その19 武田菱 (7)
「諏訪討つべし」
雨の日々の中
六月
その号令が武田家家中に発された時の反応はおおかた「合」(合意)であった
それほどに「戦」が待ち望まれていた
信虎治世の時代
諏訪は武田に半ば「臣従」の立場に近かった
それはひとえに信虎を恐れ「距離」をとっていたにすぎなかった
なぜなら
新当主である
晴信への対応は武田の家臣団に言わすのならば「杜撰」であった
当主への挨拶に書状こそあったが躑躅ヶ崎のお屋敷を訪れなかった事からも伺える
事実
諏訪頼重は晴信を侮っていた
武田の「お家騒動」は「粗末」な当主を選ぶというしまらない結果になったものだと
父に疎まれ続けた男を「長子」というだけで当主にしたのならば
家臣に操られる頼りなき男なのだろうと思っていた
信虎「追放」も。。。きっと家臣たちの仕業で
晴信は「知らぬ間に」当主に祭り上げられた。。。。
そんなところだろう
と
禰禰は深く渦巻く不安の中にいた
まだ幼さの残る顔
瞳を曇らせ
懇願するような声で
「兄様とお会いになってくださいな。。。」
と
愛児「寅王丸」の寝所から名残惜しげに帰ってきた夫の袖を
弱く引き寄せて言った
頼重は「またか」という気持ちにはなったが
それでも態度は柔らかく妻に返事した
「晴信殿は領内の事で今は忙しかろうし。。。諏訪も「金刺」や「高遠」との事で忙しい。。お互い落ち着いた時で良いだろう。。慌てることはない」
雨の上がった音を確かめ
少し襖をあけ
手で風を招き入れた
上原城。。
晴れていれば諏訪湖を望むこともできる
この城で
先月禰禰は「寅王丸」を産んだばかりだった
もともと小柄で侍女たちよりも華奢な禰禰に出産は「大変な仕事」であったが
無事に事を成し
ようやく身体が落ち着いてきたところだった
年上の夫,頼重はまだ幼い妻の白い小さな手をとって言った
「オマエと私の間に待望の男子も産まれたばかり。。ホントに可愛い子じゃ。。きっと良き絆となってくれようぞ」
赤子愛しさに緩んだ表情を見せる頼重とは反対に
禰禰は目を伏せた
深く結んだ淡い桃色の口元は苦悩を現していた
「吉凶の占いに「南に嵐」ありと出ております。。。」
「それが高遠だな。。その占いに備えねばならんな」
妻の言葉を聞きながら
優しく髪を撫でた
それでも不安の表情で瞳を床に向ける禰禰の額に口づけ陽気な声で頼重は続けた
「大祝の占いでは北に「大禍」が現れているが南はたかが知れている。。。禰禰が案ずるような事はない。。いやいやもちろん高遠と戦になったら。。祈ってもらわねばならんがな」
手を引き寄せ
妻の小さな身体を後ろからを覆うように抱きしめた
心細くなっている妻に
安心を与えたい気持ちが
優しい鼓動になって禰禰の身体に伝わった
「禰禰。。。心配いたすな。。。可愛い禰禰」
自分の名を繰り返し呼び愛でる夫の腕の中で
それでも
ぬぐえぬ不安にその手をつよく握りかえすこと。。。それが今の禰禰の精一杯だった
しかし
子を産む事で高まった「神力」は
母の「力」になって不吉を告げ続けていた
山本勘助の仕官が適ったのは
密談で約束された通りの翌日だった
主殿評定場に上がらせるために
身なりは板垣が整えさせた
対面の座に粗相のないよう姿にはなっていたが
伸びたままの髭に歯抜け面
頭には片目を隠すように面布をかぶった姿での登場に
並ぶ家臣団は顔をしかめた
そんな冷ややかな反応をよそに
晴信は自らの名前の「晴」を勘助に下賜した
「山本勘助晴幸と名乗るがよい」
と
「格別」の扱いだった
評定場は一応にどよめきがあがったが
その扱いに恥じぬ献策を勘助は披露し
家臣たちを初めて「羅刹の器」を披露し味あわせた
「高遠。。。金刺。。どちらとも調略はすんでおります。。」
片目の輝きは「戦」に燃えていた
聞く者の心を掴む光
「何故?高遠や金刺までを巻き込まねばならんのだ?」
調略の言葉に早い反応を示したのは
家臣の中でも年長になる「諸角虎定」だった
その歳に似合わぬ甲高い声の主に
勘助はゆっくりと首を傾げ会釈をすると
無骨な体格から
かけ離れた
流れるような舞の手つきで諏訪の方角を指さし
「何故?。。。武田が単独で諏訪を攻めれば「もともと武田は諏訪を裏切るつもりだった」と思われてしまいます。。それを避けるためです」
と
ひときは抑えた口調で答えた
「非難」をさけ
人心を掴むために「裏切り」はしないと明言する
今はまだ。。。。
友好関係を持っているのだから
たが
「見くびられている」事を許す訳にはいかない
という「本心」を美しく「発露」するために
「高遠。金刺両氏には「武田は諏訪を攻める」と言ってあります。。しかしながら。。。「代替わり」でいまいち心許ない出兵である事も「間者」によって流してあります」
まるで
ゆるやかな「風」
押す。。。そして引くそれにそのまま「惹かれ」てしまう声
昔話をかたるかのように勘助は陽気に言う
「そんな流言をながせば高遠は諏訪を攻めには来るまい。。」
甘利は
初めて会ったときと同じく渋い表情で問いつめた
「それで良いのです。。。「諏訪を欲している」のは武田なのですから。。。」
「本心」を少し覗かせる
欲しいモノ。。。
俗っぽい言葉を口から滑らせた勘助を信繁が睨んだ
その目に気がついた勘助は
少し襟を正して続けた
武田の出陣を知った
高遠,金刺は「一応」出兵の準備をするだろう
しかし出てはこない
武田の出方を見ている
「侮って」新しい当主が。。。どんな「戦」をするかを「高みの見物」をするために
備えをしたまま近くまで「見に来る」
それを「諏訪方が近隣衆と結託しての武田に対する謀反を起こす」と解釈する
もちろん諏訪には別の流言が
「高遠が諏訪を狙ったために武田は出兵した」
と
平然と流す
「誰が真の敵かを見極める時間を与えず準備の整った高遠たちが諏訪に詰め寄るまでの間に武田が「諏訪」を上原城を制してしまえばいいのです」
流言に流言を重ね
真実をうやむやにしてしまった上で
いち早く拠点をつくり
現実に引き戻す
それが
「流言」を最後にまとめる場所となる
勘助の言葉は
なによりもその声は巧みだった
疑問を差し挟むべき部分に誰もを呆けさせ
「そうなる」
と
信じ込ませてしまった
「いよいよ戦にございますすなぁ」
躑躅ヶ崎
板垣の屋敷の一室で勘助は活き活きとした声で地図の上に指の足りぬ手をかざし言った
「諏訪討伐」の号令が出てから
武田の家中は騒がしかった
手早く小荷駄が用意され
屋敷の人足たちが昼間の道を行ったり来たりしていた
「武田の皆様が「戦」をこれほどに望んでおられて喜ばしいかぎりです」
「戦」を饒舌に語る勘助目はうっとりとしていた
その前には目を閉じた信繁が座っていたが
お構いなしなのか
忙しく地図の上の駒を走らせ
覚え書きをまとめ続けた
勘助の立案した策は受け入れられ準備は恐るべき早さで進んだ
評定から向こう
板垣の屋敷に勘助は泊まり込んでいた
まだ
新居を頂いてはいなかったので「諏訪攻め」出陣までをココで過ごすつもりだった
「お聞きたいよろしいか?」
急に気がついたかのように
忙しくしていた手を止め
目の前に座している信繁に勘助は声をかけた
「なんだ」
そっけのない対応
目を開き地図を見た信繁に
勘助は筆を硯に戻すと問うた
「何故。。大祝の力が弱った。。。「真実」を教えて頂きたい」