その19 武田菱 (2)
躑躅ヶ崎の屋敷に向かう男たちの足取りは小走りに近かった
「何故?こんな夜更けに会合など?」
苛立ちを声に表し出したのは
武田家重臣にして老将の「甘利虎泰」
隣を歩く男は「駒井政武」
当主晴信の秘書的業務をしている彼が夕刻に甘利を訪ねたのは
新たに登用したい「者」を見て欲しい
という内容の伝言だった
前当主信虎を追放してから向こう
武田家の中身は慌ただしかった
「無血」で次代交代を出来たのは喜ばしかったが
結局「武力」を示しての交代劇でなかった事に。。。
晴信の「力量」を見下す者は数多かった
それは
一致団結を成し遂げた家臣団からは遠い
国人衆や村豪族に多く見られ
事実的に参勤を躊躇して武田の出方をうかがっていた
新当主。。。。
そもそも武田家「家中」の内情は複雑だった
前当主信虎は
長男の晴信を毛嫌いしていた
理由は。。。。計りかねたが
大井夫人(信虎正室)によく似た温厚な顔立ちの美男である晴信にかつての敵を見たのでは?
という噂程度のものはあった
とにかく
なにかにつけ疎んじ
今年の謹賀の祝の「事件」からも晴信の弟「信繁」が家督をつぐのでは。。。と口憚る事がまことしやかに流れるほどだった
「信繁」。。。。
文武に秀で父に寵愛された晴信の弟は
兄の謀反に反抗する事なく従った
「兄上こそ武田の当主」
と
その誉れを兄晴信に帰し
無血の交代劇を早めた立役者になった
それほどに秀でたと噂の高かった「弟」に比べると
やはり
晴信の噂は良い物がなかった
もちろん
父信虎が息子晴信に与え続けた辛辣な風当たりが人の耳に届く頃には「暗愚」な嫡子とされてしまっていたのはいなめなかったが。。。
当主交代以降の晴信の動きを見るに
周辺豪族の態度は高慢であった
あまりに歩が重く見えたのだ
甘利に言わすのなら
「悠長に構えすぎている」
と言うものだった
何かと言えば
治水工事だ
人材発掘だ。。。
今まで猛将に仕えてきた古株の家臣にとっては「戦」と「武力」が全てを決める基準にもなっていたのを停止し
まるで
正反対の内政に力を注ぎ続けた
沈黙を守り武田の様子を見下し始めている豪族や国人衆にさしたる手も打たず「放置」の状態でだ
家臣達は
己で選んだ「お屋方」に対して
心穏やかにはなれなかった
「ごくろうでござるな。。。夜分遅くに」
屋敷に上がり
謁見の間に走り着いた甘利に声を掛けた先客がいた
寄る年波のせいか
近くの自宅屋敷から小走りしてきただけで息を荒げてしまった姿に
皮肉っぽく口をきいたのは
同じく重臣の
「板垣信方」だった
「まったくだ!!」
甘利は腹立たしそうに言いかえした
別に仲が悪いわけではないが。。。
同じ年寄り衆の板垣に疲れた姿だ。。。などと見られるのは許し難かったのだ
板垣は
そんな甘利の乗り出さんばかりの勢いを両手を広げていさめながら
「お館様の手前ぞ。。」
と
落ち着くよう促した
「すまんな甘利遅くに呼びだして」
上座にすわった晴信は人好きする柔らかい笑みで機嫌良さげに声を掛けた
だが
甘利はまたもの「人材」選びのお付き合いに呼び出された事にへきへきしていた
大きく溜息を落とすと
呆れたように晴信に言った
「また人材ですか。。。そんな事ばかりでは「戦」を忘れてしまいそうですわ。。」
「戦か。。。。」
晴信もまた溜息をつくようにその言葉をはき出した
「戦」
戦い中心の治世
それは追放した父のやり方だったから。。。「好き」ではなかった
いや
晴信は「戦」が「キライ」だった
人が「血」を流しぶつかり合う姿は。。。「悲しい」だけだった
「戦」に老臣たちがこだわる事が理解できなかった
でも
だから。。。
「戦」をしない。。。というわけには行かないのが
この「乱れた世」
ただいたずらに「戦」をためらい続けたというわけではなかった
父が残してしまった「負の遺産」を破壊し「人心」を取り戻す作業が晴信は「一番」大切な事だと信じていた
武田家から
離れてしまった国民の「心」を掴みたい。。取り戻したい
だからこそ
痩せた田畑を潤わすために治水工事を全面にたて
水郷の整備をし
ただキツイだけの締め付けの年貢を軽減させた
なんのために?
それこそが
根っこの部分で「戦」に備るためであった
そんな晴信の心根を宿老である甘利でさえ理解仕切れていなかった
勢い「戦」を口に登らせてしまったが
甘利は大きな溜息とともにキマリ悪そうな顔を伏せた
いつもの問答をしてしまった。。。という自戒の念がそうさせていた
そんないつもの「返答」に
晴信もいつもは「やんわり」と答えていたのだが
今日は違った
顔を背けた甘利に
覚悟を決めた声で言った
「戦。。。近いやもしれんな。。。」
その言葉に
甘利の首は飛び起き目の前に座る板垣の顔を見た
驚きの眼差しに
板垣は静かに頷き
「準備が整ってきたというわけですな」
と
上座に向かい
力を押し殺した表情で尋ねた
晴信に向き直った甘利はその「言葉」を待っていた
いまこそ
新しき政に進む武田の姿を示す時がきた事に目を輝かせた
「待たせたな。。これからの「戦」について話し合いたい」
甘利
板垣
老臣二人の輝く武将の顔を前についに晴信は武田の「戦」について語る事にしたのだ
「それでは話に入る前に紹介したき男がおります」
謁見の間から座敷に移った一同に最初の口を開いたのは板垣だった
暗い火の下で
板垣は背後の襖の向こうに控える男を呼んだ
「こちらに。。。」
その風貌は
今この瞬間に戦場から逃げた「敗残者」のようで
片足を引きずる不自由な動作
痩せた身体に曲がった背筋
両の手の指は何本か「欠けていて」そのうえ
顔を見れば
頭からすっぽりと
右側に面布をかけ方目どころか顔を半分隠している
全体的に汚らしくみすぼらしい初老の男
は
異常な出で立ちで板垣の後ろ近くに伏した
甘利は顔をしかめた
老人は恭しく頭をおろした
伏した姿の彼に晴信は言った
「面をあげよ。。。」
歯抜けの老人はゆっくりと顔を見せた
黒く焼けた肌
嗄れた面
しかし
片方しか見えない目の輝きは鋭い
「お目通り適いまして恐悦至極にございます。。。」
言葉運びもしっかりとしている
「名乗れ。。。」
対面に座った信繁は努めて静かに聞いた
「ヤンソン.カーティケイヤと申します。。。。」