も知らない。が、管理人=サグ本人であることは皆知っている。

 今回の事件のこともあって、サグライダーたちはサグの動きに敏感になっていて、何か動きがあるとその度に雑談スレッドで話をしている。

 彼らもまた、話題を求めて犯行が行われるであろう場所に向かおうとしている。

 ネット世界で知り合った者同士が現実世界で出会うとどうなるのだろう。

 お互いをお互いと意識しなければただの他人のままかもしれない。

 意識すればたちまち友人関係や恋愛関係にまで発展するかもしれない。

 また、実はもともと知り合いだった――なんてことになるかもしれない。

 ネット世界は虚構(きょこう)の世界だ。

 目に見えないものの存在の証明なんて出来ない。

 しかしそこで生まれた絆や関係は本物であるはずだ。

 虚構の世界を通して本物の関係を共有する。それが良いものなのか悪いものなのか。

 少なくとも出会う前と後では何かが変わるだろう。

 それまでの関係とは変わってしまうだろう。

 その未来を恐れて何もしないというのも一つの手だ。

 過去に(とら)われたままでいいのならそれでも構わないだろう。

 だが、人は人を求める。

 リスクを背負ってまで人を求める。

 人間というのはそういうものだ。

 いつか全て終わることを分かっているから、それまで幸せに暮らそうと人を――愛を求めるのだ。

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