-2- 父と娘
「っ……」
くしゃみが出た。誰かが自分のことでも呼んだだろうか。ティアは街道の上で振り向いた。
「どうかしましたか、お嬢さん」
「いえ。少し冷えたかもしれません」
二の腕を擦りながら、ティアは答えた。
聖殿騎士団の衣服を着込んだ男は、とろかすように笑みを浮かべた。青の肩布をさらりと取り払うと、ティアの肩に巻きつける。
「どうぞ。冷えて体を損ねてはいけない」
「……」
何か背筋がむずがゆくなるような感触を覚え、ティアは戸惑いながら視線をそらす。と、周りの聖殿騎士団の人間と目が合った。同情の目を向けられている。感じ取ったティアは、そっと内心溜息をついた。厄介なものに絡まれてしまった。
「……あの」
「はい、何でしょうか」
「私のような卑しい者に、騎士様がそんなお構いになられては、困ってしまいますわ。これだって、騎士様の大事なお召し物ですもの。汚したらと思うと……」
肩布をやんわりと押し返した。笑顔を作るのにひどく苦労する。ティアはちらりと横を窺った。濃い灰色のローブを目深にかぶった養父――ロヴェは、ティアの気苦労など気にした風もなく、隣に相席していた南方より来たという中年の夫婦と暢気に談笑していた。ちらりとこちらと目が合うと、今にも吹き出しそうな顔で目を逸らした。
ティアは手を握ろうとする軟派騎士の追撃を躱し、必死に笑顔を維持する。……怒りにまかせて投げ飛ばしてはいけない。今、隣には一番正体がばれてはいけない人物がいるのだから。
それにしても、山の麓でカーレンからもらった助言に従い、旧王都ラヴェニスタから出ている乗合馬車を利用してラーニシェス領まで南下するだけだったのに。道すがら聖殿騎士団の見回りに出くわしてしまったのは、どのような巡り合わせなのだろうか。
ロヴェのひときわ目立つ紅い髪は、今のところローブの裏地に縫い取られた紋様魔法で隠蔽されている。今は灰色がかった焦げ茶の髪色に見えているが、それはフードを脱がせば解けてしまう程度の間に合わせの偽装だった。そのおかげか、彼の傾国の美貌に息を呑んだ者こそあれど、酒に任せ洒落にならない異端話をばらまいてしまったうっかり男の正体が露見するには至っていない。だからといって気を抜くのはまだ早いが。
ティアがこのような軟派者に絡まれるがままになっているのは、ロヴェに注意がいかないようにするためだ。これが一対一で誰も見ていなければ、空高くの束の間の旅へと彼を誘っているところだ……と、全く同じような状況が別の街道で繰り広げられたとは夢にも思っていないティア・フレイスであった。
「テミス! おまえ、またやっているのか!」
「隊長」
騎士の肩越しに飛んできた怒声にティアはちらりとそちらを見やる。向こうから怒り肩で歩いてくる男が、騎士団のまとめ役のようだ。
「申し訳ない。剣の腕は良いんだが、隊で一番だらしないので有名でな」
困って眉尻を下げた彼は、見たところまだ若い。齢が三十に届くかどうかだ。淡い金の髪は長く、こめかみから幾筋も編みこんで後方へ流してある。聖都ゲッヘンブルグの方では、貴人が髪を編みこむ数は地位によっても変わると聞くから、相当な良家の出身であるのだろう。が、隊長となったのは家柄のおかげだけではなさそうだ、とティアはその身のこなしから何となく察していた。
この男は強い。ロヴェに鍛えられた直観がそう教えてくれる。こんな往来のど真ん中で、彼との面倒は避けたいところだ。
「いえ……ところで、もう調査は済まされたのですか?」
「ああ、皆さんの協力のおかげで、こちらも無事に終わったよ。これから南に向かわれるのか」
「はい。公都オリスヴィッカまで」
「オリスヴィッカ……」
にこやかな表情のまま、一瞬その目だけが据わったのをティアは見逃さなかった。内心首を傾げたが、そういえば彼の地を昔から治める一族は食わせ者揃いだったはずだ。彼らも散々煮え湯を飲まされているのだろうか。
「あそこは豊かな都だ。聖衣を纏う方が治める地だからでしょう」
「そうなんですか。私、彼の地を訪れるのは初めてで。騎士様はご存じなのですね」
「ええ」
「よく遠目に見かけますが、いつ来ても美しい街並みで惚れ惚れしますよ。旅のついでに立ち寄りましたが、食い物も美味い。一緒にいかがです」
「テミス」
「隊長、いいじゃないですか。こんな麗しい『黒髪』のお嬢さん、なかなかこのあたりでは見ませんからね。声をかけずにおれません」
ちらっとこちらを見やったその目が、ひどく酷薄な色を持っていることにティアは気付いた。なんだろう。違和感を覚えて、居心地が悪い。
騎士の冷たい気配に困惑するティアの側らに、近づく気配があった。
「失礼、騎士殿」
響く滑らかな低音に、総毛だった。ロヴェ。なぜここまでやってきてしまうのか。
何を考えているか全くうかがわせない澄まし顔で、ロヴェは呆然とするティアの肩を抱いた。
「探し物は、見つかったのか?」
テミスだけでなく、隊長と呼ばれていた騎士までが、ぽかんと突然現れた傾国の美貌に見とれた。
硬直していたティアがそっと隣を窺えば、妖艶に煌めく琥珀の瞳が、面白そうに細められている。いや――違う。悟ってティアは身を震わせた。
面白そうだが、剣呑だ。獣の気配が滲んでいた。
威嚇の気配を悟ってか、冷や汗が騎士二人の額を伝った。
と、ロヴェが周りに聞こえぬよう押さえられた声で、低く言葉を紡ぎだす。
『さっきから黙って見ていりゃ、娘にべたべたと。おまけにまぁ、よく回る口だ』
隊長の顔色が変わった。
『いいかげん、手を離せ』
ロヴェはにっこりと笑う。
『ふざけた“色目”を使いやがって』
それでティアは、ふと得心がいった。ティアに向けた先ほどのテミスの攻撃的な目に、ロヴェは反応したのだ。この養父が先まで放置していたのはテミスに害がないと判断していたからだ。ティアにある種の害意を持った瞬間、即座に『敵』と認知したのだろう。
『張り飛ばすぞ?』
笑みはそのまま、目を大きく開いてロヴェが凄む。彼の獣性が獲物を前に大きく顎を開き、ぞろりと牙を剥いていた。異様な気迫を感じてか、二人の足が地面をすり、ほんの少し後ろへずれた。いっそ過剰と思えるほどの、本気の威嚇だった。
「……失礼した。改めて、私の部下が申し訳なかった」
異様な沈黙を破り、目を逸らしたのは隊長の方だった。テミスの肘を掴み、引きずるようにその場を後にする。
「調査は終わりだ。撤収する! 準備を始めろ!」
「ふん」
「……」
鼻を鳴らしたロヴェの隣で、ティアはしばらく自失していた。
「父さん。あの」
「何だ」
「やりすぎじゃない?」
「まさか」
ロヴェはしらっと答え、しばらくじっと騎士団の隊長を見つめてから口を開いた。
「あの隊長、馬鹿正直だな。実直な性格だが、真っ直ぐすぎる――」
その視線が、隣のテミスに注がれる。
「――そういう奴には、ああいう、影でさっくり後ろ暗い事をやる奴がついている時があるのさ」
ティアはそっと彼の様子を窺った。遠目に見ても仕草の一つ一つが少し荒れている。面白くなさそうだ。
「目を着けられたら、一番厄介な手合いだ。下手に手を出すのも危険だと思わせておくぐらいが、ああいうのには丁度良いんだよ。奴ら、分別は弁えられるからな」
だからやり過ぎじゃない、とロヴェは答えた。
「しかし、聖殿騎士団も面倒なのがいるなぁ。こりゃ、オリスヴィッカについても警戒する必要がありそうだな。そ知らぬ顔で搦め手を打たれてでもいたら、どこで察知されて絡まれるか分かったもんじゃねぇし」
「あの隊長がそれを許すのかしら……」
「知られなけりゃ、全く問題はない。そう思って片付ける。だから俺は、親切に今回『知らせてやった』けどな」
ロヴェはティアの頭を撫でた。
「――忠誠心が暴走すれば、思わぬところに思わぬ災禍を招きかねない。あの騎士隊長も、部下の手綱を握っておくことを覚えないといけねぇな」
じゃあ行くか。フードの布を引っ張って直すと、ロヴェがそう声をかけた。ティアは頷いて歩き出した。
「オリスヴィッカって、どんなところ? 父さんは行ったことある?」
歩き出してしばらくして、ティアはそう訊ねた。
春の爽やかな風が、緩やかな勾配のついた草原を駆け抜け、聞かれたロヴェの紅い髪を揺らしていく。風を追って坂道になっている街道を下っていけば、なだらかな丘陵がいくつも連なったはるか彼方に、銀に輝く大きな川を臨むことができた。川が見えれば目的地は近い。手を庇にして眺めながら、ロヴェはそうだなぁ、と呟いて目を細めた。
「おまえがハルオマンドで関わった土地といえば、黒の森と、そこのディレイアの城ぐらいしかねぇもんなぁ」
「私、あそこにはあまり良い思い出が……」
「分かってる、分かってる」
ロヴェは顔を曇らせたティアを捉まえて、懐にその頭をすっぽりと収めた。ぽんぽんと背中をあやすように叩かれると、ティアはふぅと溜息をついた。
黒の森の中にひっそり佇んでいた巨大な城に、ティアは連れ去られたことがある。そこである男に危うく殺されるところだったのを、様々な人々の助けによって救い出されたのだ。記憶はどうしても体を強張らせたが、ロヴェの手はそれを魔法のようにたちまちの内に解してくれた。
「ま、俺もあいつに殺されかけたしなぁ……」
遠い目をするも、それは過去のこと。父娘二人の命を脅かした存在は、ティアに寵を与えていたカーレンが排除した。そのおかげで彼は一度は命を落とすところだったし、半年間寝込む羽目になったらしいのだが、おかげで今やほとんど危険はなくなっている。
「――オリスヴィッカには花の都っつー異名があってな」
「花の都?」
「ああ。今や公国首都だが、あの都は元から大貴族ラーニシェスが直に治める土地の中枢だ。五百年以上前からずっと続く歴史の中で力を入れたのが花の栽培だった。だから、オリスヴィッカは花で有名なんだ」
ロヴェの手の中に、紅い魔力が溢れた。強い力が結晶と化し、大輪の薔薇が模られる。ティアの髪に花を挿すと、ロヴェは満足そうに頷いた。
「ホントは銀色の花がいいんだけどな。俺のコレで我慢してくれ」
「……今度、造ってもらうから、いい」
ティアは小さくそっぽを向いた。ロヴェは軽く笑うと目を伏せがちにして、話を続ける。
「だから、種々色とりどりの花がオリスヴィッカのいたるところに咲く。花の種が零れて、あちこちに鮮やかに彩りを添える。香り零れ笑う都だ」
ティアはふと、ある花のことを思い出した。
艶やかに咲き、匂い立つ、白い白い、純白の花。雪深い国で彼のドラゴンに出会い、共に生きるきっかけを与えてくれた、時に聖魔と呼ばれる花の事を。彼がその白銀の魔力で作ったなら、花は、どれほど美しいことだろうか。
「……一緒に来たかったな」
「ああ、そうだな。連れて来てもらえよ。あいつならいつだって、喜んでおまえを背に乗せて飛んでくれるさ」
「父さんは?」
「もちろん、俺も」
養父を見上げ、娘は顔を綻ばせた。
腕をするりと抜け出し、ティアはロヴェへと振り向いた。先へ進みたいのだと察して、ロヴェが破顔してついてくる。それから一刻ほど歩き続け、二人は太い川の岸に辿り着いていた。
「大きな川ね」
日差しに煌めく水面を見つめ、ティアは目を細めた。
「シウォーヌ川と呼ばれている。――何か気付かないか?」
ティアは懐の名無しの手紙に触れた。かさりと胸元で紙の擦れる気配がする。
「誰かさんの元の名前に似てるわ」
「その通り。ま、こっちが本元だけどな。普段の気性は大らかだが、天気が荒れれば一転、恐ろしく激しい水害を引き起こす。ラーニシェス家が人を雇って大きな堤を築くまで、このあたりはひと雨降るごとに泥の海だった。……キレると厄介な性格になったのはこの川のせいかもな」
さて、とロヴェはやや遠方に見える町を示した。
「テッタ。川伝いの路をやってきた旅人にとっては、オリスヴィッカの門前町だ。日に二本、定期馬車が出ている」
「じゃあ、それに乗れば、すぐにオリスヴィッカに着くのね」
「ああ。聖殿騎士団はテッタの町に調査のために今日まで駐留していたのかもな。こっちの方から北東へ向かって来たんだろう」
「オリスヴィッカには寄らないのかしら?」
「ただの見回りの騎士なら容易に調査には立ち入れないはずだ。特別な許可がいる。聖人の色彩を持つ――聖衣を纏う者が治める地を調査するなんて、神や聖人を疑うようで外聞が悪いと言ってな」
「許可……」
「異端の噂程度で武力を持った集団が入り込む――到底許可できない話だ。だから奴ら、オリスヴィッカには近寄れないのさ。奇跡の御子がもしもオリスヴィッカに連れ込まれていたら――まあ十中八九そうなりそうだが、なかなか大変そうだな」
くっくっとロヴェは心底人の悪そうな顔で面白がっている。ティアは半分呆れてそれを眺めていた。
ともかく、テッタに到着後、二人で馬車の情報を求めると、今日二本目の便が昼過ぎに既に出ているという。
「じゃ、今日は宿に泊まるか」
「そうね」
馬車の待合所の前でティアが頷いた時、まばらに人の行き交う通りをこちらにやってくる荷馬車があった。大きな毛むくじゃらの牛に似た獣が荷台を引いている。荷は結構な量の農作物のようで、袋に入れてうず高く積んであった。
「ランファーだわ」
「ああ、この地方じゃ珍しくないよな。にしても……でかいな」
ロヴェがしげしげと眺めて言ったのだから、本当に大きい。平均的なランファーの大きさはティアの背丈を一としても一つ半ほどだが、これはその二倍はある。力も強そうだ。だから一頭で大量の荷を乗せた台を引けるのだろうが。
見ていたのに気がついてか、荷馬車を御していた少年がおや、と顔をこちらに向けた。
「そこの兄ちゃんと姉ちゃん、ひょっとして馬車逃がしたのか?」
「ああ。これから今日一晩泊まるところを探そうと思ってな」
「へぇ。でもよ、余計なお世話だと思うけど、たぶんテッタはこの時期は宿がほとんど埋まってると思うぜ」
言われて、ティアはロヴェと顔を見合わせた。
「大部屋でも無理か」
「ダメだろうなぁ。団体で訪れる奴らも多いし。花の都は今が一番花が見ごろだから、物見遊山でごった返してるのさ」
言って少年は顔をしかめた。
「あなた、一人でこの荷を運んでるの?」
ティアが聞くと、彼は首を横に振った。
「ううん、親父とあと一人、護衛の兄ちゃんと一緒。でも二人とも、昼間っから酒盛りしちゃってさ。後ろでぐーすか寝てやんの」
呆れたぜ、と白い目で後ろを見やった少年の視線を辿り、ロヴェとティアが少し体を傾ければ、荷台の端からだらんと垂れた男の太い腕がある。少年の父のものだろうか。いびきも僅かに聞こえてきた。
「あらあら……大変なのね」
「つか、護衛が寝てるって。見たとこ、住んでる村かどっかの全員分の税を運んでるんじゃないのか?」
「そうだよ」
「大丈夫なのか。おまえひとりしか荷を守る奴がいないじゃないか」
「うーん、まぁ、確かにちょっと心もとないよなぁ。実を言うと護衛っていうか、拾いもんだから、正確には護衛でもないっていうか……」
少年はロヴェの言葉に、渋い色を顔に滲ませた。それから、ちらっとロヴェの腰にある剣に目をやる。
「兄ちゃん、強い?」
「あ? ――ああ、めちゃくちゃ強いぞ。その辺の盗賊団が束になって襲ってきても生き残れる自信はあるからな」
「姉ちゃん、この人大丈夫か」
「……まぁ、少なくとも、盗賊十人に一度に襲われても切り抜けられるわ」
「へぇ。腕は確かなんだな。でもすげぇ自信家だなぁ」
じろじろロヴェを見てから、少年はうん、と頷いた。
「あのさ、物は相談なんだけど、兄ちゃんと姉ちゃん、一緒に乗ってかない? その代わり、兄ちゃんが俺たちの護衛の兄ちゃんが使い物になるまで、腕に物言わせてくれるってことで、どう」
「交代はいるか? 俺は御者もやれるが」
「うーん、別にいらないかな。ああでも、とりあえず食事はそっち持ちでやってほしい」
「ああ、構わない」
ぼすっとティアの懐に頭陀袋が放り込まれた。
「ティア、渡りに船だ。乗るぞ」
「え、うん」
「――そういや、名前言ってなかったっけ。コルフリーク。コルフでいいよ、よろしくな」
「ああ」
ロヴェはフードを脱いだ。
「ロヴェだ。こっちは娘のティア」
「え、なんで髪が紅くなって……ていうか若っ――ちょ、無理があるだろ。兄ちゃんならず者じゃねぇよな!?」
「目立つのが嫌いなだけだよ。こいつは養い子。あと、俺は三十だ」
「若っ!?」
ラベニスタでもこのやり取りを聞いたっけ。目を剥く少年を前に、ティアは苦笑した。あまりにも頻繁に驚かれることに辟易したロヴェは、ティアとここにいない義弟との旅の間、『姉弟を養う三十歳の若作り』でずっと通していたのだった。
コルフのいる御者台から軽く荷台に飛び乗ったロヴェは、軽く顔をしかめてみせた。ティアが首を傾げて父の後に続くと、その理由が判明した。
先ほどの腕の持ち主――コルフの父だろう――と一緒に荷台に転がっている男がいた。質素な旅装、傍らに置かれた布に巻いた剣らしき包み。護衛という割には防具らしい防具もなく、不自然なまでに軽装で、何より目を引くのは白く長いぼさぼさの髪だった。あさっての方向に飛び出た髪の、鳥の巣もかくやという有様に、ロヴェがぼそりと呟いた。
「前見えねぇんじゃねぇ? こいつの髪」
「うーん、こう見えてこのまんま戦えるんだ、この人」
「正気かよ」
「ホント。実際ここにくるまでにごろつきが出たけど、五人ぐらいいたのを一人であっという間に全部片付けてくれてさ。俺と親父は何もしなくて良かったの」
コルフが頭をかきつつ、御者台から困ったような声を上げる。
「なんか、顔出すの嫌がるんだよ。顔に傷がついててさ、これのせいで、最初に会った奴にものすごいビビられたらしくて。それからずっと隠してるんだって」
「へぇ」
ロヴェが男の側らにどさりと腰を下ろすと、ぴくりと男の指が動いた。彼は僅かに頭を持ち上げたが、すぐに興味をなくしたように下ろして、ごそごそ体を動かした。居心地がいいところを見つけたらしく、満足そうに息を吐いている。
「……こいつ……挨拶もなく……」
ひくりと頬を動かした養父に、コルフも苦笑する。
「この人あんまり喋らねーんだ。人見知りするし、許してやってくれよ」
「そのくせ腕が立つのか。よくこんな怪しいやつを護衛に使ったな……」
はぁ、と声混じりの溜息を吐いて、ロヴェは頭を掻き上げた。
「出してくれ。ティア、見張りを頼んだ」
「はぁい」
荷台後方に張り出した板にティアが腰かけるのを確認して、コルフはランファーを繰るために鞭をふるった。ランファーが低い声で鳴きつつ歩むと、ごとごとと荷馬車は揺れて前に進みだした。
「コルフ、おまえの親父さんとこいつの名前はなんつぅんだ」
「親父はバク。そこに転がってるのはヴィニアっていうんだよ」
「美姫……? 偽名か?」
「あだ名。ホントの名前は分かんねーんだ。こっちに来る途中、親父が黒の森の端っこで拾ってきたんだけど、この人何も思い出せなかったから」
「記憶がないのか」
「なんか、気がついたら黒の森の中を彷徨ってたんだって。ぼろっぼろでさぁ、ほとんど素っ裸みたいな格好で、剣だけ手放さなかったらしくて。親父ってこういうの見るとほっとけないからさ、連れてきちまったんだ」
「なんだ、じゃあ剣が使えなかったら、護衛どころかただの荷物だったんじゃねぇか」
「うん、まぁそういう感じ。お人好しだろ」
ロヴェとコルフの間でぽんぽん交わされる会話を耳にしながら、ティアはふと、遠方に目をやった。
テッタの町から伸びる、ティアとロヴェが下ってきた丘からの街道。その彼方に二人の人影が見える。
何だろう。何か、嫌な予感がする。
「……」
ティアは静かに、静かに、囁いた。
「<瞳よ。我が内なる覇王の力を示せ>」
ティア・フレイスは、漆黒のドラゴン、カーレン・クェンシードの寵姫だ。その身の内にカーレンが宿した、力の片鱗。その源泉を解き放つ鍵の言葉を唱え、ドラゴン同等の異能を行使することは、今のティアにとっては造作もない。力を行使している時、自分の瞳は冷えた銀の光を宿し、ドラゴンと同じように瞳孔が細く切れた獣の目をしているはずだ。
その瞳を、ドラゴンアイ、と呼ぶ者もいる。
身の内で白銀の力が沸騰する、そんな感覚がティアの中に沸き起こる。同時に目に冷たいとも熱いともとれぬ何かが水のごとく漲り、視界が白んだ。
常よりもはっきりと、鮮やかになった極彩色の世界。ドラゴンの瞳は空を飛ぶ最中にも、その気になれば千里先の羊の群れ一頭一頭を見分けるほどの強力な視力を持つ。
その中で、ティアは遥か彼方の彼らの顔を見て取った。
それは、少し前に出会い、すれ違ったはずの、聖殿騎士団の二人――確か、テミスとかいう騎士と、隊長格の男の二人だった。
「――、」
薄く口を開けてティアはそれを眺めていた。ややあって首を傾げながら、ひゅ、と自分の瞳孔が細く縮んでいくのが分かった。
「ティア」
背後からロヴェの声がする。優しくたしなめるような声は、次の瞬間、ティアやここにいない義弟にしか解せない言語を操った。
『どうした? 誰が見ているか分からないぞ』
「――ごめん、父さん。後で話があるんだけど、いい?」
「ああ」
「え、兄ちゃん。今何喋ったの」
「古いまじない言葉さ。ティア、大丈夫か。疲れたのか」
「ううん。気になることがあって――」
言いかけたティアの声は、途切れた。腕を突然、誰かに掴まれた。
咄嗟に振り向くと、ぼさぼさの白い頭の男が音もなく起き上がり、ティアの手を掴んでいた。その髪の隙間から、ちらりとこちらを窺う気配がする。その目はよく見えない。暗すぎて、瞳の色もうかがえない。かろうじて濃い色をしているのだろう、と分かる程度。
それだけでなく、異変は、荷馬車の前方でも起こったようだ。御者台で少年が戸惑ったような声を上げる。
「え? おい、どうした」
やべ。
聞こえたロヴェの呟きに滲むのは焦りだ。ティアは振り向こうとしたが、できない。護衛の男、ヴィニアの手がティアの顎を捕らえている。
「ごめん、姉ちゃん。しっかり掴まってて!」
コルフが叫んだ。
「えっ」
ぐいと手が引っ張られ、聞き返そうとしたティアの体が傾ぐ。ぎょっと身を強張らせたのもつかの間、気付けばヴィニアの懐に引きこまれ、ティアは荷台に倒れ込んで男共々伏せていた。
ぐらりと荷台が後ろに傾ぐ。いや、傾いだのではない。ティアは感じた。大きく引っ張られた反動で、前輪が浮いたのだ。
ぐぁあああ、とランファーの声がする。威勢よく、猛々しい嘶き。
「ちょっ――何興奮してんだよおまえぇええ!」
コルフのぎょっとした声に、慌ててティアは『閉じよ』と呟いてドラゴンアイの発動をやめた。そういえば敏感な獣の中には、ドラゴンの力や気配に怯えて騒ぎ出すものも――。
しかし、遅すぎたようだ。ちょこんと後ろに腰かけていたら振り落されていただろう、そう確信できるような勢いで、荷馬車は暴走馬車と化し、街道をひた走りに走り出した。
呆然とするティアの頭上で、すぴーと、呑気にヴィニアの寝息が響いていた。
とりあえず、咄嗟の危機に対応する程度には、この男は有能なようだ。荷台が揺れに揺れていても眠りこむ胆力には、呆れ果てるしかなかったが。
「いや、ホンットごめんな。大丈夫だったか、姉ちゃん!」
「わ、私は別に」
結局、荷馬車は数十里ほどの距離を休みなく走り続けた。
ぜぇぜぇと息の上がるランファーを気遣いつつ、頭を下げたコルフに、ティアはまさか自分の不注意な力の行使の所為だとは言い出せず、そっと顔を背けた。荷台に座っているロヴェからの白い目が痛い。
「ヴィニアさんのおかげで。どうにか放り出されずに済んだから」
「仕事はしたな、確かに……」
ロヴェがしみじみ呟いて、未だに寝こけている男を見やる。
「こいつ、どんだけ睡眠が必要なんだ?」
「分かんないけど……起きる度に、なんか不思議なことになってる気がする」
「不思議」
繰り返すロヴェの顔には表情がない。
「兄ちゃん、ランファーで喋るんだ。こうやって休ませても、ランファーの体力が早く回復するんだよ」
「こいつはランファーにでも愛されてるのか」
「兄ちゃんがランファーを好きなんじゃないのかな……」
「それで、誰がランファーを翻訳するんだよ」
「俺」
沈黙が落ちた。
「一番の不思議はおまえじゃねぇのか」
「あれ? そうかなぁ? 俺の村の連中なら、みんな同じ芸当ができると思うんだけど」
「……天然ものかよ」
ぼそりと呟いたロヴェの言葉を否定できるものは、誰もいなかった。少年コルフリークの村の住人たちは、よほど奇想天外な特技を持っているとみえる。
「ランファー使いの村って、周辺じゃ結構有名なのさ」
そう言ってコルフはえっへんと胸を張る。隣でぶふぁ、と同様に得意げにしたのはランファーだ。体格に恵まれた巨大な彼を苦もなく操ってみせる腕前を見れば、その村の呼び名に嘘があるはずもなかった。
「しっかし、思った以上にはかどっちまったな……ヴィニアの兄ちゃんがランファーの世話してくれるし、まだ進めるかなぁ」
言いながら、空を仰いでコルフは日の傾き具合を確かめている。
聞けば、本来なら今日いっぱいで行程の三分の一もいけばいい方だったところを、ランファーの走りのおかげで野営予定地の近くまでやってきてしまったのだそうだ。
「ま、もう少し距離稼いでも大丈夫かなってね」
――ぐぁあ。
ランファーが後ろで鳴いた。
「お、言ってみるもんだな」
ティアがロヴェと二人して振り向くと、ランファーの横にいつの間にかヴィニアが立っていた。獣に寄り添うようにしている彼は、踝ほどの長さまで伸びた白い髪とランファーの毛が完全に同化しているのも構わずに、ランファーの腹を撫でている。
ぐぅぐぅと唸るランファーの声を聴き、コルフの喜色の滲んだ声がした。
「ヴィニアが、『すぐ走れる』ってさ!」
「……ホントかよ」
「あ、あと」
「あん?」
「『姉ちゃんに頼み事がある』って」
「……え? 私?」
ティアが自分の顔を指すと、コルフも不思議そうな顔をして頷いた。
「……『寝心地が良かったから抱き枕になって』?」
「却下に決まってんだろが! 踏み潰すぞテメェ!」
目を見開き、父が吠えた。
□■□■□
『……で? それでうんって言ったの?』
『言うかよ、馬鹿野郎』
湿った石敷きの路地端に、音を伴わぬ声が響いた。辺りはとっぷりと夕闇の中に沈みつつあり、最後の光を赤く染まった太陽が町並みに投げかけているところだった。
手の中でうずくまる小さな狐に似た獣が、ぴくぴくと耳を震わせて身じろぎをする。彼女の放つ魔力の波が、柔らかな音となってこちらの耳に届き、鼓膜を揺らしていた。この魔力の波には指向性があり、指定された相手以外にこの会話が漏れることはあり得ない。同じ方法を用いて発話をすれば、傍から見てもまったく無音のまま、手の中の獣を愛でているようにしか見えないのだ。
『でも姉さんも抜けてるね。男に少し気を付けたほうがいいよ、ロヴェ父さん』
『そういうおまえは、俺の言ったことはちゃんとできてるんだろうな、ブレイン』
むっとしたような声に、ブレイン・オージオ=ラリアンは、くすっと笑う。
『うん。ちょっときつかったけど、一応ラヴェニスタからこっちのオリスヴィッカ周辺の情勢把握はできてるよ。この前レダン兄さんの姿もちらっとだけだけど見えた。それと、聖殿騎士団だけど、やっぱりこっちにはすでに何人か、内密に潜り込んでるみたいだ。報告は以上……それにしたって、僕のは姉さんよりマシだと思うけど。姉さんにこの前聞いたよ、ウィルテナトにクラズア山地の麓から向かわせたんだって? あそこをうろうろさせるなんて無茶苦茶だと思うけど……』
『まったく、おまえらは本当に姉弟そろって両想いだな。――ティアは大丈夫だ。軽く魔物どもはのしちまったとよ。それより、そっちを探らせるのにおまえを使ったとこれで知れたから、今は俺にティアがお冠だ』
『ははは……』
違いない。無言で怒る姉の後ろ姿が簡単に思い浮かんだ。
赤い夕陽の中、苦笑して、それで、と言葉をつなぐ。
『こっちに向かってきてるんでしょ? 迎えに行くよ。どれぐらいで着きそう?』
『明日の朝一にはそっちに着くな。開門はいつだ? ブレイン』
『もうすぐ花祭りだからね。町の外まで市が広がるから、早いと思うよ。夜明け前には開門になるんじゃないかな……』
そう言ってオリスヴィッカの大門がある方角を眺めた。ブレインがこっそり隠れてロヴェと話しているここは、通りから少しそれた脇道だったが、急な坂道となっていて見晴らしが良かった。大門を眺めていると、ふと、すでに閉じていた門の周りを慌ただしく人が行きかっているのが見えた。
『あれ?』
『どうした』
『うん、えっと、門が開いた』
『今頃か?』
驚きに声を上げる。
『つい最近まで、ラーニシェス大公が領地視察に出かけてたんだけど……今、帰ってきたみたいだね』
『へぇ』
面白がるように、ロヴェが笑う気配がする。隣にいるはずの姉は、どんな顔をしているのだろう。怒りながら、聞き耳を立てているのだろうか。
想像しながら、ブレインは首を傾げた。
『馬何頭かに誰か乗ってる。一頭に男の子――大公によく似てる――とエリック・ヒュールスが乗ってる……もう一頭には女の人が二人組。あと、大公の後ろに一人、若い男の人だ』
『……大公は趣味でも変えたのか?』
『ごめん、父さん。切って良い?』
訝る声を聞きつつ、ブレインは淡々と尋ねた。
『冗談だよ、続けてくれ』
『そうじゃなくて、こっちに向かってきてるんだ。邪魔したらまずいからどこか別の場所に行くよ。今日はもう宿で休むと思う』
『ああ、そういうことか』
ロヴェの得心のいった声に小さく笑い、それじゃ、と告げると、ブレインは手の上の獣をつついて起こした。目覚めた獣はくぁあとあくびをして一伸びすると、ブレインの肩に飛び乗った。長い耳をぴんと震わせ、ぴくぴくと瞼が動いて眠そうにしている。便利な能力だが、距離があるほど、彼女には負担がかかるのだ。
「ごめんね、シファ。たぶん明日、もう一働きしてもらうと思う」
『問題ない』
「……ねぇ、シファ、気になったんだけど」
『何だ』
ブレインはその場を離れるべく歩きながら、獣に尋ねた。
「今の感じからして、もう一体いるはずの君の分体、ティア姉のそばにいないよね? どこにいるの」
『本体はおまえと今繋いだろう』
「そうなんだけど。ねぇ、繋ぎをかけたのが僕だったから分かったけどさ、隠し事してるよね、どう考えても」
『ふん』
ふふん、とシファは白い毛並みを震わせ、笑うように赤い目を細めた。
『乙女には秘密はつきものということよ』
「意味わかんないよ」
『察せ』
ひそひそと獣と応酬をしながら、ブレインは自分の滞在する安宿に向かって、細い路を歩いていく。
夜を迎えたばかりの空に、白く、真円の形に月が浮かび上がっていた。