#01 抜け殻
“彼女”は変わってしまった。
無理をしていただけかもしれないけど、少なくとも彼の前では笑顔であったのに。
彼の前では確かに素直で自然な笑顔であった。
“彼女”はどこへ行ってしまったのだろう。
きっと、探してももう見つからない。
あの頃の“彼女”はもういない。この世界には存在していないのだろう。
あの日――一つの命と一つの心が失われた。
目に見えない脅威に気付いてしまったが為に。身代わりになろうとしたが為に。大切な人を救う為に。
でも、それは全て恨めしくも裏目に出てしまった。
もし今、何処かで彼女に再会出来たとしても、それはもう皆の知るかつての“彼女”ではなくて――。
なんと声をかければいいのか……。かける言葉は誰も思い付かない。それならそんなもの、存在していないのかもしれない。彼女自らが消し去ったのかもしれない。誰にも構われないように。
それでも“彼女”を探し続ける者がいる。
何の為なのか。自分の為か誰かの為か。
探しても見つからないもの、存在しないもの、実体のないものを探す意味などあるのだろうか。
その存在の証明が出来ない意味というものを探して人間はまた無意味に人生を過ごしていくのだろうか。
“彼女”はその真実を知ってしまったが故に今の彼女になってしまったのだろうか。
――笑わない彼女になってしまったのだろうか。
愛する人、心の支えを失って心は崩れ落ちた。
崩れ落ち、朽ち果て、消え去った。
目の前が真っ暗になった。何も見えなくなった。――絶望を目にした。
何か大切なものを全て忘れてしまった。
大切だったことはよく覚えている。
この虚しさは何だろう。この喪失感は何だろう。私は一体、何を失ったのだろう。
もの凄くもやもやする……。
大事なものだったはずなのに。
分からないなら、もういいや。
そう思えば少しは気が楽でしょ? 心が軽いでしょ?
……………………。
あれ、何も変わらない。
心は別に重かった訳じゃなかったのか。
でも、不思議と虚無感も喪失感ももう何も感じない。
――――ああ、何か分かったよ。
“彼女”を見つけたい。そしてもう一度あの頃のように笑って欲しい。
そう、かつてを知る者は誰もが願った。
彼もその一人だ。
救いたいだなんて言えば格好良く聞こえるだろう。
でも彼女ならお節介だって言ってくるだろう。迷惑だって言ってくるだろう。
それでも“彼女”を探す者。
話しかける言葉も全然分からない。
それでもいい。次こそは絶対に――
誰の為かって聞かれれば答えは一つ。
全ては自分の為だ。
――彼女をこんな風にしてしまったのは俺だから。
九月初頭。
私立鳥津高校は二学期を迎えた。
この辺りでは有数の進学校であるが、他の進学校が八月の下旬頃から二学期が始まるのとは違い、(部活や夏期講習なんかで殆ど休みはなくなるが)八月はきっちり全部夏休みである。
そもそも夏休みというのは、夏場の気候が勉学を恙なく行うのに適さないという名目で設けられた長期休暇の訳だが、九月になったからと言ってすぐに気候が変わったりはしない。まだまだ夏本番――という感じだ。
学生たちは当然夏服を着用しており、炎天下で熱せられた鉄板のようなアスファルトの道を汗を滝のように流しながら学校へと足を運んでいる。
渡貫真子もその一人である。
しかし真子は、汗こそかいてはいるが安定して無表情であり、周りの空気とは対称的に何も感じていないかのようにクールだ。ポーカーフェイスだ。
真子は鳥津高校の一年生で、入学当初から学年トップの成績を取り続けている頭脳明晰な生徒だ。
それ故に学年だけでなく学校中でも注目の的にあり有名だが、友人と呼べる者はなく、登下校も昼休みもいつも一人である。周りからも避けられている。が、彼女の場合は自らそう望んでいるように見えてしまうタイプである。
本人もそんなことは望んでいない。
環境も決して彼女が一人になるようなものではない。
鳥津の生徒は友好的な者が多く、皆、積極的に話しかけ仲良くなろうとする。彼女に対しても例外ではない。――はじめは誰だってそうである。
しかし、彼女の氷のように冷酷で棘のように心に突き刺さる言葉を受けるともう誰も近付かなくなる。
その対応から、一部の生徒は彼女のことを『ツララ』と呼ぶ。
彼女自身も意図してそう接している訳ではなく、あくまで自然らしいが。
彼女の意思が感じられないからだろうか、無理をしているようにも見える。
その氷はこの炎天下にも溶けそうにない。
鳥津高校の始業式というものは世間一般が想像し得る範囲内のもので、何も特別なものではない。
数名を除き誰も歌わない校歌斉唱。始業式に話す必要性が微塵も感じられない定年間近の校長の長い長い時事ネタ。生徒指導の教員からの安定の風紀指導。生徒会からの十月にある文化祭へ向けての準備の諸注意。通常の集会時より二割から三割増の表彰伝達。(水泳部の割合が高め。普段目立たない文化部の功績も少々)等々……。
約一時間に渡るそれは、気温と人口密度により蒸し風呂状態の体育館にて行われた。
その後生徒たちは各々の教室に戻り、暑いだの眠いだのとウダウダ愚痴をこぼしたり雑談を繰り広げていた。
一年四組の教室では出席番号四十番の生徒、渡貫真子を除いては皆そうであった。
真子は教室に戻ると、真っ直ぐ自分の席に向かった。誰かと話をするわけでもなく、一人で窓際の席から外を眺めることもなく、ふと目に入った隣の空席を眺めていた。
真子の記憶に違いが無ければ、一学期終了時点では恐らく存在していなかったその空席。
クラスには自分を含めきっちり四十名いるというのに。教室全てを見渡せる隅にいるのだから間違いない。
不自然に置かれた一組の机と椅子――。
普段ならば、普通ならば誰も気に留めないそんな現象に真子は目を奪われていた。
まあ、文化祭準備で一時的に移動させてきただけだろう。そう結論付けるには少し安易過ぎる気もしなくはなかったが、いつまでも考えている訳にもいかず、教壇に立った担任の方を見た。
担任は今後の諸連絡をするのみで挨拶をしてすぐ教室から出て行った。
いつもこんな調子で、四組は終礼が一番速く終わる。
どんなに暑い日でも白衣を常に身に纏ったその教師はただ単に機械的に動いているのではない。
入学式の日に女子生徒からプライベートな質問をされても、ある程度は笑顔で答え、時折はぐらかし――と、アニメかドラマのワンシーンにありがちな情景を描く普通の教師である。
それでも仕事は出来るだけ速く終わらせたいという精神からなのか、新卒の新米教師ながら手際もよく物事は大抵スムーズに行われる。
それは決して悪いことではない為、他の教師からの評判はそこそこ良いようだ。
生徒からも好かれていて、教師としてはとても優秀である。
真子も無駄に私生活の話をするような教師より幾分良いと感じている。
とはいえ、速く終わることが全て良いという訳ではない。
午前までに放課となり、家に帰るとなっても無趣味な真子にとってはただただ中身の無い空虚な時間を過ごすだけとなる訳で、退屈な時間が増えただけである。そんなことなら、少しでも長く学校に拘束されていた方が良いと真子は考えた。
仕方無しに真っ直ぐ校門まで赴くと、隣町のお嬢様校の生徒が日傘をさして前で誰かを待っているのが見えたが、そんなことを気にすることもなく家路についた。
そのままいつものように暫く歩いていると…………
「おーい、マコー!」
正午前、さらに気温が上昇しては地面に陽炎が揺れるそんな時である。
こんな茹だるような暑さの中、やけに元気な――太陽のような少年の声が真子の耳を貫いた。
振り返ってみるとそう遠くない記憶に残っている知った顔の少年が駆け寄って来た。
「……ユラ?」
「久々だね。半年ぶりかー、中学の卒業式以来だから」
真子に眩しい笑顔を向けている少年――進堂揺は真子の保育園時代からの幼なじみである。
中学校まではずっと一緒だった二人だが、高校は(学力の面等々が理由で)別々になった。
お互いに唯一と言える大親友の間柄で、小学校時代はよくお泊まり会などもしていた。
それ故に親同士も親しい間柄で、道端やスーパーなどで会ってはよく世間話をしている。
家も近所であるにも関わらず真子と揺が半年も会うことがなかったのは、真子が帰宅部であり、放課後はいつも寄り道などすることなく夕方の四時過ぎ頃には帰宅して、その後、外出しないからだと考えられる。休日も例外ではなくあまり外出しない。
「そうだね」
真子は幼なじみであろうといつもの何の感情も持たない声の調子を貫き通したままで素っ気なく接した。
「……マコ、なんか変わったね」
そんな様子の真子に違和感を隠せない揺。
「そう? 私はずっとこうだけど」
「いや、俺の知ってるマコはもっと明るい子だったはずなんだけど?」
「…………」
真子は元々はこんな性格ではなかった。
誰にでも友好的で、常に元気な笑顔のクラスの中心にいるような人気者だった。
話しかけられるより話しかけるタイプで、クラスの隅で独りでいるような子にも優しく積極的に接していた。
まるで今とは対称的に。
「もっと明るくてよく笑って――喋ってて楽しかったのに」
「そう思ってたのはユラだけじゃない?私は別に何とも思ってない」
揺を突き放すように――いや、突き刺すように真子は言葉の刃を投げかける。
「酷いなあ……。楽しくは思ってなかったとしても何も思ってないのはさすがに嘘でしょ?」
人間なんだから、と続けた。
「嘘じゃない。私に心なんてもう無いから」
真子のその言葉から二人の間には暫くの間、静寂の空気が広がった。
その静寂を切り裂いたのは真子だった。
「――私は抜け殻。心の無い、人間の外見だけが残った抜け殻。私は普通の人間じゃない」
真子が淡々とそう述べると、また少しの静寂を挟んだ後に今度は揺が口を開いた。
「……らしくないよ、そういうの。マコはいつから電波ちゃんになったの?」
人間じゃないなんてことを真子が考えるはずがない。一体、誰が真子に吹き込んだのかと揺は思った。
「電波……?」
「ああ、知らなかったらいいよ。俺はマコのこと超現実主義だと思ってたから、そんな非科学的な――信じられないようなことを言うとは思ってなかったんだよ」
心が無くなった。
そんなことは常識的に考えて有り得ないことである。
感情が希薄な人はいても、全く何も感じない人なんて存在しない。些かの喜怒哀楽は感じているはずだ。
それなのにも関わらず、自分が心の無い抜け殻だと、人間じゃないのだと言う真子を揺はとても信じることが出来なかった。
「ふざけないで。私の心は本当に――なくなったんだから」
揺は真子のどこかに哀しみを感じたが、それは刹那のうちに何かに上書きされかき消された。
「……そっか。だよね。あれからもうすぐ一年経つけど、やっぱり何も変わらない?」
「変わる訳無いよ。変われるはずない。どれだけ月日が過ぎようともお姉ちゃんは帰ってこないから」
真子には八歳年上の姉がいた。しかし、一年前にこの世を去っている。仕事中の事故だった。
真子は姉のことが大好きだった。それ故、姉が亡くなってからというもの、突然の死のショックに堪えることなど出来るはずもなく、いつしか笑うことを忘れ、笑いの絶えなかった少女は現在のような性格へと変貌していった。
それを知っている以上、揺は真子の言うことを受け入れざるを得なかった。
「あの日いなくなったのはマコのお姉さんだけじゃなくて、あの頃のマコ自身も――なんだね……」
揺は溜め息混じりにそう言っては悲しげに俯いた。そしてこう続けた。
「少しは元気を取り戻して貰えると思ったけどな……」
「何かあるの?」
何か言いたげな表情を浮かべる揺に何の期待もせずに真子は言った。
「俺、明日からマコの学校行くことになった」
「え……なんで?」
真子の口から真っ先に出たのは疑問であった。
転校というのは、小中学校ではそう変わったことではないが、高校ともなるとあまり聞くことがなくなり、とても珍しいものと言える。疑問が湧くのもおかしなことではない。
揺自身は真子に喜んで貰いたかったようだが……。
「おう……まさかのリアクション……。驚き――は無いことは覚悟してたけどまさか疑問で来るとは……」
余程意外だったのだろう。あわよくば驚かすつもりだった揺の方が驚いている。
さて、どう返そうか。応えが意外過ぎて何を話せば良いのかよく考えた。
抑揚から感情なんて微塵も感じることは出来なかったが“なんで?”という言葉の先に傷付くような言葉を連想してしまう。もしその予想が的中してしまっていたら返す言葉は元より無いに等しい。
でも、そこは(多分)今でも大親友同士である真子を信じてその可能性は削除した。
「理由と言える理由は無いけど、今の学校でちょっといろいろありまして……」
揺は恥ずかしそうに頭を掻きながらそう説明した。
揺は決して不良などではない。しかし、小学生の時は問題をよく起こしていた。
何かあるとすぐに職員室に呼び出されて、指導という名の説教を受けていた。
悪戯好きという感じで、どちらかと言えば可愛らしいものある。
そういう意味では不良たちとは違った問題児扱いをされていた。
それはどうやら現在まで健在らしい。
「それでどうしてうちの高校なの?」
いや、やっぱり予想が的中していたのかと思ったが、必死にその可能性はないと自分に言い聞かせた。
「質問攻めと来ましたかー。いや、単純に家から近いってのもあるけどやっぱり、マコがいるから……かな?」
真子の目をじっと見つめてそう言ったが、真子には何も思うことはなかった。――思うことが出来なかった。
「ふーん。でも、編入試験って難しいんじゃないの? ちょっと聞いたことあるんだけど」
進学校の編入試験だ。常軌を逸した難易度であることは間違いない。
真子はそんな噂を耳にしたことがあり、また淡々と質問を放った。
「うん、すごい難しかった。これが鳥津のレベルかって思い知ったよ。あんなにレベルの高い中で常にトップを取り続けてるマコってやっぱり賢いんだね!」
「私がトップってことなんで知ってるのかは知らないけど、私、別に賢くないよ。テストが簡単なだけ」
匿名ではあるが、学校の掲示板(名目だけであり、実質誰でも参加可能)では真子のことは話題になっていた。
因みに、定期テストも編入試験程ではないが相当の難易度を誇っているという。
つまりは謙遜である。
「またまたー。同じテストを受けた上で順位がついてる訳だから難易度は関係ないし、マコは中学の時から頭良いし! やっぱり抜け殻なんかじゃないって!」
そう励ませば真子の中の何かが変わる――なんて期待はどこまでも淡い。
それでも揺は励ました。
「頭だけ詰まってても何の役にも立たないし寧ろ、アンバランスなだけ」
「……そんなこと、俺も言ってみたいわ」
贅沢な悩みだな、と溜め息混じりに揺は続けた。
「編入試験は定期テストとは比べものにならない難易度らしいしユラだって頭良いと思うよ」
実際に揺も特別頭が悪い訳ではなく、どちらかと言えば良い方に分類される。
「本当に!? 俺、頑張って良かったよ!」
励ましていたはずの揺の方が励まされた。
「良かったね、合格おめでとう」
「ありがとう! 本当は今日から行く予定だったんだけど、ちょっと手違いがあって……。明日から晴れて鳥津生だから、改めて学校でもよろしくっ!」
揺は背筋を伸ばして敬礼した。
「よろしく。私とはあんまり関わらないと思うし、その方が良いと思うけど」
今の真子は揺のよく知るかつての“彼女”ではもうないのだ。
クラスの中心にいたあの頃とは違い、今は隅にいる存在。同じクラスでない限り関わることもない存在。周りからの印象も良くない存在。関わっても良いことのない存在。だと真子は自分を意識しているらしい。
「そんな疫病神みたいなこと言わないでさ、俺はマコがなんと言おうと話かけるしどんどん絡んでいくから!」
「……どうでもいいけど、疫病神なんて存在しないから。神なんて――いないから」
真子は神というものを信じていない。
目に見えないものは基本的に全て信用出来ないらしい。
それに、全知全能完全無欠の存在なんてあったとすれば絶対的に不公平である。
「まあ例えばってだけだから。相変わらずマコはそういうの嫌いだよね」
「神なんて信じるだけ無駄。信じたって報われないでしょ?」
「そうだけど……。無駄でも信じたいって思うなら信じて良いと俺は思うよ」
「それぞれの自由ってことなら私は信じない。時間を無駄使いする訳にはいかないし」
「お姉さんに悪いって?」
「うん。私はお姉ちゃんの分まで生きるって決めたから」
あの日を境に心というものを真子は見失ってしまったが、その代わりに一つの目標が出来た。
姉の分も精一杯生きること。姉を悲しませないように、恥じぬように人生を真っ当しようと誓った。
「それならもっと笑った方が良いと思うけど」
「出来ることならそうしてるよ。好きでこうなった訳じゃない」
――笑えるものなら笑っている。
きっと面白いことなのだろうと思っても面白いと思えない。
無理して笑おうとしても上手く笑えない。
きっとこんなことじゃ、お姉ちゃんも悲しむだけ。
出来ることならまた――笑いたい。
「……いやー、それにしても私立鳥津高校って初めて聞いたときは私立か市立か都立か分からなかったんだよねー」
空気が気まずくなり、揺は無理に話題を変えようとする。
目を逸らし、ポケットに手を突っ込んで苦笑いしながら無理して話題を探した結果がこれである。
今の流れに全く関係のないようなまさに無駄と言えるものである。
揺は昔からこういうのは苦手である。
「それは素直に全然、面白くない」
翌日。
よく晴れていて朝から気温が高く、日中には猛暑日になるらしい。朝の情報番組の気象予報士も連日の猛暑に「鬱になりますね」と話していた。それでも太陽はどこまでも元気で、雲一つない青空に一際目立って輝いている。
秋晴れなんて言葉はまだまだ似合わない陽気だ。
全く夏休みに意味や価値はあったのか、生徒たちも気怠げである。それでも遅刻者が全校生徒のうちの数名で抑えられているのは、鳥津には真面目な生徒が多い証拠である。
八時三十分になると生徒たちは自分の席に着き、読書をする者、友人と話をする者など担任が教室に来るまでの過ごし方は人それぞれである。
数分後、一年四組の教室に担任が入って来ると、誰も気付かないうちに現れたあの不自然な空白は、とても自然な形で埋まったのだった。
「進堂揺です。今日からよろしくお願いします! あ、転入試験は本当に凄い難しかったです、参りました」
こうして鳥津の一クラスに在籍出来ているにも関わらず“参りました”とは誰に向けて言ったのか。
揺が自己紹介すると生徒はクスクスと笑った。
なんと揺は真子のクラスに在籍することになったのだ。
担任は揺を空席に座るように指示すると、窓の外を見て毎日毎日元気な太陽にうんざりした表情を浮かべ教室を出た。
「マコの隣の席とか超ラッキー」
真子に笑顔を向け、ピースしながら担任に誘導されたあの空席に着いた。
「多分ハズレだと思うよ。ていうか、八クラスもあるのに私と同じクラスになるなんて、とんでもない運の持ち主だね」
尋常ではない凶運の持ち主だと、揺を哀れんだ。
「日頃の行いとほんの少しの努力と残り約八割の神頼みの成果だよ」
そんな真子の考えとは裏腹に目を輝かせながら燦然と笑い嬉しそうに語った。
「……見事に裏切られてるね」
まさに惨然。全く報われていない。と真子はどこかで考えた。
「いや逆だって。表切られてるって」
「表切られてる?」
「裏の反対だから表……みたいな?」
得意気に笑う揺を見て、こいつは馬鹿だ。ということは真子にもよく分かった。しかし、何故こんな思想であの超難関と謳われた編入試験に合格出来たのかはよく分からなかった。
「なんでこんな訳の分からないこと言う奴に国語の点数勝てなかったんだろ」
真子自身にとって国語は唯一と言って良い苦手科目である。が、それでも中学時代は学年十位以内にはなんとか入っていた。
そんな中、国語の成績において常に学年トップに君臨していたのが揺であった。
「俺は唯一、国語だけは出来るけどマコは苦手だからじゃない?」
「それはあるとしても、私はそんな変な言葉使わないし造らない」
「その創造力の差が成績に響いていたかも」
「いやな教科だよ本当に。やっぱり理系かな、来年は」
溜め息混じりにそう呟くと、鞄から何やら紙を取り出し何かを書き始めた。
「っえ、もう文理選択あるの!?」
「うん。二年から文系と理系でクラス分けされるから」
と、真子は進路希望調査の紙を揺に見せた。
「どうしよう……。俺、そんなのまだ先の話だとてっきり……」
揺はうなだれた。
ちなみに、かつて揺のいた高校でも二年次から文系と理系でクラス分けがされる。単純に揺がぼけっとしていただけである。
「将来的に理系教科が必要なくて、迷ってるなら無難に文系で良いんじゃないの?」
「それが……ですね……マコさん。俺、歴史の成績が壊滅的でして……」
机に突っ伏しては、大したことでもないのに涙目になり声まで弱気になって揺は申し訳無さそうに訴えた。
「じゃあ理系にすれば? 化学はそれなりに出来るでしょ?」
「俺が数学出来ないこと分かって言ってるのか、それ!?」
今度は本格的に泣き出す揺。
表情一つ変えない真子と喜怒哀楽の激しい揺。正反対の二人のやりとりは周りの目を奪った。
しかしそんなことより、あの『ツララ』とも呼ばれる真子と自然に会話を繰り広げる転校生、揺の存在は人目を引いた。
その日の一年四組の生徒の話題は揺のことで持ちきりで、揺の周りに集まり、真子との関係を聞く者も少なくなかった。
そんな者たちに揺は、素直に正直に「幼なじみだよ」と答え続けた。
勿論、信じない人もいて根も葉もない変な噂も広まった。
そんなこんなで、たった一日で揺は学年で有名人になった。
「えーっと、なんだっけ? ツララ? マコ、そう呼ばれてるんでしょ? みんなが言ってた。あれ、上手いよね。マコのこと、よく見てるっていうか」
揺は噂にも動じず、暢気にそんな話を始める。
「何が言いたいの?」
真子には揺が何を意図しているのか分からなかった。
教室の隅で目立たずにいつも一人で一日を過ごしている自分を目に留める者など存在しない。そんなことは重々承知している。それなのにも関わらず、よく見ている――というのは一体どういうことなのか。
「話しかけても冷たくあしらわれて刺々しい言葉が心に突き刺さるから『ツララ』なんでしょ?」
「知らないけど」
周りが勝手に自分のことをそう呼ぶだけであり、理由や由来など真子は考えたことがなかった。
「俺はそれだけじゃないんだと思うんだよね。なんて言うか――――裏の意味とか?」
「そんなに深く考えないでしょ。地味な癖に嫌に目立つ嫌われ者の呼び名如きで……」
「そうかなー。俺、氷柱にあんまり悪い印象は無いんだけど。……綺麗だし」
都会暮らしの彼らにとって、氷柱は決して身近なものではない。写真やテレビで見ただけの氷柱に持つ印象は人それぞれであった。
しかし誰が真子の立ち振る舞いを見て氷柱を連想したのだろうか…………。
「それに、氷柱も溶ければ水になるでしょ? 水はみんなにとっての恵み。つまり、マコはみんなから必要とされているってことなんじゃないかなと思ったんだけど……」
「考え過ぎだし、平和呆けし過ぎ。百歩譲ってもしも万が一そうだとしても誰がその氷柱を溶かすのよ」
馬鹿らしい、と真子は溜め息をついた。
「……俺?」
自分に指差し首を傾げて軽く口角を上げ揺は言った。
一体何の自信がどこから湧いてくるのか。
「……そうかもね」
いや、揺なのだろう。
何の目的かは分からないが、わざわざ同じ高校に転校して来て、しかも同じクラスの隣の席にまでやってくるような暑苦しい太陽のような奴の他に氷点下の地の氷柱を溶かすことの出来る者はいないだろう。
きっと揺なら溶かしてくれるだろう。
――私を救い出してくれるだろう。
と、真子は考えた。どこかで思っていた。
「んーやっぱり、俺は『抜け殻』の方が『ツララ』より一枚上手かなと思うなー」
揺は手を頭の後ろにやり、天井に目を遣った。
「『ワタヌキ』だから『抜け殻』かー。よく考えついたよね」
「別に何も考えてなかったんだけど」
「意図せずにとか凄いな……。綿の抜かれたぬいぐるみは抜け殻みたいな物だからてっきりそこから採ったとばかり思ってたよ」
綿の抜かれたぬいぐるみは、まるで魂までもが抜かれたようにしおれ、原型というものをまるで留めていない。残った外見は愛らしく笑ったままである。
「全然本当に何も考えてなかったよ。何かを感じることも笑い方も――好きって感情も忘れただけだと思ってた。頭の片隅に追いやられたか、何かが隠してるだけだと思ってた。でも思い出せないってことはもう無くなってしまったってことじゃない。だから私は人間の抜け殻なんだなと」
ぬいぐるみをつなぎ止めていた糸がどこかからか切れ、そこから綿が抜け出してしまっていた。
それは縫い直すことのないまま、綿は全て抜け出してしまった。
「うーん、なるほどね……。それって、もう諦めちゃってるってことだよね。俺はそういうの嫌だな。俺はマコを笑わせたい――もう一度」
それはいつになく真剣な眼差しであった。
ぬいぐるみとは違い、人間の感情はどこかに抜け落ちたりはしない。まだ、真子のどこかに潜んでいるはずだ。そう信じて、揺は糸になり、真子と心をつなぎ止めたいと決意した。
揺は真子に笑って貰えるならば何でもする気らしい。一体、そこまでする意味は何なのだろう。
それは今はまだ誰も知らない。謎のままである。
放課後。揺、初めての鳥津高校での生活を終えて――
「はあ……、疲れた……。授業進むの超速いし難しいし……」
「初めはそんなものよ」
私も初めは驚いたけど今は慣れた、と真子は淡々と話した。
「でもなんで教科書とばすの!? パラパラーって五ページくらい。公式とか載ってるページまで!」
何故か言っても仕方がないことを真子にぶつける揺。
「そういうのは予習してくるものだからね」
「そんなの聞いてないよ……」
揺は頭を抱えた。
これから二年と約半年もこんなハイレベルでハイペースな環境で過ごすなんて――
全て、自分から望んだことであるが。
「分からない所は私が教えるから」
心無いはずの無機質な意図しない優しさでさえも今の揺の心には深く染みた。
「ありがとう! 俺、マコの親友で良かったよ!」
それはあくまでも親友としてである。二人の間を色恋沙汰という言葉は掠めることもなく真っ直ぐと通り過ぎるばかり。
「バランス悪く余った頭くらいしかユラの役には立てないけど」
「それだけで十分です」
揺は幸せそうに笑ってみせた。
真子にはまだ難しいことである。
それはどんな難解な問題よりも。公式の無い分、解くことはこちらの方が遥かに難しい。
そういう面では真子は劣等生である。
もし笑顔というテストがあったなら真子の学年トップという地位は陥落していただろう。
完全無欠なんて存在しないのだ。
存在してもらっては、困る。
「あ、あの子……」
揺の視線の先に立つのは隣町のお嬢様校の制服を身にまとい、美しい長い黒髪をポニーテールにして、日傘をさし誰かを待っているあの少女であった。
その立ち姿から連想される言葉は一つ、清楚――それにつきた。
「イチジョの女子!? なんで鳥津の校門の前にいるの!?」
イチジョと略されて呼ばれることの多い私立一塚女学院高校は日本屈指の名門校だ。
そんな名門校の女子が鳥津の校門前にいることがどれだけ珍しいことなのかと思わせるように揺はオーバー過ぎるとも思えるリアクションをとった。
「イチジョは隣町にあるし、いても不思議じゃないでしょ。小学校の時からよく見かけたじゃん」
「そういうのとは違うって。あれは確実に誰か待ってるでしょ……」
真子を物陰に強引に連れ込み、その少女の様子を観察する揺。
「あの子、四月からずっといるけど」
その少女は、真子が入学をしたその日からずっと同じように校門の前で誰かを待っていた。
雨の日なら雨傘をさして、どんな日でも毎日同じように傘をさして誰かを待っていた。
決して、珍しいことではなかった。
「え、じゃあ誰を待ってるか知ってるの?」
興味津々(きょうみしんしん)の揺は、女子のようにわくわくしてそう問う。
「それは知らない。興味ないし」
「彼氏かなー。いいなー、イチジョに彼女って……いいなー」
揺は何度も「いいなー」と呟き、携帯電話を触ることもせずにただ静かに誰かを待ち続ける少女に見惚れていた。
「友達って可能性もあるし、あるいは――――ストーカーだって可能性も無きにしも非ずでしょ」
「万が一、彼女がストーカーだったとしても俺なら許す。てか寧ろ嬉しい!」
何故か誇らしげに目を輝かせる揺。
「イチジョってだけで何でも許されるのね」
「だってイチジョと言ったら才色兼備な子が揃ってるイメージじゃん」
「美人が得する嫌な世の中ね」
真子は天を仰ぎ、なんて不平等なんだと嘆いた。
「マコもイチジョ行けば良かったのに。マコなら余裕だったでしょ」
「イチジョは校則厳しくて面倒くさそうだったからやめた」
同じ私立高校でも、鳥津は自由な校風を売りにしているのとは対称的に一塚女学院は厳しいながらも丁寧な指導を売りにしている。
「面倒くさいを理由にイチジョを選ばないという選択が可能だった人は一体くらい存在していたんだろう……」
恐らくは真子くらいだろうと揺は改めて真子の凄さを思い知った。
「……ていうか、まだこんなこと続けるの? 待ち人が何時来るかも分からないのに。部活生なら六時は過ぎるよ、きっと」
「あと一時間半か……。ずっとこんなとこにいても退屈だし、とりあえず駅前のどこかに入ろうか。駅を使わないのは俺らの中学の人くらいだろうし」
そこまでして揺はあの少女の相手が誰か知りたいらしい。
そんな揺にこの後、特に予定のない真子は渋々ついて行くことにした。
二人は鳥津高校から徒歩で約十分のところにある駅前のドーナツショップに入り、外の様子がよく見える席に着いた。
「いやー、ラッキーだったよ! 期間限定のドーナツがまだ残ってて!」
揺はいつか食べようとはしていたが、タイミングが掴めずに逃したと思っていた限定ドーナツが残っていたことに感動し、テンションが上がっている。
「ユラは相変わらず女子だよね」
そういう真子は無難な味のものばかり好んで選んだ。
「だって期間限定って言葉にどうしても惹かれるんだよ、分からないかなー?」
「新しいものに挑戦する勇気は私には無いかな。常に無難に安全な方に行きたがるタイプだし」
「でも秋限定に外れは無いと俺は思ってる。なんとかショコラとかマロンなんたらとかが多いし」
気候は夏でも、食べ物は秋仕様らしい。
食欲の秋に乗っかろうとしているのだ。夏バテ気味で食欲不振の者もいるというのに。
「ふーん。やっぱり女子だね」
私には分からない、とプレーンドーナツを口に運んだ。
「うーん、そうかなー……」
と、悩みながら揺は鞄から携帯電話を取り出し何かをし始めた。
「ほら、言ってるそばからレシピ検索してるし」
真子は揺の携帯電話の画面を覗き込んでは「やっぱり女子じゃん」と揺を窺った。
「いやこれは今日の夕飯、何が良いかなって思って……」
揺は携帯電話を自分の胸に押し当て画面を隠し、照れながらどぎまぎした。
「女子を通り越して主婦ね」
呆れながらもその中には確かな尊敬の意があった。
「これはもう日課というか……」
「まだユラが毎日ご飯作ってるんだ。でも、一番上の妹ちゃんは中学生じゃなかった? もう任せられるでしょ」
揺には兄弟姉妹が多い。
とは言っても揺が一番年上であり、兄や姉はいない。代わりに弟と妹が二人ずついる。この中で一番年上なのが中学二年生の妹である。続いて、長弟が小学五年生、末弟が小学三年生、末っ子の妹は小学一年生である。
「あいつ……超不器用だから……」
長妹の今までの失態を思い出すと、揺は急に青ざめた顔に絶望を表情に浮かべた。
――――目玉焼きを作ると言い残し、卵を冷蔵庫から持って行ったはずが数分後には殻を含めて跡形もなく消え去っていた。
ふと、フライパンを見てみると何やら黒いものがこびり付いていた。
卵、割るの失敗したです。殻入っちゃったし黄身も潰れたからとりあえず殻も全部かき混ぜて放置したらこうなったのです――――という伝説の迷言を残したあの事件を…………。
どうすればそんな思想に落ち着くのか。ここまで来ると最早、不器用で片付けられるものではない。
「そういやそうだったね」
「ったく世話が焼けるよ……」
そうは良いながらも少し嬉しそうに頭を掻いた。
「……嬉しそうだね」
「分かる……? やっぱり、みんなの喜んでる笑顔が見られると思ったら辞められないんだよね」
「良いお兄ちゃんだね」
「俺なんかまだまだ頼りないよ」
そう言ってはまた楽しそうにレシピ検索を始めた。
「ていうか、レシピ検索に限ったことじゃないけどさ、ユラってよくネット使うよね」
「現代人は大抵そうだよ。マコが使わなさすぎなだけだよ」
真子はこの情報化社会にも関わらず、インターネットはあまり使わない。携帯電話も一応持ってはいるが、最低限の連絡をとる以外では殆ど使うことはない。もとい、連絡をとることも殆どないのだが。
「情報なんて目に見えないものを信じることなんて出来ない」
神と同様に目に見えるもの以外は存在していないと考え、情報も信じようとしない真子。
「マコは用心深すぎるんだよ。今や情報を売買するような時代なんだよ?」
「その情報が嘘だったら? そういうことは考えないの?」
「例え嘘だったとしても、俺はこのラザニアが美味しそうだと思うから信じる!」
揺の端末に映し出されている画面を見ると、家にある材料だけでレストラン顔負けのラザニアを簡単に作るという名目のどこかの主婦が投稿したレシピがそこにはあった。
「ラザニアを作っているつもりなのに、ミートソースのパスタが出来上がることがないように祈っているよ」
「その二つに大差は無いけどね」
作り方次第では……と笑ってみせた。
ラザニア自体はパスタのことである。しかし、いつの間にやら一般的にはミートソースやホワイトソースとあわせたものを指すようになった。
そんな風にいつの間にやら本来の意味を持たなくなってしまった言葉は沢山ある。そもそも意味――なんて持っていたのだろうか。そんな形のないものを持っている証明は少なくとも人間には不可能だろう。
「……そういやさ、担任ってどんな人なの? 生物担当ってことは聞いてるんだけど、今日は生物無かったし」
ふと何かを思い立ったように揺は尋ねると携帯電話を鞄にしまい、真子の目をじっと見た。
「どんな人って言われてもね……。普通の先生だよ、普通の。何か気にかかる所あった?」
真子は担任のことなど特に気にかけたこともなかった。
「教室にいる時間が極端に短いからちょっと気になって。朝もさっきも連絡を終えたらそそくさと逃げるみたいに教室を出て行ったし。なんか気怠げっていうかやる気が無いっていうか……」
「今日は暑いし気怠げなのはみんな一緒なんじゃないかな。まあ、あの先生いつもあんなだけど。新米の癖にもうだれちゃってて」
情けない、と続けた。
「生徒のこと……嫌い、なのかな?」
「それはないでしょ。もしそうなら教師なんてやってないはずだし、あれでも生徒と喋るときは喋ってるし、だれてる癖にきっちりしているように見せかけてやっぱり抜けてるところもあって……。――凄く人間味のある先生だよ」
私よりもずっと……、と続けた。
真子は気にしていたつもりはなかったが、何故かすらすらと言葉が出て来た。しかもどういう訳か良い感じに言っている……。そんな自分が何を考えているのか真子にはさっぱり分からなかった。
「良い先生なんだね。マコが気に入ってるってことは」
真子は昔から教師というものに関してあまり期待などしていなかった。興味がなかったというのもあったが、それより先んじて大人が嫌いであった。姉が成人してからは少しは改善されていたが、その姉が亡くなってしまった今では大人だけでなく幼なじみにも誰にも興味を示さない――好きとも嫌いとも思わなくなってしまった。
「別に気に入ってないよ。でも、あの頃の私なら珍しく気に入ってたかもね」
頬杖をついて、なんとなくぼーっと窓の外を眺めた。
「確かに。あんまり大人って感じしないよね。新任だからかもしれないけど」
担任教師はそれ以上に若く見えたと揺は言う。
――同い年かそれ以下にも見えた、と。
「まあ、でもたまにいるよね。中学生みたいな大人の人」
揺はドーナツを口にして「おいしっ」と子供のように笑った。
「あ、さっきのイチジョ生」
揺の話も聞くこともなく、まさに心ここに在らずといった様子でぼーっと外を眺めていた真子の目に揺の目を奪ったあの少女が映った。
少女の横には黒いパーカーを着ていてフードを被った青年がいる。揺も外に目を遣り、少女が楽しそうに話しているのが見えると、
「楽しそうだなー。相手、誰だろ? フードで隠れてて見えない……」
と言って、窓にしがみつき立ち上がっては必死に相手を確認しようとする。
「別に誰でもいいじゃん。私服ってことは多分上級生だし、知らない人だよ」
とは言いつつも窓の外から見える光景を眺めることをやめはしなかった。
「そうかなー……。でも、フード被ってる人なんてまだいたんだね。もう絶滅したと思ってたよ」
「そういえば珍しいかも。ていうかこの暑い中、よくあんな格好でいられるね……」
相合い傘の日傘に黒いフードを被る青年は異様な雰囲気を醸し出していた。
季節から隔離された、世界から隔離された――ような。
その時、真子たちの視線に気がついたのか少女が不意に振り返った。
「あ、ヤバい! バレた!!」
揺は慌てて目を逸らし椅子に座り咄嗟に携帯電話を握り締めた。
「バレたら何があるのよ。それと、何するつもり?」
「いや、何もないし何もしないけど、無意識に……」
「……この現代っ子が」
何かあればすぐ携帯電話に頼ろうとする、そんな習性を持つ人種を携帯依存症というのだろう。真子の中では。
この情報化社会によって便利になり快適な生活しやすくなったのだが、真子のような人間にとっては寧ろ生きにくくなってしまったのかもしれない。
ネット犯罪も増え、危険も増した。
自分の知らないところで事が大きくなり、自分の知らないところで問題が起こり、自分の知らないところで何事もなかったように解決している。
そんな世の中を真子はどう思っているのか。――どうも思っていないだろう。
「いやー、ケータイさえあれば何とかなるような気がしてね。あの子のことずっと見ていたのが警察とかに知れ渡ったときの対策とか……?」
そんなところだけ無駄に用心深く心配性な揺。
「どんなに小さな情報でもすぐに出回っちゃうような世の中だけど、それはないよ。きっと。だから対策とかしなくていいよ。絶対」
「でも不安だな……。何とかして食い止めないと……」
慌てて携帯電話をいじって何かをする揺を横目に真子は何事もなかったように駅へ入っていく二人を眺めていた。
「え…………?」
小さく呟かれたその声に反応し、真子は揺の方を見た。
「どうしたの?」
「い、いやなんでもないよ……」
揺はクーラーの効いた室内で急に汗を吹き出しては、手を震えを必死に抑えようとしている。そしてただ事ではないことを顕然とさせるかのような表情をしている。
「なんでもないこと、ないでしょ?」
その様子にただ事ではないのだと直感し、真子はいつもよりさらに真顔になって揺に何があったのか尋ねた。
「ちょっと、バイト先でトラブルがあったみたいで……」
「ユラ、バイトしてたんだ」
「うん。ほら、うち兄弟多いから家計がね……」
そう告げると携帯電話を鞄にしまい、立ち上がった。
「んじゃ、そういうことだから……っ!」
揺は逃げるように店を出た。
バイト先のトラブルというのが嘘であるような気がしたが、真子は特に気にはせずその後、店を後にした。
もしそれが嘘ならば、本当は何があったのか。普段は嘘なんてつかない――ついたってすぐにバレることくらい分かってるはずの揺がそれでも嘘をついた理由は一体何なのか。何か私に知られては都合の悪いことなのか。
真子は家までの道中でそんなことを考えていたが、答えは出なかった。
いや――――
答えのようなものは確かに頭にあったが、その可能性は必死にかき消した。
そんなこと、二度と起きてはいけない。起こさせてはいけない。――起きてほしくない。と。
ネット上は現実世界とは全く違う世界で構成されている。
無限に広がり、時間という概念はあっても距離や空間の広さは感じさせない。地球の裏側の人と情報を共有することが出来て、画面の前にいるだけで世界旅行をした気分になれる。さらにネットの世界は現実世界とは違う自分を何人も造り出すことが出来る。
偽りの名前、偽りの人物像、偽りの姿の、理想とも言うべき自分を造り上げ、理想とも言うべき世界で生活する。
ネット上ならどんな自分を演じても構わない。何故なら――相手は自分の素顔を知らないから。
此処に一つのサイトがある。
メンバー登録をすれば自由に参加が出来る掲示板のようなものだ。
数十人以上の大勢で話すスレッドから、二、三人で話すスレッドまで多種多様のスレッドが作成されている。
全盛期はどのスレッドも秒単位で更新されていたが、今は大人数で話す雑談スレッドが少し動いているくらいである。
そんな中、つい五分程前まで最下層まで沈んでいた鍵付きのスレッドが浮上してきた。
そのスレッドは人数制限がかけられていて、二人のみ参加が可能になっている。
一人が雑談スレッドでもう一人を個人が特定されないように呼び出したことをきっかけに動き始めた。
***
»名無しの暗殺者さんが入室されました。
»ウダウダさんが入室されました。
【どうもー。ホンモノでーす】
〖お久しぶりです。〗
〖一年ぶりくらいですか。〗
【そうですね。あの事件以来ですかね】
〖そのことはもう忘れましょうよ……。〗
【黒歴史っていうかなんというかって感じですからね。スイマセン。】
〖ところで、久々にこのスレで話そうだなんてどうしたんですか?〗
〖やっぱり、あのことですか?〗
【はい、それです】
【……ぶっちゃけ、どういうつもりなんですか?】
〖はい?〗
【ウダウダさんですよね? ボク以外であんなことする人って言ったら】
〖違いますよ! 言いがかりですね。まあ、ワタシも名無しさんがやったのだとばかり思ってましたけど……〗
【ボクも違いますよ。もう、あんなことは辞めようって二人で決めたじゃないですか】
〖じゃあ、一体誰が……〗
【誰かがボクたちの】
【サグのなりすましをしているってことですよね。】
〖東京の情報屋のなりすましの人ですかね。〗
【充分ありえますよ、それ】
〖名無しさんもそろそろちゃんとした名前付けたらどうですか?〗
〖なりすましと勘違いされますよ。〗
【それもそうなんですけどねー】
【なんかカッコいい名前が思い付かなくて(笑)】
〖そんなの何でも良いじゃないですか!〗
〖ワタシなんてウダウダですよ!?格好良くも可愛くもないでしょ?〗
【うん。確かにw】
【何を思ってその名前にしたのかは知りませんけど】
〖深くは聞かないで下さい。下らないことですから。〗
〖だから、名無しさんも思い切って東京の情報屋ってストレートに名乗っちゃったらどうですか?〗
【それ、本名言うのと同じくらい恥ずかしいですよ(笑)】
【そこまで清々しく開き直ったら、なりすましは撲滅出来そうですけどw】
〖うーん、、、駄目ですかね。〗
〖名無しさんは名無しだから名無しさんな訳ですからね。〗
【深い。そして、ややこしいw】
【……もう、ナナシーとかにしようかな。なんか精霊っぽいし】
【でも、ボクが名前を変えても状況は何も変わらないような……】
【やっぱり名無しのままにしますわ】
〖そうですかー。でもナナシーって可愛い……〗
〖あと、名無しさんから精霊ってワードが出て来たのも。〗
【あー、ウダウダさんってそういうファンタジー系好きなんですか?】
〖ワタシ自身は信じたくもないんですけど、親戚の女の子がそういうの好きで……〗
【あー、なるほど】
【ボクの妹も何に影響されたのか今度、吸血鬼探しするって言い出しまして……。どうにかならないですかねー】
【吸血鬼なんて存在する訳ないのに】
〖都市伝説……いや田舎伝説ですよね。〗
【田舎伝説ってwww】
【やっぱり地方だとそういう伝説とか多いんですか?】
〖ワタシの地元では結構ありましたよ。〗
【へー】
【ウダウダさんが田舎伝説だったりしてw】
〖上段はよしてくださいよ……〗
【?】
〖あぁ、誤字誤字!! 冗談です! 上段じゃなくて!〗
【……動揺してます?】
〖何で動揺しないといけないんですか!?〗
【いやいや。していないならいいですけど】
【……ウダウダさんって何者なんですか?】
〖はっ、はい?〗
【こんなにボクとネット上で親密に話せる人ってウダウダさんくらいなんですよねー】
【みんな、名無しってだけで怖がってるのか知りませんけど気を遣ってきて。ホント面倒くさいんですよ】
〖名無しさんは別に怖い人ではないですね。世の中にはもっと怖いのがいますから。〗
【まあ、ボク自身もあんまり積極的に絡むようなタイプでもないんですけどね】
【でもウダウダさんとは絡みやすいっていうか、どこか惹かれるものがあるっていうか……】
【だからウダウダさんって何者なのかなーと】
〖あ、そういうことですか。〗
〖えっと、ワタシが何者かって言いますと……〗
〖絶滅危惧種……ってとこですかね。〗
»ウダウダさんが退室されました。
【あ、出て行っちゃった】
【ウダウダさんにも人に知られたくないことってあるんだなー。当たり前かw】
【ていうか、話すげー逸れたな】
【マジで誰なんだよ……】
【とりあえずボクも落ちますか】
»名無しの暗殺者さんが退室されました。
***
このやり取りは約三十分程のものであった。
彼らはかつて『サグ』を名乗り、この掲示板『サグライダーの集い』を拠点にしてネットの世界を中心に犯罪活動をしていた。
詐欺などの現実世界で罪に問われることはしていなかったが、ネットの世界での殺人――つまりは造られた人格、偽りの人格であるアカウントを潰すようなことを主にしていた。
ネット世界の裏社会では有名であり、気に食わない者がいると彼らに頼って消してもらおうとする輩も多くいた。
しかし、『サグ』という名は知ってはいてもそれが一体誰なのかを知る者はいない。
一年前、『サグ』は突如として活動を辞めた。
その原因は、一つの事件であった。
『サグ』が活動を辞める二週間前、とある街で誘拐事件が起きた。
誘拐された女子中学生に怪我はなかったが、駆けつけた警官の一人が銃殺された。
この警官の死を事故と捉える者も殺人と捉える者もいる。
どちらにせよ、人一人の命が失われたこの事件はテレビのニュースでもネット上でも話題に取り上げられた。
一時は日本中を震撼させたこの事件。未だに犯人が逮捕されていないのだ。
容疑者とされる人物――集団。それが『サグ』である。
そして『サグ』が逮捕されない理由――それは、素顔を知る者がいないから。
彼らの顔を見たのは誘拐被害に遭った女子中学生と射殺された警官だけであった。
女子中学生は事件のショックで犯人の顔の記憶を失っており、今となっては犯人の手掛かりは何一つ無くなってしまったのである。
ネット上では、名前だけが有名であり実態の掴まれていない『サグ』の個人を特定することは不可能であった。
東京の情報屋と謳われた者でさえも。
ネット世界でのみ活動していた彼らが遂に現実世界の人間に手を出したと裏社会は騒然とした。
実態こそ掴まれてはいなかったが、『サグ』の悪名はネット上の表世界にまで広がった。
そうなってしまってはもう活動は出来ないと、『サグ』は活動を辞めた。
…………はずだった。
しかし、一年の時を経て彼らはまた動き出した。
『サグ』を名乗る『サグ』でない何者かが動画サイトで犯行予告を出したのだ。
それを見たネット世界の住民に再びあの畏怖の念を抱かせた。
勿論、彼らは今回の騒ぎを起こした『サグ』を偽物だとは知らない。
『サグ』は誰も素顔を知らない、実態の掴まれていない――言わば都市伝説のような存在だ。
何が本物で何が偽物なのかは当人同士しか知り得ないのである。
偽物の『サグ』は一体、誰で何が目的なのか。
これを受けて再び始動した本物の『サグ』は一体、何をどうするのか。
そしてその本物の『サグ』とは誰で何者なのか。
一体誰が何で世界を揺るがそうとしているのは何者でその目的とは何なのか。
二つの世界を横行する事件と謎は人々にどんな影響を及ぼすのか。
それを全て知る者はさて、存在しているのか。
神は全てを知っている。などと言われてしまえばお仕舞いだ。
――――なら、君は神の存在を証明することが出来るのか?