その36 運命 (10)
夕暮れを過ぎた刻に
それはやって来てしまった
「影トラ様の軍勢と。。。。」
最初の報告で,並ぶ「篝火」と聞いただけで,実には「影トラ」がついに目の前にやって来て締まったことは理解できたが。。。。覚悟は定まっていなかった
御簾の向こう側では
麻が必死に「ご仲裁を」という声を張り上げ
その「心」を知るに当たって
恐ろしい言葉を告げるに至り「品」が声を荒げて黙らせようとした
その時
夫の声は静かに。。。重く響いた
「話しを聞こう。。。。守護代奥方,麻殿。。」
急な「守護」上杉定実の登場に御簾に縋ろうと体を前に寄せていた麻は,すぐさま元の位置に戻り頭を伏せた
区切られた御簾の向こう
この屋敷の主の声に焦りは無く冷静な問い
「麻殿。。。。「仲裁」を願ってココまで来られたそうだが。。。それは「晴景殿」の頼みなのか?」
定実の質問に,麻は頭をふせたまま答えた
「いいえ。。。違います」
先ほどの騒ぎで声を張り上げてしまったせいか。。。さらに細く掠れるような麻の声と息に
定実は耳を傾けながら
「面を上げられなさい」
労る言葉に麻は静かに顔を上げた
少し乱れた櫛を掻き上げられぬ姿に,目前にまで来てしまった者に対する「焦り」が見える
だが
定実はそういう見える「焦り」に左右される事なく質問をした
「では。。。誰の頼みで「上杉」に仲裁を申し出に参られましたかの?」
麻は軽く首を横に振る
「誰の頼みでもありません。。。強いて申し上げるのならば。。。私の想いのために。。。ご仲裁をお頼みに参りました」
「想い。。。。?」
定実のとなりに座る「実」はただ黙して麻の言葉に体を堅く緊張させたまま
落ち着き無く聞き入った
「想い。。。とは?」
一つ一つの言葉を慎重に吟味するように。。。定実は問う
その対応に怒りはなく
本当に「事」の真実を知ろうとする真摯な姿を御簾越しとはいえ感じる事ができたのか
麻の張りつめていた表情が少し緩み
返された質問に。。。。。
頬を赤らめた
「私の夫。。。。晴景様に対する想いで。。。。ご仲裁を願ってココまでやって参りました」
「晴景殿に対する想い。。。。」
定実の声は。。。柔らかく優しかった
相手を十分に安心させる
ゆっくりと返される返事が,話を続けることを許す
「想い。。。。聞かせていただきたい」
驚く返事
定実は「女」の言葉に耳を傾ける
この非常の時に考えられないことだが
審議をするように
御簾の向こう「想い」を語れといわれ,戸惑いを見せる麻を促した
「想いを。。。それを聞かせてもらいたい」
定実の言葉に麻は急いで頭を伏せた
溢れ出て止まらなくなった涙を隠す。。。。。そういう理由もあったが
思っていた以上に「温和」で。。。。「女」の自分の言葉を真摯に聞こうとする守護の態度に感動して
そしてその心遣いに
留めていた「想い」は堰を切って溢れた
床すれすれの顔の前。。。。。涙の降り注ぎ小さな泉を作り始めている
化粧を洗い流してしまう熱い水に,顔を伏せたまま
問われるまま
麻は一生懸命に語りだした
「このような場所で私の事を話すなど。。。無礼あたるやもしれませんが。。。いいえ,しかしそれが本心でございますからお聞き下さい。。私は。。。。不出来な妻でございました。。。夫の心の内をわかろうとせず。。自分ばかりが疎まれていると思って今日まで過ごしてまいりました。。。」
板の間に降る。。。流れ出る幾粒も「痛み」だった涙
今まで
蟠り続けた「過去」を洗い落とす。。。
「私は身勝手な不満を募らせながら今まで暮らして参りましたが。。。。この未曾有の危機の時に。。。晴景様が変わらず私を想うてくださっていたことに気がついたのです」
もはや下を向きながら。。。。この手に託された「愛」を安く話せない
涙のままの顔をあげた
さっきまでの悲壮さはなかった
思いの丈を話す麻は「嬉しさ」を現し
いつもなら澱んだ涙で自分の膝だけを見つめていた瞳は「愛」に潤い輝きながら
「ですからこの「手形」は,あの方を救う。。私に託された「願い」なのです」
そこまでを話きってやっと涙を拭った
「私は晴景様を慕っております。。この想いで私はココにやって参りました。。今。。殿は一人,下がるに下がれないお立場にあり。。。。そしてきっと「死ぬことを」望んでおられます。。。どうかそのような事にならぬ為にも。。。お力をお貸し下さいませ」
麻は肩を震わしている
御簾を隔てた
実の体も奮え。。。
「どうしてそのような事がわかる。。。何故晴。。いえ守護代殿が死ぬなどと。。大げさな」
実の動揺に膝の上に寄せていた手を少し。。。握りかえした定実は
目で静かにするよう告げ
麻に聞いた
「ではこのたびの「戦」の仲裁を頼みに来たのは麻殿個人の願い基づいている。。。そういう事と理解してよろしいか?」
「守護様!!」
用件は終わり話しを断ち切られそうになると思ったのか麻は必死な声で
「守護様!!確かに私個人の想いに従ってココにやって参りましたが「戦」を止めたいという願いも本心にございます。。。「長尾家」のためにも。。もちろんの事にございます。。。その上でのこの願い。。果てにて私にどのような処遇を与えられたとしてもかまいません。。こんな戦。。「身内」で争うなど無意味です。。手をつなぎ合えば「越後」を乱す事なく解決できる事と信じております。。。。だからこんな事で「晴景様」を失いたくないのです!!どうか。。お聞き入れ下さいませ。。。そしてこの不躾な申し出のどんな処罰も私に下さいませ」
食い下がる麻の意見は「チグハグ」になり始めていたが
返される定実の声は変わらなかった
「守護代奥方,麻殿。。。用件はわかった」
「お願いです。。。。晴景様は守護様のことを。。。「代理様(実)」の事を「親」とも思っておられます。。。守護様のご仲裁であれば心を解かれ。。。」
「親?」
瞬間
定実の声は少し尖った
それはこの場所に集まっている「女達」全てに感じられたのか
水を打ったかのように静かになった
「親か。。。。。。。」
深い息
それをかき消す使い番の下男
「申し上げます!!只今。。。」
「いや。。。。しばし待て」
慌ただしく軒先に駆け込んだ男に定実は重い声で止めた
「使いの者。。呼ぶまで下がっておれ」
軒先の男は礼をしてすぐにその場を離れた
「侍女も下がってくれ」
声を固くした定実の指示に麻は「宮地」を下がらせ
実も「品」を下がらせた
実の体は小刻みに震えていた
隣に座っている夫の顔が厳しくなったことに。。。。心の奥底にある想い
逃げ場がない想いに
「姫よ。。。。。そなたはどうしたい?」
夫の膝の上。。握られていた手に力が入り
顔を背け反対に背を丸めていた実の体を定実は振り向かせた
御簾の向こうに控えて座る麻は自分の事と間違えそうになったが
定実が己の妻に話していることはすぐにわかった
逆に実は恐れおののいた。。。。
麻の話を聞くことで心はすくみ上がっていた
「晴景様は死ぬことを望んでいる」と。。。。それを黙って受け入れねばならぬ事になった自分の不甲斐なさ。。。。
キリキリと締め上げられる。。。。「彼」への想いを。。。。見透かされたのではと
「鈴姫よ。。。。そなたは。。。どうしたい?」
よもや人前でかつての名を呼ばれるなどとも思いもよらぬ夫の問い
「何も変わりません貴方様に従い。。。家臣の戦になど関わらず。。上杉を守るのみです」
心で募らせている思いとは別のものと戦い続け
からだを小さく震わせ続ける妻の声に定実は悲しそうな目で言った
「上杉に守るものはあるのか?」
「守ります!!貴方様を」
力強い返事とは裏腹に。。。。瞳はみるみる潤み曇ってゆく実
胸元まで引き寄せられたところから夫の顔を見つめていた頭は力無く,垂れた
「それが勤めにございます。。。貴方様の妻としての。。勤めにございます」
「そうやって。。。今までワシに使えてきたのか?」
悲しい。。夫の問い
「何故にそのような事をお聞きになりますか」
「叶わぬ想いを抱いたままワシの元に。。。。今日までいたか?。。。そう聞いているのだ」
顔を横に。。。。小さく振った
涙はやはり堪える事ができず
実は泣いた
泣いて
夫の胸元に向かって答えた
「そのような事。。。。考えた事もございません。。。私は「上杉」のためにココに嫁したのに子も産まず。。長尾との架け橋も作る事の出来なかった者です。。。。なれば「願いは一つ」。。。こんな私を愛し慕って下さった。。貴方様だけが全て。。。。。貴方様に。。。。」
言葉が細く消えて行く
苦しみが喉を締め上げ
本当の「願い」を懸命に封じ込める
「貴方様だけが。。。。」
実は崩れ
夫の腕の中に落ちた
定実は顔をあげ
御簾の向こうの麻を見据えながら言った
「上杉の家には,最早何も守るものなどない」
張りつめた会話の前
麻は沈黙を守った
定実は手の中の震える花,実を強く抱きしめて言った
「上杉家のために出来る事はは何なくとも。。そなたを「親」とも慕ってくれる「子」を救う仕事は出来るであろう」
実は驚いた
声はなくただ見あげた
定実の顔は。。。。。
あのときと同じだった
「そなたを愛している。。。そなたと共に過ごせる日々があるのならそれを「価値」ともいえましょうや」
自分の価値を
生きている意味を見失ったあの日
ただ雨の音の続いた日々の最後
実を必要だと迎えに来た夫の言葉
定実はそう言ってくれた
そして
今
夫は。。。。。またも心を壊してしまいそうな妻の願い
自分からはとても叶えられない。。。言うことの出来ない願いの言葉を与えた
「そなたを「母親」というのなら。。。わしは「父親」。。。子を見捨てる事などできぬ」
実の涙は定実の着物をゆっくりと濡らしていった
細い指先が必死に着物の襟を掴み
何度も
「貴方様。。。貴方様。。。。」
何度も。。。。。
定実は実の髪をなでながら深く息をついた
「必要以上に。。。運命と事を背負う事などない。。。ワシも。。。そなたも。。。これからも共に生きるために。。。共に出来る事をしよう」
時は深い夜を迎えつつあった