その37 女 (1)
登城のための支度を調えるため評定の間から奥の部屋に移った「定実」に「実」は黙って付き従った
月の無い空は,先の見えぬ闇の天井となって広がり
秋の冷たい香りは風と一緒に部屋の中に届けられた
小さな灯りの元
薄暗い部屋で着物を替える音だけが響く
実と定実
二人の他には「品」が共をし
定実の身支度を手伝っていた
静かな間。。。。
言葉の無い部屋の中で実はただ頭を下げ押し黙っていた
堪えていた想い。。。。
自分では叶える事の出来なかった願いは
今
夫の助けを得て
なんとか果たされようとしているが。。。。
黙して身を整える夫に。。。。尋ねる事はできなかった
「何故。。。。そして「あの事」を夫は知っていたのか?と」
それを聞いて良いのかさえ未だに戸惑っていた
伏したまま指が
床をかるくこする。。。。
落ち着いていられないのに,慌ただしい姿も見せられない身である
おそらく
夫は自分の「不義」を知っていた。。。。
知っていたが。。。。何故今まで黙っていたのか?
いたたまれない想い
それとも「言葉のあや」なのか?
「親」という麻の言葉に心を。。。。一瞬尖らせた夫の姿
「怒り」を。。。。
実の肩は震えていた
わからない事。。。知られていた事。。。
色々な出来事がいっぺんに自分の胸にかかっていた気がかりを押し流し
ぽっかりと穴の空いたように。。。先の見えない空洞のようになってしまっていた
頭を小さくふる
少ない涙が目の下を濡らす
だけれどもと。。。
そのまま
またも流されるままに「救われて」いいのか?
「あの日の不義」を黙ったまま
そんな「大罪」を謝ることなく
差し伸べられた救いに。。。。甘んじて良いのかと
己の心と自問するものの
「罪」を棚上げしたままで自分の願いだけがかなうなどと。。。。
「申し訳ございません。。。でした」
実は垂れた稲穂のようにしなっていた体を深く伏せた
伏せたまま押し殺していた喉をやっとで開けた掠れた声で続けた
「私は。。。貴方様に対して「不義密通」を働きました!!今更そのような事を言ってどうなるわけでもありませんが。。。ですがどうか。。事を成す「対価」として私を成敗して下さいませ」
「代理様!!」
感極まった実の言葉は震え
支離滅裂にも近い
焦燥しきった様で頭を伏せたまま「覚悟」を告げた
ただで助けられては。。。。自分ばかりが救われてはいけないという後悔の念
その動揺は品にも伝わり身支度の手を止め,実と定実の間に入り話しを濁そうと
「代理様は。。。今まで。。。越後を守らんとする職務でお疲れでございます。。なにとぞ」
そこまで言うと体を回し
実の方を抱き
「しっかりなさってください。。。お疲れなのですよね」
実の前にある品の顔にも苦痛が見えた
目には涙さえ浮かんでいる
実と想いを同じくして「宿命」を背負ってやってきた品には主の心内が痛いほどわかっている
だからそんな「悲壮」な顔を。。。。まるで罪を裁かれて。。。「死」を迎えて「命」を賭して願いに返る物を支払うような行為をみる事は辛く
定実に見せる事も辛い
顔の見えぬよう。。抱き寄せ。。。手に力を込めて「言ってはいけない」と首を振る
「ダメです。。。そんな事をおっしゃっては」
主を失えない,支え合ってきた二人
あの日。。。。
火の海になった上杉の屋敷を手を取り合って落ち延びた時から
全ての苦楽を共にしてきた姫が未だに「苦悩」の中にいる事が辛い
定実に気がつかれぬように
小さく首を振り,注意を促す
しかし
実はもう黙っている事ができなかった
「私を罰し,お斬りくださいませ」
「代理様!!」
「待て」
自分の罪を吐き出し罰せられようと願う「実」
主の痛いほどの想いを知って,なおも諌めようとする「品」
二人の前
定実は手を差し伸べてもう言った
「姫よ。。。そなたの愛し慕う者は「為景」だったのか?」
品の胸元に顔を埋めながらも実は答えた
「いいえ。。私が想うのは。。。「晴景」の事。。。ただそれだけで。。。」
お互いを抱きしめ合う二人
「ならば。。それで良いではないか」
そのまま軽く息をつくと,顎下に白色に変わったヒゲをさすりながら続けた
夫の姿を不安な表情で見上げる実に
「とはいえ。。。ここまでそなたの心を窮させた想い。。。ワシの心根も語らねば落ち着く事。。。できまいな」
そういうと
定実は実の目の前に座った
闇を深くした夜の中
部屋を灯す小さな火の前にある定実の顔に怒りはなく。。何か照れくさそうに続けた
「そなたが懸念している「その事」を知ったのは。。。そなたが正式にわしの元に戻って来てくれた時には。。。知っておった」
実は呆然とした
つまり
定実が「新守護」となり,別族の長尾より抜きに出ようとした為景の要請に従い「妻」を
そう
「鈴姫を帰して欲しい」
という定実の意向に従い「覚悟」を決めて上杉に戻った時には。。。知っていたという事
呆然としたまま「否定」しようと首を動かす実に
「今でこそ「軒猿」(忍)は長尾の。。それも「直江」の配下で仕事をしておるが,元々は上杉に仕える者たちであったからの。。。すぐに報告としてあった」
「では何故にその時に。。。お斬りになりませんでしたか」
震えが止まらず
自分では体を支えていられない実は品にしがみついたまま聞いた
定実はすこし困った顔をして息をついた
「不義の妻に対する怒りがあったハズでありましょうに!」
実の心に引っかかっていた物
そういう全てのものを知ってから「死」を迎えたいという気持ちで言い寄った
「怒りはあった」
穏やかな顔ながら定実は,はっきりと答えたが
実を睨むような事はせず
少し遠い目で
「怒りは。。。確かにあった。。。だから何度も為景に挑んだ。。わしも男。。己の誇りに賭けて。。上杉という家の全てを使い尽くしてしまう程に戦った」
実は思い出した
「新守護」を頂いた長尾家は最初は共に手を取り合い「越後」での自治確立のために戦ったが
その後は定実を顧みる事はしなかった
次々と権利を剥奪されて行く中
定実は「乱」を起こし何度となく為景に向かって戦った
長い戦いの日々
春日山に追いつめられ「幽閉」され。。。。
実は悲しくなった
夫にそんな想いを背負わせたまま自分を連れ添っていた事に
「罪深い一族にございます。。。だからこそ私を斬って許しを頂きたいのです。。。」
守護を追いつめた長尾家
胸を押さえながらの返事に
「姫よ。。。最後まで話しを聞きなさい」
遠くなっていた視線を実に向けて定実は続けた
「わしは何度も戦ったがついに為景に勝てる事はなく。。。かの男はそのままこの世を去ってしまった。。。その後「晴景」が,わしを守護の座に形だけではあったが戻したの」
「はい」
話しを聞くようにと夫は,実の手を優しく握った
「戦う力を無くし。。兵を亡くしながらも,わしは唯一欲しいものがあった。。。覚えておるか?」
定実の言葉に実の体を硬くした
それはわかっていた
だが夫の話の真意に近づくために堪えて答えた
「子にございます」
「そうじゃ。。。ワシは何の力も無くなってしまったとはいえ「名家上杉」を継ぐ子は。。。どうしても欲しかった」
それは為景が死んでまもなくの事だった
戦に敗れ,力の大半を無くした
お飾りの守護は「新守護代,晴景」に伊達から養子を迎えたいという旨を申し入れた
「そなたは。。。わしに側女を娶れと言うたな」
「はい」
実は目を伏せた
産まず女ではなかった
「晴景」を授かる事ができたのに。。。運命の皮肉か,ついに定実との間に「上杉」の名を守る子を成すことの出来なかった
後ろめたさと申し訳なさで涙がこぼれた
そんな妻の悲しみで小さくなった背に手を回し定実は言った
「晴景殿も同じ事を言うた」
「晴景が?」
驚き夫の顔を見つめる実に定実は頷いた
「どの名家からでも良い。。。側女をおとりになられればと。。。な」
そういうと
強く実の体を引き寄せた
「そしてな。。。そなたと同じ「想い」をわしに言うたよ。。。。そなたは養子を取ることに良い顔をしてはくれなかったの」
いたたまれなくなった
眉をしかめ小さく頷いた
自分で産むこともできないのに養子を取ることに反対したなどと
「すいません。。。私が間違っておりました」
「これ。。。話しを最後まで聞きなさい」
止められない涙で,ただあやまり続ける妻に定実の声は優しかった
「そなたは。。こう言ったの。。。「母親から引き離される子を思えば不憫でありましょうに」と」
「はい。。。。」
それは実の想いであった
あの日
産まれたばかりの。。。。まだ泣くしかできなかった赤子の「晴景」を抱くことも叶わなかった己の。。。切なる望み
母子が引き離される事など。。。他人事であっても。。。千切られる想いだったからこそ
自分以外の「女」を娶ってくれた方が心が痛まないと
零した言葉
「晴景殿もな。。。「子を奪われる母を思えば不憫でありましょうに」。。。そう答えた」
実は崩れた
涙はただ流れ
声をあげて泣いた
夫の手の中に
その体を定実は強く支えた
「その時にわしの中にあった蟠りは無くなった。。。。そなたの愛した子は,そなたの心を良く受け継いでおった。。。それは美しい事だと思ったのだ」
「晴景。。。晴景。。。」
どうしてそういう思いの丈が伝わったのか
それは理解できなかった
ただ
晴景が自分と同じ思いを持っていたことに涙が出た
引き離された痛みを晴景が心に。。。。持っていた事に泣いた
「そうだ。。そなたと晴景殿は。。。まことに親子。。その心はどこまでも良く似ておる。。。為景ではなく。。子を想い心を砕いたそなたを責める言葉などわしはもたん」
「でも私は。。。」
「もう良い。。。。それで良いのだ」
実の後ろ,品も泣いていた
胸に泣き崩れた実の髪を撫でながら
「だからワシとの暮らしを償いなどと思わんでくれ。。わしもまたそんな風には思いたくないのだ」
「貴方様。。。。」
見つめる夫の顔は優しく微笑んだ
微笑み何度も頷いた
「それにな,わしの願いが一つも叶わぬ理由など。。。とうの昔にわかっていた事じゃ」
不思議な言葉に実は首を傾げた
その姿を愛おしそうに見ながら定実は言った
「わしは「天女」を手に入れた男だ!それ以上のものなどこの世にはない。。。願いが叶わぬのも当然というものよ!」
実は涙の中で
恥ずかしげに答えた
「もう櫛も白く代わった女に。。。そのような言葉。。。もったいのうございますわ」
夫は満面の笑みで
その櫛(髪)に触れながら優しく言った
「何も変わらんよ。。。姫よ。。そなたは変わらず美しい」
髪をすく手に
夫の手に自分の頬を当てた
「私はなんと果報者な女にございましょう」
細い妻の指に夫の。。。戦の世界を越えてきた苦心の指が絡む
「鈴姫よこの仕事が終わったら。。。久しぶりに舞っておくれ。。それがわしへの最高の馳走じゃ」
「はい」
彷徨い続けた心を休ませる宿り木はいつも近くにいた事に実は。。。。
やはり泣いて
そしてやっと笑った