#03 不変が変化する前
画面の向こうに広がる無限の夢幻空間。
文字通り、夢のようで幻のようで現実味がない。嘘や偽りで溢れている。
空間が無限に永遠のように広がっている。目の前の小さな枠組みの中に考えられない程の広大な世界が収まっている。人類は把握しきれない程の膨大な情報でできた世界を手のひらの中に収めることが出来た。
いや、逆だろうか。
手のひらサイズの小さな空間に人類は広大な世界を造り上げたのだろうか。
どちらにせよ現代を生きる人々は現実世界を生きるのと同時に、別のもう一つの世界――虚構の世界も生きている。
虚構の世界を生きることは容易いことではない。膨大な情報の中から真実を見極める必要がある。
純真無垢な単純思考の少女がそんな世界に触れてみると一体どうなるのか。どんな色に染まってしまうのか。
赤。青。緑。黄。――――黒。どこまでも永遠に続く闇の色。
虚構の世界に少女の人生は変えられてしまうのかもしれない。少女の真っ白い心はどんどんくすんでいってしまう。
――――いや、逆だろうか。
少女はその無垢さ故に色など持たず、何にも染まることなく虚構の世界に溶け込み、何処にでも現れ何処にも存在しない神出鬼没な何かになり果てる。そしていつしか虚構の世界だけではなく、現実世界まで変えていってしまえる超存在になる。
しかし、それは少女の気付かないうちに。
夢の中にも残らない幻のようで。
人間はいつか死を迎える。
いきなりそんなことを言われても戸惑うばかりだ。
しかしそれは避けることの出来ない事象。遅かれ早かれ、いつか人間は死ぬ。全員、一人残らず必ず。
死とは人間にとって一番遠くて身近なもの。
死に向き合うとき、それが必ずしも死期という訳ではない。若者でも死に向き合い、死について考える。第一、そんなことを考える若者は自ら命を絶とうとする者が殆どだが。
目の前に死を考える者がいたら貴方ならどうするだろう。
見知らない訳ではない、寧ろ良く知っているくらい。だが、話したこともない、会うのも初めての自分よりかなり若い少女が死について真剣に考えている。
いつも笑顔のきらきらしたアイドルだと皆が思っていたあの子が。
悩みなんて無いように明るく振る舞っていて。
それは全て嘘。偽りだった。
少女の人生そのものがまるで造り物のようであったらしい。
知らないうちに覚えなくてもいいことばかり覚えてしまって、大事なことは何も知らないまま。
知ることのないまま少女はその人生を終えようとしている。
死なんて考えたこともない楽観主義者の少年はただ笑うことしか出来ないでいた。
どんな言葉も少女には届きそうにない。
ただ憧れ続ける虚構でなければ。
八月二十五日、午後八時半頃。
パソコンの画面に向かって、ネット上のとある一掲示板で下らないことばかり話すという下らないことを日課とする下らない少年。……下らない少年というのは少し失礼だっただろうか。
趣味ネットサーフィンの高校生、進堂揺は夏休みであるこの約一ヶ月の間、毎日毎日パソコンの前に居座り、引きこもりのような生活を送っている。
話し相手の二人と自分の会話を眺めていると何故、こんなに何の価値も意味もない会話を繰り広げているのだろうかと疑問を抱いてしまう。
嘘や偽りばかり。真実なんて一つもない。何の役にも立たない。
「兄者~。ぴーしー貸して下せ~」
なんて無駄な時間の使い方だろうと嘆いていると、後ろからそんな気怠げな声が聞こえてくる。
子供っぽい綿雲のようにふわふわな声だ。
「あー、ちょっと待ってー」
揺は声のする方へ振り向くこともせずに生返事をする。
「兄者~。ぴーしー貸して下せ~」
「あとでなー」
揺は相変わらず生返事を繰り返したまま、画面の向こうの知らない誰かと下らない会話を続ける。
「あ~に~じゃ~、ぴ~し~」
それでも執拗に纏わりつくような粘着する声は耳障りに揺の耳に入ってくる。
綿雲ではなく綿飴のようである。
ロボットのように同じことしか言わないのでさらに苛立ちが増す。
「あー! もう、うるさいな!」
さすがに我慢の限界に達した揺は振り向いては、床に座る自分から少し上にある丸い幼げな二つの視線に自らの視線を攻撃的にぶつけた。
「毎日毎日ネットにはり付いて何が面白いんですか!? チャットばっかりして、やーっとぴーしーから離れたかと思えば今度はスマホでゲーム……。兄者は廃人なんですか? 引きこもりの廃人なんですか?」
やっと振り向いた揺を見て、揺の上の方の妹、進堂帷はさっきまでのローテンションとは打って変わり、兄妹なのにも関わらず不自然な敬語と共に一息に揺をまくし立てた。
「俺は引きこもりじゃないし、廃人でもないよ。失礼な」
「中学生のトバリがもう学校に行っているのになぜ、高校生の兄者がまだ夏休み気分なんですか!」
「気分じゃなくて実際まだ夏休みなんだけど」
「じゃあ、宿題はどうなってるんですか? 絶対終わってないですよね?」
「生憎、去りゆく者への手向けも迎え入れる者への歓迎の品もないんだよね」
揺は苦笑する反面、ラッキーだと嬉しさも共に表情に浮かべる。
揺は九月から新たな環境での生活を始める。
この七月まで通っていた高校を去ることにしたのだ。それは通い始めて僅か半年足らずでの決断であった。
その理由を揺は話したがらない。
仕事で帰りがいつも遅い両親に突然、学校を辞めたいと言うのは酷なことであった。勿論、理由も訊かれた。だが、揺はちょっといろいろあって……と言葉を濁した。
ただ、学校を辞めたいというのは高校生であることを辞めたいというのとは違った。
揺は辞めたいと告げた後に、転校したいと両親に告げた。
もう、行きたいところも決めていると。私立だから家計に迷惑をかけることは分かっているけど。でも、俺は行かないといけない。勝手でごめん……と。
今までに見たこともないくらいに真剣な眼差しに両親は圧倒され、転校を承諾した。
そうして昨日、揺は転入試験と面接を受け、見事に合格を勝ち取ってきた。……受からなければどうするつもりだったのか。
そんな揺にもといた高校も新たに通うことになった高校も課題を課すことはなかった。
おかげで揺の高校一年の夏休みは趣味を存分に満喫することができ、毎日毎日怠惰に日々を過ごしている。
「だから、トバリの心配には及ばないよ」
「ずるいです! 高校生ってこんなにだらしないんですか? マコちゃんもこんな感じなんですか?」
渡貫真子は揺の幼なじみの女の子。
中学までは揺と同じ学校だったが、この春から別々の高校に通うことになった。
それからは会うことも少なくなり、話すことは殆どなくなってしまった。何より、見かけても話しかけることが出来ないでいた。
――彼女は変わってしまったから。
帷たちも真子とは昔からの知り合いであり、揺たちが小学生だった頃はよくみんなで遊んでいた。真子の年の離れた姉が真子だけでなくみんなのお姉ちゃんのような存在になって、多忙を極める揺たちの両親に代わって面倒を見ていた。
――もう、かつてのようには遊べないのだ。
そんなことが頭の中を占めると急に悲しくなる。
一番辛いはずの真子でも悲しみなんて表に出さないのに。
心のうちにももうそんなこと秘めていないかもしれないのに。
「マコは……こんなんじゃないよ」
こんな俺みたいな――――ではない。
目頭が熱くなり、涙がこみ上げてくるのを必死に堪える揺。
「……どうしたんです?」
急にそんな顔をするものだから帷は心配になって、しゃがんでは揺の顔を覗き込んだ。
「な、なんでもないよ……。それよりパソコン、使うんじゃなかったの?」
揺は画面の向こうでの会話を切り上げてネットを閉じ、パソコンをホーム画面に戻して立ち上がる。
「あー! 忘れてたです、ありがとうございます!」
本来の目的を忘れていたとド天然ぶりを発揮し子供らしくあどけない笑みを浮かべてパソコンの前に座った。
「またあの小説か?」
「はい。『ボクが吸血鬼になってもワタシは永遠に変わらない』略して『Q&A』です!」
「いやタイトルは知ってるよ。トバリに何回も聞いてるから。でも、変わったタイトルだよな」
『ボクが吸血鬼になってもワタシは永遠に変わらない』
一つの文章に二つの一人称が使われていて、一人称が“ボク”の者か“ワタシ”の者かどちらの言葉か分からない。どちらのものでもないかもしれない。
「確か、兄貴の方が吸血鬼になったんだよな?」
「そうですよ? それがどうしました?」
「じゃあ、永遠に変わらないワタシって……。妹の方は普通に人間なんだろ?」
「はぁ……。これだから兄者は。何も分かってませんね」
信憑性のかけらもない小説に興味も関心もあるものじゃないと言っていた揺がぐいぐい訊き寄ってくるのが帷には奇妙であった。
しかし、揺はいつも帷が小説について話すのを嫌々耳に入れていただけなので内容はあまり分かっていない。
そんな揺を見ていると情けなくなり、思わず笑ってしまう帷。
「兄である宵が吸血鬼になってしまっても、妹のるかは変わらない――永遠に変わることのない愛を持っているってことですよ」
「深い兄妹愛の話だったんだな」
そう言うと、帷はまた分かっていないと溜め息をついた。
あれだけいろいろ話をしたのに内容をまるで理解してくれていない。
揺は本当に興味がなかったんだ。帷が楽しげに話していたこと全て。何から何まで。
画面を見つめる帷の視界が変にぼやぼやする。
涙。涙。涙――――。
それしか見えない。
小説サイトに繋ごうと検索するためにキーボードを打とうとしても指先の震えが止まらなくてちゃんと打てない。
「ん? どうした?」
揺に背を向けたまま小刻みに震える姿を見て、様子が変だと今度は揺が帷の顔を覗き込もうとする。
しかし、帷は顔を逸らした。
涙にしおれた顔を揺に見せたくなかったから。
「は、早く自分の部屋に戻ったらどうですか……っ。ドラスト、イベントなんでしょ……?」
「ここ、俺の部屋。それにドラストのイベントは昨日終わったしあれはスマホで出来るから」
「…………」
自分の考えていることを何も分かっていないように――いや逆に全てを見透かしているようにいつもの調子で話す揺の態度が何だか気に入らない。
自分の言葉が勘違いだらけであり、恥ずかしくて顔が赤くなる。
二言目を紡ごうにもまた同じように返されるだけだと思って何も言えずにいる自分にも腹が立つ。
悔しくてまた溢れる涙。涙。涙――――。
頭の中も心の中も、もうぐしゃぐしゃになって。今にも崩れ落ちそうだ。
「……じゃ、引きこもりじゃないことを証明するために散歩がてらコンビニにでも行ってくるよ。何か欲しいもの、あるか?」
「…………」
「そっか。プリンでも買ってくるよ。カラメルあんまり苦くないやつ。また小説読み終わったら話、聞かせて」
揺はそう言い残して部屋を出て行った。
また全部見透かされた気分になる。揺は何も変わらず笑顔で平然とそんなことを言う。
――分からない。
揺が何を考えているのか。何を思っているのか。何を知っているのか。
帷には何もかも分からなかった。
でも多分、それ程何も考えていないし、何も思っていないし、何も知らない。
それだけは分かった。
『Q&A』の本筋は兄妹愛の物語などではない。
――るかは宵に恋をしているのだ。
やはり揺は何も知らないし、それに気付こうともしない。してはくれない。
帷は手で涙を拭い、ネット小説のサイトを開いた。
吸血鬼とワタシ
これは八月の下旬のこと。
ワタシの夏休みは兄より早く終わりを告げた。
学校によって夏休みの始まりも終わりもばらばらだってワタシは最近知ったこと。兄の高校はまだ一週間も休みだというのだからワタシがずるいって顔をしかめるのもおかしくないはず。
いくらなんでも一週間も格差があるなんておかしいとワタシは思うのだ。
とは言ってもワタシも九月に入るまでは授業はお昼までで午後は自由に出来るわけだからまだ夏休みという感じは完全にはなくならない。
ワタシは友達も少ないので結局家で兄と過ごすこととなった。
それが何より一番楽しくて幸せだなんてワタシは誰にも言えない。
「お兄ちゃん、ワタシ、文化祭でメイド喫茶することになったんだ」
「メイド…………」
兄はメイドと聞いて頬を赤らめて恥じらっていた。一体、何を考えているのか。そんな兄もまた可愛くて、ワタシにはたまらないのだった。
「るかもメイド服、着るんだよな……?」
「もちろん。ちゃんと、お帰りなさいませ、ご主人様って言うよ」
「みんなに平等にご主人様って言うのか?」
「一応、お店って訳だからね」
そうワタシが言うと兄はしょんぼりしているように見えた。
「えっと、それじゃ……日常的にご主人様って言って貰うのは……」
恥ずかしそうに兄はそんなことを言うのま。
ワタシは思わず笑ってしまった。
あまりに兄が何も変わっていないから。
「……そういうことはちゃんとしたお嫁さんとでもどうぞ。ワタシはあくまでも月夜見宵の妹なんだから」
ワタシは月夜見宵の妹、月夜見るか。
逆に月夜見宵はワタシの兄であることに変わりはない。
変わりは――ないのだ。
「なあ、るかはいつまでボクの妹でいてくれるんだ?」
「え?」
兄は突然そんなことを口にする。
「ボクは今、高校三年生だ。るかは高校一年生」
兄は当たり前の分かりきったことばかりを口にした。
「じゃあ、来年はどうなると思う?」
「お兄ちゃんが大学一年生で、ワタシが高校二年生……だよね?」
普通に考えればそれで正しいはず。
でも答えは違うものだった。
「形だけはそうだ。るかはそれで正しい。でもボクは違う。もう知っているはずだ。ボクは来年も高校三年生。その先何十年も何百年も月夜見宵は高校三年生、十八歳のままだ」
そんなことを淡々と述べられてもワタシには受け入れることが出来ない。
ワタシも兄が吸血鬼になったことはもう分かっているつもり。
兄はワタシを守る為に命をも捨てる覚悟だったのだろう。
あのとき兄は果敢に車が走る道路へ飛び出して、ワタシの代わりに車にはねられたのだ。
どろどろと紅い血を大量に流して倒れたままびくともしない兄を見て、ワタシはただただ立ち尽くすことしか出来なかった。
そして抑えることの出来ない程に溢れる涙が滴り落ちる。
ワタシは訳も分からず助けてと必死に叫び続けた。
そのままワタシは気を失ってしまったそうだ。
次に目を覚ますと兄の部屋のベッドの上にいた。
ふと横を見ると信じられない光景が広がっていたのだ。
なんと兄が優しく微笑んでいたのだ。
どこにも傷一つなく、とても車にひかれたあとだとは思えないくらい元気な姿をして。
兄はどういう訳か吸血鬼となり、一命を取り留めたそうなのだ。
しかし、それをワタシはどうも受け入れることが出来ないでいる。
兄が吸血鬼だという証拠がどこにもないから。
兄はあまりに何も変わっていないのだ。
見た目という訳ではない。むしろ中身の方だ。
兄はいつまでも少年のようで、人間だった頃と何も変わらない。
それは、まだたった半年足らずしか経っていないからだろうか。
でもワタシは五年後も十年後もその先も兄は人間らしく何も変わらないでいるような気がするのだ。
だからワタシは――
「そんなこと関係なく、ずっと月夜見宵の、お兄ちゃんの妹だよ」
私がおばあさんになっても。
「……ありがとな」
兄は幸せそうに笑みを浮かべた。
兄はあまりにも自分のことを異質だと思いすぎているようにワタシは思う。
未だに血も吸ったことがないのに自分が吸血鬼だっていうなんて笑えてしまう。
吸血鬼というものが何なのか兄もワタシもよくは分かっていない。
だから今度、言ってみようかなと思う。
何かの節目として。
ここいらで人間と吸血鬼の区別をちゃんとつけておく必要があるとワタシは考えたから。
でも、きっと、吸血鬼も人間と共存出来るとも考えている。
だからこそはっきりさせたい。
だからワタシは言います。
「ワタシの血を吸って下さい、ご主人様」って。
八月の末、昼過ぎ。
この地域はただでさえ大都会と呼ばれている。その中でもさらに中心部にある大都会の街。
大都会の中の大都会。
どこを見ても人人、人。人人人人人人――――
背景に見えるビル群は皆、太陽光を反射させて嫌に輝いている。
人々の視線は大抵前に向いている。自分の進む方向へただ真っ直ぐとのびる煌々とした視線たちが目立っている。
大都会の駅前。時計台を囲むように設置されたベンチに座る一人の少女。
Tシャツの上に丈の長い薄手の半袖パーカーをふわりと羽織り、下はハーフパンツという夏らしい装いの中学生くらいの少女が不機嫌そうな顔をしてベンチに足を組んで座り、携帯電話をいじっている。
少し癖のあるショートカットの髪を弄んでは、ふてぶてしそうにMP3プレーヤーを左手に持ち、右手に持った携帯電話と同時に器用に操作し始める。
誰かを待っているように見えるが、携帯電話の画面を見ては苛立ちを表に出している。
「ちっ……チトにゃん!?」
そんな少女の目の前に立っては目を輝かせ、珍しいものでも見たように青年はマスク越しでもよく通った大きな声を張り上げる。
「にゃ……にゃん……?」
驚いて“ちゃん”と言うべきところを噛んで“にゃん”と言ってしまったのだろうと少女は解釈した。
第一、自分の姿を見て驚かれる謂われは少女にはないのだが。
機嫌の悪い少女は別に青年に何を思った訳ではないが、上目遣いで睨みつける。
「チトにゃん……一年千都ちゃんだよね?」
息を整えて言い直したと思えばまた“にゃん”と言った。
(……素だったんだ)
「そうですけど……」
少女の名前は一年千都。
五年程前にとあるドラマに子役として出演し人気を博した。
最近では三人組アイドルグループを結成して歌手として活躍する一方、朝の情報番組に出演するなど多方面で活躍している。
つまりは立派な芸能人。有名人だ。
「よく分かりましたね」
千都は変装をしていた訳ではないが、普段テレビに出演するときは服装は制服で髪もきちんと整えている。
その姿と今の千都の格好はかなり違うものなのだ。
「いやオーラから違うよ、チトにゃんは。だから僕くらいになると分かるんだよ」
青年は鼻高々にそう言う。
「あのー……」
「ん、何?」
「その、にゃんってなんですか?」
千都はずっと気になっていたことを率直に問う。
「何……って言われると説明が難しいなー……。うんそうだ、愛称みたいなものだよ」
一応は有名人であり、愛称はいくつかあるが“チトにゃん”なんて呼び方は初めて聞いたらしい。それに特に猫好きという訳でもない。どちらかと言われれば犬派っていうくらいだ。
「なんでそんな腕時計越しにしか見えない感じになってるんですか。妖怪のせいですか?」
「あ、やっぱりチトにゃんもそういうの好きなんだ」
有名人とはいえ千都も普通に中学生だ。
特別、流行りに疎い訳でもない。
「別に好きって訳じゃないですよ。事務所の先輩が声優としてアニメに出演しているんですよ」
「チトにゃんも将来は声優志望?」
「…………」
青年があまりにしつこく絡んでくるので千都は一度しかとを決めてみる。
「ねえ、何聴いてるの?」
しかし、しかとの効果も虚しく青年は全く折れることなく千都のMP3プレーヤーを覗き見る。
「『ふたりのマニキュア!』かー。懐かしいねー。僕も結構好きだったよ」
「あれ、小学生の女児向けのアニメですよ。あなた、五年前は小学生でも女児でもないですよね?」
気持ち悪い……。と小さく呟き、千都はその場を立ち去ろうとする。
「どこ行くの? 誰か待ってるんでしょ?」
青年がそう問うと千都は顔をしかめた。
「……あたし誰も待ってませんけど」
「じゃあこんなところで何してたの?」
「別にここでやらなければいけないことじゃないですよ。ただ事務所にいるのも家にいるのも嫌だったのでここにいるだけです」
昼過ぎの大都会に有名人である千都が何の変装もせずにいるのは不自然なことである。
言い草から察することは家出であったが、それにしては軽装すぎる。千都の持ち物は小さなポーチに収まる範囲のものに限られている。せいぜい貴重品くらいだろう。
そう考えるとますます怪しくなってくる。
千都は一体、何をしているのか青年にはさっぱり分からない。
「あなた、蒼咲リリ先生をご存知ですか?」
千都は青年に唐突にそう問う。
「ああ、知ってる。ネット小説家で結構有名だからね」
蒼咲リリは『ボクが吸血鬼になってもワタシは永遠に変わらない』の作者。
通称『Q&A』は多くの吸血鬼信者を産み、ネット上では既に社会現象になっている。
「でしたら話しても大丈夫でしょうか。あたしが何をしているか」
千都は再びベンチに座り、MP3プレーヤーの音楽を切ってイヤホンを外す。そして、真剣な表情を決めて青年を見る。
青年は思わず息を呑んだ。
「あたし、嘘ついていました。ごめんなさい」
そう言うと千都は青年に向かってお辞儀する。
「強いて言うなら待ち人はいます」
「……誰?」
「月夜見宵」
その名を聞いて青年ははっとした。
その名を持つ者は、普通に考えると待っていても絶対に会うことが出来ないのだから。
月夜見宵は蒼咲リリの小説の中の登場人物の一人で主人公に値するキャラクターだ。つまりは、現実には存在しない。
「えーっとチトにゃん……? それは一体どういう……」
「待っているというより捜していると言う方が正しいですかね」
「いやだからそういうことじゃなくて……。捜しても見つからないと思うよ……多分」
「分かってます。一人で捜しても埒があかないことくらい。だからあたしは計画を立てるんです」
千都は青年に携帯電話の画面を見せる。
青年はどきっとした。
画面に映し出されていた文字は青年の想像を絶するようで、きっと誰もが考え得る内容であった。
暇人ばかりが集まる夏休みのネット掲示板にでも冗談半分で書かれていそうな。
「“吸血鬼を信ずる者は集結せよ”……?」
「はい。あたしは吸血鬼信者を集める計画を発足させるつもりなんです」
計画の内容はとても簡単で分かりやすいものであった。
『全ての吸血鬼信者に告ぐ。
九月四日、土曜日午後三時に一塚前駅前のショッピングモールIRUAに集え。目的は同志なら分かるだろう。 一年千都』
「目的って、吸血鬼を捜すためだけに人を集めるの?」
「……いえ」
千都は口を噤んで下を向く。そして携帯電話を握りしめたまま動こうとしない。
「何か他に目的があるんだ」
「あってもあなたには、言いたくありません」
「なんで!? 僕、なんか悪いことした!?」
冷たくあしらわれ、一体自分が何をしたのかよく考えてみるが全く落ち度が見当たらない。千都に訊いてみても答えてくれず、青年はどうしたものかと頭を掻いた。
「いいえ、特には。あなたは悪くはありません。でも、あなたに言っても無駄だと思うんで」
「まあそう言わずにさ。話すだけ話してみてよ。言いにくいことかもしれないけど僕、絶対誰にも言わないから!」
「信用なりませんね。第一、あなただけに話すくらいなら日本中の人に一斉に話す方がまだましです」
人を小馬鹿にしたような口振りで千都は青年が傷つくであろう言葉を並べる。
「チトにゃんって案外毒舌なんだね……」
いつもテレビやステージで見てきた千都とは正反対というくらい性格が違い、戸惑いを隠せずにいたが、受け入れようとしていた。しかし、毒の塗られた鋭利な言葉たちの威力は凄まじく、あっという間に心が折れてしまう。
「いつも馬鹿みたいににこにこしているとでも思ってましたか。全部お芝居ですよ」
「本当のチトにゃんは……一人の普通の女子中学生の一年千都ちゃんは笑わないって言うの?」
「…………」
千都はまた口を噤む。
何も考えていなさそうな脳天気な青年にある意味核心を突かれてしまったのだ。
普通の――いない。
普通の女子中学生――いない。
普通の女子中学生の一年千都なんて――――。
「……あたし、普通なんかじゃ――ないですよ」
千都は俯いたままぼそっと呟く。
「あたしが普通の女の子なら、こんなことしません」
俯く少女の脇を夏らしくないひんやりとした風を吹く。
昼過ぎで賑わう街には親しい者同士が肩を並べて楽しげに歩く姿が多く見受けられる。
「逆に普通じゃないからこんなことが出来るんですよ」
急に雲行きが怪しくなる。瞬く間に太陽は雲に隠されていく。
辺りが暗くなったことに気付き、街にいる者は皆、慌て出す。
天候の変化に気はとられても、街という舞台に立つ者たちは決して脇目なんてふらない。
自分だけ、身内のことだけしか見えてはいない。
「凄く遠回りですよ。こんな大がかりなこと、普通ならする必要ないはずです」
暗い雲が空を覆い、今にも雨が降り出しそうな顔をしている。
それでも少女は平然としていて、俯いたままベンチに座っている。
軽装の少女は勿論、傘なんて持ってはいない。
それを心配する者なんていない。
皆、自分のことだけで精一杯だから。
誰か知らない者が一人でいても、大抵の者は目にも留めない。
偶然、視界に入って認識したとしても、誰かを待っているのかと勝手に解釈して解決してしまう。
誰も、誰も誰も誰も誰も誰も――他人になんて興味がない。
一人ぼっちでいたって構わない。気にしない。気付きもしない。
「こうでもしないと、あたしに友達なんて出来ないでしょ……?」
「兄者ー。兄者はるかちゃんみたいな子、どう思いますか?」
授業が午前中までに終わり、制服姿のままリビングでプリンを食べる帷が揺に向かってそう問う。
「るかって、あの小説の女の子だよな。どうって言われてもな……」
「昔から人間には興味ないと言って友達もあんまりいないのに、兄である宵だけには心を開いている……。そういうの、どう思いますか?」
帷はプリンをそれは特別美味しいのかと思わせる程に幸せな顔をしながら口に運ぶ。
「でも結局、その兄貴も人外だからなー……」
「るかの宵に対する思いは、宵が吸血鬼になる前からのものです!」
「じゃあ、るかは心を開いた者をみんな人外にしてしまうっていう能力を持っているのか!?」
「え! なんですかその新設定! 最新話にもそんなこと書いてなかったですよ!!」
揺の勝手な想像を真に受けるほど単純な帷。
つい数日前に揺と一悶着あったが、今はもうけろっとしている。
苦いものが苦手な帷にカラメルが甘めでしかもホイップクリームまで乗ったプリンを買ってきたのが余程効果があったのだと揺は安心して微笑む。
「なに笑ってるんですか、早く教えて下さいよ新設定!」
「あーあれ、俺の想像。ごめんな。でも、帷がいつも通りで良かったよ」
「もー、なんですかそれ!」
帷は頬を膨らませしかめっ面になる。
「相変わらず、トバリは子供のままだよな」
「そんなことを言っていられるのも今のうちですよ~! 見ている間に兄者なんて越してしまいますから!」
帷は胸を張って腰に手をあて堂々とした姿で立つ。
しかし、その姿は制服こそ着ているから中学生だと認識されるものの、身長は百四十センチメートルあるかないかくらいで全体的に細く弱々しく脆そうで、顔立ちも幼い。
まったく、十四年も生きてきた形跡がどこにも見当たらない。
これから成長期が来るのかもしれないが、男子である揺の身長を越すことはまずありえない。
「身長は……まあ、置いといて。頭の方はどうかな」
「それは……。と、トバリも頑張ってます!」
「この前のゼミのテスト、なんて書いてあったっけ」
揺は意地悪そうにそう問う。
「……小学校中学年レベル…………」
帷は恥ずかしそうに頬を赤らめ俯く。
「中学生じゃなくて中学年って一体、人生経験値をどこにやったんだよ」
「か、神に売りました……!」
「神って……。で、代わりに何が手に入ったんだ?」
「先払い式なんでまだ何も……。でも、きっと何か良いものが来るはずです!」
「詐欺じゃなければいいけどな」
「神様は詐欺なんてしません」
帷は根拠のない自信を自信満々に言う。
「トバリとるかちゃんって、似てるよな」
帷はえっ、という顔して目を丸くしている。
「それってどういう……」
「ほら、トバリもあんまり友達いないし、るかちゃんもどこかに子供っぽさがあるだろ?」
「……ああ、そういうことですか」
揺の言葉が思っていたことと違っていたので帷は落胆した。
共通点はそこだけでは……ないのに。
「まあ、るかちゃんの方は頭は良いらしいけどな」
「トバリもるかちゃん、いやマコちゃんくらい賢くなって見せますから!」
「マコは天才だからトバリには無理かもなー」
揺はマコの名前が出ると途端に生き生きとしだした。
そんな揺を見て帷はこんなことを問う。
「兄者が鳥津に転校するのはマコちゃんのそばにいたいからですか?」
「……そういう訳じゃないって」
揺は照れ笑いして答える。
「でもだったらなんで転校なんてする必要が?」
「……今の学校に居続けられなくなったんだ」
「なんでですか?」
「……うっさいな…………」
揺は急に態度を変え、帷を冷たくあしらう。
「悪いことしたんですか?それで退学になったんですか?」
「違うって言ってるだろ!? しつこいんだよ。俺が転校する理由なんてどうでもいいだろ?」
いつもと様子の違う揺に帷は怖れを抱き、腰を抜かして壁にもたれ込んでしまった。
帷は今にも泣きそうな顔をしている。
「どうでもよくなんてないです。何の理由もなしに転校なんて……お母さんとお父さんに迷惑かけているの、分からないんですか!」
帷は必死に訴える。
「理由は……ちゃんとある」
「何なんですか……?」
「それは……まだ言えない」
「なんで……?」
「今言ったらトバリにも迷惑かけることになるからな」
「トバリは構いません。迷惑だなんて思わないです。だから教えてくれますか……?」
帷は涙を堪え、真剣な眼差しで力強く言う。
「……分かった、話すよ。でも、これ以上関わるな」
そう言って揺は転校を決めた理由を全て話した。
「……そういうことだったんですか。兄者は優しいですね」
理由を聞くと帷は納得したようで、安堵の表情を浮かべた。
一方で複雑な感情も芽生えていた。
揺は何も変わらない。変わってはくれない。
大都会の中の大都会の街には雨が降り始めてきた。
天気予報でも雨だなんて言っていなかったものだから、街にいる大抵の者は傘を持ってはいなかった。人々は慌てて屋内に避難していく中、一年千都と大学生の青年だけは屋外にいたままである。
「あ……雨降ってきた……。チトにゃん、とりあえずどっか入ろ?」
青年が声をかけても千都は動こうとせず、ベンチに座って俯いたまま雨に撃たれている。
「チトにゃんも風邪、引いちゃうからさ」
青年は千都の手を引き、駅の構内に連れて行く。
「……なんであたしの心配なんてするんですか……」
千都はポーチからタオルを取り出し、身体を拭いた。雨が降る前から濡れていた頬は特に念入りに。
「それは、僕がチトちゃんの友達だからかな」
千都は青年の言葉に困惑した。
冗談で言ったわけではないということはよく分かったが、どうすればいいのか分からずにいた。
「チトちゃんに友達がいないなら、僕がなってやる」
「嫌です、やめてください」
即答だった。
千都は青年からの友達申請をあっさりと拒否した。
「なんで!?」
絶対に喜んで貰えると確信していた分、あまりにきっぱり拒絶された反動が大きく、心底傷ついている。
「あなたそもそも誰なんですか。どこの馬の骨……いや遺骨か知りませんけど」
「遺骨!? 僕、まだ死んでないよ!?」
さらにそこに猛毒の塗られた槍が飛んできて、傷口がえぐられるように精神攻撃に苦しめられる。
「じゃあ、死んでください。楽になりますよ。サグにでも殺されてきてください」
「チトにゃん、サグとかも知ってるんだ……。とりあえず、リアルだからやめて」
「じゃあ、吸血鬼に血を吸われて死んでください。リアルじゃないでしょ?」
「普通に考えたら冗談だと思うよ。でもチトにゃんが言うとね、急に現実味帯びちゃうんだよ、分かる?」
千都はものの三十分程前に青年に吸血鬼信者を集めるという計画を練っていると打ち明けた。
勿論、千都も吸血鬼信者の一人である。
吸血鬼に関する一般論は、血を吸う怪物か妖怪の一色だ。
吸血鬼を信じる者からすれば、吸血鬼に血を吸われて死ぬということは、普通に人間に刃物で刺されて死ぬということとなんら変わりはない。
「とにかく! 勝手に僕を殺すルートに持って行かないで!」
青年の泣き言には耳も傾けずに千都は
(あ、でも吸血鬼に血を吸われて死ぬなら本望じゃん……)
と、ふと心に思う。
「やっぱり、羨ましいんで駄目です。死なないでください」
「え、本当に!?」
青年は千都に優しくされたと思い込み、目をきらきらさせる。
「生き地獄で苦しんでください」
天にも昇る気になっていた青年は一瞬にして地に叩きつけられる。
「酷いっ! チトにゃんやっぱ酷い!!」
「あなた本当に女々しいですね。あたしよりあなたの声の方が酷いですよ」
マスクをした青年の声は酷くかすれていて、普通の話し声は正確に聞き取るのがやっとである。
「いや、風邪引いちゃってさー。この時期の風邪って喉にくるし長引くし……。ホント最悪だよ!」
「じゃあ家で大人しくしていたら良かったんじゃないですか。雨に撃たれたし、もっと酷くなっても知りませんから」
「うわ……困るな……。声出ないとかなりマズい……」
「ほら、早く帰ってください」
ずっとどこの誰だか分からない、顔も半分隠れた青年と二人きりで話をするのにも千都はそろそろ疲れはじめてきた。
早く終わりにしたいと、青年の身体を気遣うふりをして追い返そうと試みる。
「いや、まだ帰れないな。チトちゃん、これからどうするの?」
「え?」
「家にも帰りたくない。事務所にもいたくない。その軽装じゃ家出って訳でもないでしょ? じゃあ、こんな街まで来て何の用事もないチトちゃんはこれから何をするつもり?」
千都は青年に全てを見透かされたような気持ちになり、青年のつかみ所のない目を見る度にどきっとした。
「…………」
「黙ってても無駄だよ?」
千都は隠したくて黙っているのではない。
さっきまで馬鹿みたいだと軽視していた青年の雰囲気が突然変わり、千都の中での青年への意識も変化し、喉に何かがつっかえたようで声が出ないのだ。
「今時の中学生って、案外いろいろ悩んでるものなんだね。もっと世界を楽観視してると思っていたよ」
「……あ、あたしの見ている世界に光が無さすぎただけです」
千都は微かな声で細々と呟く。
「そうなのかね。僕はアイドルの世界ほど輝いているものは無いと思うんだけど」
「それ以上に闇が多いんです。どこまでも続く深い深い闇が」
今から五年ほど前。
演技なんてまだまだド素人同然だった弱冠八歳の新人子役の少女のもとに、とあるドラマのオファーが舞い込んでくる。少女にとって初めてのドラマ出演であった。
緊張や不安、そして好奇心で胸が高鳴った。
どきどきがおさまらないまま台本をめくると、少女ははっとした。
台本に書かれてある物語が少女の歩んできた人生とあまりに酷似していたから。
少女は役を演じるということはせず、ただありのままの自分を振る舞った。
その姿を見た人々は、自然な演技だと思い込み、少女を絶賛した。
少女の人気はドラマとともに瞬く間に上昇し、ドラマ原作の映画にも出演を果たす。
その後、バラエティー番組や朝の情報番組にも出演すると人気は最高潮に達し、テレビで見ない日はないというくらいにまでなった。
最近では同い年で中学二年生の新人アイドル、鳴瀬歌音と春宮新菜との三人組アイドルグループを結成し、今までとは違った活動も始めている。
どこにも闇なんて見当たらないように見えるのだが…………。
「そういや、カノンとニーナは友達じゃないの?」
「彼女たちはあたしにとってはただの仕事仲間です。仲良くなんてちっともないです」
「なんかショックだな……。それで三人で仲がいいふりをするのが嫌になったから何もかも終わりにさせようとしているの?」
「それだけじゃないですよ。もうなんか全部が嫌になったんです。あたしの生きている意味ってあるんでしょうか」
「無いと思うよ」
青年は平然とそう答える。
千都もえっ、と絶望に満ちた目をして青年を見る。
「誰も生きることに意味なんてないよ。そんなこと、考えたら駄目だよ」
「そんなものなんですか」
「だからってすぐに死んで良い訳じゃない。絶対に悲しむ人がいるから。少なくともチトちゃんが死んだら僕は悲しむよ」
「……知らないですよ。あなたが悲しもうがあたしには関係ないです」
「僕は気付いてほしいな。愛してくれる人がいるってこと」
青年はポエムチックな言葉を連ねてゆく。
「僕はチトちゃんを死なせない」
「え…………」
「友達を作っても、チトにゃんがいなくなったら意味ないよ」
そうして青年は振り返り、立ち去ろうとする。
「あなた、結局誰なんですか?」
千都が尋ねると青年はにやりと笑った。
「僕はチトにゃんのファンだよ。ただのファン」
青年はそう言い残して立ち去った。
言いたいことだけ言って立ち去っていった青年は一体何者だったのだろうか。
顔も半分隠れていて声も酷く枯れており、素性が全く掴めない。髪型や服装にもこれといった特徴もなかった。
ただ、青年が普通とは違うような感じがしたらしく千都の頭から離れずにいる。
何をしようとしてもあのがさがさの酷い声が蘇っては邪魔をして気を散らしてくる。
千都は仕方なしに家に帰った。誰もいない、もう絶対に誰も帰って来ない、一人ではとても使いこなせないくらいに広く、一際目立つ――外観とは裏腹に暗い暗い静かな家へ。
そうして自分の部屋――とかつては決められていた一つの部屋にこもって一人、うずくまっては涙を流す。
「あたしを愛してくれる人なんて……」
千都を取り巻き纏わりつく闇は永遠に消えない。ずっと嫌に黒光りしている。
それは何があっても変わらない。変わってはくれない。