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Dragon Eye第二篇 星の音色と白の神話  作者: 星白明
一章 2.マールウェイ、動乱
12/13

-3- 君は僕の

朝起きると、隣に娘の姿はなかった。

 ロヴェは荷馬車の上でがりがりと頭をかきあげて、深く、溜息を吐いた。ティアの腰巻に化けていた狐の魔物――シファもどこにもいない。

 辺りはまだ暗い。日が上る前だが、ドラゴンであるロヴェの目をもってすれば全く見えない訳ではない。が、だからといって、人が動き出すには少々早すぎるように思われた。

 頭にやっていた手をぱたりと下して、膝の上に力なく放り出す。

「……ガキか、あいつは」

 父親を放り出して駆け去って行ってしまったティアを思い、ロヴェは苦笑した。




 養父を置き去りにして出発したティアは、街道を疾駆していた。暗闇をものともせずに突っ切っていくティアの目には、常の漆黒の色ではなく、銀の煌めきが灯っている。三年間の旅と、クラズア山地での厳しい生活で培われた身体能力は、もはや並みの娘のものではありえない。ドラゴンの力の恩恵による持久力も駆使して、一気に公都オリスヴィッカまでの残りの距離を詰めるつもりでいた。

『なぜ我の背に乗らぬのだ』

 肩にしがみついていたシファが不満そうに口にする。

「最後の手段だからよ。あなたが元の大きさになったら、大騒ぎになるわ。だからブレインだって、小さな通話能力しか持たない分体でいいって言ってたでしょ」

『使い魔は使い魔らしく、主の役に立ちたいものなのだが……』

「大丈夫よ。今、役に立ってくれてる」

 ティアは背中にしがみつくシファに、肩越しに微笑みかけた。

「それで……どこにいるの?」

 すっと目線を上げれば、確実に近づいてくる、宵にまどろむ都市の姿がある。

『一番近いのは、私と坊主がいた坂道からだ。主な通りではないが、大公もそこを通っていたのだから、近道に間違いない』

 シファはくんくん鼻を動かし告げた。ティアの脳裏に、低い視点からの町の様子が浮かぶ。精神を繋げば、分体が見ている景色を共有できる。遠く離れたシファの分体は大公邸への道を走り抜けているのだ――ちなみに、ブレインにくっついていたのを無断で離れて出歩いているので、傍らに弟はいない。分体とはいえ、姉から預かった使い魔の不在に気が付いて、今頃泡を食っているかもしれない。

『ちなみに門はまだ開いていない』

 そう、とティアは頷いた。でも。


「関係ない話ね。今の私には」


 近づいてくる黒々とした防護壁を見据え、ティアは唇を笑みの形に結んだ。

 ほのかに灯が見える。寝ずの番をする衛兵たちの姿も。

 だが、そんなものは、ティア(ドラゴン)には無意味だ。

「真面目にお仕事してるのに、ごめんなさい(・・・・・・)ね」

 どんっとありったけの力で大地を踏み切った。全身の関節、筋肉が、何度も何度も繰り返し養父に教えられた動きを丁寧になぞった。天と地の狭間で滑らかに弧を描いて、ティアは宙高くへと舞い上がる。

 魔術の感知があるかと思ってあらかじめ対策もしてきたが、思わず拍子抜けするほど、ティアの感覚は何もとらえることはなかった。大空の中で、つかの間の自由な飛行を楽しむ余裕さえあった。

 結果。

 城壁からの灯りも届かないはるか上空を駆けて――都市と外を隔てる堅牢な壁をあっさり乗り越えていった。弟が見ていたら、「無茶苦茶やるよ!」と悲鳴を上げただろう。思いつつ、体を風車のように振り回して勢いを殺し着地する。すくりと身を起こして、勢い、流れるように前に乗り出し。ティアは再び走り出した。

「絶対、つかまえる」

 固い決意を口にする。


 三年間、ずっと、ずっと……こっちがどんな思いでいたと思っている。

 どんな思いで、あの壁を見つめたと思っている。


 あれほどたくさんの血の跡を残しておいて。

 もう生きていないと思って、諦めて、それでも諦めきれなくて。弟と二人で何度涙を堪えただろう。

 会ってどうするかなんて、決めていなかった。

 それでも会えば、積年の思いに決着を付けられるのではないか、そんな気がしていた。


「馬鹿兄。絶対、つかまえてやるんだから……!」


 怒りに呼応して、ティアの瞳には力が強く漲っていた。



□■□■□




 無茶をやらかしている”姉”の弟は、宿の前で青ざめて立ち尽くしていた。さぁぁああっと音がするほどの勢いで血の気が失われていくのが自分でも分かった。

 

 シファがいない(・・・・・・・)

 

 宿にとっていた部屋の、ベッドはシーツの下から枕の下、果ては木枠にはめられたクッションもナイフで引き裂いて、あちらこちらと探し回ったのだが。カーテンもひっくり返し、家具も一度分解できるものは分解してみた。服の中も荷物の中も財布の中も見た。襟巻に紛れていないか。宿中の掃除用具置き場や厨房に潜り込んでいないか。他の宿の客のドアを叩いて全部他の部屋も見た。風呂場も宿の若奥さんがちょうど早朝に湯あみをしていて、危うく覗き魔扱いされるところだったが頼み込んで確かめてもらった。

 

 結果。

 

 どこにもいない。

 

 

「うわぁぁああああああああ……!」

 頭を抱えて座り込んだ。

「シファ、シファ……なんでいなくなっちゃってるの。姉さん、姉さん、やばいって、シファがこんな町中をうろうろしてたら、一体何やらかすか……!」

 これまで訪れた町で起こったすったもんだを思い出し、ブレインは焦る。姉の使い魔は、姉に寵を与えたドラゴン・カーレンの使い魔のルティスに比べて人間と馴染んでいた期間が短いのだ。人界での一般常識がないせいで彼女が起こした事件は枚挙に暇がない。それでも最近はずいぶんマシになったと思っていたところにコレだ。姉にどう顔向けすればよいのだろう。シファの監督不行き届きで養父からのお仕置きという名の扱きが待っているに違いない。

 うわぁああああああ……!

「…………こうしちゃいられない」

 ブレインは、口をすぼめて、すぅうと息を吸った。吸って、吸って、溜めた息を、吐く。深呼吸。感覚を研ぎ澄ます。

 ここ三年の間に、意思を向ければ求めるものがどこにあるのかが分かるという、妙な勘が身についていた。ブレインもかつてドラゴンの力の一端を身に受けた上、常人ならぬ者だったこともある。姉が覚醒させた能力による影響が出たのだろう。ロヴェがブレインを指定してオリスヴィッカの近辺の情報を探らせた理由が、この度外れて冴え渡った『勘』にあった。

「……なんでかな」

 ブレインは振り返った。背後に伸びる坂道と、その先に小さく見える邸宅の影を見上げて、ブレインは湿った声を漏らした。

「なんか、あっちからものすごいイヤな予感がするんだけど……」

 広げていた超感覚が、じくじくとブレインの焦りを刺激してくる。それと同時に、恐怖のような張りつめた糸の感覚をつかんで、ブレインは弾かれたように大門の方を振り向いた。

 大門を見つめているうちに、顔が強張っていった。向こうから何か来る。

「こっちは、イヤはイヤでも、『嫌』な方の予感だな……」

 しばらく逡巡していたが、やがて、ブレインは石畳を踏み切って、大通りを走り出した。早朝の市へ出かけようとするまばらな人々の合間を縫い、花に水をやろうとしていた女性の腕の下をかいくぐる。転ぶように走り抜けたブレインは、眼前に見えていた鉄の透かし細工の美しい門前で、衛士が慌てて槍を交差させて道を阻むのを見た。

「止まれ! 何者だ!」

 しかし、止まれと言われて止まる余裕はどこにもない。

「すみません! 急いでるんです! あの!」

 ブレインは息せき切らしながら叫んだ。

「うちの姉と、一緒にくっついた白い狐、知りませんかっ!?」

「狐? 小さなやつならさっきそこの生け垣を潜「ごめんなさい!」ぐぉおっ!?」

 片方の衛士が唖然とする横をすっ飛んで、ブレインは流れるように飛び蹴りをもう片割れに決めていた。衛士を吹っ飛ばしながら、顎を上げて門を仰ぐ。

 あの使い魔が野放しになっていたら大変なことになる。事態を収集する適役はここにはいない。断言できる。

 そのまま踵で、がしゃん!と透かし模様の隙間をとらえた。曲芸師にも劣らぬ動きで、すたたたたんっと黒い鉄の門を飛び越える。

「く――」

 衛士が慌てて笛を吹いた時には、ブレインは門をはるか後方に置き去りにし、勘に導かれて庭園に突っ込んでいくところだった。

「曲者だ! 捕らえろ! 衛兵!」

 大捕り物の開始だ。即座に物陰から躍り出た伏兵をかわし、誰もいない回廊を兵に追われながら走りぬけ、何かを運んでいた給仕の女性の前を勢いよく横切った。

「っ!? 誰!?」

 あれ、この声どこかで聞いた事があるな、と思ったブレインの後ろで、はっと女性が大声を上げる。

「いけない! そっちに向かわせてはダメよ! 今白純の庭園にはシウォンが――!」

 あっちか。

 『勘』の正体に慄然としながら、ブレインは走る速度をさらに上げた。間に合え――! 迷路のように入り組んで作られた人目避けの垣根を飛び越える。躍り出た先でブレインは立ち止まった。

 

 純白の美しい花々で埋め尽くされた大きな花壇。その手前に乳白色の石の卓が置かれ、そこで執事服を着こんだ老爺に茶を供される貴人の姿があった。艶のある長い黒髪、白く透き通った陶磁の肌。宝石をはめ込んだように煌めく紫紺の瞳に、ふくりと色の通う赤い唇。この世のものと思えぬ麗しき容貌。

 思わず呆けたブレインに気がついたのか。その稀な色の瞳が、手元の茶器からこちらに移り、意外そうに見開かれた。

「――あれ? ティアちゃんじゃなかったな」

「左様ですな」

 呑気に交わされた会話。

「……、……!」

 ブレインの中で一秒ほど時が止まったが、それどころではないと気が付いて、「兄さん、逃げてっ」と青ざめて叫んだ。


「姉さんが来るっ!」


 言った瞬間、ふっと頭上が暗くなる。おや、と青年がまるで緊張感のない様子で見上げ、つられて空を見たブレインは悟った。遅かった。

 ブレインの頭をたしんと柔らかい肉球が踏みつける。白い幾本もの尾が頭の前に垂れて視界を遮った。その隙間から、ブレインの前に低く身をかがめ、黒髪をなびかせ降り立った、姉の姿が見えた。

 貴人をきっと睨みつけた瞳は白銀に燃え、孔は細く裂けていた。

 

 まずい。殺られる。

 

「姉さんっ」

 ブレインは悲鳴を上げた。

 姉――ティア・フレイスは鬼の眼光のままブレインを射抜き、「――あら?」と頓狂な声を上げた。

「どうしてここにいるのかしら?」

「こっちの台詞だよ!?」

「――まぁいいわ」

 よくない。まったくよくない。

 内心大恐慌に陥っているブレインをよそに、姉はふっと表情を消して、貴人に向き直った。

 辺りに沈黙が落ち、唯一響くのは外野からの侵入者の行方を求める声だけになった。

「……ジャスティ・シウォン・エル・ラーニシェス?」

「『今は』ルヴァンザム・ルーベム・エル・ラーニシェスだよ。表向きの名はそれなんでね、勘弁してほしい」

 ティアの詰問を貴人が受け――肩をすくめる。

「まぁ、否定はしない」

「…………兄さん」

 ぴくりと貴人の眉が跳ねた。ややあって、彼は静かに口を開いた。

「――なあに。ティアちゃん」

「…………久しぶりね」

 ティアの声が低く落ちて地を滑る。

「そうだね」

 はらはらしながらブレインは頭の上のシファと共に成り行きを見守っていた。シファときたら、ゆらゆら尻尾を揺らして完全に高みの見物と決め込んでいる。非常に視界の邪魔なのでやめてほしい。

「久しぶりに会えてとても嬉しいのだけど――ごめんなさい、抱擁の前に少し顔を貸してほしいの」

 だめだ。絶対ダメだ。

 ぶんぶんとブレインは首を振った。そんなの絶対にダメだ。全力で貴人と姉の間に割り込むと、庇うように腕を広げた。

「!」

 ティアが目を見張る。

「兄さん、姉さんは僕が抑えるから、今のうちに」

「そういう訳にもいかないだろう」

 涼しげに貴人の声がする。

「三年前に殺されかけた相手だ、いろいろ言いたいこともあるだろうし」

「……、」

 ティアの眉が静かにひそめられた。

「……『セル・ティメルク』」

「……、」

 貴人はしばらく黙した。


「――久しぶりだなぁ。その名前で呼ばれるの」


 へにゃ。と。

 音が出そうなほど柔らかく、嬉しそうに、貴人が笑う。内心で勢い良く項垂れた。兄よ。ちっとも笑ってる場合ではない。

 姉の冷え冷えと冴えた銀の――覇竜の瞳がとても怖い。弟のはらはらとした内心をよそに、ティアはすっと両手の平をわずかに体の前に差し出した。


 くる。姉の十八番が。


「セル・ティメルク。兄さん。あなたにひとつ、どうしても聞きたいことがあるの」

「……兄さん、本当に、逃げ「ブレイン、あなた、いい加減ちょっと黙ってて?」


 一瞥された瞬間、ブレインの口が強制的に目に見えない力で結ばれた。

 体に衝撃が走り視界は横に飛ぶ。吹き飛ばされた体は近くの生垣に突っ込む前に、頭上にいたシファの尻尾が膨らんで受け止められた。打たれた衝撃にじんじんと体がしびれている。声に出して呻くことすらできない。ひどい、姉さん。


 くらくらして傾ぐ視界。斜めの世界で姉が貴人に飛びかかる。手元には――一振りの細身のナイフ。それに対し、貴人は袂から咄嗟に引き抜いた短剣で応じる。


「ねぇ兄さん」


 透明な声。怨嗟や憎しみの色はどこにも見えない。純粋にそれは問いかけだった。


「どうして私に何も言わずに、消えてしまったの?」

「――それは」


 貴人は答えた。一呼吸、置いた、その息の気配が震えていた。

 ブレインは驚いて息を呑んだ。


 先ほどまで飄々と、とり澄ました顔で振舞っていた青年が。

 泣いていた。


「『妹』だから」


 ごめん。と彼は言った。


「痛かっただろう。怖かっただろう。悲しかっただろう。……悔しかっただろう。……だから、どうしても、どうしても顔向けできなくて。僕はあの日、全てが終わって、それで生き延びたと知った時、急に怖くなった。君にどんな顔をしても会えないと思った。君の前から逃げた」


 それでも君にこうして向き合っているのは。


「僕がそれを……後悔したからだよ」

「……そう」


 ティアは短く、ただそれだけ呟いて、頷いた。


「分かったわ」


 ぱきん、と、異音をブレインの耳が捉える。え、と間抜けな声が貴人から上がった。ティアの持っていたナイフから異様な光の蔦が生えて、彼の短剣の刃を根元からぼっきりと折り取っていた。

「よかった。『おまえには関係ない』って言われたらどうしようか迷っていたから――これで遠慮なくやれるわ」

 装飾的な蔦模様がさらに生えて、折れた短剣の柄を伝う。貴人の腕を銀光が高速で這い登る。

「え」


 気づけば、彼は身動きも取れなくなっていた。

 

 対人においては初見殺しもいいところの、姉の拘束魔術。女という見た目と武器の攻撃性の低さに油断して、これで屈服した荒くれどもの顔の数は、もう両手の指では数え足りない。

 さぁあっと青年の顔が青ざめる。ブレインも血の気が引いていく。


「あなたに対する私の答えはこうよ。兄さん」


 ティアの唇が流れるように魔術のための詩を紡ぐ。


「何はともあれ……とりあえず吹っ飛びなさい――、この、馬鹿兄!」

「うわ」


 ズドン、と重い音がする。ブレインは肩をすくめた。


 兄は頭から背後の花壇に突っ込んでいった。ひらひらと大量に白い花びらが舞い上がる。姉の思い入れが強い、パフィアの花びらが。

 ティアは気づいただろうか。ブレインは気づいていた。ここに最初に来た時、彼の服の裾にはわずかに土汚れがついていたし、花壇の影には肥料も移植ごても置いてあった。

 きっと、彼がティアの目の前から姿を消した時に、北大陸からこちらに持ってきたのだろう。あそこにはたくさんあの花が咲いていたから。数株程度をたった三年でここまで増やすには、こぼれ種すら逃さない努力が必要だったはずだ。目をかけ手塩にかけ、丹精を込めて世話をしたのだ。

 鼻で嘆息し、ブレインは目を閉じて天を仰ぎ、花びらを体に受けた。注がれなかった三年分の愛情が、雨のように降り注ぐ。

 寂しがり。思ってブレインは苦笑した。姉は吹っ飛んだ兄の上に飛び込み、花と兄の服に埋もれて、すでに涙でぐしゃぐしゃになっていた。

 シファが嫌そうにブレインの体の下で身をよじる。その毛並みにぼたぼたと水が垂れていた。ブレインは自分まで泣いていたことに気が付いて、また笑った。

「……ははっ」

 今、とても幸せだと思った。






 がしょりと氷のぶつかり合う音がする。

「痛い」

「我慢なさいませ、坊ちゃま。三年間逃げ隠れなさったツケがこれだけで済んで良かったではありませんか」

 氷嚢を雑に頭に乗せられ、涙目で老執事を睨み上げる青年には、今は国主としての威厳はない。

 あれから、貴人の悲鳴を聞いて大勢の使用人や兵士が駆け付けた。

「シウォン!」

 叫び声をあげた侍女に見覚えがあったブレインは、誰だったか思い出すと、ああ、と納得した。アンジェリーナ・サシャ・ディアン。昔、幼い頃の大公と婚約関係にあった女性だ。ほんの短い間だったが、ブレインも彼女と何度か話す機会があったので覚えていた。

 彼女は花壇の中に沈められた国主の哀れな様に蒼白になり、その胸にすがりついて大泣きしているティアと、苦笑するブレインと執事に大いに困惑した。

 すぐには声を出せない大公に代わり、執事が問題ないから警備の穴を早急に埋めて湯を沸かすようにと命じなければ、ティアとブレインは今頃地下牢にでも送られていたかもしれない。

 訳知りなのかすまし顔の医師に診察を受け、心配顔の侍女たちに朝から湯で清められ、乱れた髪も服もさっぱり整えられた青年は、現在執務室で机に突っ伏し氷嚢を搭載した頭を抱え呻いているところだった。ずいぶん周りには溺愛扱いを受けているようだ。ティアは未だにぶすくれている。泣き腫らした目を伏せがちにしながら、執事が用意させた軽食のサンドイッチにブレインと共にかじりついていた。

「えっと……それで今は、何て呼べばいいの? 兄さん」

 言われて、青年は思案顔になる。

「……ルー兄とでも呼んでおいて」

 ティアが複雑そうな顔になった。姉は姉で、この青年の父親だった男と浅からぬ因縁があるので、その呼び名にかなり抵抗があると見える。

「今は客人が来ていてね……とりあえず、細かい事情を一から説明するのも大変だしなぁ……。私が引き取った子供たちで、育ての兄に久しぶりに会いに来たということで通してくれ。身内だけの時には今まで通り呼んでくれたらいいよ」

「そうなんだ……。えっと、とりあえずそれは分かったよ。ところでさ、父さんをここに呼んでもいいかな?」


「父さん?」

 大公――セルは瞼を瞬かせた。

「誰のことだい、それは」

「ロヴェ・ラリアンよ」

 ティアが端的に答えた。

「私たち、ここ三年はあの人と家族として旅をしていたの」

「彼と? ――それはまた、意外な話だね」

「彼は今、私たちを養う三十歳の若作りって設定なのよ」

 ぶっきらぼうながらも返ってきた答えに、青年大公は微妙な顔をした。

「若作り――年齢以外あながち間違っていないところがねぇ。そうか……ああ、喉がかわいたな。爺や」

 ジュース持ってきて、とセルは執事に指示を出した。

「兄さんだって人のこと言えないじゃないか」

 ブレインがぼそりと言ったのを聞きつけて、セルの軽食へ伸びた手が止まった。

「……私は胎児の状態で父親に時を止められていたんだ。赤子として生まれてすらいないから、実年齢は見たままだよ」

 ぼそりと主張し、何事もなかったかのようにその手は再び動き出して、流れるようにサンドイッチを口へ運ぶ。彼は行儀悪く頬杖をついて、もっしゃもっしゃとサンドイッチを咀嚼しだした。釈然としない、と顔に描いてある。

「それで――三年の間に政変があったりなんだったりとかなり目立った動きもあったのに、私のことを聞きつけなかったんだね」

「……旅の初めに、ハルオマンドについて私が聞きたくないって言ったのよ」

 ティアは目をそらした。

「それで、父さんが私たちを連れて行ったのは、西大陸とか、南大陸。旅先では、父さんを育ててくれた夫婦のお墓があったり、食べ物が美味しかったり……まぁ、そんなところを巡って、あとは父さんにお願いして鍛えてもらったりしているうちに、あっという間に三年ね。カーレンも忙しかったみたいで、ハルオマンドの実情についてはほとんど知らなかったらしいわ」

「カーレンに会ったんだ。まぁここにいるってことはそうだろうけど、やはりウィルテナトには立ち寄ったんだね」

「そのことなんだけど、」

 ティアは懐から古ぼけた封筒を取り出し、軽く振った。

「この手紙……どういう意図があって出してきたの?」

「あ、それが例の手紙なんだね。何が書いてあったの?」

「……何も書いてなかったわ。文字はね」

 姉は溜息をついた。見てごらんなさい、と差し出された封筒を受け取り、ブレインは手紙を開けた。二つに折りたたまれた少し厚手の紙を開けば、中央には冴え冴えとした蒼いインクで、一つの標章が描かれている。

 ブレインは一瞬首を傾げ、すぐにそれが何かに思い当たった。いくらか意匠はセルの手により洗練されているものの、忘れるはずもない。

「……これ、懐かしいね」

 標章をなぞると、ブレインは自然と微笑んでいた。

「リスコで孤児だった時のことを思い出すよ。僕らの印だ」

「途中、誰に開けられるかもしれないと分かったものではなくてね。そんな風に描くしかなかったんだ」

 リスコの港町で、浮浪児として生き抜くために。セルが子供たちを集めて、そしてティアとブレインと三人で決めた合図だ。

 『注意! 超重要!』――確かそんな意味合いの標章だったと思う。セルは青、ティアは赤、ブレインからなら黄色で書くこと。三人の間で共有された秘密の暗号は懐かしい思い出だ。ティアたちしか知らない時点で、なるほど確かに、十分な機密性と伝達性を持った連絡手段だった。

「そっか。これと封筒の添え書きで兄さんからの手紙だって分かったんだね」

「それ以外何も書いていなかったから、私、どうしようもなくて。居てもたってもいられなくて、すぐにウィルテナトを飛び出そうとしたの。――カーレンたちに止められたけど」

「そりゃ止めるよ。姉さん、意外と直情型だから……無鉄砲にすぐ飛び出して行ってしまうんだもの。カーレンさんも大変だ」

「どういう意味よ」

 軽く睨まれたブレインは、肩を竦めながら笑った。同じようにセルも肩を震わせていたのを、こちらもティアに睨まれて苦笑する。

「それで、どうしてこんな手紙を?」

 再度尋ねられて、青年大公はゆっくりと瞬いた。

「最近、レイディエンに頼んで流れの者としてドラゴンたちと接触してもらっていたのだけど、少しきな臭い話を聞きつけてね。ウィルテナトにいたら大変だと思って、呼び寄せるために送り付けたんだ。間に合ったようで良かった」

「それ、父さんも言っていたわ。どういうこと?」

「――大公様」

 執事が緑色のガラスのボトルを持って現れた。

「ああ、ありがとう、お願いするよ」

 ティアとブレインがジュースのグラスを受け取る間に、セルは人払いをするように執事に言づける。そのまま執事が一礼して退室し、一呼吸おいてから、ようやく口を開いた。


「今度、マールウェイで族長会合が開かれる。通例であればもう少し遅いんだが、今回は蒼の期間と呼ばれる時期で――ほら、空に見えるだろう、あのほうき星の到来中でね。その流れで北の里ウィルテナトの『赤き者』アラフル・クェンシードを旗頭と担いで人の地に攻め込もうとしている者たちがいるんだよ。彼ら過激派と、それに反対する穏健派とで、マールウェイの地は二分されかかっている」

「え? でも、今本人は……奥さんのリエラさんと一緒に世界旅行中だって」

「そうなんだ。あの人らしいな。まぁ、要するにウィルテナトの長にうんと言わせたかったんだよ。大義名分が欲しかったんだろう」

 ――ところが、族長会合の前に北の隠れ里ウィルテナトでは長が代替わりしてしまった。

 現在の副長エルニスと当代のカーレンとの『長争い』は、ドラゴン同士の公的な戦いでは近年まれに見る激戦で、名勝負として語り草になったほどだ。それからさほど間をおかずに長の就任は全世界の里に周知された。しかしその後カーレンは突然ウィルテナトを出奔。里を狙う何者かと死闘を繰り広げ、戻ってきた時には自力での移動こそ可能だったものの、魔力の調整等の関係で半年の療養を必要とするほどの状態だった。それ以降は現在に至るまで、公的な場に一切姿を現さなかった……と、表向きはそういうことになっている。

「じゃあ、ウィルテナトの長が今はカーレンだから、カーレンの首を縦に振らせようとしている……?」

「レダンの集めた話では、そうらしい。場合によっては実力行使も辞さない構えだそうだ」

「大変じゃん、カーレン兄さんが袋叩きにされちゃう」

「それを守ろうとする勢力もいるさ。ただ、ウィルテナト周辺ではずいぶんと情報が制限されていたらしい。知られて勝手な動きをされては困ると、水面下でだいぶん激しい争いがあったみたいだ。当のカーレンはウィルテナトに引きこもっていたから、本人がそれを知っているかどうかは怪しいところだな」

「そんな……」

「そしてそこにティアちゃん、君がいたら、どうなっていたんだろうね」

 はっとブレインが息を呑む。

「まさか、人質?」

「十分あり得る話だよ」

 言って、大公はグラスを傾けた。

「カーレン・ラ=クェンシードの寵姫の存在は万が一にも知られてはならない。これはおそらく、君を大事に思う人たち全員の間で一致するところだろうね。君は三年前から強くなったかもしれないけれど、それでも切った張ったの展開に持ち込むのは避けるべきだ」

「じゃあ、父さんも兄さんもみんな私をカーレンから引き離すために動いていたってこと?」

 セルは頷く。

「そもそもどんな状況であったとしても、ティアちゃんのことはカーレンが盤石な体制を築き終えるまでは秘匿する予定のはずだ。カーレンは君のことを特別大事に思っているからね。手を出されれば、それこそ三年前や十年前の時のように命にかえてでも敵を滅ぼしつくそうとするだろうけど、それは時期が悪ければ、もう一つカーレンが守らなければならないもの――ウィルテナトやクェンシード一族の危機を招く。どちらも守りたいというカーレンの気持ちをロヴェも僕も分かっているし、できれば大事にしたいんだ。そして、ロヴェから聞いているかもしれないけど、君は今や人間にとって、カーレン・ラ=クェンシードという“力”を手にした、おそらく聖歴が始まって以来最も危険な人間だ」

「兄さん」

「ブレイン、こればかりはしっかり認識をしなければ駄目だ。父のルヴァンザムは結局、聖教に偶像だけ利用されることを選んだ。聖戦が終わった後は彼自身の望みもあって、ルーベム・ラーニシェスと名乗り、この安住の地を得て以来数百年間、静かに暮らしていた。そして約束したんだ。『人の世界』を壊しはしない。代わりに、自分のやることには目を瞑れってね。――それが通ったのは、彼がドラゴンの群れを単体で滅ぼすほど巨大な力の持ち主だったからだ。私がルヴァンザムとして振る舞っているのは、それ自体が聖教への抑止力になり、余計な詮索を遠ざける方法だと考えているから。カーレンと同じだ……君を隠し、君を守りたかったんだよ」

「……でも、ルヴァンザムはすでに多くの人間を巻き込んだわ」

「聖教にとっての『人の世界』とは自分たちの利権構造そのものだよ、ティアちゃん」

 静かな声がティアを慰めた。

「遠くでどこかの国が『不幸な事件』によって滅びようが、全く彼らは見て見ぬふりだろうさ。対岸の火事だ、とね。――唯一、教皇直属の騎士団だけが、妙だと感じて細々と調査は続けているようだけども」

「聖殿騎士団が?」

「彼らはだいぶ深いところまで踏み込もうとしているから、聖教はひそかに圧力をかけているようだ。――まぁ、そのおかげでティアも僕もブレインも、今まで何も目をつけられずに済んでいるんだけどね」

 某国が亡んだ原因を知っている一同は、そっと現実から目をそらした。

「本当のことがバレたらどうなるんだろう……」

「火種を作ったのは僕の父だけど、止めを刺したのはカーレンだからね……まず確実にこのままではカーレンが聖教の討伐対象に指定される。彼らにあの人外魔境の山越えが可能かどうかはさておき、ウィルテナトに大軍が押し寄せてくることになるね。それかティアちゃんが全世界でお尋ね者扱いだ――だからまぁ、理想としては。聖教の神話に続きを作ろうと思ったんだ」

「続き?」

「そう。知ってるかい、聖人が犯した罪の話」

「えっと、確か、父さんから聞いた話だと。ルヴァンザム――彼がまだエルドラゴンと呼ばれていた頃は、恋人がいて」

 ブレインが腕を組んで唸りながら記憶をひねり出した。

「だけどその恋人は、エルドラゴンにとって本来許されない相手だった。なぜならその相手は、人の敵として、ドラゴンの頂点に君臨していた――『白神』ホーテンゲルの寵姫だったから」

 ティアが続きを引き継ぐと、セルは頷いた。

「名をイルミカ・フィネスカ。――ぶっちゃけるけど、僕の母さん」

「「え」」

 姉弟で声が重なった。この義兄の生まれが少々ややこしいことは知っていたが、よもや禁断の恋の果てに生まれた奇跡だとは思いもしなかった。

「それこそ、ばれたら大変なことになるんじゃ……」

「まぁ、随分時が経っているお陰で分からなくなっているから、たぶん大丈夫だろう。『聖人の実子』の存在自体はたぶん、聖教は把握しているけど、僕自身がルヴァンザムに成りすましているとはまだ気がついていない。そこは生き写しの容姿をくれた父親に感謝しなければならないのだけど……。そういう訳で、僕も生きづらいのは勘弁だからね、いろいろ付け加えようと思っているんだよ」

「……それで、神話の続きって?」

 ブレインが促した時。

「――シウォン!」

 ドアが乱暴に開かれて、給仕服の女性が転がり込んできた。

「緊急事態! 大門の外に聖殿騎士団!」

 大公が腰を浮かせた。

「街に逃げ込んだ赤髪の男を拘束しようとして、衛士と騒動を起こしてるわ!」

 その場の三人で顔を見合わせた。


「「「…………ロヴェ(父さん)()」」」

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