その19 武田菱 (9)
諏訪頼重が高遠に不穏な動きありと言う報告を聞いたのは
四月の初めであったが
その報の出所は曖昧だった
しかし
常に警戒の必要な状況に諏訪はいた
もともとは
「高遠」も諏訪大明神を奉ずる「一族」なのだが
大祝の座をめぐって。。。。
見苦しい事だか揉め事の絶えない状態にあったからだ
そんな中にあっても
諏訪の城下は温かい雰囲気につつまれていた
「新宮」誕生
惣領家待望の「男子」誕生に喜びがそこかしこにあった
「良き空じゃ。。。」
雨の合間に晴れあがった清々しい空を見回しながら
城下を馬で駆ける
頼重はまぶしい空を見回し言った
「寅王丸にもみせてやりたいのぉ」
と
普段は口をへの字にまげ
まだ若いとはいえ気苦労の絶え無さか眉間に皺をよせている頼重が
子煩悩な笑みを家臣たちの前で見せていた
彼が惣領家を継いだのは
三年ほど前だった
やっと武田との「戦」三昧の日々が終わりを告げ城下にもにぎわいのある風景が戻った諏訪
神事徒事するために髭をそり
年齢よりもさらに若く見える顔
「和睦」の証としてやってきた禰禰との間に授かった
「寅王丸」。。。
ようやく
静かな生活をしていける
争い事は。。。。好きじゃない
この諏訪で大明神を祀り
良き妻,愛しき子を得た
苦労の多かった若き日もこの時のためと思えた
そんな安らいだ晴天の日にも夜の闇が訪れるように
簡単に暗転してまう
その時は近づいていた。。。
六月二十五日。。
「甲斐武田軍,昨日諏訪に向けて兵を挙げました!!」
その報告を聞いた時。。
頼重は手に持ち目利きをしていた脇差しを落としてしまった
「なんだと。。。?」
聞き直そうと報告を持ってきた使い番を見たが
なおも続く報告に言葉を失う
「また。。。高遠も少数ながらの兵ではありますが諏訪に向かっておるとも聞いております。。」
頼重の頭は混乱した
高遠が兵を挙げるのは
少なくない事だ
度重なる嫌がらせの一つに入るほどだ。。
だが
武田は何だ?
何の前触れもなく兵を挙げ
何故
諏訪に向かっている?
諏訪に向かっているのか?それとも「信濃征伐」の挙兵なのか?
今はまだ同盟の仲ぞ?
それにしても事前に何の連絡もなかった
「何がおこっている!」
頼重は
呆けた自分の頬を平手ではり倒し
目を怒らせて
使い番に怒鳴った
「わかり。。かねます。。ただ西方では武田の諏訪攻めに「参陣」せよとのふれがあったとの事」
武田。。。。
「しかしながら金刺あたりでは高遠が諏訪を狙ったために武田が出兵したとの。。噂もありまして」
金刺。。
高遠。。
混乱はますばかりの報告だ
「誰が諏訪に対して旗を揚げているのだ?」
頼重は家臣団の顔を見回した
誰にも検討のつかない「挙兵」
わからない事にただ苛立つ
共に城下の見回りにきていた者たちにも「混乱」が見える
もう一度問うた
低く自分の油断を押し殺すかのような声で
「誰が諏訪の敵なのだ?」
場が静まりかえる
誰にもわからない。。答えられない
今までこれほどの「暗闇」。。明確さのない戦の報を聞いたことがなかった
「武田が諏訪を。。それはあるまい。。。禰禰に子も生まれたばかりぞ」
自分の口に登った妻の名に城下から
上原城を見た
「禰禰。。。。」
城下から馬を駆り城に戻った頼重は蒸し暑さに滝のように汗をかいていたが。。
本人の感じるものを足せば
「冷や汗」が大半を占めていたと言い切れた
すでに使い番による報告が入って
城内は騒然としていた
家老衆たちは早々と軍議の支度を調え
備えに入ってはいたが。。。
結局のところ「敵」のわからない模索状態にかわりなく
主君の帰りを待っていた
足取りを落ち着かせ
奥屋敷に向かいながら
「混乱」の報告に惑いながらも
詰め寄る重臣たちに指示をだしていく
主君が落ち着いていなくては。。。どうにもならない
しかし
これは暗闇の中での「準備」だ
何もわからない。。。ではなく
何が正しいのかがわからない
向かってくる「武田」はいったい何だ?
それに併せて兵を挙げている「高遠」は。。。何だ
何もわからないから何の準備もしないわけにはいかない
すでに
何かが進行している。。。
それは間違いなく「戦」なのだ
「とにかくどんな子細な事も城に届けさせろ!!城の防備を固め兵を集めよ!!」
そこまで指示をして奥屋敷に入った
侍女たちが揃う中
乳母に抱かれた「寅王丸」の姿がすぐに目に入った事で
騒ぎ続けた心に落ち着きを戻した
やはり赤子の前で慌てた自分を見せられない
心の強い「父」でありたい
頼重はその小さな赤子の手をとった
昼を少し回った刻
泣き疲れたのか。。乳に満足したのか静かな寝息の中にある「寅王丸」の柔らかな頬をなでた
「良い子じゃ。。」
息を整えた頼重の声は優しかった
手に触れる温かな存在に自分の騒ぐ気持ちを落ち着けた
「禰禰はどおした?」
「寅王丸」に見とれ気がつくのが遅かったが
いつもなら誰にも手放さぬ勢いで寅王を抱いている禰禰の姿が見えない事に気がつきあわてて侍女に聞いた
女たちは困った顔をするだけで答えようとしない
頼重は怒鳴りそうになったが寅王丸の寝顔に声は静かにもう一度聞いた
「禰禰はどこにいる?」
侍女頭の三木が
静かに近寄り言った
「奥の間におられます。。。」
「気臥せりか?」
あまり身体の丈夫ではなかった禰禰にすでに驚愕の事態は伝わっているハズだ
心を痛め寝込んでしまったのか?
心配な面持ちになった頼重に三木は淡々と告げた
「いいえ。。。武田が向かってくるのでしたら「寅王丸」様をつれて逃げられても困ります。。ゆえに。。」
頼重は三木の着物の襟を掴んでひっぱった
眠っている赤子から引きはがすように
まるで引きずるように力任せに
「おのれ!!禰禰から寅王丸を奪い取って閉じこめたな!!」
三木は驚きながらも
着物が乱れてしまわないよう手でおさえながら答えた
「申し訳ありません!。。。何か謀があってからでは手遅れになって。。」
武田から嫁いできた禰禰をもともと諏訪の家臣はよく思っていない者が多かった
侍女にいたってまでこんな調子で
妻で「正室」として諏訪にきてからもよく気臥せりになり寝込んだ禰禰
その
禰禰にとって「寅王丸」が産まれ自分の手にいる事が「救い」になっていたのに
なんてことを。。。
禰禰がいったい何を計れるというのだ!
苛立ちで三木を投げそうになったが大事にせぬようそのまま手を放し
急ぎ奥の間に向かった
奥屋敷のさらに奥まった部屋の前に着いたとき
微かだが涙に濡れたしゃくりが聞こえた
「禰禰。。。。わしじゃ。。。」
頼重はひときは優しい声で襖を開けた