聖歴2年 … 彼に永久の栄光を。貴女に契りの花束を
世界には静寂が満ちていた。
ぼこぼこと丘が連なる荒野の中でも、一際高く、開けた場所。そこに、数十万人もの大軍団が整然と並んでいる。
これほど多くの生者に満たされながら、場には誰かの咳払い一つすら響かない。耳が痛いほど静か。命があるのに全く動きがない、異様な光景がそこに広がっていた。
先頭からひとつ突き抜けた場所に立つのは、一際異質の雰囲気をまとう、白い衣姿の青年だった。彼はぼんやりと空を仰いでいた。
年の頃は二十を数えるかどうかといったところ。艶のある黒髪は長く、首の後ろで緩く結えられ、ふくらはぎの中ほどまで垂れている。さんさんと空から日が降り注ぐ地にあって、しみ一つ見当たらない肌は、彼はこの世のものだろうかと誰もが首を傾げたほど白い。閉じた瞼は、髪と同じく、黒々とした睫毛で縁がけぶっていた。唇の色は淡い。繊細な顔立ちのくせに、凛とした存在感がそこにはあった。
人は皆、彼の容貌を、神に与えられた恵みだと褒め称えた。
数十万の視線を痛いほど背中に叩きつけられながら、青年は微動だにもしない。
(もしも……)
そんな中、彼は考えた。
もしも立っていた場所が、例えば軍団の最前列ならまだ気は緩んだだろうかと。
だが、そんな事は気にしても仕方がない、とすぐに彼は思い直した。彼らから一つ突出したところが、自分の立ち位置だ。自分でも居たくないと思う場ではあるが、居続けるしかない。ひょっとしたら背後の軍団の誰かはいい加減、自分の事をどこかの王が作らせた彫像のようにでも思ったかもしれないが。
ただ、事を始めるのがひどく億劫だった。
だから敢えて何をする事もなく、一刻ほどずっと空を仰いでいたのだ。
首の痛みなど忘れていた。
ただ、少しでも時が遅れればいいと、願っていた。
(今日)
ふと、思い出す。
(――今日で、二日目)
あっという間の、二日。とても長かった二日。
あの時負った、目に見えない深い傷が、青年の中では未だ血を流し続けている。
そして、傷が癒えぬままに、新たな一歩を強要されている。
彼は、先刻からその一歩を踏み出すのを、躊躇い続けていた。
踏み出さねばならなかった。それを待ち望んでいる人々のために戦い続けてきた。それだけが、今のところ、唯一自分に与えられて、残っていた、自分を突き動かす存在意義だからだった。
人間である事、平凡である事を許されず、神である事、非凡である事を望まれた。だから、それらしく振舞わなくてはならない。たとえ、自分という“人間”を自らの手で壊して踏みにじるのであったとしても。
救いは達成されなければならないから。
所詮救世主なんてそんなものなのだろうか。
世界を救ってくれる人間はいても……その人間を救ってくれる者は存在しないのだろうか。
空っぽな心で、そんな風に痛々しいせせら笑いをしてみる。
だがその笑いすら、表情に出すことはできない。
青年は目の前に建てられた、白い墓標を見下ろした。そこには、一人の女が眠っていた。
彼女については、あまり思い出せる事はない。
どこかの村の娘だったような事は言っていた。
成り行きで彼女が強いられた選択と、その結果しか青年は知らない。山奥の村で静かで平和な暮らしをするはずだった小さな少女は、何をどう間違ったか、時を経て世界を揺るがす天魔の女に成り果ててしまった。
だが、それでも彼女は、笑えていたと思う。頭に大きな、鮮やかな色の花を挿して、天真爛漫な少女のように、くすぐったそうに肩を竦めたのだ。
例え、無慈悲な剣をその胸の中心に突き立てられても、彼女はまだ笑っていた。
花を挿した手が誰のものであって、
剣を突き出した手が誰のものだったか、
青年は、それを、台座の上の花を見ながら思い出していた。
葬送に用いられるような上等な花ではない。忌花とさえ言われるような不吉な花。
それが飾られるのが相応しいと、この場にいる者たちは思い、青年が彼女を貶め、その名を辱める事を望んでいる。
だが、彼女は敢えてその花を望んだ。『私に贈ったのはあなたでしょ』と言って、笑って息絶えた。
青年が、何も知らずに選んだ花を、笑い飛ばし、意味を教え、それでも身に着けてくれた、彼女。
自分がその屍の上に立つことに意義がある――そう思う彼らと、天魔を愛した自分のどちらが狂っていたのだろう。
鮮やかな暖色の色をした花を、そっと手に取る。
女の形見といえば、これと、そう、彼女が遺して行ったもう一つのものぐらい。
「――卑怯だね」
青年は彼女に向かって囁いた。
返ってくる言葉がない事が、こんなにも胸に痛いとは知らなかった。
けれどその痛みすら、青年にとってはやけに空虚だ。
心は、一緒に居たあの時、確かに満たされていたのに。
また、空っぽに戻った。
「卑怯だよ、おまえは」
同じ言葉を繰り返す。
「俺を遺して死んでいくなんて……ましてや、あんなドラゴンのために死ぬなんて。最低だ」
涙など、誰が流してやるものか。
誰がおまえの死など悲しんでやるものか。
「誰も喜びはしないさ。おまえがやった事は、ずるくて、最低で、最悪の行いだよ」
周りの事など関係ない。
自分は、ただ、ただ。
「俺はただ、おまえと一緒になりたかった……あいつと一緒に生きたかった……それだけだったのに」
ぐしゃりと、花を握りつぶす。無残に潰れた花からは、折れ曲がった花弁がいくつも地面に落ちていった。
花を握ったその手で、墓碑の石に指の腹を当てた。光が灯った指先が石の表面をなぞるたび、死者の名が徐々に刻まれていく。
(彼女を偲ぶためじゃない。彼女の死を嘆くためでもない。何で俺がこんな事をしなくちゃいけない? 何でこんな事をさせたんだ)
青年が様々な想いをない混ぜにしている内に、やがて、彼女の死は、墓碑に刻まれ、同様に歴史に刻まれた。――未来へ開かれた時の中で、時代を呪うように。
彼女に対してできる全てをやり終えたと思った青年は、無言のまま、何も顔に浮かべず、振り向いた。
束の間忘れ去っていた戦士らの軍勢は、未だに静かなまま、そこに在った。
彼らの顔は皆、疲れ果て――しかし、例外なく、とある輝きを目に宿していた。
歓び。
徐々に彼らの気は高ぶり、狂喜への階段を上りつつある。
自分が一言声を上げれば、彼らは胸に秘めた全てを爆発させるだろう。
平穏な時代の幕開け。それこそが、世界の人々の悲願であったのだから。
腰に携えていた剣をのろのろと引き抜いた。
曇天の中でもなお輝きを放つ紅い玉が、唯一、装飾の少ない剣の華となって煌めく。
剣を持った重い腕を掲げて、青年は声を上げる。
「時は来た――白の時代は終わりを告げた。ドラゴンはついに世界から駆逐された!」
暗い感情を抱えて、青年は誰にも気付かれる事のない、最大の皮肉を、最大の嘲笑を彼らに向けた。
歓喜の表情だと思えばいい。
自分の言葉をそのまま素直に信じていればいいのだ。
だが、問おう。
一体どうして。
なぜ自分が?
(なぜ、俺が――彼女の死を、喜ばなくてはならない?)
想いと裏腹に、声は続く。
さぁ、喜べ、聖なる時よ。
彼女の亡骸を踏み台にして、幸せに包まれて、怠惰に平穏を貪るがいい。
「 今この瞬間より、世界はおまえたち人のモノだ! 」
「 ―― ! 」
意味を成さない轟音が響く。
同時に、光がその場に差した。
誰もが頭上を見上げ、更に歓声を大きくする。
雲を、一体のドラゴンが割っていた。
魔獣、悪魔、と誰もが罵る存在は、彼に限っては、神の御使い、救いの神獣と称賛を向けられるものへと変わる。
金色の翼が、今日も黄金の日光と、雲から覗いた蒼い空に良く似合っている。
青年が見上げると、彼は静かな色を湛えた瞳で、そっと頷く。
示し合わせたわけでもないのに、ずっと叫ばれてきた言葉が、ここでも上がった。
―― 今、救いはここに実現せり ――
長い平和の時代への始まりを、誰もが同じ想いで祝福していた。
だが今は全てが遠く、青年にとって夢の中のように感ぜられた。
たまらず、目を閉じた。
心が粉々になって、はるかに遠くへ持ち去られた。
何もかもが溶けて消えていく。
そんな聖句なんて要らなかった。
今となっては、もう――こんなもの、自分たちへの呪いにしか過ぎない。
聖歴二年――寒さも緩み、雪が解けて、ようやく春の訪れを感じつつあるファルブの月、二十五日。
長く人々を虐げたドラゴンに、反旗を翻して以来、十年近くの時が経った。
時ここに至り、聖戦と呼ばれた大きな戦いは、名実ともに終結した。
そして、青年の心を独り置き去りにしたままに、暗闇の時代が閉じられ、人の歴史が始まった。
微睡み始めた世界の中で、青年は小さく、今までを支えてくれた親友と、愛した女への賛辞を口にした。
彼に永久の栄光を。
貴女に契りの花束を。
ああ、誰よりも儚く、強く、美しく散っていった貴女に、もうこの言葉は二度と紡がれる事はない。
――愛している。心から、貴女だけを。他ならない貴女のために、俺はこの魂を捧げよう。
何年でも、何百年でも。
永遠に近い時間であろうとも。
この心が粉々に砕けてもなお残る、俺の全てが朽ちて、いつか貴女に寄り添う日が来るまで――。
『生きろ』と、その呪いを胸に。
願わくば、誰か、早く気付いて殺してくれ。
愛しいのに……世界の全てよりも重いのに。
それを手に懸けてしまった、人でなしだ。
血も涙もない化け物だ。
そうだ――俺が。
エル=ドラゴンこそが、俺の世界を滅ぼした“悪”なんだから。
だから、殺してくれ。
再び彼女に巡り合った時、俺が同じ過ちを繰り返す前に。
そうだろう?
――イルミカ。
*
――いつ覚めるとも知れぬ眠りのような、長い時間の中で。
ある時、漆黒の翼が、かつて青年だった者の視界を埋めた。
そして、彼は、
その場で朽ちていった。
現れたのは、輝かしい栄誉と共に。
消えたのは、その身に集めた憎悪と共に。
そんな生だったが、それでも、死がこんな自分にもあったのだと、ほっとしていたのも事実である。
なろうで更新停滞中の小説『Dragon Eye』から数年後のお話。サイトと同時に連載は進行します。