#02 夢
午前六時。気付けばもうこんな時間だ。時計が百八十度回転している。眠ることを知らない街と共に夜を明かした。もう、何回目になるか。
この街での夏は夜でも暑い。熱帯夜で寝ようにも眠れない日々が続く。
仕方無しに少女は机に向かう。
夏休みの最後の夜を迎え、気分も改まり一眠り出来るかと思っていたが、そうはいかない。夏休みは終わってもまだ夏は終わりそうにない。
夏期休暇課題が終わっていない訳ではない。それなら七月中に全て終えている。学校へ行く支度ももう済ませてある。
少女は対称的に充電満タンのノートパソコンを開き、何か文書を造り始める。初めは誰も信じてくれなかった嘘のようなことを。
早寝早起き、規則正しい生活がモットーの田舎町の伝説を――
そんなことをしていると、また眠らない街と共に朝を迎えることとなる。
少女は睡眠不足だと感じてはいつも後悔する。本当は熱帯夜が原因で眠れない訳ではない。寝ようと思えば眠れるのに。そして、自分が異常なのだと実感する。
ずっと隣に寄り添っている友達も、きっと大好きなあの人も、眠ることのない街を眺め、夜を過ごしていたはずなのに。
そうやっていつも何も感じない者を羨んで、少女は人間という生き物を忌み嫌う。
何故、人間は命に限りがあるのか。何故、その命の灯火が消えるまで精一杯一生懸命無駄にあがき続けるのか。何故、夢や目標を持って努力するのか。どうせ、いつかは終わるのに。
やり直しの効かない、失敗すればそれまでかもしれない。
――初めからやり直せばいい。
そんなことすらかなわない。
人間は儚いし惨めだ。人間のすることは冷酷で非情だ。
だから私は人間が嫌いだ――と。
――夢とは何だろう。
眠っている間に見ると言われているそれは一体何なのだろう。
目を瞑っても見えるのは暗闇だけ。どこまでも広がっているような真っ暗な世界。
それを人間は見るという。夢を見るという。
この街は夢で溢れている。眠ることの知らないこの街に。
目を見開いて真っ直ぐ見続ける夢が。
それはとても儚く、時に残酷だ。
しかし夢とは人間の生きる意味なのだろう。皆、夢を追いかけこの眠らない街にやってくる。少女もその一人なのかもしれない。――あいつは……逃げた、と言った方が良いか。
それとも、奴にもかつては夢があったのだろうか。
逃れることの出来ない永遠なる呪いは奴の夢を奪ってしまったのか。
――初めからやり直せばいい……だなんてそんなに軽々しく言って良いのだろうか。それが生きる意味だとしても。
でも少女は願った。それを叶えた。
誰かが夢を叶えると誰かが不幸になるのだろうか。
でも私は後悔しない。
少女の助けてと泣いた声を私は永遠に忘れることはないのだから。
また朝日がやってきた。今日もいつも通り一段と元気だ。実に鬱陶しい。
青年はベッドに寝転がり、カーテンの隙間から差し込む太陽の光を睨む。
青年と過ごして五年目のベッドは未だに青年を熟睡させたことはない。快眠という感情を抱かせない。夢を見せたこともない。
ありふれた普通のベッドは何も悪くない。
青年は普通に生活するために神経をすり減らす。普通というものを見失わないように。失った普通というものを再び見つけてもう永遠に忘れないように。
青年にとって何が普通だったのだろう。
仲間と笑顔で過ごす日常か、青春を謳歌することか、それとも夢を追いかけることか。
普通と呼ばれる何かを失った青年は、眠ることの知らない街に引き寄せられるかのように此処にやって来た。
訳もなく、理由も分からないままに、ただなんとなく。何かをもたらしてくれるのではと淡い淡い期待を込めて。
そして青年もまた誰かを引き寄せているのかもしれない。
青年は静かに目を閉じ暗闇の世界に夢を捜した。
普通のありふれた平凡を――
八月二十四日、朝六時。
時計の針と反比例するかのように朝日が昇っている。
大抵の学校は今日から新学期だ。
夜までは夏休みのような気分であったが、さてどこを境に休みは終わりを告げたのか。それは誰にも分からないし誰も気がつかない。ただ、朝が来れば新しい一日が始まる。そんな感じで人々は気持ちを切り換える。実際、午前六時の時点で一日の四分の一は終了しているのだが…………。
その六時間を睡眠以外のことで過ごす人間はごくごく少数に限られている。
大体の人間は睡魔と呼ばれる目には見えない魔物に襲われ、眠りにつき、夜を過ごす。
目に見えない脅威とは実に恐ろしいものだ。抗うことが出来ないのだから。実際、存在しているのか否か……人間はとりあえず何事もそういった実体のないもののせいにしたがる。
心霊現象だの、祟りだの、呪いだの――と。
呪われているから近寄ってはいけないと一本の美しい桜の木の周りは人気の無い場所へと変わってしまった。それでも毎年春が来ると健気に花を咲かせる。もう誰も見ることはないのに。
誰も近付かない。呪いが怖いから。死にたくないから。
桜の木に近寄った者は皆、命を落とした。理由は何であれ呪いという形で片付けられた。
桜の木は何も悪くないのに。――誰も何も悪くないのに。
何故、皆そういう風に考えるのだろう。
早朝、まだ霧がかかっているような時間にこっそり家を抜け出して桜の木を見に行ったことがある少女。とにかく綺麗――という印象を受けた。そして、自分以外にも同じように桜の木を見る者がいたことに驚いた。
故郷を離れて一年半。朝霧里桜は今でも毎日のようにあの桜の木のことを考えている。
自身の名前に桜という字が入っているからか昔から故郷の大きな桜の木を見るのが好きだった。それが呪われた木と言われていたとしても。
何と言われようが変わらず永久に美しい木が好きだった。
そして、あの桜の木をきっかけに彼女の人生は大きく変化を遂げたのだ。それだけではない。あの場所での出来事は里桜以外の者の人生にも影響した。それは今や、日本中にまで影響を与え兼ねないものになりつつある。
里桜は熱帯夜でなかなか寝付くことが出来ず、眠気が襲ってくるまで故郷で過ごした日々のことをパソコンの画面上に書き連ねていた。が、気がつけばもう朝になっていた。
また眠れなかったと溜め息をつき、制服に着替える。
里桜は何かに熱中すると睡魔が襲う隙も与えないくらい自分の世界に入り込んでしまう。一緒に住む友人がずっと隣で見ているのにも気付かない程に。徒に鳴り響く目覚まし時計の音でやっと元の世界へ還ってきた。
里桜はそんな感じで六時間を過ごしていた。
気が抜けたところで眠気が襲ってくる。何ともタイミングが悪い。
里桜は何度も欠伸をしつつ朝食に食パンを焼き、上にマーガリンを塗って食べる。
その後、寝癖もついていない髪をブラシで軽くとき、束ねてポニーテールにして最後に赤いリボンを結ぶ。
それが里桜のお気に入り。いつもの日常だ。
そんな里桜は朝はテレビを見ない主義だ。星座占いを見ることもなく、何ともつまらない時間を過ごすこととなる。
里桜の友人である久遠寺ダズンは退屈だといつの間にか先に家を出ていた。――音もたてずに。
里桜はふと彼女がいないことに気がつき、家を出た。慌てることなく“ああ、また先に行っちゃったか……”という具合に。
まったく、どうして彼女は私の友達になってくれたのかと思うときが里桜にはある。
里桜は幼い頃から一人でいることが多く、本人も独りでも淋しいとあまり思うことはなかった。
唯一と言っていい遊び相手である、いとこのお兄ちゃんという存在があったことが大きな理由だろう。
一人っ子である里桜にとっては本当の兄のようで、彼のことがとても大好きであった。それは今でも変わらない。
いとこのお兄ちゃんさえいれば、他には何もいらないとまで考える里桜に友達という存在はあまり必要ないように思える。本人もそう思っているのだから尚更だ。
だから里桜は何故、自分に友達が出来たのか分からずにいる。友達を作ろうと努力なんてしていないのに。
久遠寺ダズンという少女が何故、自分と友達になってくれたのか全く分からないのだ。
里桜が彼女と出逢ったのが他でもない、あの桜の木の下だ。彼女もまた、近付くなと言われていることを知っていながら桜の木を眺め、愛していた。
疎まれた桜を愛した二人の少女は友達になった。
ダズンは里桜とは対称的に良くも悪くも気さくな性格だ。普通に考えるととてもじゃないが里桜と馬が合うとは思えない。それでも彼女たちは一緒に暮らす程仲が良い。
高校進学を機に上京した里桜にダズンが勝手についてきただけなのだが……。
自分を変えたいと言うと里桜の両親は快く上京を認めた。生活費などの面も援助してくれている。
里桜は幼い頃から少し変わった子であったから、そんな自分を変えたいという意志を両親は尊重したかったのだろう。環境が変われば何か変わると信じて。普通の子になってほしいと。
実際、上京してから里桜は変わった。
高校に入ってからはダズン以外の友達もでき、至って普通の高校生ライフを送っている。
夏休みが明けた今は高校二年生の里桜にとっては丁度高校生活の折り返し地点を迎えたこととなる。進学校の為、そろそろ受験を視野に入れ始めている。
里桜が通う高校――私立一塚女学院高校は国内屈指の進学校であると同時に地域では有名なお嬢様校である。
里桜の家は決して裕福ではないが、ミッションスクールであり、神への信仰心を大切にする校風を大変気に入った両親が里桜に一塚女学院を勧めた。
里桜自身も学力は一塚に見合うだけはあり、特に嫌ということもなかったので通うことを決意した。
友人である久遠寺ダズンも足りない頭をどうにか埋めて一塚に通っているが、二人が登下校を共にしたことはこの一年半で数える程しかない。いつも彼女は先に家を出て、先に学校を出る。それなのに、学校に着くのも家に着くのも里桜の方が早いことが多々ある。
ダズンはよく寄り道をする。別にどこで何をすることもなくただ寄り道をよくする。都会には誘惑が多いと。
朝から一体何処に寄り道をするような場所があるのかと、普通ならそう思うかもしれない。しかし、里桜はそんなこと考えもしない。
何処に行ったなんてもう、選択肢は一つしかない。
里桜は小さく微笑みを浮かべ、真っ直ぐ駅へ向かう。
電車に揺られ約三十分。都市とは逆方向の為、朝の通勤通学ラッシュでも余裕で座ることが出来る。里桜は今寝てしまえばきっと寝過ごしてしまうと、三十分の間、寝不足の目をこすってまで読書をして過ごす。
一塚は大型ショッピングモールを構える郊外の中では大きめの駅のすぐ目の前にある。駅前に広大な土地を構えるあたり、いくら郊外とはいえ流石といった感じだ。
中庭を吹き抜ける風は季節を忘れさせる程に心地良く、爽やかな気分になる。
生徒たちも穏やかでおしとやかに優雅に過ごしている。
まさに、お嬢様。その言葉に尽きる。
里桜のように実際にはそうでなくても立ち振る舞いはもうそれそのものである。
入学当初はおてんばだった少女も半年もすれば見事に矯正されてしまうという。
それ程に一塚の教育は厳しくそして的確なのである。
勿論、問題児と呼ばれる者はどこにでもいる。――誰とは言わないが。
二年A組の教室に入ると疎らに数人が着席しているのみで、白い壁の教室には日光が差し込み、電気も付けていないのに充分に明るい。
里桜とダズンは同じクラスだが、ダズンはまだ教室にはいない。鞄も置いていないあたり、まだ学校自体に来ていないらしい。
やっぱりか、と里桜は席につき読書を始めた。
里桜の暮らすアパートから徒歩にして約五分程の場所にある八階建てのマンション。
その三階。如何にも大学生の一人暮らしという雰囲気のワンルーム。
ダズンはそこにいた。その部屋の中に不自然さを感じさせることなく。インターホンは勿論、音一つたてずに。いつもの定位置である部屋の隅にわざわざ窓を避けるように配置されたベッドに座った。
いつもならふわっと反発するのに、今日はあまり跳ねない。何か鈍い感じがする。
ふと横を見ると…………
「う……うわぁぁぁぁぁ!」
寝転がって携帯電話をいじっていた青年、五島田雄大は気がつくと横で座っているダズンを見て思わず大声をあげ、手を滑らし携帯電話を落としては、痛いとぶつけた額を押さえ起き上がった。
「何故、そこまで驚く? 私はお化けではないのに」
「いや、登場の仕方はアニメとかのそれだったぞ!」
「もう慣れただろ?」
「いきなり横に現れられたら慣れてようが慣れてまいが普通、驚くもんだ」
「へー、普通かー。お前の口からそんな言葉、また聞けるとは思ってなかったな」
ダズンは嬉しそうににやにやして雄大を見る。
「な、なんだよ……」
朝からツインテールの(一応)美少女に不敵に笑みを浮かべられ困惑する雄大。
「……よく眠れたか?」
不意にそんなことを問うてみる。答えは分かっていても。
「よく言えたな。お前に出逢ってから一度も快眠なんてしたこと無いよ」
最早、ベッドなんて必要ないとまで感じる程だ。寝転がっていたのもその姿勢がなんとなく楽な気がしたから。静かに眠ろうだなんて雄大は考えてもいない。
「私も快眠なんてしたことない」
それがまるで当たり前のように平然としている。そしてそれの何が悪いのかと言わんばかりに堂々ともしている。
「そうやって夜中まで騒いでリオちゃんに迷惑かけてないだろうな?」
里桜のいとこのお兄ちゃん――それが五島田雄大。この男だ。
誰よりも里桜のことを理解していて、誰よりも里桜のことを大切に思っている。里桜の両親よりも。
「私は何もしていない。だが……」
「だが、なんだよ」
「お前なら、言わなくても分かるだろ?」
そう言って座ったまま少し背伸びをして雄大と額を合わせた。よく目が合うように。
ダズンのその鮮やかな紅い目の奥まで透き通ったように彼女の記憶が雄大の目に映し出される。
そうして溜め息をついてこう言った。
「……やっぱり、リオちゃんらしいな。でも、ちゃんと睡眠とるように言ってやってくれよ? 人間には睡眠は必須だからな」
「分かっている。だが、夏は暑いから眠れないと言って聞いてくれないんだ」
「ああ……。都会の夏は、どうやら一筋縄ではいかないらしいからな」
クーラーつけても無駄なのかと雄大は苦笑する。
二人は顔を近付けたまま話を続けた。
目の奥は透き通ってお互いに何でも全てよく分かってしまう。隠しておきたいことも全て筒抜けになってしまう。でもお互いの体温は感じることなく、それどころかきっと火照っている自分自身の体温さえ解らないまま。
「ところで、今日は何をしに来たんだ?」
「星座占い、見に来た。リオは朝、テレビを見ていたら見入っちゃうからと言って付けてくれないからな」
ダズンは顔を離し、慣れた手つきでリモコンを取りテレビをつけ、お気に入りの情報番組のチャンネルに合わせた。
テレビに見入ってしまうと遅刻してしまうと里桜は言うが、ダズンにとってそれは関係ないといつも不満そうにしている。
「まあ、そうだと思ってたけどな。今日、何かあるのか?」
ダズンが星座占いを見るために雄大の家を訪れるときは決まって何かがあるときであった。体育祭などの大きな行事から席替えなどの小さな行事までそれは様々(さまざま)である。だが、そのどれもが学校での行事であることは間違いなかった。
彼女にとって今のように普通の学校生活を送ったことは初めてであり、どんなに些細な行事も大切にしようとしている。一生のうちのほんの刹那の時間の思い出も永遠に忘れないように。
「……小テスト、数学の。今日こそリオに勝ちたいんだ」
「さらに小さい行事だな……。いやでも新学期の初日からテストとはなかなかの鬼畜ぶりだな」
「本当にあの教師はまるで人間ではないみたいだ。あれはきっと、鬼だ」
普通に考えたら有り得ないだろと雄大な苦笑いする。鬼が教師なんてやるはずがないし、想像もつかない。考えただけで笑われてしまいそうだ。
「でもリオちゃん、数学は苦手なはずだけど」
「私も嫌いなんだよ。何故、日本で日本語以外の言語を教えるんだ? 0とは何なんだ」
「その次元からなのか……」
雄大は呆れた様子で頭を抱え、テレビに夢中になるダズンの背を見る。そうして、0とは何なのかと少し考えてみる。もしかすると、ダズンが考えていることは普通の人間が考える0の概念よりもっと深く、より哲学的なものなのではないかと思い始めた。
その高校生にしては少し小さな背中にどれだけの歴史と知識があるのかは分からない。多分、そんなに深いことは考えていない。数字を言語と思っているくらいなのだから。
「ていうか、その感じだとさては英語も嫌いだな? 久遠寺ダズンとかいう大層な如何にもハーフって名前しておいて」
「うるさい。人を名前で判断するな」
ダズンはちらっと後ろを向き、雄大をその鮮やかな紅い目で睨みつけた。瞳孔まで充血したように深い紅色の目は常人のものより幾分も威圧感を与える。
そんな視線を浴びても平常心で笑顔のまま対応する雄大。
「悪かった悪かった。まあ俺はお前の名前、良いと思うけどな」
「なっ……。いきなり何を言う……馬鹿者が」
ダズンは頬を薄く赤らめてはまたテレビの方を向き、真剣ながらあどけない眼差しを画面に向けた。
ようやく、待ちに待った星座占いが始まるとダズンは、待ってました!と子供のようにはしゃいだ。
十一位から順に二位までの星座が一言アドバイス付きで発表されたが、どうやら彼女の星座はまだらしくリアクションをとらない。
「そういやお前、何座生まれなんだ?」
ダズンはよく星座占いを見るが、よく考えると彼女の星座を知らなかったと、ふと聞いてみる。
「強いて言うなら……お前と同じ牡牛座だな」
「なんだよ、強いて言うならって」
「まあ何でもいいだろ」
よく分からない。雄大にはよく分からなかったがきっと言えないことなのだということは分かった。あの透き通った紅い目の奥に隠されたことは。知ってはいけないと思うと、目にフィルターがかかったように見えない部分が出来る。全てを知ることは大きな罪なのだ。
残る星座は牡牛座と獅子座。ダズンが一位を祈っていると、先に牡牛座の名が発表される。そして否定的な言葉が並べられ、最後にラッキーアイテムなるものが告げられる。それと同時にうなだれる少女の背中がそこにはあった。
「はぁ……。まあこんなものは信じるものじゃない」
あくまでポジティブシンキングなダズン。占いは良い結果しか信じない。
「なんだろう、物凄い巻き添えを食らった気分だ」
心無いアナウンサーのごめんなさいの言葉に別に占いなど信じていないつもりの雄大が何故か傷つく。良い結果だと素直に嬉しいし、悪い結果だと素直に傷つく。なかなかダズンのようにポジティブにはなれない。
「この運勢、一週間続いたりしないよな?」
何か嫌な予感がしたのかダズンは顔色を青くして恐る恐るそう問う。
「そんな天気の週間予報みたいなことはないだろ」
そう聞くとダズンはほっと一息つき胸を撫で下ろした。
「何かあるのか?」
「いいや、大したことではない」
「そうか。そういや……またリオちゃんおいて出て来たのか!?」
また里桜に迷惑をかけているのではないかとダズンを責めた。
「何を言っている。――おいてかれるのは私たちの方だろ?」
何故か胸を張り、呆れたように溜め息をついて、鞄を持って立ち上がる。
「それもそうかもな」
雄大も溜め息をつき少し悲しげに微笑んだ。
「それじゃあそろそろ、行ってくる」
「気をつけて」
「お前もな」
そう言い残し、ダズンは霧のように空気に溶け込んでいき姿を消した。
そうして何事もなかったかのように雄大はまたベッドに寝転がり、携帯電話をいじり始めた。ついたままのテレビのニュースには耳も貸さずに。
ダズンが学校に着いたのは雄大の家を出たほんのすぐ後のことだ。
誰にも気付かれないように人気の少ない体育館の裏に何の不自然さもなく、すっと現れ、普通に教室へと向かった。
二年A組の教室にはもうほとんどの生徒が着席していた。勿論、里桜もその一人である。時刻は既に遅刻寸前の八時二十八分である。時計を確認するとダズンはほっとしてセーフと呟いた。
席につくと後ろの席の里桜が眠っているのに気がついた。もう担任が来ると、起こそうとしたが、里桜がここ数日まともに睡眠をとっていないことを考えると躊躇わずにはいられなかった。
チャイムが鳴り、担任が教室に入るとすぐに里桜が寝ていることに気がつき、起こすように言われ結局は起こしてあげることになったのだが……。
「あれ……私、寝ちゃってた……?」
寝惚け眼をこすってぼーっとしている里桜にダズンは「おはよ」と声をかける。
「寝癖、前髪はねてる」
そう言ってあげると慌てて恥ずかしそうに前髪を治そうと手櫛でといたりおさえたりした。
「リボンゆがんでない? 他は崩れてない?」
「大丈夫だよ。なんでそんなに気にしてんの?」
「えー、だってー……」
里桜は恥ずかしそうにしながらも嬉しそうで、頬を赤らめきょろきょろしている。
「恋する乙女ですか?」
「ち、違うよ……!」
恋という言葉に里桜は異常に反応してしまい、思わず変な声が出てしまう。それでさらに頬を赤くする。
「心配するな。リオはどんなときでも可愛いし、少なくとも想い人は此処にはいないだろ?」
「だからそんなんじゃないって……。それに私、可愛くなんてないし」
クオンちゃんの方が、と続けた。
里桜はダズンのことを“クオンちゃん”と呼ぶ。久遠寺という名字からクオンちゃんだという。濁点の入る名前があまり好きではないらしい。それはどうかと思うが。
「でも駄目だな、私……。学校で寝ちゃうなんて」
「全然寝てなかったんだ。それくらい良いって」
「それはクオンちゃんも一緒でしょ? それなのに私は……」
情けないと自信なさげに俯く里桜。
「私に合わせるな。リオはリオらしく生きろ」
力強いがどこか悲しげなその言葉。里桜にはその意図がすぐによく分かった。
「そうだよね……。私はどれだけ頑張っても、どれだけ無理してもクオンちゃんみたいにはなれないよね。あ、そうだ。ユウ君のとこ行ってたんでしょ? 何か話した?」
里桜のダズンに対する思いは憧れではない。憧れではないが羨ましい。ただただ羨ましい。それだけなのだ。
しかし、どれだけ羨んでも絶対にダズンのようにはなれない。そんなことは分かっている。分かっているからこそ歯がゆい。
そんな気持ちを抑え、口調を変え話題を変えた。
「ああ、別に大したことは喋ってない」
「へえー……そっか」
言葉を濁されたと里桜は少し複雑な気分になる。
「馬鹿と話すことなんて大したことないものばかりだ」
「馬鹿って……。ユウ君、あれでも立派な先生なんだから」
雄大の職業は高校教師だ。新卒でこの四月から近くの私立高校に勤務している。
「半年弱で立派というのはどうかと思うぞ? まだフリだけかもしれないのに」
「ユウ君はそんな器用なこと、きっと出来ないよ。不器用だから」
雄大のことを話す里桜はいつもより生き生きとしていて楽しそうだ。彼のことなら何でも知っている――それが里桜の誇りらしい。
そんな里桜を見ているとダズンは胸がちくりと痛んだ。
「まあ、あいつは馬鹿だからな。――馬鹿だからこんなことになるんだ」
ダズンは目を逸らし、聞き取れないような声にならない声で小さく呟いた。
「え? 何か言った?」
「いや、何でもない。……そうだ、テスト! 数学の小テストだよ。今日こそ絶対に勝つからな!!」
――また濁された。
それより先に数学の小テストのことを綺麗に忘れていた里桜は慌てて教科書を見直した。
「……よく覚えてたね、テストのことなんて。私、完璧に忘れてたよ……」
里桜は絶望に満ちた目をして机に突っ伏し、降伏したように教科書を持った右手を投げ出した。
「今更、教科書見たって無駄なだけだよ。数学なんて出来ても何の役にも立たないし、出来なくても困らないよ、文系だから」
文系の生徒なら一度は言ったことのある決まり文句を言い訳に、諦め態勢に陥る里桜。
「よし、今回の勝負は私の勝ちだな!」
不戦勝のようなものだと得意気に笑うダズンにプライドや誇りというものはどうやら塵ほどもないらしい。
「戦うつもりなんて初めからないよ……。あー、sinθとかcosθとか全然分かんないよ……」
「え、なんだそれ?」
テストのことは頭にあっても授業内容は頭の片隅にも残っていないダズンは急に焦り出す。さっきまでの自信はどこに吹き飛ばされたのやら。
「助けて、誰か……」
――――助けて、誰か……っ
小さな女の子が桜の木の下で泣いている。
横には血を流して倒れている少年がいる。
そんな光景が目の前に広がっている。
私じゃない……。私じゃない……。私が殺したんじゃない……っ!
どうすれば良いんだ? 私は何をすれば良いんだ?
あの少年はもう死んでいるのか? 助からないのか?
……いや、死んでいない……?
限りなく死に近い状態だが死んではいない。生きている。そんな気がする。いや、きっとそうだ。
私はこのまま見ているだけでいいのか?
彼を見殺しにしてもいいのか?
何故、私はこんなに焦っているんだ?
ああ、全てを考える時間が惜しい。もっと時間が欲しい。
こんな気持ちは初めてだ。
――――誰かが瀕死状態になったとき、キミは自分の存在する意味を知ることとなる。
どこかで聞いた紛れもない自分の声が頭をよぎる。
ああ、今がその時なのか…………。
「……クオンちゃん? おーい」
「ん?え、何だ? どうした?」
助けてという言葉を聞き、ある遠い記憶を思い出したダズン。
「どうしたじゃないよ。急にぼーっとして」
「ああ、悪い悪い。少し考え事しててな」
「何かは教えてくれない……よね」
気になること、知りたいことをダズンは何でも隠してしまう。雄大には言っても里桜には教えてくれない。里桜はそれが嫌だった。だから教えてくれないと分かっていてもとりあえず聞いてみるのだ。
「知らなくていいこともある。何でも全て知ってしまう程、つまらないことはない」
「そっか。物知りなのも考え物なんだね……」
ふむふむと何を納得したのか、納得しきれない気持ちもあるが頷いた。
「じゃあ、数学の公式も知らない方がいいよね」
「そうだそうだ」
何とも都合の良すぎる結論を出し、教科書を閉じた。
……数学の小テストの結果。十点満点中、里桜は五点、ダズンは四点で(低レベルだが)僅差で里桜の勝利となった。ダズンはとても悔しがり、何回目かのリベンジを挑んだ。
幸い、二人とも再テストや補修にはかからず、とりあえず安心した。
小テストを終えると、始業式とも呼べない軽い式典を行った後、放課となった。
一塚は九月に入るまでは短縮授業で午前中までで授業が終わる。
この一週間くらいは一緒に帰ろうと里桜とダズンは一緒に家路につく。確実に歩いて時間をかけて景色を楽しんで。
知らない発見もあり、世界が輝いて見える。普通、一年半も学校に通っていると通学路なんて見飽きてしまう。だが、ダズンにはそれがなかった。
だから、ふと歩いて世界を眺めるとこんなにも広くて鮮やかで深みもあって立体的で楽しいものなのだと気付くのだ。
いざ真っ当に帰ってみると本当に誘惑というものは多く、ちゃんと寄り道をしてみたくなる。
そんなダズンに里桜は「しょうがないなあ」と言って、彼女を駅前のショッピングモールに連れて行ってあげた。
かなり大きめのショッピングモールであり、ダズンは思わず目移りしてしまいなかなかどこに行こうか決められずにいる。
「うーん、そうだなー……。リオ、どこかオススメの場所はあるか?」
迷いに迷った結果、結局里桜任せになってしまう。優柔不断なあたり、如何にも女子高生らしい。
「オススメかあ……。そうだね。とりあえず、お昼ご飯食べよっか」
時間的にもそれが最善だと考え、ダズンをフードコートへ連れて行った。
フードコートもとても広く、食べる物を決めるだけでも目移りして仕方がない。
店の並び具合を見てすいているところにしようとも思ったが、それはそれでなんだか恥ずかしくて気が進まない。かといって混んでいる店にわざわざ並びに行くのも億劫だと席に着いたままでいる。
「そうだ、クオンちゃん。好きな食べ物って何?」
まだ田舎にいた頃から一緒にいるが、里桜はダズンのことをよく知らない。好きな食べ物すら知らなかった。知りたいことは何でも隠してしまうから。
田舎にいた頃はあの桜の木の下でしか会うことはなかったから分からないが、一緒に暮らすようになってからは、朝のパンも昼の学食のご飯も夜の頑張って作った料理も素直に食べてくれる。でもそれだけであり、美味しいとも不味いとも言ってはくれない。感想を一切述べないのだ。味覚が無いのかと疑ってしまうくらいにどれにも等しく感想を持たない。
「好きな食べ物か? そんなもの、無いな」
「っえ!?」
驚愕の回答に里桜は顎が外れたように、言葉通り開いた口が塞がらずにいる。
「何かを好きになるということは何かを嫌いになるということだ。私はそういうことが気に入らないんだ。何も嫌いたくない。だからといって全てのものが好きといえばそれと同時に全てのものが嫌いということになる。つまり全てを平等に思っているということだ。だから私は全てのものに平等に接する」
その言葉に心を打たれ感動する里桜。
「なんか難しいけど深いね! じゃあ私もそうするよ。平等平等!!」
「恋する乙女には少し難しいぞ」
想い人にも平等に接することが出来るのかと、にやっと意地悪そうな笑みを浮かべてみせる。
「だから違うって!」
とは言いつつも自然と髪が崩れていないか、お気に入りの赤いリボンがゆがんでいないか確認する里桜。
「そうだ! そのリボン、どこで買ったんだ?」
何かを思い付いたように立ち上がると、ダズンは里桜のお気に入りである赤いリボンを指差した。
「これ? あ、そういえばここで買って貰ったんだっけ……」
「何処の店だ? 私も欲しい!」
珍しく女の子らしいダズンを見て驚く里桜。
「えーっと確か…………三階の雑貨屋さんだったはず」
「そこに行こう! 昼飯食べてからで良いから!」
いつになくテンションの高いダズンに気圧される里桜。
「それじゃあまず、何食べるか決めないと」
あんまり決められないなら私が決めてあげると、里桜は独断でいくつかの料理を選び出し、「A・B・Cのうちどれがいい?」と尋ねた。ダズンは「A組だからAと言いたいが、そこは久遠寺のCで」と何故か自分の名前のイニシャルで決めるという謎の選択をした。その前に久遠寺ならイニシャルはKではないのかと里桜は疑問に思ったが、それはそっとしておいた。
「えっと、Cは…………パスタだね。パスタにしよう!」
パスタに決まったのはいいが、メニューが多いとダズンはまた悩み出す。それに対して里桜は「それは自分で決めてね」と冷たく見捨てる体制をとった。
「ちなみに他の選択肢は何だったんだ?」
「AがうどんでBがラーメンだよ」
麺類だった。
里桜がカルボナーラを注文するとダズンは「私も」と言って結局、便乗して自分では何も決めなかった。
「クオンちゃんってほんと優柔不断だよねー」
「どれでもいいと思うとかえってどれもだめな気がしてな」
「平等の精神だね。それならもっとバランス良く食べないと」
ダズンは生クリームの中に浮かぶ厚切りのベーコンばかりフォークで刺して食べている。それもやけにがつがつとしている。
「なんかこんな自分に腹が立ってな。何かにあたりたい衝動に今、駆られているらしい」
「でー……なんでベーコン?」
目の前の少女の異様さに冷ややかな眼差しを送る里桜。それは蔑むようだった。そしてどこまでも“私はこの人とは関係ない”という意識でいっぱいだった。
「一番刺し心地が良い」
「へー、そうですかー」
つい他人行儀になる。
発言にも狂気が満ちている。一体、他に何を刺してきたのか。そのフォークの先には紛れもなく殺意紛いのものもあったに違いない。ありふれたフォークまでも凶器に見せるのだから。
「誰か私を殺してはくれないだろうか……」
冗談のつもりで言ったその言葉は、決して冗談として受け取っては貰えなかった。
「なんか昔流行ってたよね、殺してって頼んだら殺してくれるの」
「そんな奴らもいたな。なんて言ったかな……サク? ザク?」
「サグだよ。なんでそんな何かをスナック感覚で刺したような言葉しか出て来ないの」
「いや、つい……」
ダズンは恥ずかしそうに照れ笑いして頭を掻く。
「最近は全然聞かないけどね」
「あれだろ? 本当に事件を起こしたからヤバくなったんだろ?」
『サグ』という集団はネット世界の住民――つまりはアカウントを殺すことを主な目的としていた。
それがどうしたことか、一年前――
あの事件は起こる。
中三女子誘拐事件。犠牲となったのは誘拐された女子中学生ではなく突撃した新米女性警官。
犯人は一年経った現在まで逮捕されておらず、顔も今では誰も知らなくなってしまった。顔を見たのは亡くなった女性警官と誘拐された女子中学生だけであった。女子中学生は事件のショックで犯人の記憶を失ってしまっていた。
この事件の少し前。
『サグ』のもとに一通の依頼が届いた。それを確認した『サグ』の実行犯である構成員の一人は、即日で標的のアカウントを特定し、数日後にはそのアカウントをネット世界から抹消させた。
これで終わり――と、楽勝だったといつものように依頼主に任務完了、と伝えると軽く簡単に礼の言葉を残し、依頼料を『サグ』の会計である一人の構成員の口座に振り込んで依頼主はその後『サグライダーの集い』に参加することなく姿を消した。
その次の日、事件は起きた。
あの依頼者は掲示板の方にも依頼を出していたから、周りの掲示板参加者――『サグ』に賛成する者、犯罪者に乗る者たち『サグライダー』も誘拐事件は『サグ』が起こしたものと考えた。
それも、依頼者の言葉が他の依頼者のものとはあまりに違うものだったのだから無理もない。
本当に殺意を含んだ言葉が似合わないポップな吹き出しに乗って画面上に並べられていたのだ。
虚構の世界で虚構の人格を殺す虚構の犯罪者集団。『サグ』はその程度の存在だった。
それが現実世界にまで名を轟かすことになろうとは誰も想像していなかったし誰も望みはしていなかった。
ネット世界の悪を裁く正義の悪であった存在が、現実世界でただの悪になってしまったのだ。
そんな悪党に付く者など極々(ごくごく)少数な訳で支持も信頼も無くした『サグ』は一年前、突如として活動を辞めた。
「サグってもともとは人殺し集団じゃなかったんだね……」
「らしいな。全部あいつに聞いたんだが」
「ユウ君は何でも知ってるよね。物知りだから生きているの、つまらないのかな……」
雄大は高校二年生になるとき、生き続けることを拒絶していた。
その少し前、桜が鮮やかに咲き誇り、各々(おのおの)が香りを誇張させ始めた頃。彼の身に万死に値することが起こった。幸い九死に一生を得たが、それは本当に幸いなんかだったのか。一度目覚めた後、彼は世界に強い絶望感を抱いた。そして気付いた。
――――もう此処からは逃れられないのだと。
太陽が昇るのも月が満ちるのももう何回見たか。……もう飽きた。時間が流れているという嘘を信じることにも疲れた。また同じように太陽が昇って沈んで月が満ち欠けするだけ。何も変わらない。世界も少年も。
たまに降る雨や雪は表情を変えてはくれるがやっぱり世界は何一つ変わりはしない。
そんな世界を生きるのが苦しくて辞めたくて。笑顔で過ごしている輪の中に入ることも自分は許されないと少年は殻に閉じこもった。
誰が入ろうとしても絶対に人を通さなかった。
ドアの前に置かれた食事は普通に喉を通るが、何故か襲い来る飢えや渇きに苦しんでいた。
閉め切った暗い部屋で、ベッドに寝転がり無駄に時間を過ごした。何かが変わると信じて。何も変わらないと分かっていて。
「いや、前ほどつまらないとは感じていないだろ」
そんな少年のもとに光が現れるのはその少し後のことだった。
「……いや、どうだろう。あの事件の被害者は確かあいつの…………」
「ああ! もう、いいじゃんその話は。もう辞めよ? ね?」
ダズンの言葉を掻き消すかのように里桜は慌てて口を開いた。
「そうか? まあいい。早く食べて、雑貨屋へ行こう」
「そうだよそうだよ。……私もあんまり思い出したくないんだ、あの事件」
突然慌ててカルボナーラを食べ始める里桜の悲しげな表情に気付きをながらも特に気には止めず、ダズンはパスタの麺だけ残ったカルボナーラを綺麗に巻いて食べた。
そんな中、里桜のベーコンを刺す矛先はダズンのものとは比べものにならない程に鋭かった。
大型ショッピングモールの雑貨屋というくらいだ。広さは言うまでもないが、品揃えも豊富だ。優柔不断なダズンなら何の目的も無ければまた目移りしていたことだろう。
二人がここに来た目的はちゃんとある。
里桜がいつも身に着けている赤いリボンを買うためにここに来たのだ。
そのリボンは所謂飾りのようなもので、それ自身に髪を結ぶ能力はない。言ってしまえば無くても困らないものである。それでも里桜が毎日身に着ける意味とは何なのか。それにどんな思い入れがあるのか。
気になったダズンは里桜に尋ねてみた。
「これは、私がこっちに引っ越してきた時にユウ君が買ってくれたんだ。嬉しくて、だから毎日肌身離さず着けてるんだー」
「あいつがそんなことするんだな」
嬉しそうににこにこして話す里桜を見て微笑ましくも不思議と複雑な感情を抱いているダズン。
「ちょっと意外だが、きっとリオにだからしてあげられるんだろうな」
きっとそうなんだと、ダズンは自分に言い聞かせ自虐的に微笑んだ。
「……そうだったら嬉しいけど」
里桜は恥ずかしそうに下を向き頬を赤らめている。
「今のあいつを支えてやっているのはリオなのだろうな」
今の雄大の光――生きる支えはリオなのだろう。
かつて絶望から救い出した光はもう――
「何やってんだ?お前ら」
こんな真夏日に薄手とはいえフード付きの長袖のパーカーを羽織った里桜たちと同年代くらいに見える青年が二人に声をかけてきた。
「あ、ユウ君! どうしたの?」
その青年――五島田雄大の姿を見ると里桜は顔色を急に明るくさせ、深海のような美しい群青色の瞳をきらきらと輝かせた。
「いや、暇だったからちょっとな」
「そっか、ユウ君はまだ夏休みなんだったねー」
「ああ。鳥津は八月はきっちり休ませてくれるからな」
「いーなー。こっちは始業式からテストだったのに……」
不満げな表情を浮かべ、ずるいよと雄大を見た。
「聞いたよ、お疲れ様。そんなに言うなら鳥津に来れば良いのに」
「今更、転校なんて出来ないでしょ?」
「それが新学期からうちのクラスに転校生、来るんだよな」
「一年生だったらまだなんとか出来そうじゃん。でも半年で転校か……。やっぱり親の仕事の関係とかかな?」
「どうやら、そういう訳ではなさそうなんだよな……」
「ワケアリってやつだね」
誰かさんみたいにと、里桜はにこにこしてみせる。
「ワケはワケでも、もう少し現実味のあることだと思うけどな」
そんなことはありえないが、本当に里桜が思うようなワケだったらどうしようと雄大は頭を掻いた。
そんな中、すっかり二人の会話の輪から外れてしまい、幸せオーラ全開のカップルのような二人を見て、馬鹿馬鹿しいと冷ややかな眼差しを送り、呆然と立ち尽くしているダズンが我慢の限界だと口を開いた。
「お前ら二人で仲良く話して楽しいか? 恋人同士なのか?」
腰に手をあて、紅い目で睨みながらに少々切れ気味にそう言い放つと
「「ち、違う……!」」
と、二人は息ぴったりで声を揃えてダズンに返した。
「お前ら、本当に仲良しだな」
ダズンは溜め息をついた後、顔を上げて呆れたように笑った。
二人はいとこ同士で幼い頃から一緒に過ごしてきた。里桜にとって雄大は本当の兄のような存在で、雄大にとっても里桜は妹のような存在であり、お互いにお互いをかけがえのない存在だと思いあっている。
自分を変えたいと故郷を飛び出した里桜について来たのはいいが、実のところ本当に此処にいて良いのかと思うことがあるダズン。昔から仲の良い二人の間に後から知り合った自分がいて良いのか。二人だけでこれからも仲良く過ごしていく方が良いのではないか。心配だからついて来たとは言ったが、本当はそうではないのではないか…………。
つい、そんな否定的なことばかりを考えてしまい悲しげに俯くダズン。
「ん? どうしたの?」
様子が変なことに気付き、里桜はダズンの顔を覗き込む。
「いや、なんでもない。早くリボンを探そう」
「リボンって、髪に着けるやつか?」
「ああ。リオと同じようなのが欲しいんだ」
「お前がそんなの、珍しいな。……買ってやろうか?」
あの悲しげな紅い目の奥に潜んでいた気持ちを少なからず分かってしまっていた雄大は慰めるつもりでそんなことを言ってみる。
「はぁ!? お、お前な……何を……」
訳も分からず雄大を指先の震えを抑えながら指差した。
「だからリオちゃんと同じリボン、買ってやるって……」
「物で釣ろうとしても甘いからな!」
雄大の言葉を掻き消そうと言わんばかりにダズンは大声をあげる。
「いや釣ろうとはしてないけど……」
「じゃあ一体、何を企んでいるんだ」
「なんでそんなに疑うんだよ。いいだろ別に買ってやるって言ってるんだから」
「……そういうことは誰彼なしにするものじゃない。そういうことは大切だと心から思えるような奴にしてやれ」
ダズンはまた透き通るような紅い目に悲しみを映し出し、顔を逸らし俯いた。
「お前のこと、大切に思ってるって言ったら?」
え…………?
ダズンはきょとんとして心の中で驚きを隠せず声を発し、雄大の目を見た。――どうやら嘘ではないらしい。
そうとなると気になるのは里桜の反応だ。すぐに里桜の方を見ると、ただ静かに、でも嬉しそうに微笑んでいる顔が見えた。
「いいじゃん、クオンちゃんもユウ君に買って貰えば。そうしたら完璧にお揃いになるし」
「お、お前がそんなに私に買ってやりたいと思うなら…………別に、受け取ってやってもいいが……」
恥ずかしくなり、ダズンは目を逸らし俯いて小声でそう言った。
……心から嬉しいと思ってしまった。私はどうしてしまったのだろう。何故、こいつにばかりこんな気持ちになるんだ。
私はただ本当の私の願い――夢を叶えただけなのか……?
「……ちょっとは素直になれよ。そんなことじゃ、一度きりの青春を無駄にするぞ?」
雄大は赤いリボンをちゃんと二本とってレジへと向かった。
「無駄にしたって…………」
――また初めからやり直せばいい。
ダズンはそう続けようとしたが、その言葉は胸にそっとしまった。
やり直すことなんて出来ない。今この時しか、この三人でこんな風に過ごすことは出来ない。
時間は確実に流れている。季節も変わっていく。世界は毎日姿を変えている。
――人間は間違いなく一秒ごとに変わっている。
「……ユウ君ってやっぱり本当に吸血鬼なの?」
八月二十五日、午後一時過ぎ。今日も相変わらずの快晴。世界は今日も何も変わらない。最高気温が昨日より二度ほど高いらしいが関係ない。
雄大が何もせずに家で怠惰に過ごしていた割には遅めの昼食をとっていると、珍しくインターホンが鳴った。もう二度とないのではと思う。ダズンが正攻法で家を訪れたのだ。しかも里桜と一緒に。
二人とも昼食はまだだとダズンは何の躊躇いもなく冷蔵庫を開け、何かないかと食材を探す。そして、ろくな物がないなと蔑むように紅い目を雄大に向ける。里桜はまたカップ麺ばっかりと雄大の身体を心配する。大丈夫だとまた麺をすすっていると、里桜が悲しそうにそう言ったのだ。
「……みたいだよ。それは覆らない事実だ」
雄大は人間ではない。正確には人間ではなくなってしまった。
六年程前に人間であることを辞めざるを得ない事態に陥ってしまったのだ。彼は気がつくとどうやら吸血鬼になっていたらしく、それ以来その現実味のない現実を受け入れてこの世を生きている。
「証拠は? ユウ君がもう人間じゃないって証拠はあるの?」
里桜は雄大を責め立てるように問い詰める。自分では信じて受け入れていたはずなのに、やっぱり信じられない――と。
「リオちゃんなら見た目だけで俺が普通じゃないって分かるだろ?」
雄大の見た目はあの時――六年前の春、高校二年生になる少し前の少年の姿から何一つ変わっていない。身長も体重も少しも変わっていない。髪型さえも寝癖がついても勝手に治ってしまう。
「そんなの成長期が終わっただけかもしれないし、ちょっと若く見える人くらいいくらでもいるじゃん……」
「今はそう言えるかもしれない。でもこれから十年、二十年……って時が流れてもこのままだって言ったらどう?」
「それは…………」
里桜は口を噤んだままで言葉を続けることが出来なかった。確かに六年という月日を過ごして変わったのは自分だけだと気付く。大きく遠かった背中に近付いたはずなのに…………。
「でもやっぱり、それだけじゃユウ君が吸血鬼だって信じられない!」
やはり見た目が変わらないということだけでは雄大が吸血鬼であるとどうしても納得出来ない里桜。それ以外の面は普通の人間と何も違うようには見えないのだから。普通に普通のカップ麺を食べているし、今はまだ夏休みだが普通に普通の高校で働いている。吸血鬼であるということを言わなければ誰も彼が吸血鬼だとは気付かないほどに、あまりに人間らしく人間ではない人間に限りなく近く存在。それが彼、五島田雄大。里桜が見ているユウ君という者なのだ。
「俺も受け入れたつもりでもやっぱりまだ信じきれていないんだ。まだ未熟だから」
「……いずれ嫌でも受け入れなければならない時が来る。それまでは、何も気にせずに人間らしく生きたけりゃそうすればいい」
長い赤茶色の髪をツインテールにし赤いリボンを結んだ、身長も里桜より少し低い幼い雰囲気の少女、ダズンは棚に収納された買い置きのカップ麺を見て棒立ちになっているのかと思えば、雄大のことを――吸血鬼のことを全てを知っているかのように静かに話し出す。
「クオンちゃんはすぐに受け入れることが出来たの?」
「私は気がついた時から吸血鬼だった。他の何も知らない時からそうであったから、受け入れるも何もそうでしかない。違和感もない。私は吸血鬼でしかない。吸血鬼でしかいられない」
淡々(たんたん)と語る小さな身体がその時だけは随分、大人に見えた。
「嘘つくなよ? 自分が何なのかよく分かってないとか言ってたくせに」
「うるさい! 黙れ! 静まれ! それは……また別だ」
ダズンは恥ずかしそうに耳まで赤くして部屋の隅にうずくまった。
何も知らない状態で自分が吸血鬼だということだけは分かっていた。しかし、吸血鬼が一体、何なのかは今でも分からないままなのだ。
「じゃあなんでそうやって普通の高校生を演じてるんだよ」
「私が何をしたっていいだろ。それ以上言うと……殺すぞ」
ダズンはちらっと振り向き紅い目に殺意を織り交ぜ、視線を雄大に向ける。雄大はその視線を無駄だと嘲笑うように受け流し、意地悪そうに笑みを浮かべた。
「おー怖い怖い。殺すならせめて昼飯が終わってからでお願いします」
死など怖れていないという口振りで話しては、余裕綽々の面持ちでカップ麺の麺をすすり、出汁まで綺麗に飲み干した。
「……やっぱり、ユウ君はユウ君だし、クオンちゃんはクオンちゃんなんだよね」
やっと分かったと、里桜は何かを納得したようにすっきりとした笑顔を浮かべた。
「どういう意味だよ、それ」
「私にもさっぱり分からん」
「人間も吸血鬼もお互いを理解することが出来れば良いのにな――ってね」
人差し指を立てた右手を口元にあて、意味深なウインクをした。
吸血鬼だから何なんだ。人間と変わらない生活が出来るのなら吸血鬼だなんだと差別や区別をすべきではないのではないか。全てが平等に過ごす世界を作り出すことは、そんな世界に変えていくことは出来ないのだろうか。
そんなことを考えながら里桜は一人、家路についた。
家に着くと、自分の考えや思いを自分ではない何者かを通して人々へ伝えるためにパソコンを開き、言葉を綴っていった。
午後八時。今は目立った活動がない掲示板『サグライダーの集い』の雑談スレッドがいつものように微かに動いている。
かつてはどのスレッドも秒単位で更新されるような活気に溢れすぎるくらいの掲示板であったが、今ではシャッター街の如く疎らにいくつかのスレッドが動いているだけだ。掲示板の管理人たちのスレッドも微動だにしない。
管理人である『サグ』は一年前に起きたとある事件の容疑者になってからは活動を一切していない。その罪が本当に『サグ』によるものかは不明だが――――
その事件が起きた後、多くの人々は自分も犯罪者扱いされるのではと掲示板から離れていった。実際、一度は『サグ』に賛同した『サグライダー』であるにも関わらず。
そんな中でも掲示板に残ったごく少数派の者たちが雑談スレッドで話すことは、別にこの掲示板で話す必要性の全くないようなことばかりである。
***
〔へーそーなんすかー!〕
〖はい。〗
〔来週末はなんとしてでも行かないと!!〕
»名無しの暗殺者さんが入室されました。
【どうもー】
〖こんにちは。〗
〔ちわっす!〕
〔ドラストで自分のフレンドの名無しさんですか?〕
【はい、恐らくは】
【人違いだったらスイマセン】
〔いえいえ! ハンネが名無しの人多いっすから一応確認しただけっすから!〕
〔この前は助っ人あざーっす!〕
【あ、はい。こちらこそ毎度サクさんのキャラにお世話になってます】
〖ゲームですか?〗
〔そうっす! 昨日までイベントだったんすよー〕
〔それで名無しさんのキャラには超お世話になってー〕
〔なんとかランキング報酬はget出来たっす!〕
〖おー! よく分からないですけどおめでとうございます!〗
【おめでとうございます。ボクも無事ゲットしましたよ】
〔ありがとうございます! 名無しさんもおめでとうございます!〕
【あ、どうも】
〔そういや、話変わるんっすけど……またあの小説更新されたらしいっすよー〕
〖あー、蒼咲リリですか?〗
〖あの吸血鬼がなんとかっていう……〗
〔妙にリアルって噂っすよねー〕
【だから信者とかできちゃうんですよ】
【ボクの妹もそれなんです】
〖そうなんですか。〗
〖でも、結構多いですよね。〗
〔ちょっと社会現象になってるっすよねー〕
〔そのうち何かの運動とかしそうで怖いっす〕
【吸血鬼擁護運動とかw】
【あ、逆に吸血鬼討伐運動かもw】
〔どっちにしろ迷惑っす……〕
〖ですね。あんまり騒がれると……〗
【でも、吸血鬼を信じるってどんな神経してるんでしょうね】
【いくら小説がリアルだからって】
〔それもそうっすねー……〕
〖そんなにリアルなんですか?ワタシ、読んだことなくて……〗
【前回は吸血鬼と夏休み②って話で、主人公の女の子と吸血鬼の少年が海に行くんです】
【あ、ちなみにこの二人、兄妹です】
【それで、少年がかき氷の早食い大会に参加して、尋常じゃないスピードで完食して優勝したんです】
〖それのどこがリアルなんですか……〗
【あ、リアルなのはここからです】
【その後かなり遅れてのしかも激しい頭痛が来て、もがき苦しむんです】
【その描写がまあリアルだそうで……】
【あ、全部妹談ですけど】
〔吸血鬼が頭痛で苦しむんっすかw〕
〔痛みなんて感じそうもないのにw〕
〖吸血鬼も痛みくらいは感じるものなんですよ。〗
〖多分。〗
〔ていうか、現実味を帯びすぎてて吸血鬼って感じがあんまりしないっすね〕
【そうなんですよ】
【吸血鬼という設定は確かにあるんです。でも日光を浴びても灰になる訳でもなく、鏡や写真にうつらない訳でもないらしいんです】
【極めつけが、三十五話あって一度も血を吸う描写がないっていう】
〔なんすかそれw〕
〔なんで人間じゃダメだったんですかねー?〕
〖そういう吸血鬼もいるのだと思いますよ、ワタシは。〗
【いやいくらなんでも血を吸わない吸血鬼はいないでしょ】
〔それ、もう吸血鬼じゃないっすよwww〕
【普通に人間ですね(笑)】
〔そのうち覚醒するんっすよ!吸血鬼としての本能が!!〕
【そして世界を征服するという】
〔お!なんか面白そうっすね!〕
【※この物語はフィクションです】
【現実だったら困ります】
〔やっぱり、吸血鬼なんていないんですねー〕
【いるわけないじゃないですか】
〖とりあえずは吸血鬼絡みの騒ぎが起きなければ良いですけど。〗
〔そうっすね!〕
【あー、妹がパソコン貸してくれってうるさいんで今日はこの辺で落ちますね】
【あ、一週間くらい浮上出来ないかも……】
〔はーい、名無しさんまた今度ー〕
〖妹さんと仲良くしてくださいね。〗
»名無しの暗殺者さんが退出されました。
〔さっきの話なんすけどー〕
〖なんですか?〗
〔ひせちーがどこに来るかさっき聞きそびれたんで……〕
〖一塚女学院の最寄り駅前のショッピングモールですよ。〗
〔よかったー! そこなら家から近いんで参戦出来るっす!〕
〔ウダウダさん、あざーっす!〕
〖いえいえ。〗
〔んじゃ自分、風邪気味なんで落ちるっすね!〕
〖はーい。〗
〔来週末までには意地でも治さないと!〕
〔この時期の風邪は長引くっすからウダウダさんもどうぞお気をつけて!〕
〖ご心配ありがとうございます。〗
〖サクさんもお大事に。〗
»サクさんが退出されました。
»ウダウダさんが退出されました。
***
その頃、雄大は相変わらずベッドに寝転がって携帯電話をいじっていた。
そこに夕食を終えて暇だと言ってダズンはまた、空気の中からふわっと現れるように雄大の部屋にやってきた。
「また画面とにらめっこか? そんなに面白いのか?」
ダズンは雄大の携帯電話の画面を見ては、毎度毎度同じように過ごしている雄大に呆れたと紅い視線を向ける。
「別に面白くはないな。ただの暇つぶしだよ」
「リオも画面にへばりついたままなんだ。皆一体、何をしているんだ」
「へー、リオちゃんもネット使うんだな。ちょっと意外だ」
いつも読書をしているイメージの里桜。さて、そんな里桜がネットを何の目的で使うのか雄大には想像もつかない。
「で、お前のやっているそれは何だ?」
雄大の携帯電話を取り上げて画面をよく見てみるが一体何なのかさっぱり分からないダズン。とりあえず気になるところをタップしてみる。
「こら!子供が勝手にいじるな」
そう言ってダズンから携帯電話を奪還して電源を切った。
「ほー……。私が子供だと言うのか、餓鬼が」
随分、舐められたものだと口元を綻ばせてはいるが目は鬼の形相になるダズン。
「俺はもう成人してる!」
「成人すればもう餓鬼ではないと考えるあたりがさすが、元人間の餓鬼という感じだな」
ダズンは浅はかだと鼻で笑い、人を馬鹿にするような目で雄大を見る。
「餓鬼餓鬼うるせーな。そういうお前は大人なのか?」
「餓鬼でないことと大人であることは全く違うことだ」
「は?」
「何も子供だけが餓鬼という訳ではない。大人になっても餓鬼のままの奴など沢山いる」
「その一人が俺って言いたいのか」
「お前だけじゃない。私も永遠に餓鬼のままだ。――意味は分かるな?」
雄大は静かに頷いた。
どれだけ時間が過ぎても自分たち二人だけは永遠に変わることはない。自分は高校二年生の少年のままだ。こいつ――ダズンも。そんなことは分かっている、と。
「なあ、お前は大人なのか?」
もう一度、同じことを聞いてみる。
「そう見えるか?」
ダズンは嬉しそうににやにやしている。
「見えないから聞いてるんだよ。まあ、あの時のお前が本当にお前なら随分大人に見えたけどな」
六年前の春、その少女は確かに目の前にいた。薄れゆく意識の中で少年が見た夢でなければ。
春の木漏れ日に輝く季節はずれの雪――のような銀色の髪。鼈甲飴みたいに綺麗なきらきらしている黄金色の瞳。だが、どこまでも澄んだその瞳にはどこにも光が見えない。希望という色が見えない。何を考えているか全く分からない。
不健康そうな白い肌ともあわせてとにかくひんやりしている。彼女の周りだけ春の大地が永久凍土のように凍てついている。彼女の全てが零を超えてマイナスにある――――少年が見た少女の印象はそんなものだった。
少女は女神か天使かと思わせるオーラを漂わせ、触れることさえも少年に――罪と考えさせる。
少年に冷たい視線が突き刺さる。それはまるで――氷柱のように。その視線を少年は忘れることが出来ずにいる。
「それでは今の私が大人ではないみたいじゃないか」
「今のお前は子供みたいだよ」
「一応この姿は、お前の言う大人の私が創った私の憧れの姿なのだが」
笑うことの出来る、人を愛することの出来る、若々しい幼い少女。それが銀髪の少女の憧れであった。
「お前の中にあの銀髪の少女――いや、DCの記憶はあんまり無いんだろ? 本当にお前が俺を助けた吸血鬼なのか?」
「分からない。それは私にも分からないんだ。だが、私がお前を助けようとしたことは確かだ」
血を流して倒れる少年を目にし、混乱状態に陥った末、少年を助けることを決意した。ダズンの記憶はそこまでしか残っていない。
「それで吸血鬼としての力が覚醒かなんかして、真の姿になったお前が俺を吸血鬼にしたということか」
「は?」
「なあ、俺も覚醒したりするのか?」
「何を言っているんだ?」
「だって、俺はまだ血を吸ったりしてないし……。吸血鬼らしくないだろ?」
雄大はまだ血を吸ったことがない。吸血鬼になって六年半。一般的に吸血鬼と言われる架空の生物の定義として考えられてきた特徴が雄大には全く顕れていない。
「お前は気付いていないかもしれないが…………」
ダズンは雄大の目をじっと見た。その視線はあの銀髪の吸血鬼、DCの凍るようなそれを彷彿とさせた。
雄大は思わず息を飲んだ。ダズンの紅い目からの視線はあの黄金色の目からのものより鋭いものだったから。
「……お前は既に血を飲んでいる」