その19 武田菱 (5)
「月が泣いてみえます。。。」
年老いたとはいえ
かつては音に聞こえた美貌をほこった「御北様」の声は
年若い娘のように優しい響きと女らしい慈愛に満ちていた
だけど信繁には
その言葉が
夜の闇に澄み渡り
鈴が悲しい音色を響かせるように聞こえた
躑躅ヶ崎の屋形の北に新たに造営された屋敷に「大井夫人」が移ったのは
去年
夫であった信虎が甲斐から追放されてしばらくあってからだった
思い出の多い「お屋形」に居続けるのはよほど辛かったのか
体調をくずして寝込んでしまった事を心配した晴信の手配で
急ぎ作らせた屋敷は真新しい木の匂いを残していた
移り住みすぐに
髪を落とし剃髪し
終の棲家と決めた屋敷での読経三昧な日々
いつのころか
彼女の事を武田の者たちは「御北様」と呼ぶようになっていた
「申し訳ございません。。。。こんな夜更けに」
信繁は
屋敷には上がらず庭木の下に立ったまま母とひさしぶりの会話を始めようとしたが
今なお美麗な母の顔に見とれ言葉を止めてしまった
春の終わり
雨上がりの
涼しい風に揺らされる長い睫毛。。
その目には涙が浮かんでいた
「すみません。。。」
信繁は無言の母に責められているという気持ちになり
もう一度頭を下げてしまった
「信繁。。。オマエのせいではないのでしょう。。あやまるのはよしておくれ」
母の声が優しいほどに信繁は心苦しかった
そもそも
武田の家督を継ぐのは信繁だった
「神仏の器」であった父,信虎は己と同じ資質をもった信繁に家督を継がせようとしていた
そして近々その言葉が発せられようとしていた
そのために駿河の今川に嫡子晴信の「追放」「隠居」先を探してきたのだ
ところが
事態は僅差で動いた
兄は早かった
素早い動きと入念に練られた計画で家臣団の心をまとめ
逆に父を追放してし
現在の武田の当主となった
だが
当主に慣れなかったことに信繁は未練はなかった
そんな者に自分がなってはいけないとさえ思っていた
だから
兄が刀を持ち自分の部屋を涙ながらに訪ねたとき
素直に臣従する事を認めた
「上に立ってはいけない」
信繁の直感だった
父はその「器」によって自らを持ち崩した。。。。
だからこそ
自分なら「器」を使い切れる
などと高慢な気持ちになる事を畏れていた
兄の謀反の後押しをした
信虎追放は
御北様にとって。。。。喜ばしい事ではなかった
信虎を好いて甲斐に嫁いだわけではなかったから
追放されて気が晴れたのでは?
というわけでもなかった
昔
「戦利品」として
無理矢理輿入れさせられココにきた
好きでもない男との間に何人かの子をつくり
それでも
子供達に「教育」を与え
御仏の心を伝え
慈愛を説いた
武田家が。。。しいてはこの地に住まう全ての者が円満に過ごせる事を願ってやまなかった
晴信。。。。。
御北と晴信は。。。。
顔がそっくりだった
血を分けた我が子なのだから自分の顔に似てくれたのは
喜ばしい事以外なにものでもなかったが
それが信虎との確執になってしまった
信虎は
自分が討ち取った
「大井一族」の血が色濃くでた晴信を本心から嫌った
顔をみれば罵倒し自分の屋敷には上げる事もしなかった
かわりに
次男である信繁に異常なほどの愛情を注いだ
「前に出でおいでなされ。。。」
御北は屋敷の庭木の下
影に隠れていた信繁を呼んだ
「いえ。。ココでよろしいです」
「信繁。。。顔を見せておくれ」
影に立つ信繁は困ったように首をふり
「ココで。。。」
手だけで会釈をした
「信繁。。。。顔をお見せなさい。。。話ができません」
母の懇願に
顔を伏したまま月明かりの下に足を進ませた
「信繁。。。顔をあげて。。私はオマエを嫌ってなどおりません」
わかっている事
母は
どの子供も憎まず,惜しみない愛情を注いだ
信繁は言われるまま顔をあげたが
母の目に浮かぶ涙が心を締め上げた
美しい眉をしかめ
それでも慈しむように自分を見る姿にいたたまれなくなった
それほどに信繁の顔は信虎にそっくりだった
「諏訪を攻めるのですね」
母をまともに見ることのできない信繁に
御北はみずから
苦渋の決断を口にした
「はい。。。わたしが進言いたしました」
先ほどまでのうなだれた態度とは違いハッキリとした口調で信繁は答えた
御北の目から涙がこぼれた
諏訪には腹違いの娘「禰禰」が信虎の政策の元嫁いでいた
「明日にも家臣団にふれがでる事でありましょう」
御北には政の表裏など知りようもなかったが
まだ
十六才の信繁が一人でそれを「提案」したとは思えなかった
「禰禰はどうなりますか?」
「悪いようにはいたしません」
十六とは思えないほど政策に忠実さを表す信繁
「何故諏訪を攻めるのですか?」
諏訪とは信虎治世の時に和平を結んでいる
かつては激しい戦を続けた両家ではあったが
決着を見る事はなくただいたずらに国民を疲弊させただけ
どちらもの打開策として
献上の「品」として禰禰は嫁いでいった
まだ幼かった禰禰が前日実母と泣きはらして甲斐を離れていった姿を憶えていた
その後
よき夫であった諏訪頼重に愛された姫は子をもうけ
武田との関係は。。。。
一見良好に思われた
が
何故今になって諏訪を?
「北に魔物が見えるからです」
信繁の実直な言葉に御北は頷いた
「確かに。。。吉凶の占いによれば「北」に大禍が現れていましたが。。」
言葉をとめた御北は信繁の後ろに控えている者の気配を感じとった
「信繁。。。オマエの「器」で感じた事を。。見ることのできる者がいますね」
母の言葉に一礼して信繁は振り向くことなく影を手招きした
影になっていた男はゆっくりと前に歩き
そのまま信繁の真後ろで深く頭を伏せたまま答えた
「羅刹の器。。。山本勘助にございます。。武田家の「器」を育てし御北様に拝謁できる事幸せに存じます」
「北進する理由は北に燻る(くすぶる)「災厄」を早くにつみ取るためであります」
勘助の紹介が終わるや
すかさず信繁は告げた
「それは。。。感じていました。。。それが見えるのですね?」
「はい」
信繁の返事に
御北は夜空を見あげた
「諏訪に。。。。。災厄がいるのですか?」
ただ悲しい横顔のまま聞いた
信繁の表情は曇ったままで
「武田を守るために必要なのです」
と
悲しむ母に告げた