その34 牙 (1)
「長尾政景殿!米山峠にて「影トラ」様率いる栃尾勢に大敗!!」
驚愕の報告に晴景の顔色が変わる事はなかった
「そうか」
白い顔
整った目鼻立ちは微動だにしない
変わらないどころか
いつも以上に落ち着いた表情に何かを悟ったような「目」が
覚めた視線で白湯を飲みながら答えた
緩やかなのに見え隠れする深い影
晴景の姿に「直江実綱」間逆の態度を顔に表した
険しくなった視線
その日
事態は急転した
最初の使い番が春日山に入って四半刻(三十分ぐらい)もしないうちに
二の丸にある直江の屋敷には「春日山城」に詰めていた家臣たちが我先にと波のように駆け込んでいた
それまでの「戦況」が春日山には伝わっていなかった事で
急な「敗北」
目前にまで迫っている「影トラ軍」事「栃尾勢」に驚き
その勢力をめぐる
近隣諸侯の動きも合わせて
越後の。。。。。春日山の現状が「危機」のど真ん中にいる事を確信したのだ
「直江殿。。。。」
まだ朝餉の時間だったこともあるのか
「髷」を綺麗に結い合わせていない者さえいた
一番早くに居間に目通りしたのは白髪を引っ詰めたままの老中
よほど慌てて来たのか
草鞋もはかず
この冬の迫る土の上をなりふり構わず走ってきていたようだった
「落ち着かれよ」
唯一「柿崎」とつなぎを持っていた直江の元に人が集まってしまうのは仕方のない事だったが
集まった家臣たちにはこの事態は「青天の霹靂」だった
たった一月
春日山に「次期守護代の地位」を我が者にせんと乗り込んできた「政景」が
その地位を「確約」された「仕事」として息巻いて
大手を振って出陣した
「収穫」という大事な時期にありながらもの大軍勢五千を動員した近年では希ともいえる「数」を要した討伐軍
どう考えても勝算を挙げることのできない「栃尾」が
まさか
「進軍」してくるなど考えもよらなければ
その少数の軍勢に「負ける」など目が覚めても「夢」としか思えない事態だった
「負け。。。。これは。。。事実にありましょうか?」
最初の質問をした白髪は走り疲れてしまったのか顔を真っ赤にしたまま肩を顔ふるわしている
その後ろに次々と並ぶ家臣たちの中
余力のあった若い家臣が
屏風の向こう。。。城に上がるための支度についている
顔の見えない「直江」に「念を押す」ように聞いた
「事実だ。。。。今から守護代様にお会いする。。みな努めて冷静でいてほしい」
明確な返答に「釘」を一つ
滞らない声で騒ぎを助長しないようにと付け足す
家臣たちが騒ぎ立てれば
春日山全体に動揺が走ってしまう
まだ。。。すぐには「あの方」も動きはしないだろうとはいえ。。「危険」はもはや「身の内」にもあるのだからこそ
「冷静」でなくてはならない
自分の髷を今一度
不作法になっていないか手で確かめ,気持ちを正すように襟を合わせた
屏風の向こうではこの「事態」を正確に把握できない「不安」でざわめきのまま汗を拭う者たち
直江はゆっくりと屏風より姿を現して告げた
「みな,慌てず!静かに。。。お待ち頂きたい」
だが。。。。
城内の重臣一同と家臣たちがこの屋敷に駆け込んでしまった事で。。。。
尋常成らざる事態が目の前に着ている事は隠せない
直江は着物の袂を手で押さえた
後は「ココ」に示されたように導く事が直江の仕事
無き御屋方。。。「為景」の意志を
残された時は少ない
早足に屋敷を後にした
「和議の手紙を預かっております」
最初に「政景」の大敗を告げた時と変わらない素っ気ない返答
火桶に手をかざしたまま白湯の杯を下ろした晴景に少しの「動揺」も見られなかった
「和議。。。。?何のだ?」
「先ほど告げましたように。。。」
「影トラと和睦しろと?何でだ?」
溜息
美麗な眉を少しだけ傾かせ
まるで迫って来ている「事態」を無視するかのように手元の「水丸」に急須を持たせ薬湯を注がせる
直江は不審に思いながらも続けた
できれば「人払い」もして貰いたかったが「火急」で入った知らせを躊躇する事ができず
この部屋に「水丸」がいる事を許さねばならなかった
時は待たない
構えていては手遅れになる
だからこその渾身の「策」を今。。。実行せねばと思いを改め続けた
「政景様は先の「戦」にて「守護代様の命(命令)」により「栃尾」並びに「影トラ様」を征伐についたと。。。その旨を声高く宣言しております。。。それに端を発しての「戦」を収束せねばなりません!このたびの「戦」は政景殿の独断による動きが大きく,それにより春日山は「煽り」を受けている身にございます。。。努めて「戦」は晴景様の意志ではないとおっしゃいくださいませ。。。その言(言葉)をし,影トラ様との和解を進めます」
「ああっ。。。確かに「影トラ」を討伐せよと政景殿に「わし」が命じたな」
柳のように直江の堅い言葉をかわして晴景は微笑んだ
軽く頷きながら
念を押すように
「あの命(命令)はわしが出したものだ。。。間違いない」
「それはわかっております」
直江の額には少しの汗があった
今日の晴景は「違う」
政景を嗾け「討伐」という戦は「決定」であると宣言した爆発的な「怒り」を携えた鋭さのある態度ではないが。。。
穏やかな笑みの向こう
心の中を読ませない
いや
見えていても口出しをさせない「異常な」柔らかさが直江に緊張の糸をさらに強く張らせた
「なれば。。。すぐにでも「和睦」を。。。」
直江の重い口調と視線を見ない晴景の顔は外の音に向かっていた
それは直江にもすぐにわかった
何かがこの部屋に向かって猛然と走ってきている
回廊の板を叩くように響かせた足音を引き留めようとする「侍女」たちの声
その「悲鳴」にも近い制止を振り切って割った者は
晴景の部屋の襖。。。障子に指を食い込ませて開けた
「。。。。綾姫様。。。。。」
直江は多分「重臣」の誰か。。。。か?
と思っていた
足音の激しさから痺れをきらした「老人」たちかと
しかし
目の前にいたのは
淡い水色
絹の打掛を乱れたままに息を挙げている「綾」
目は驚きに開かれたまま
滑り込むように直江の前に割って入ると怒鳴った
「政景様はどうなったのですか!!!!」
細い指
白い手
柔らかな女の腕。。。なのに信じがたい強い力で,直江は襟首を引っ張られた
「政景様はどうなったの!!!」
唾
涙
普段の「貞淑」な姿からは想像も出来ないほどの狼狽ぶりを隠すことなく「綾」は顔を歪めたまま,直江に詰め寄った
「政景様は。。。ご存命なの?生きて。。。」
直江は襟をを惹かれ胸ぐらを掴んだ手をなだめるように押さえながらそれでも口調はゆっくりと,考えられた答えを返した
「わかりません。。。ただ御首が挙がっておりませぬ故。。。坂戸に落ち延びられたのでは?」
今,直江に必要とされている重要な事は「戦」の趨勢であって
政景の安否など,どうでもいいことだっただけにそこを問われる答えを準備してはいなかったが乱れる事なく
妥当な答えは伝えられた
「どうか。。。落ち着いてください」
襟を。。。
掴んでいた手は小刻みに震えていた
綾の大きな黒目は涙で溶け出てしまいそうなほどに「悲しみ」と「驚き」に溺れていた
静かに
直江の襟を離す
「どうして。。。。こんな事に。。。。」
綾は。。。。力無く崩れる体は
目の前
変わらぬ表情で薬湯を飲んでいる晴景に聞いた
「わしが聞きたい。。。何故負けたんだ?あれほどに「兵」まで与えておいたのに」
飲み干した杯を前に下ろし
冷たい目は答えた
冷めた口調は綾の「望む答え」を与えるようには動かない
唇がただ震え
言葉がこぼれ
手で口を塞ごうとしても。。。。心の悲鳴が喉を通り。。。。流れ出る
「兄上の命(命令)に従って。。。。「戦」にでたのですよ。。。なのに。。。」
ふらつく綾の体を侍女達が支えた
「わしの命は。。。。「影トラ」を討伐する事だったハズだ。。。「負けろ」などと命じてはいない」
冷たすぎる兄の答えに綾は崩れ嗚咽した
それにさえ気にもとまらぬのか
「無様な。。。。敗軍の将は「討ち取られる」のがこの世の習いだ」
追いついてきた「侍女」達も晴景の容赦のない返事に凍りついていた
集まった者たちの「驚き」にも動じない
冷徹の「守護代」は溜息を一つ落とすと告げた
「もし生きながらえているのなら。。。。「恥ずべき事」よな」
最後の釘を晴景は深々と倒れ込んだ綾に背中に刺した
「死んでいて欲しいと願うだろう。。。不名誉を重ねた「夫」など」
「いやっ」
冷たい眼差しの前に一度は崩れた体を大きく震わせて綾は否定した
立ち上がると
涙の目で訴えた
「生きていて欲しい。。。どんな事があっても。。。私のところに帰って欲しい」
晴景の目は「綾」を見なかった下ろした杯を眺めているだけ
腰の扇に手を添えて
「手紙を書きます!!!坂戸に!!」
そう言うとそのまま礼もせず来た廊下を泣きながら走っていった
そのけたたましい足音にまたも「侍女」達が走って従った
障子は開かれたまま
ただ風
だけが入る静かな部屋にもどった中
晴景が直江に向かって呆れたように
「騒がしい「女」だ。。。まったく」
直江も少しの間にめまぐるしく起こった喧噪に呆けていたが
乱れた襟と胸ぐらを正すと
城内でも「戦」の顛末が知れ渡った事を確信した
綾姫が。。。。「敗北」を知った。。。。という事は当然「虎御前」も。。。。
もはや猶予は無い
咳払い
騒ぎに一段落の合図をし
平に伏して晴景に言った
「どうか「影トラ様」と和睦をそれが「越後」の混乱をいち早く終わらせる「最善」の方法になります」
「直江。。。。。」
さっき。。。綾を問いつめた時のような口調に
この日初めて晴景は「怒り」を乗せて答えた
「影トラとの和睦など。。。。絶対にない」