断章 #twnovel 001-100
【1】
その国は、雲海の彼方、天に聳える山の頂を美しいすり鉢の形にくり貫き築かれていた。鉢の臍では荒ぶる獣が一匹眠りに就いている。神代の賢人が囁いた子守歌が鎖ざされた岩壁に反響し永久の遡上を続けている。外界に焦がれた若者が美しいすり鉢をついに削ぐまで、獣の微睡みは続く。
*
【2】
その男は、何かを探しているのか、町に四件だけ在るコンビニエンスストアを、一日一件、決められた順に徘徊しており、わたしは、夜毎に男の背を追跡るようになって九日目に、その奇妙な習慣のことを知った。
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【3】
灼熱の大河に、天秤が流れをさして立っている。皿上の二人の人間は、身を軽くする為の方策に汗している。天秤が傾き、さあ、衣服を溶岩の瀬に投げ入れた。指輪を抜いた。髪を切った。足を落とした。耳を削いだ。目を諦めた。腕を捨てた。胃の中身を出した。唾を吐いた。涙を流した。
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【4】
鋭い針が指の隙間も無くふつふつと生えた地平のただなかで、男女が互いの腋に腕を差し込み、相手を針の大地から抱え上げようとしているが、互いの優しさが邪魔をしてどちらも助からない。
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【5】
ある朝お姫さまが目を覚ますと、隣のベッドに弟の姿がありません。弟の代わりにいびきをかいていたのは、まるまる太った大トカゲでした。お姫さまは「弟が変身したのだわ」と思いましたが、王様や大臣は「トカゲが弟王子を食べてしまった!」と言ってトカゲを殺してしまいました。
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【6】
何の気もなしにテレビを点けた。画面にはわたしの父親に良く似た男が映っていた。父親ならばまず着ないような派手な衣装を着たその男は、だが、見れば見るほど父親に似ていた。やがて顔だけでなく仕草や声まで同じだと気づいたとき、わたしは怖くなってテレビを消した。
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【7】
その国は、とても極端なので、国民は皆、王様か奴隷か、賢者か愚者か、飽食か飢餓か、死んでいるか生きているかのどちらかである。
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【8】
隣の部屋から自分の声が聞こえてくるので、出て行くことができない。
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【9】
わたくし、他人が恐ろしくて、ずっとシェルターに籠もっていたのですけれど、あるときを境に、自由に外に出られるようになったんです!
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【10】
悪魔から、おまえは魔女か薪か、と問われ、魔女だと答えれば火にくべられ、薪だと答えれば火にくべられる。口をつぐめば答えるまで殴られ続ける。
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【11】
達人は、ぬらぬら光る刀を水平に構え、実に鮮やかな手並みで大根を真二つに斬った。ここですばやく断面を合わせると、巧くすれば、再び元のようにくっつくのだという。感心していたら、その要領で、わたしは巧いこと体の半分に魚をくっつけられてしまった。
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【12】
彼は生まれたときから人間の言葉を否定し続け、一度たりとも声を発さず、文字を綴らなかった。人間以外の動植物と言葉を交わすためにはそうしなければならないという直感があったのだ。それとは別の意志の自由で、動植物たちは彼に語りかけることはなかった。
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【13】
晴れた日は干からびたと言って目減りした牛乳瓶を、雨の日は嵩増したと言って水ほどに薄まった牛乳瓶を、せっせと毎朝配達しに来ていた糞餓鬼は、おかげさまでか、あっという間にわたしの背丈を追い越した。大事なものを何食わぬ顔で掠め盗った、その代価をいまこそ払ってくれ。
*
【14】
国土全てを覆う巨大な漏斗の下で、王が今か今かと雨を待っている。国中の雨を集めて、王宮に新しい泉を作るのだ。王の背後では、痩せた身体に刺青を巻きつけた祈祷師たちが一糸の乱れもなく呪言を捧げている。雨は早いだろう。
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【15】
墓地で魔神の力を商う紫の老人は代価に「人間の半分」を要求し、復讐を誓った若者は後退を売り払った。力を恃み仇敵を追い、血道を進んだ若者はついに望みを叶えたが、飽くなき憎悪に枯果てたはずの肉体は、前進をやめない。若者は夜に追い立てられるように深淵へと消えてしまった。
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【16】
もう足を踏み外した日のことも忘れてしまったというのに、落下はまだ続いている。
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【17】
いいか。よく聞け。眠気と尿意は、一見、相反する。矛盾する。そう見える。だが実際にこの身に宿してみればどうだ。実に上手く共存しているではないか。
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【18】
お前のせいだ、お前のせいだと、訳もなく周り全てから責め立てられ、逃げ出した先の荒地で、男は自分だけの王国を築いた。灌木の下の一人寝に寂寥を覚えては街に舞い戻り、礫と罵声を土産に晩酌の供とした。孤独の渇きを悪意で癒し続けて幾星霜、いつしか男は異形に変化していた。
*
【19】
男は目醒め、集落の外れの小屋で暮らし始めた。ほんの瞬間さえかみさまの声を聞き逃さぬように、邪魔な目を潰し、鼻を焼いた。古屋根から滴る夜露だけで命を繋いだ。「」。「」。「」。暗闇の中、沈黙の耳鳴りに紛れた本物の天啓を逃さぬように、男は独り耳を澄まし続けている。
*
【20】
みぎわの乙女を連れて新獣さまが住まう澱の洞窟まで行ったんだ。だけど洞窟の手前で立派な鎧をつけた変な男に遭ってね。「忌むべき迷信が、まだ私の治世にあるとは」。そいつ、乙女を奪おうとしたんだ。新獣さまの餌を盗まれたら大事だろ。おれ、そいつをやっつけてやったよ。
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【21】
家で振るわれた暴力を隠すため、顔に粉を塗りたくった。「あのこ最近化粧濃くない?」「似合ってないっつうの」「誰か教えてあげなよぉ」友達が減った。
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【22】
それの不在を証明するためには、まずこの世のあらゆる土地を虱潰しに捜さねばならない。極地の凍土を、影のない砂漠を、浅瀬に臨む太古の村を、娘の鎖ざされた胸を、隈無く、こそ泥のように盗み、捜さねばならない。最後の土地を訪れるまで、憎きそれを追い求めねばならないのだ。
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【23】
巨木の陰から出てこない男がいる。一歩陽光に踏み出せば、たちまち体が泥になるというのだ。泥でも愛してくれるという伴侶を得るまで、男はそこから動かぬらしい。あとで人から、木陰に居着いて三十四年と聞いた。気の長いことだ。
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【24】
東の果てに、群島が海を狭しとひしめく海域がある。小さな島々には、塩に触れると石化してしまういきものが棲んでいる。いきものは島の草木を根こそぎに食い尽くすと眠りに就く。やがて海域を包む豪雨のおとないで目を覚まし、狭海の上澄みを駆けて次の島へゆくという。
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【25】
軒先に小汚い目玉売りがいる。素直な子供の眼、二千五百銭。嘘を看破する閻魔の眼、八千八百銭。真実を見抜く天使の眼、一万飛んで三百三十三銭。ガラスの眼、七百銭。どれにする、と歯を剥いて嗤う商人にひと蹴りくれて、蹲る背中に唾を吐き、客はガラスの眼だけ奪って立ち去った。
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【26】
夢の中で見たものを、現実世界に顕現する子どもがいた。彼は俗世の一切の悪意から隠され、うつくしく価値のあるものだけを見せられて育った。寝ても覚めても、瞼の裏に極彩色の花と鳥、天上の調べ、金銀宝飾の群れがおどる。ついに子どもは決壊し、世界は輝きの洪水に呑まれた。
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【27】
天に伸びる塔を登り続ける一族がいた。鳥を撃ち、石壁をつたう妖草を口にし、固い床の上で眠り、祖父母から受け継がれた衣服を身に付け、きょうだいで契りを交わした。使命か。罰か。もはや答えは遙か下層に置き去りにされ、天を目指す一個の蟲のような漸進だけが続いている。
*
【28】
子どもの頃、暇をみては天国の設計図を考えていた。いずれ自分が住むと約束された土地を、明るく寂しい想像で埋めていたものだった。いまや天国に住む資格は失われてしまったが、歳月は代償として設計図の名を書き換える狡さをくれた。わたしはわたしだけの王国を所有している。
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【29】
左の装置の中にはつるんとした肌色の塊があった。右の装置の中には手足と目鼻口耳とあらゆるものが倍になった何かがあった。係員は操作ミスだと肩をすくめている。
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【30】
目を覚ますと記憶の全てを失っていた。髪に砂塵が絡んでいる。見知らぬ荒野だ。自分が何者で、なぜここにいるのか分からない。傍に転がっていた「開けるべからず」と封された棺桶の牽き綱を手に食い込ませ、西へと歩く。期待外れの絶望を開けてしまうまでは、歩き続けられるはずだ。
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【31】
離れて暮らしていた恋人が死んだ。遺品のパソコンを眺めていたクイールは、Qのキーが黒ずんでいることに気がついた。照れくさがりの恋人は、手を繋ぐのにも一年かかった。きっと、宛名を書いてはためらい、電子の海に捨てていたのだ。届かなかったメールはいくつあったのだろう。
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【32】
いつだって石礫を投げる側になりたいので、夜な夜な五感を研ぎ澄ませている。
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【33】
影から影へうつりすむ生活をしていたら、あるとき足もとを飛行機の影にすくわれて、海のむこうに下半身だけつれていかれてしまって、上半身は路傍の影で途方にくれるしかない。
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【34】
財政難に陥った天国が、天国行きの切符を百万ドルで売りに出したらしい。ある乞食の提案で、地上の貧乏人は一口五ドルで富籤を引くことにし、ついに金が集まった。当選発表を待つ前夜、かの乞食が金を盗んで逃げた。捕まった乞食が絞首刑に処された瞬間、百万ドルは消え去った。
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【35】
意味深な直方体の表面にびっしり貼り付いていた、あらゆる国の言語で警告が書き込まれた付箋を全て剥がしていったが、剥がした付箋の下からまた新たな付箋が出てくる始末で、肝心の中身は一向に現れず、しまいには付箋に記された警告文すら解読不能の古代言語になってしまった。
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【36】
いつも日の出よりちょっと早い時間にうちの前を通るあの人は、吸血鬼なんだって。夜明けに捕まらないように走って逃げて、世界をぐるっと一周して、だから毎日おんなじ時間にうちにくるんだって。おじいちゃんになって足が弱ったら、お日様に追い抜かれて焼け死んじゃうんだって。
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【37】
ある朝、背中から虫の足のようなものが二対生えてきて、もじゃもじゃと好き勝手に動いて言うことをきかないので、思いきって苦情を言ってみたら、最近はこっちに気を遣うようになったらしく、得体の知れない獣のようなものをいつの間にか捕まえてきては、口もとに押しつけてくる。
*
【38】
幸せな恋人たちが手に手を取って、アスファルトの歩道をスキップして通りすぎてゆくと、あとからあとから花が咲き乱れ、蝶が舞い、すてきな音楽が流れてきて、あとからあとから、花売りははさみを、薬屋は虫かごを、音楽家は速記帳をそれぞれ持って、恋人たちを追いかけてゆく。
*
【39】
一人孤独に森の魔物を討ち殺してまわりながら、あの人がいつか報酬に供されてくれないかと考えている。
*
【40】
思うことと反対のことしかできない。かあさんに優しくしたいのに冷たくしてしまう。あのひとに抱きつきたいのに近寄れない。おまえなんて大嫌いで顔も見たくないのに笑いかけてしまう。わたしはおかしくなってしまいそうなのにあたまとこころはますます冴えわたってゆく。
*
【41】
ばあちゃんのばあちゃんは月に憧れていて、亡くなる直前まで月に行きたい行きたいって言ってたって話だけど、それはばあちゃんやママのついた嘘だと思う。あんな何もないところ。きっと、あそこに行かなきゃいけないあたしを慰めるための嘘なんだ。行くなら火星の方がまだよかった。
*
【42】
彼らは定点から完全な姿で生まれる。生まれて三秒目で時空転移のよろめきから立ち直る。次の七秒で放たれたやじりのように地平線に向かって駆ける。十秒目に塵よりも細かく崩壊して死ぬ。マイナス十秒目にまた定点を起点に再構成される。彼らの世界は半径七秒に極限されている。
*
【43】
長らくの沈黙があった。死人のような青白い顔で、あなたが好きだ、と男が言った。はい、と頷くと、男のくちびるが痺れたみたいに痙攣した。不器用な笑みはやがて狂気をひらめかせた哄笑に変わり、怖くなって逃げ出そうとしたが、男に掴まれた腕はすでに氷漬けにされていた。
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【44】
あなたが好きだ、と男が言った。手をつないで帰った。
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【45】
あなたが好きだとか、嫌いだとか、言ったり、言われたりする人が、世の中にはいるらしい。
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【46】
雑踏ですれ違った黒服に肩をつかまれて、手のひらに拳銃を握らされた。「十秒やる。それまでにおれを撃て。さもなくばおまえを殺す」と差し迫った声で黒服はささやいて、背を向けた。離れた路地から誰かを探す怒声が聞こえてくる。黒服が言う、「あと五秒」「あと三秒」あと……。
*
【47】
無期懲役で収監された男の枕元に、ある朝から一日一枚、一平方センチに切り取られた写真が看守の目をすり抜けて届き始めたが、モザイクのピースを集めて作る写真はあまりに巨大で、全体の一部も独房では展開できず、仕方なく男はモザイクの大きさを十倍縮める筆写を始めた。
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【48】
貧民街にそそり立つ高層ビルの屋上で、富豪たちが下手くそなテニスをしているが、ボールが大粒のダイヤなので地上に落ちても苦情がこない。
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【49】
世界平和が訪れて久しく、この世から悪人はすっかりいなくなってしまったので、地獄の釜ばたでは閻魔と奪衣婆が暇、暇、と言いながら、年季の入った骸骨を悲しい手つきでなでている。
*
【50】
月灯りが差しこむ薄闇の部屋の中、鏡に映る姿が消えるまでスカートでこすり続けている。
*
【51】
終点まで地球時間で二年と半年かかる外惑星鉄道の切符を買って、四人がけのコンパートメントに一人腰掛け、何かが起こらないかしらと、うつろな目つきで窓の外の星々を眺めている。
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【52】
安らかな眠りに落ちたい。幸せのしっぽを捕まえたい。輝いていたあの日の影をもう一度踏みたい。望みが叶うまで、あとどれだけ夢の中に潜ればいいのか、誰か教えてほしい。
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【53】
朝起きて、用意していたリュックを背負って、隣町まで歩いて、あの自販機の前で足を止めて、会社の始業時間はとうに過ぎていて、ありあまる百円玉をリュックから取り出して、硬貨口に押し込んで、押し込んで、押し込んで、じきに十万で、そろそろ見合うものが得られるはずなのに。
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【54】
ファンの半分が彼は死んだと答えた。残った半分のうちさらに半分はどこかにいると答えた。もう半分は健在だと答えた。公式サイトは東南アジアに旅行中だと表明した。バンドのメンバーは肩をすくめて適当な方角を指さした。家族は取材攻勢に門戸を閉ざした。死亡届は受理されている。
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【55】
迷子の夢から目覚めたとき、あなたは見知らぬ街を歩いていた。あなたは家に帰りたいが、住んでいた街の名前が思い出せない。道ゆくバスの行き先を見て、心に掛かった地名に乗り込むが、どの路線もあなたの望む道に続いていない。乗降のたびにあなたは遠いところへ運ばれてゆく。
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【56】
嫉妬深く、猜疑心に満ちたその女王は、一マイル先に落ちた針の音も聞き分け、また一マイル先をゆく馬上の顔を見分けることができたので、女王の統治下にある国民たちは、暗闇の中で固く抱き合い、指文字で互いの皮膚に愛を囁きあった。
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【57】
どこへ逃げても、目が覚めたときには、びしょぬれの封筒が背中に配達されている。
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【58】
ある星に降り立ったそいつらは、かつての知的生命体が暮らした遺跡から妙にすべらかな木の棒を発掘した。こびり付いていた土を取り去ると、先端からは獣の皮脂が検出された。この地に栄えた生物たちは、この頼りない木切れで獣を追っていたのだろうか。太古の太鼓は黙して語らない。
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【59】
幼なじみの彼女は、人を愛することが好きでした。また、幼なじみの彼は、お金を数えることが好きでした。いま二人が仲良く娼館を経営しているのは、そういうわけなのです。
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【60】
お父さん大好き、お父さんと結婚する、と娘から言われた男は、妻の処遇も含めて、それを実現するための具体的な方策を練り始めた。
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【61】
抱きしめるものがないので、代わりに自分を抱きしめるしかない。
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【62】
いつだったか。沿道にズラリと無言の女たちが並んでいたことがあった。なかにとびきり胸のでかい女がいて、それだけが、「おいんいああええあい」などと叫んでいたのだ。そのときはボインしかシャべれないのだな、と納得していたが、ヨクヨク考えると、そんなバカな話もあるまい。
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【63】
いつまで続けるのですか? 三日月がわたしを笑いにくるまでです。
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【64】
戦場をさまようシスターが、誰のものとも知れない腕を火箸で拾い集めて、大切な人たちを抱きしめるための腕が足りないのです、と嘆いている。
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【65】
あれから三十年の月日が流れました。残っていた最後の一柱もついに倒れました。戦士たちが打ち鳴らした剣戟は、子どもたちの声とともに追憶に葬られて久しくなりました。……風が出てきました。じきに最後の火も消えるでしょう。願わくは我らのゆく暗闇の道に幸多からんことを。
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【66】
暗闇の世界で一人暮らしていた、カンテラを持つ白い手の持ち主は、暗がりのそこかしこから聞こえる囁き声を孤独な生活の慰めにしていたが、期待を込めて照らした先で、何かを見つけたことはない。炎が届く瞬間に暗闇の生き物たちが蒸発してしまうことを、白い手の持ち主は知らない。
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【67】
国民投票及びそれに続く決戦投票で彼女は敗れ、彼はもう一人の女を娶った。
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【68】
長い行列に並んでいる。列の先頭は二叉路に分岐している。岐路に積まれた石は、右が人間の道、左が悪魔の道と示している。右の分かれ道の先には血に濡れた斧を構えた処刑人が、左の分かれ道の先には満腔の笑みを浮かべたふくよかな大男が手揉みをしながら待ち受けている。
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【69】
十五の夜に盗んだ電気で走り出す。風を切り裂きギアを上げ、景色をミラーの中に置き去りにする。全てを忘れてひた駆ける。煙草のにおいも、燃費も、節電も、法定速度も、何もかもを振り切って。
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【70】
その星では雷は地から天に走る。探検家たちは、砂漠の海を船を牽いて渡り、地雷と呼ばれるそれをこぞって探し求めた。天心へほとばしる雷光の先端を捕まえて、火花の飛沫を散らす電流に船を乗せ、先祖がかつて住んでいたとされる天空の島に己の足跡を刻むのだ。
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【71】
復讐なんてやめろ、気弱なおまえよ、相手は隣国の王子だ、早まるな、おい待て、仇を追って村から出たりしたら絶交だぞ、待てって言ってるだろうが、国境を超えたら絶交だ、おい待てよ、城下町に入れば絶交するからな、城門をくぐれば本気で絶交だ、待て、待ってくれ、待ってくれ!
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【72】
女流作家は言う。ときどき覚えのない不思議な一語が画面に打鍵されていることがある。霊感のヒントだろうか、おかげで創作意欲が刺激される、と。いや霊感なものか、おれが押入の中からちょいと手を伸ばしただけだよと書いてやったら、ほら女が振り返る。やあ。初めて目が合ったぜ。
*
【73】
床に三つ天井に二つ、拳大の穴が空いた半畳の部屋にあなたはいる。天井の穴からは玉が落ちてくる。今日は右から五個に左から八個。あなたは床の穴にそれらを放り込む。右に三個真ん中に一個左に残り全部。あなたは半畳の部屋が上下左右に連なっていることを薄々感じ取っている。
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【74】
やり場のない怒りを感じるたびに掌紋の溝が少しずつ深くなっていく。耐えがたい痒みにおそわれるたびに胸にタールが溜まっていく。生きて呼吸をするたびに骨が平べったくなっていく。溝のくぼみにタールをとって、今日あった悲しいことと楽しいことを、指で骨に書きつけていく。
*
【75】
ご主人にむち打たれる覚悟で銭をちょろまかし、町外れに住む老人に頼み込んで数字と四則演算を学んだ少年は、初めて自分のために乗算を使って、彼と彼の痩せた母親がこれからの十年を身を粉にして働いたとしてもご主人の恋人が身に付ける薄布一枚すら買えないということに気づいた。
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【76】
引っ越すたびに、前の家の鍵を一つ複製して、上着の裏地に縫いつけている。
*
【77】
あなたしか知らない秘密の話は、他の人からは何もないのと同じに見える。何も持たないあなたは、何も持たないあなたたちの集合の中で暮らして、ときどき他の誰かに肩をぶつけては、ほころびかけた輪郭の隙間を、あわてて縫いあわせている。
*
【78】
気さくな剣と仲良くなった。きみの体に住まわせてくれと言うので背中を貸してやることにしたが、柄の部分がどうしても外にはみ出てしまい、気まずそうに謝ってくる。仰向けに寝ることと友情を秤にかけて、剣を選んで、ありがとうと言われる。
*
【79】
男は、君の歌を聴かせておくれ、と言って人魚をそそのかし、寄ってきた船を沈め、海底から積み荷をさらっては、いそいそと恋人のもとに捧げにゆく。恋人は美しい宝石だけを密かに選り抜いて、喉が痛いと嘆く可哀想な人魚に贈る。人魚はやがて訪れる男のために、のど飴をなめておく。
*
【80】
渾身の思いで、待って、と叫ぶと、振り向いた人の足が取れる。
*
【81】
ロック鳥の卵を盗んで、悪魔の繭とすり替える。母鳥は気づかずに繭を暖めなおす。やがて繭の表面に紫の血管が浮きあがり、微かな脈動が始まる。繭に覆い被さる母鳥はやつれ、飛ぶ力をなくしていく。繭の中の悪魔は、あるときから、こちらをじっと凝視している。
*
【82】
あれもこれもと削り取られて、残されたのは、これは夢だと断ずる自由だけ。
*
【83】
家族と身分を奪われて、丸裸で外に蹴り出され、餞別に服か剣かのどちらかを選ばせてやる、と唾される。
*
【84】
五十音のいろはを無心に眺めて、両手で包まれた愛を表すための文字、泥に投げ込まれた絶望を表すための文字、骨を切り裂く喪失を表すための文字、輝ける幸せを表すための文字を探している。
*
【85】
鈴なりになった林檎の木を睨みつけ、襤褸をまとった男が十本の指を組んで一心に祈る。落ちろ。落ちろ。男を囲む黒山の人だかりがはやし立てる足元で、粛々と行列していた蟻の首がぽろぽろ落ちる。
*
【86】
氷の城はとても寒くて、お城ではたらく皆は、ことあるごとに、口をそろえて、寒さをなまける理由にします。困った王さまは、神さまにお願いして、立ち止まったり座りこんだりした人を、氷像にしてもらうことにしました。さて夜が来て、朝が来て、お城は真実の氷の城になりました。
*
【87】
テレビの中に人間が詰め込まれているわけではないことは理解してくれたが、携帯電話が意志を持ってしゃべっているわけではないことはどうやっても納得してくれない。
*
【88】
暗い森の奥から子守歌が聞こえてくる。不思議に眠りを誘う、胸にまつわりついてくる呪言を怪しみ、幾人もの勇士が森を目指したが、誰一人戻ってこない。歌声は、少しずつ、染みだすように、森の外へと広がっていく。すでに四つの村が微睡みにのまれている。
*
【89】
家に帰ると、彼よりも年収が高く、彼よりも酒に傾倒しておらず、彼よりも家族を愛している、彼と同じ顔の誰かが妻と娘と食卓を囲んでいた。以後一度も自宅に足を踏み入れられない。百万の家々が見せる窓の向こうの光景にものほしそうな視線をやりながら、ホテルの部屋に戻ってゆく。
*
【90】
車に何度も押し広げられ路上に薄く張り延ばされた毛皮から、熱帯林の木々を躍動し、赤目のカエルを捕食していた猫科の過去を幻視する。
*
【91】
古代遺跡「会社」。一度侵入した者は終身囚われる。「管理者」から五日間逃げ切ると、二日の休息が与えられる。季節の変わり目には「人事」が首切り包丁を携えて徘徊をはじめる。六十歳まで逃げ切れば解放されるという噂もあるが、とある階層で六十五歳の男を見たという声も聞く。
*
【92】
別れて暮らすようになったあの日から、一日だって娘のことを考えない日はなかったし、夢でも毎日話しかけていたというのに、十年ぶりに娘と会えることになったとき、入ったレストランで、美味いかとか、流行のドラマの女優のことだとかを、一言二言を交わしただけで終わった。
*
【93】
五歳の頃から離れて暮らしている父親と十年ぶりに会うことになったが、何を話せばいいのか分からないし、気まずくて顔を合わせたくないし、いまさら語りあうべきことも持たないので、クラスの一番かわいい子に千円払って代役を頼んだ。後で経過を聞いたところ首尾は上々だそうだ。
*
【94】
花の蜜が蜂を集め、魚が猫を食べ、大気が肺を吸い込み、踊り子が男たちを眺め、子供が親を産み、文字が指先を操り、音が弦をかき鳴らし、人間が死を連れ去る。君は俺のことが好き。
*
【95】
違うんです。まず髪と爪が急に伸び始めて。それが最初だったんです。その、伸びるっても、何も無ければ伸びないでしょう。代わりに私が飢えたんです。栄養を取られて。尋常でない早さで。だから手当たり次第に食べて。ええ、ええ、そうです、最初から化け物だった訳じゃないんです。
*
【96】
「なぜ」を抱いた日から、少年は大人になった。魔物の苦悩の日々が始まった。聖女はただの女に堕ちた。
*
【97】
久しく帰っていなかった故郷に気まぐれで足を運んだら、家々は樹海の森に半ば呑み込まれていた。村の中心広場には、見知った人々の代わりに、見覚えのない石碑がいくつも並んでいた。苔むした碑文は村がたどった運命を記しているようだが、そこかしこになぜか私の名前が現れている。
*
【98】
見渡す限りの大海原の真ん中を、草の川が横切ってゆく。青と緑のあわいで人魚は釣り糸を垂れる。風が吹き、糸が引かれ、竿を握る鱗の腕が跳ね上がると、釣果は黒目を瞬かせた子牛一匹。いかだに乗せる。人魚はまた針にふかふかの草を結んで緑の川瀬にぽいとやる。今日も平和です。
*
【99】
名前を一つ捨てるたびに、彗星の光芒を放って燃えあがる。人々は名も無き星の輝きに一度は心を奪われるが、ねじまきの秒針が音を刻んだ瞬間、雑踏の誰もが彼を覚えていない。
*
【100】
文字が未だ生まれぬ頃は同じ喉の動きを繰り返す。筆が炭を含む前は石くれと指が縦横に走る。紙が謹製さる以前は岩壁木版を削ぐ。空想を書き留めるより先に啓蒙を記す。史は綴られ、暮らしの細々は伝わる。いま、指先で小さな箱から叩き出された文字たちは、どこかへとさまよい歩く。