その36 運命 (2)
眠らぬ刻
眉間の皺は深く消えることのない苦悩のうちに「直江」は朝を迎えていた
前日の「守護代のご裁断」から
春日山の中は上から下までの大騒ぎ
おそらく
みな
「政景」敗退により,影トラとは「なんらかの形で」和睦が結ばれる。。。
または
何事もなかったかのように「責任は転嫁され」
上田長尾が詰め腹を切り
妹である「影トラ」によって「不心得者」の政景の成敗が「守護代」の意志であったと
議題さえもねじ曲げられた解決を見ると思われていたのだろう
だが事実はそうはいかず
「影トラを春日山にて迎え撃つ」という「戦」への道が開かれてしまっていた
そこからこの刻まで
上は「重臣」の者たちの水掛け論の「大騒ぎ」
それを宥め
下に揃う「春日山の番兵」たちの指示まで全てを直江がとっていた
「和睦」という策を全面に出そうも
春日山の中身が一致していなければ「総崩れ」という最悪の事態は免れない
自分の冷静さを取り持つため。。。。内側にある焦りを抑えるために「酒」こそ煽れども
もはや飯は喉を通らない状態での一日目だった
「段蔵と繋ぎはとれたか?」
襖のうしろに小さな物音に直江は声をかけた
差し込み始めた朝の日差しの中
それでも暗い縁の下から「中西」は答えた
「繋ぎはとれました。。。」
自分の座した下にいる「忍」に向かって直江は周りを気にしながら小さな声で
「今どこにいる?」
と
段蔵の居場所を尋ねた
「総構えの前に」
「何?」
「書状を預かる事はできましたが」
中西の声に焦りがあった
直江は状況をすぐに理解した
「総構えを閉じられて入城できないのだな?」
「そうです」
返事と共に板間の隙間から「書状」が挙げられた
直江は受け取るとすぐに書を開き目を通した
それは「影トラ」からの「和議」の親書
「直江様」
親書を熟読する直江の下で中西は時間を惜しんで提案した
「手違いを装って総構えの門を開けてみせましょうか?」
「それはダメだ」
手に取った親書を綺麗にたたみ直江は即答すると
額に走る皺を指でなぞりながら
少しからだを前に
板間に近づけて
「今の春日山の状態では「手違い」などという事が起これば即騒ぎになるし,それ一つでみなが「疑心暗鬼」に陥る事だろう。。。。開けてはならん」
直江の言うように
春日山は向かってくる「影トラ軍」に「守護代側」は未だ対応出来ないし,足並みも揃っていない
重臣たちも家臣たちも「不測」の事態に混乱し,良案を模索している状態だ
そんな中で晴景の命(命令)で閉じられた門が「手違い」程度の事で開かれてしまえば
もはや
「守護代の威信」は無かった同然の事とされてしまう
浮き足立つ家臣が「反」の気を起こして内側から崩壊してしまう可能性は高い
そうなってしまえば「流れ」を止める事はできない。。。「長尾」は確実に滅んでしまう道に進む事になる
そうならないように
門は「守護代近習」。。。。晴景のもっとも信頼する家臣達に固められているのだから
なおの事だ
「門を開けるのは。。。今すぐは無理だ」
朝日が少しずつ城の屋敷を照らしだす
小鳥のさえずりが聞こえる中
評議のこの間に「重臣」たちが集まる前に中西を帰すため直江は簡潔に指示を与えた
「引き続き段蔵との繋ぎと,外の様子の報告を。。。本日夜「斎藤朝信」を「光育様」の元に向かわす。。。事を終えたら,夕刻にまたココに」
縁の下の忍は静かに「返事」をした
板を一度小さく叩くと速やかに気配を消した
「御台様には上杉様の屋敷に移られよとの事にございます」
二の丸,北の表屋敷「麻」の元に来たのは鎧直垂をしっかりと着込んだ「水丸」だった
小鳥たちの声が静かに響く
少し薄暗い朝の到来を眺めながら
晴景の妻「麻」は,か細い事で答えた
「いいえ。。。。ココにて「戦勝」を祈ります。。。」
戦になる
その事は前日の夜に「噂」として自分の侍女から聞いていた
そして
事実がこの朝,晴景の愛姓から知らされた
「殿は。。。。どうしておられますか?」
水丸は麻の質問には答えなかった
かわりにしっかりと顔を見つめながら繰り返した
「上杉様の屋敷に移って下さいませ。。。「戦勝」はそこでも祈れましょう」
麻は食い下がる。。。という程の意地はなかった
細くなった肩から滑り落ちてしまいそうな打掛を手で押さえながら
泡立つ事のない静かな声で
正しい事を言い返した
「守護代の妻である私が上杉様のお屋敷に逃げ,匿われたとあっては他の家臣の手前「恥」となりましょう。。。。」
正論
だが水丸は少しも動揺を見せず
縁側から進んで麻の前に座してから,少し眉をしかめて見せた
「戦の足手まといに成らぬよう。晴景様の言う事を聞くべきです。。。こんな時にだけ役立とうなどと思わず。速やかに指示に従うのが「妻」の勤めにございませんか?」
水丸の冷たい顔は美しかった
美しく「棘」を十分に織り交ぜた返答を返した
麻の胸を締め付ける言葉をしっかりと入れて
。。。。。晴景様。。。。。
その言葉には十分な効果があった
麻の顔はすぐに「悲しみ」に歪んだ
小姓あがりの「近習」。。。。
それに
名前を呼ばせる「夫」。。。。
返された熱い棘は「麻」の薄く弱った胸をニブイ切っ先で刺し通した
「愛された男」と「愛されない妻」
心の臓が逸る
ニブイが故に鋭利に切れなかった心は
ガタガタに切り裂かれ止まってしまいそうになった
。。。。息が上がる感覚の中。。。。。
もう。。。。どれほど「夫」を名前で呼んでいない事だろうと,麻は思った
同時に
近習にこれほどの事を言わせてしまう。。。。
言われてしまう程「役に立たない妻」となった自分がいたたまれなかった
「役に立ちませんか。。。。」
改めて自分の立場を思い知らされた麻は水丸の顔を見る事ができなかった
うつむいたまま
喉を締め付ける苦しみの中で聞き返したが
美しい近習は
質問には答えなかった
静まった間の後
肩を落とし顔を下げてしまった麻の前に水丸は二つの手紙を差し出した
「ココに上杉様への書状があります,それと春日山の門を渡る時に使う「手形」もございます速やかに屋敷をお出になって下さいませ」
涙で曇ってしまった目の前
項垂れた顔の先の手紙を麻は見つめた
「夫」直筆の親書
それは良く見た文字。。。。涼しげで。。。綺麗な晴景の字
「戦」から遠く
光源氏のようだった。。。愛する人の字だった
あのとき。。。。
若君を失ってしまったとき。。。。。悲しみの中で戒名を書いた夫。。。。。
思い立ったように細い手を滑らせた
麻は親書を静かに自分の手元に引き寄せると胸に抱いた
涙をこぼしてしまいそうな顔をゆっくりと持ち上げ笑顔を見せた
「私はココから動きません。。。。「戦」の足手まといになるのなら自ら「死にましょう」。。。それが妻の最後の勤めにございますから」
麻の返答に水丸は驚かなかった
驚く事はしなかったが。。。顔に「嫌味」な笑みもなく「苦痛」のような険が額に浮かんでいた
相手の表情を読みながらも
麻は心を強く叱咤して答えた
「ココで生き。。。ココに果てます。。。それこそが「運命」と。。。信じております」
空は曇り
朝日は雲の間からこぼれるように春日山を照らし出していた
麻の返答を聞いた水丸は。。何も言わず屋敷を後にした
その日
柿崎城に本陣を張った「影トラ軍」は動かなかった
「和睦」の答えを待っているという向きもあったが実情は別にあった
慌ただしく出入りする諸将に目を尖らせていた実乃は職務を「金津」と交代すると
屋敷の回廊を歩き
奥向きの部屋に向かった
二の丸
柿崎の奥方たちの住む屋敷の中の一室は
こじんまりとした庭を囲んだ場所にあった
その中でも庭木の見晴らしの良い部屋の前に実乃の妻「猪」が控えていた
実乃は
部屋の前に座る妻に小さな声で尋ねた
「まだお眠りなのか?」
夫の質問に猪は深く頷いた
「今しばらくは。。。。。」
米山の合戦に勝った日
その日の朝から影トラは崩れるように眠りについていた
それは疲労と「穢れ」によるもので「体」の要求に従った休息ではあったが
「心」は別のところを彷徨っていた
人に知れる事なく
影トラの心は「闇」の誘いの中に深く深く沈んでいた