その37 女 (2)
定実と実の心がほぐれた事を見計らったかのように,部屋外に控えていた従者が声をかけた
「申し上げます。。。先刻より「天室光育」様がおみえになっておられます。。。今しばらくお待ち頂きますか?」
奥の部屋にこもってどのくらいの時がたっていたのか
定実は実の肩を抱いたまま返事した
「いや,すぐに会おう」
主の返事に従者は短い了承の返答をしてその場に控えた
緩くやれる登楼の下
己の「罪」を許された事で先ほどまでは力無く崩れていた実だったが
夫から与えられた優しさも手伝い
倒れかかった心は起き背筋も正しく戻し
心静かに聞いた
「光育様がココに?」
「そうじゃ」
定実は支度の調った自分の着物の襟を正し
立ち上がりながら
「実はの。。。直江から「仲裁」を願う繋ぎがあったのじゃ」
「直江?」
実は前年の祝賀の時の事を思い出した
怒りを露わに「影トラ」は晴景に「黒滝攻め」の合否を迫った
あの時,事の次第を見守り「あやうく」守護代の失態に繋がりそうだった場を治めた男
「長尾家」に古くから仕える「直江家」現党首の実綱
一本筋の通った「男ぶり」も名高き,守護代晴景がもっとも信頼している家臣が。。。。
まだ始まってもいない「戦」を目の前に「仲裁」を願って使者をよこしていた事に少しの「怒り」が立ち上った
「直江は最初から「影トラ」に組していましたわ!。。。まだ戦も始まらぬ内から晴景に「負け」を認めて「和睦」せよとすすめるなど。。。そのうえ上杉に仲裁を。。。」
妻の怒りが,子を想う心から出ている事を理解しつつも定実は実の肩に手を置きながら
優しく。。。事を解くように言った
「それは違う。。。今。。この春日山は「直江」が詰めている事で「瓦解」せずになんとか保たれている。。」
怒りの心とは裏腹に未だ「危機的状況」の中に春日山がある事を思い出した実は眉をしかめた
「後手に回りすぎた「守護代殿」を守る兵は五百もいない。。しかし相対し迎えるべく者は「影トラ殿」率いる三千を越える軍団だ」
「しかしココは難攻不落と言われし春日山」
定実は首を振った
「難攻不落。。。そう言われた城でわしは「為景」に負けた。。それに城を守る兵たち全てが高い「志」を保てるわけではない。。。向かってくるのは「無敗の将率いる大軍団」。。。恐れに打ち勝つ事は到底無理じゃ。。。中身から壊れてしまっては元も子もない」
実は頭を下げてしまった
「そんな。。。」
定実はやはり「戦」の世界を生きた事のある男
よくわかっていた
政景を使い「栃尾」を攻めた
だが「力の失墜」を象徴するように
おごり高ぶった政景の出鼻は打ち砕かれ。。。。そのまま引きずられるように「大敗北」を喫した
綻びは大きく「亀裂」となった
取りも直さず「守護代の力に陰り有り」という結果が残り
今まで,まとまる事のなかった「国人衆」「豪族」「地侍」達がここぞとばかりの「反旗」を翻す機会を与えてしまっていた
そこまで聞けばさすがの実にも「周り」が見える
それ故の恐怖で体はまたも前に崩れそうになった
定実は
立ち上がったまま,身を震わせ始めている妻を諭した
「この戦。。。この勢いをもった軍団に。。そのまま立ち向かってしまったら晴景殿の負けは必定。だからこそ「和睦」が必要なのじゃ。。。。身動き叶わぬ直江が苦しみながら出した結論はけっして晴景殿を見限って出された答えにあらず。最善を模索した「手」なのだ。」
「戦は止められるのでありましょうか?」
戦が止まること。。。。
それだけが「息子」の救いである事を理解した実は
懇願するように聞いた
「止めねばならぬ。。。その為に光育を呼び立てていたのじゃ」
そういうと奥の部屋の襖を開いた
「光育は「譜代家臣斎藤」から「参内願い」を貰っている。。。それで実城(本丸屋敷)に入る事が出来る」
振り返り妻の顔を見つめながら定実は強く頷いてみせた
「ワシと光育で晴景殿を諫めてみせよう。。。だから心配するでない」
そう言うと評議の間に「戦」をしていた頃のような強い足取りで進んでいった
「本当に。。。酷い事を言ってしまいました」
定実が光育との協議に入った後
実は「麻」移され控えの間を訪れていた
仕立ての良い「御簾」に覆われた部屋の中,疲れを顔に出していた麻を労るように
白湯を用意させた実は続けた
「多くの非礼ゆるされよ」
心からの詫びをした
自らの手で注いだ白湯を手渡し
朝は深く伏せた頭を上げ快くその杯を頂くと
「いいえ。。。晴景様のために力になれたのならば。。私の事などさしたる事でもありません」
細い声で安堵の笑みと共に答えた
実は麻を近くで見て
その身が細く弱々しいものである事が気になっていた。。。
晴景の祝言の時。。。。彼女の顔は見ていたがその時の印象とはだいぶん違っていたからだ
もっとふっくらした感じの
若い女のもつ瑞々しさが見あたらない
自分より遙かに年若い女であるのに。。。。どこか萎れてしまったような肌に
だが言葉にだして容姿の変貌について聞こうとはしなかった
きっと「女」がもつ苦しみがそうしてしまった事に。。。そうしてしまった事に気が付けたからだ
そんな細くなってしまった身で
春日山を下るときに浴びせられた「非難」と「冷笑」を耐えてきた事に。。。むしろ頭の下がる想いで一杯になった
「何故。。。私が「母親」とわかりましたか?」
積もった想いの中から実は思い切って聞いた
最初
評議の部屋に通した時に必死で「仲裁」を願った麻の口から漏れた言葉
知りたかった事
だから
今は御簾を隔てず彼女の真ん前に出て聞いた
実の問いに麻は困った顔をしたが
線の細いからだから
これまた小さな声で答えた
「やはり。。。そうなのでしたか。。。」
顔には少しの驚きと
安堵の息
「では本当はしらなかったのですか?」
実も,今更声を荒げたりはしなかったが
自分から聞いたのに肩透かしをくらったようで目を丸くした
そんな顔の実に
麻は首を振って
「いいえ。。。でも多分そうだと思っていました。。。晴景様がそう言われたのですから」
「晴景が?」
驚きの回答だった
「祝言の時。。。晴景様は。。。御簾の向こうでしたが代理様(実)をずっと見ておいででした。。。それで私。。聞いたのです」
実はただ黙して続けて話すよう頷いて
「もし。。母と呼べる人がいるとするなら。。。それは代理様のような方と思いたいと。。。私その言葉を覚えてました。。。だから信じてココまでやってこられました」
咄嗟に麻の手を握った
声はでなかった
ただ
涙がこぼれた
震える手を麻も握り替えし
「でも。。それは本当の事でした。。お顔を見ればすぐにわかりました。。。晴景様のお顔はは。。代理様によく似ておられて」
「私に似ている?」
涙声の実に
実の苦労もきっと麻には通じたのだろう
労るように
「ホントに。。。よく似ておられます」
聞きたかった言葉
あの日
晴景が産まれたとき。。。。誰でもよかった
出来れば「上杉」の子として。。。産まれ出でて「祝福」を告げてと
言って欲しかった言葉
「お母上によく似ている」と。。。。
「ありがとう。。。ホントに。。。救われました」
涙で顔を上げられない実の後ろに控えていた品ももちろん泣いていたが
感動の間を割るように口を挟んだ
「麻様。。。数々の非礼お詫び申し上げます。。。ですが今ひとたびの無礼をお許し下さい」
品の声に「怒り」はなかった
ほんの少しだけ解かれた重荷は実と一緒に背負ってきたものだったのだから。。。当然
同じ想いの涙もこぼれる
でも
これは言っておかねば成らぬ事。。。主である実もわかっていた
泣きながらも品が語るのを許した
「代理様と晴景様が親子である事は,今後,誰にも言わぬようココだけの事とお忘れ頂きたいのです」
実の手は弱々しく
それでもしっかりと麻の手を握りながらただ涙の目で頷いた
「どのようなご事情がお二人の間にあったのかは存じませんが,私この事,他に口にする事はございません。。その「ご情愛」を信じ縋ったのですから。。伏してお約束いたします。。ただ」
麻は実の手を離しその場に伏せた
「私も。。。代理様を「母」と慕う事を許して頂きたいのです」
「許します」
伏せた麻の背中を実は抱いた
「晴景様のお心を最後にしか汲むことができなかった愚かな妻ですが。。。ホントによろしいので」
「許します!!許します!!」
顔をあげ,お互いを見合わす二人
実は
「貴女がココに。。。晴景の命を助ける糸を繋いでくれたのですよ。。。愚かな妻などと」
大きく首を振り
「貴女があの子の妻でよかった。。人に言うことは出来ぬが「母」と思うてくれるなら。。。なお嬉しい」
麻の手をもう一度握る
涙の麻は実の胸に顔を埋めて
「うれしゅうございます。。。母上様」
二人は強く抱きしめ合った
控えの間,品も揃って女達が強い絆に喜びの涙を見せていた頃
春日山には異変が起こり始めていた
それは実たちが画策する「和睦」という願いとは相対する希望に「絆」を強めた「女達」だった
夜は深く闇の空と
黒き幕を下ろし星々さえ塗りつぶす時
影トラの率いる軍勢の篝火はまだ遠くではあったが
それでも春日山から「横一線」に見えたその時に,強い牙をもつ女の唇は動いた
「良いか」
魂棚に向かい一心の祈りを続けた「虎御前」は静かに口元を笑わせながら言った
その姿は美しく着飾られ
青に金糸の打掛
自身の直ぐ横には「朱色」の柄を持つ「刀」
「時は来た。。。。今,来た。。。御仏の願うままに,我が手足となりて「事」を成就させるのだ。。。願いを叶えようぞ」
目をつむり共に祈り続けてきた「侍女達」は静かに立ち上がり
音もなく闇に溶けて行くように消えていった
御前の周りには数名の侍女が残り各々の「袖の下」に牙を携えた
「月は。。。。見えるか?」
空など見もしない目は輝きながら聞いた
「いいえ。。。月など今宵は見えもしません」
忠実な御前の侍女は即座に。。。落ち着いた声で答える
「道しるべとなる「篝火」がこの地に向かっております。。。御前様の祈りは必ず叶います」
答えられた内容は喜ばしいものだった
虎御前は笑い
そして立ち上がって,部屋の襖は開かれた
漆黒の闇
這うように地に広がる「トラ」の篝火
縁側に立ち手を大きく広げると虎御前はいつものように揺れて吠えた
「来たれり篝火。。。我が願いは叶い「晴景」は死ぬ。。。。全ては我が願いの元に。。。」
そう言うと首を右に傾げて
高潮した頬のまま,美しく赤く引かれた紅のままに
「我が愛し夫「為景様」。。。。。御笑覧あれ」
最後の朝まで。。。。。後,少し