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 黒板の上に付属するスピーカーがチャイムをけだるげに唱える。すぐさま代表者が号令をかけると、周りの生徒たちもまばらに立ち上がり、発せられる指図に従って頭を下げる。教壇と黒板に挟まれて立つ教師は、背中を反って誇らしい態度を浮かべていた。頭を低くしている生徒たちを一べつし、満足そうにして、教室を後にする。

 教師の姿が見えなくなったことを教室に居る誰もが確認すると、たちどころに騒ぎ声が横行し、空間は活気で溢れた。一方でそこの三分の一を占める生徒は、学校生活に意欲的である勢力へ無関心である。はたまた、そうあろうと勤めている。冴えない印象である一人の男子生徒も例に漏れず、自席にて淡々と読書に没頭していたが、やがて開いているページにしおりを挟み、本を閉じた。

 その生徒はほどなく立ち上がり、はつらつと会話に興じているグループの境目をうまい具合にすり抜けて、机にうつ伏せているもう一人の男子生徒まで詰め寄る。目的の生徒の寝そべる肩を叩くと、呼び覚まされた彼は無念そうに潰れ、突っ伏したまま前へ腕を突き出すとともに緩やかだが無駄なく体位を起こした。彼の額と腕には、赤い痣がべったりと付着してしまわれている。


「秩序が無けりゃ、何のための自由だ。なあ」


「似合わないことを言うと風邪引くぞ」


 今しがたまで眠りに落ちていた男子生徒が開口一番に呟いたうわごととは、手に余るほど突拍子のないそれで、ほぼ寝言だった。踏み寄ったほうの男子がしたり顔で彼をこき下ろす。言われた男子は不服そうに眉をしかめ、寝ぼけ眼を大きく見開いて相手と向き合う。

 眠りから覚醒した証拠にはきはきと喋る彼だが、取り留めない発言をさらに連ならせる始末だ。水野と呼ばれた男子はおどけた態様を取る男子の裏襟を軽く叩き、少しだけ笑う。叩かれた男子も続けて水野に笑みを向ける。やり込められているのに嬉しそうな彼が、水野にはどこかおかしい。男子の笑顔を見て満足した水野は、そそくさと自分の席へ戻り、椅子に腰をかけた。

 途端、教壇付近から、廊下にまで響き渡る勢いのどなり声が張りあがった。そこでたむろしている面子の一人がどうにも犯人である。偉ぶっている生徒同士で固まる彼らは、自ずの語らいを絡みと呼びならわしていて、青春だと称しては誇りげにしている。迷惑に思う水野だが、重ねて罵声の影響を受け、小さくなってしまう。

 その時黒板側の出入り口より、担任である女先生が教壇まで乗り込んでくると、ただちにホームルームが行われた。年配なだけあり、騒がしい空間内にも関らず、落ち着き払っている。居場所を侵害された柄の悪い生徒たちは無力な舌打ちで反抗するも、圧力に流されるまま余儀なく移住した。

 彼らの移った場所が水野の近辺だと言うのだから、水野にはたまらない。されど彼らも水野に関心を抱かない。目線だけ不良を追っていた担任も、両側の態度を見比べて問題なしと判断した。


「1つは今度の文化祭において、催し物の決定がまだですので、実行委員は放課後残って話し合ってください」


「はあ!? 何で今日なの? 言ってなかったじゃん!」


「今日バイト入ってるから無理ぃ。早く帰らせてよ」


 担任が文化祭について連絡の旨を伝えると、実行委員に選ばれている女子生徒たちの大半が、露骨な渋り顔を表した。彼女たちは互いに顔を見合わせると、間髪入れずに甲高いがなり声で不平不満を募り始める。それでも前に立つ担任は、さも涼しげな挙動で彼女たちの主張を聞き分けず、対象の生徒たちに残業の命令を促す一方だ。その他の連絡事項もさっと知らせると、沈着な口調にてクラスの代表者に号令を求める。そして担任の目配せを受け取った代表者は、起立、と声をあげて立ち上がる。その声色にやる気はさっぱり感じられない。

 水野もといクラス全体が、指示されるがまま一連の様式を済ますと、晴れて放課後となった。既に権田が鞄を持って、出入り口にて待機していたので、水野も掛け具から鞄を掻き取り、相変わらず喋り声がごった返すクラス内を潜り抜けて廊下に出る。対面に次いでこの後遊ばないかを提案した。


「悪い。今日、塾だ」


「予定空いてなかったのか」


「まあな。俺ほどの人物を前にすると、世間も放って置けない訳よ。絶世のその、美少女の、俺な」


「権田は女だったんだな」


 あてが外れた水野はその場で意外そうにする。かつ権田と呼ばれる男子が連ねた冗談に、一応は前向きに反応するも、今度の水野は白々しい。中肉中背の恰幅を動かしてとぼける彼に続き、同じような体つきの水野が笑った。以降、とりわけ目立った会話は無く、下駄箱まで歩み着いた二人は上履きと外履き用の靴を履き替えて校庭に出る。正門口を超えたところにて、権田が水野へ軽やかに別れの挨拶を告げ、急ぎ足で帰路を辿っていった。何やら彼の時間はカツカツであるらしい。

 一人になった水野だが別段気負いせず、権田と逆方向の道のりを歩き始めた。本来彼の帰り道には、水野の所属するグループのもう一人が居るのだが、本日はたまたま休んでいる。そして通学路を進むうちに、彼はいつも通過する団地前まで到達する。名前のわからない花々が礼儀正しく植わる花壇を見やりながら、これまた普段どおりそこを左に曲がると、見慣れた制服の女子生徒が早足で水野の横を通り過ぎた。今居る団地より目と鼻の先にある、町の中でも人通りが多くなる駅前へまっすぐ進んでいる。

 ふいに現れたなびく黒髪を、すかさず目で追う水野だが、対象はまもなく人込みに溶けてしまい、見失う。それでも水野は見えないそこで、彼女の振り分け髪と背筋がぴんと張った容姿を捉えていた。さらにしかし、瞼に残っている彼女を模る肝心の描線はあやふやで、所詮、水野の中の彼女でしかない。

 通り過ぎた人物は沢辺という。同級生なので、水野は沢辺の名前こそ知ってはいるが、それこそ誕生日すらわからない。例外として、電車登校をしていることと、駅からの登下校のルートが一緒である事情のみ見通していた。そのほかはさっぱり接点がなく、だからといって交流を深めようともしない。

 沢辺の顔立ちはそれなりに端麗なので、もし彼女にできたら嬉しいと、妄想する水野ではあるも、それより奥深いビジョンは思い浮かばなかった。あえて深く考えようとしていない側面もある。故、彼女との関係は、時折都合よく遭遇すれば満足だった。

 片やふわふわした世界に浸っていた水野はそのために注意力が不足し、何も無い地面にてつまづいてしまう。己の足に引っかかった事実を認識した直後、赤面する。すると、水野と同じ歩道に居るけばけばしい化粧と装飾をほどこす男女一組が水野へ振り向き、微笑ましさを含める視線を投げかけてきた。それに気が付いた水野は、理由こそ無いが快くない気分になる。

 通行人を視野に入れないよう注意しながら、無言で急ぎめに歩き、やがて自宅前まで着いた。古臭いこじんまりとしたアパートの通路を潜り、一室の外玄関へ立ちはだかる。財布に仕舞われている鍵を取り出し、一室の扉の鍵穴へ挿し回すと、素早く住まいに閉じこもった。

 水野の住むそこは、まさしく一人暮らしにうってつけな広さである。台所の冷蔵庫より牛乳パックを掴み、持った感触では飲み干せる量のそれなので、そのまま一気呑みする。一服を終えて居間まで移動した水野は鞄を枕にして倒れ込んだ。畳の臭いは、水野の鼻腔へ確かに纏わりつくも、彼自身はそれを知覚しない。

 夢見心地に天井を仰ぎ眺め、しばらく経ってから、また沢辺のことを考える。けれども、どう解釈しようと、テリトリー外の他人なのだ。こう考えたら最後、良い発案は一向に浮かばない。やがて肩に疲労が溜まり、どうでもよくなって、腕を上方へ伸ばすことで肉体を一文字に引っ張る。

 じきにチクリとした感触が、水野の指先に伝わった。予期しない手触りに少々ひるみつつ、触れた物体へ思考を傾けながら水野が起き上がる。すると彼の頭の先には、一枚の薄っぺらい紙が存在した。手を伸ばして、難なく紙の腹部を摘む。改めて認識するそれは、見れば見るほど高級な表面が浮き立つし、つやつやする手触りが水野の気に入る。


"あなたが望むなら、    差し上げます"


 なにより紙面の真ん中には、句点とその次の文までに気味悪く空白が入り込んだ、手書きの一文のみが記されてあった。不可思議な印象が色濃くなる紙は、ますます水野の記憶に存在しない。疑問に思うも、まずは手首を返して紙面を反転させる。


"沢辺 恵理花 -----@--.--.--"


 覗いたそこも中央に一文が漂うだけなのだが、その箇所から沢辺恵理花という人物名が水野のまなこへ飛び、強くはじけた。余白を置いた隣には、両辺に英数字が並び、真ん中にアットマークが挟まれている、不可解な文字列が鎮座していた。だが誤魔化そうにも、水野はその文字列の意義を知っている。

 さもそれの所有者である風に記載されている、人物の名字に限って、水野が今まさにしがみ付き、挙句放棄した相手の響きだった。いやしかし、都合が良すぎる。苗字のみの一致ではあまたの氏名が飛び交う現代でまさか関連しないだろうと、現実味を持つ後ろ向きな判断のもと、水野は文字列を鼻であしらおうとするが、とうとう無視できない。どこからか湧くもどかしさと格闘しつつ、欲求に任せて一文を見直す。沢辺の後ろは恵理花だ。……はっとなる。

 ここにきて水野は、好きな人の名前すら知らない事実に気がついた。第一に連絡手段を知ったところで、何も行えやしない。追い討ちとして、情報の提供主は、得体の知れない媒体なのだ。皮膚に纏っていた高揚が、エネルギーの質や量をそのままに、冷たい不快な浮遊感へ変異し行く。いよいよ反感が渦巻き、嫌気が差した水野は掴んでいた紙をそばで手放すと、寝っ転がって動かなくなった。深く瞼を瞑ることで意識を無心にしようと試みるが、むしろ寝付きが悪くなる。

 水野は観念して瞼を開く。ちょっとだけならと、傍らで伏せている紙面に視線を移す。いささか程ならと、鞄にしまわれている携帯電話機を取り出し、紙面と携帯を両手に持って、両方を見比べて睨めっこする。たいした事無いと、紙面に記された情報を携帯へ臨時に登録する。果てには新規メール画面を呼び出しまで作業が進行していた。その後も慣れた手つきで、てっぺんにあるアドレスの欄に登録した沢辺のデータを当てはめる。残るは題名と文書を考えるだけだ。

 水野がふと肩の力を抜いたとき、手のひらの携帯を滑らしてしまうが、とっさに握り締めた。頃合よく時間も経ち、意を決した水野が携帯を操作するために再び液晶と対峙する。だが、その勢い余って右手の親指が携帯のどれかのボタンを押し込んだ。突如画面に映る内容が、メール送信のものへ移行する。ひやりときた水野は、躍起になって携帯キーパッドの左上に属する停止ボタンを何度も連打するが、無常にも空白メールの侵攻をを食い止めることはできない。数秒経たずしてスクリーンに送信された旨を通知する文字が表示された。

 思考は真空状態になった。立ち直りこそするが、天を仰いで後悔する。水野の友人の悪ふざけによる相手先ならいざ知れず、悪意ある差し金や、仮に沢辺本人に届いたとしたら、とくと恥を被る。しかしである、よくよく考えてみると、案外大丈夫ではないだろうか。送信ミスだと判断されるだろうし、そもそも沢辺には送信主が判別できないのはもちろん、水野すら誰なのか把握している筈が無い。

 沢辺に迫る本質以外を考えたおかげか、冷静になる。一度体の芯が冷えると、前々から水野のふもとで隙を見計らい潜伏していた、そこまでして仲良くなりたいものではないという勘違いの観念に、沢辺への興味を上塗りされる。エネルギーを失わせるそれの行いは、したがって彼を無気力にさせるのだから、何よりもたちが悪い。気恥ずかしさに煽られる心配も無くなりはするが、可能性は奪われた。

 最早水野には物事が気だるい。どうせ悪戯だと所見をまとめたところで、不貞寝の体勢を取ると、いつしか眠りの船が漕いで行った。

 意識を失っている傍らで、携帯が震えていた。





 ★




 朝八時にベルを響かせる目覚まし時計のスイッチを、水野が押した。一帯に蔓延していた騒音が空気に溶けて消える。寝ぼけ眼で時刻を確認すると、意外なことに七時半だった。寝入る際セットに失敗したのだろう。意識が覚醒するにつれて、腹部がしくしくと痛み出してきたため、己の空腹の規模を知覚する。

 寝室から居間へ移動すると、誰も居ない空間の中央にちゃぶ台が出されてあり、机上にはバンダナに包まれた弁当箱に加え、一人前の朝食が並んでいた。おかずには水野が苦手とするひじきが含まれていたが、空き腹にまずいものはない。通常一杯だけよそるご飯だって二杯もたいらげ、空になった食器をありがたく台所へ運んだ。

 糖分を摂取し終えた水野は、制服に着替える目的で現在着用する衣類の首に手をかけるが、その手ごたえがやけにざらつきかつ固い。条件反射で急ぎ自分の体を見ると、既にワイシャツの制服姿だった。そのとき先日の記憶が鮮明になり、失態の覚えも呼び起こされる。されども特別に悶絶することはなく、やっちまったもんだなといっそ恥を放り、首周りと指定ズボンの股間部に鼻を近づけて臭いを確認する。どちらもほのかにきつい。

 ショックを受けた水野は、せめてもの応急処置として一度裸になり皮膚をタオルで拭い、タンスから引っ張り出した新しい無地白色のティーシャツとワイシャツ、そしてトランクスを身に着けてみた。ズボンは代えがないため同じものを履く。蒸れが解消されたおかげで幾分かすっきりしたのはいいが、先ほどの部位を嗅いだところで、臭いの問題は解決していない。諦めて残っている支度を進め、じきに終える。弁当箱をぺちゃんこの指定鞄に入れたかどうかだけは玄関前で確認してから、扉を押し開けた。ほどほどに澄んだ涼気と雲に覆われた高空が水野を出迎える。

 ドアの鍵を閉めてから路地へ歩み出すと、会社勤めだろういつもスーツ姿で見かける男性の通行人が、なんとブラウスとスカート姿だった。頬をつねってみるが、ちゃんと痛い。水野が視野を絞ってにその人を目視し、見間違いでないことを認識すると、驚きのあまり動けなくなる。男性は男性で、ねちっこく見てくる水野を蔑ろな目で見下した。

 水野の後ろから通り過ぎる人々の格好も、男性の性別にそぐわない服装に倣って、逆転している。筋肉が布を押し出してピチピチしているキャミソール姿の男性や、肩幅が分厚く胸郭の引き締まった男性用スーツで決める女性まで居る。水野を除いた全ての人がどうにもそれだ。仕草に至っても、水野が育て上げた常識にそぐう性別のものではない。たくましく誇らしげに道を練り歩くのはスーツ姿の人だし、先ほど注視した馴染みの通行人やキャミソールの人物には、異性特有の気品さが備わる。だからこそ、瞳に映る光景に無理が感じられた。が、否定しようと、そこにあるのだ。

 水野の脊髄に疲労がどっと押し寄せる。脊髄は連結する同志たちにそれを伝え、うち一員の脳と心臓が信号を真に受けてしまい、影響された本体の水野の足取りがとくと揺るぐ。近くを歩く幾つかの人は水野を見やり、いずれ無頓着に、もしくは妙だと言いたげに眉を動かして過ぎ去る。好き放題の通行人たちであるが、水野からすれば相手のほうが不可思議である。家に戻ろうとして踵を返すが、振り向いた先の景観も変わらず異世界で、一歩も踏み出せない。

 現状から脱出したいという願いが醸成されいく、もののしかし、はたして何からの逃亡というのか。まさか世界がごっそりと入れ替わった訳でもあるまい。だが昨日まで、一種の脅迫概念に追われて常識にしがみ付いていた環境が、手放しで様変わりするものなのだろうか。現状で逃亡をはかるなど、砂の壁を這い上がろうとするが、中へ埋もれるだけで一向に進めずもがくそれだ。


「なあに、信じられないものを目に入れた風な、唖然とした顔してんだよ」


 動悸に悩まされる水野のこめかみの辺りから、ふいに若々しい女性の声が発せられる。水野は恐らく自分に呼びかけているのだろうと認識するものの、ぱっと思い出してみた近所の知り合いに、若い女性は居ない。思考を突き詰める猶予なく、いまや片側の肩を何者かによって掴まれて、ぐいと引き寄せられる。


「今日の水野は、家出んの早いな。おはよう」


 向かい合わせた顔の正体は沢辺だった。肩にかけた手をそのままに、艶やかで張りのある後ろ髪を男勝りに揺らして、水野の反応を待つ。あわせて、水野の戸惑いがそっけない態度に見えたせいか、そこはかとなくいじけている。人懐っこいそれらは、まさしく友達に対する身ごなしではないか。そして、今、沢辺が着こなしている制服とは、水野が着用しているものと寸分狂いの無い、男子用の制服だ。驚く箇所が多すぎて、水野は心底から声がでない。

 一方でここぞとばかりに、今一度沢辺を肉眼で慎重に捉える。視線は足元から上半身へ昇り、首まで到達するが、そこから上へ進もうとすると恥じらいが波の壁となって妨害してくる。胸の高鳴りの処理を放り投げることでそれらを振り切り、無理に首をあげた。至近でみる輪郭、とくに全体を見渡した輪郭は、水野のまばらな視野でも判別できるほどはっきりしていて、何をおいても生きている。遠目から望む、ぼんやりしたふちどりしか沢辺を知らなかった分、ひとしお新鮮だ。

 されど水野は、受け入れられない。


「俺の姿、変か?」


 まじまじと見入る水野に見かねた沢辺が、元気を落として尋ねた。このときの沢辺もやはり返事を期待しているが、水野が何も言わないのでますますしょげてしまう。こちらの様子を窺って訝しむ沢辺もまた、まともな交流が初めての水野にはくすぐったいはずなのだが、感動を味わうには、受け皿が極めて他の液体でいっぱいである。液体の成分とは、現状が異質中のとびきり異質だと、そこかしこの人々に叫び散らしたい、嘆きだ。刻一刻と時間が流れる中、水野の意識するまともな人物が一人たりと現れない現実を目の当たりにして、彼はいよいよ境遇と情勢を受忍する。

 沢辺からしてみれば、水野の角張った面構えと振る舞いは、他人行儀以外の何物でもない。おまけに苛立っているようにも窺える。そうであっても、沢辺はただ水野の傍についた。またしかしそれすらも水野の気に触る。

 水野の知らない間に、知らないことが、変わりすぎだ。変わりすぎの環境がここの通例であるからには、当然自身の抱く違和感など告げられない。いつしか誰からも共感されないのだと勘違いに結論を決め付けてしまい、水野へ根付く怒りが音を立てて焦げる。反面、素直になって、ひとまず沢辺と仲睦まじいらしい現況だけでも認めてしまおうという、ふやけたたくらみが胸をかすめる。が、それは素直ではなく、漂流したここへの定着である。しかしだ、それでも思うと悪くはない。もっと言えば、どちらの環境が真実かなどは、もはやわからないのだ。かといって依然としてちぐはぐである通行人を見受けると、今身を置く環境に馴染む方針の見解は、打って変わって抵抗なく蒸散した。


「さっさと行こうぜ。学校に、遅れちまうしな」


 何も言わずに待っていた沢辺であるが、立ち止まったままで解決する素振りを見せない水野の躊躇に対し、さすがに痺れを切らしたのだろう、水野と違う類の苛立ちを伴わせた不満を顕にする。そして歩き出すのだが、水野はついてこない。何事かと振り返った沢辺は目付き険しく相手側を静観する。対極に居る水野は水野で沢辺を睨み、無条件で親しい沢辺が何者なのかを考えている。すなわち偽者である気がしたのだ、それで、彼が結びつけた答えは論題の肯定だった。正当化の手配を済ませると、抑圧のはけ口としてまず一言、沢辺に悪態をつく。一旦はずみがつくと、あとは出任せで次々と口が回る。果てにはお前なんて知らないという、根拠ない非難の基幹をもぶちまけた。脈の拍動がひどくなるが、心配できる余裕はもうない。

 身に覚えのないばかりか、たまらなく劣悪で心得違いの放言に、沢辺も今度こそ膨れ面を隠さない。それでも水野のほど近くにとことん留まり、休む暇なく罵りの言葉を続ける彼と向き合う。返って当惑し、舌も疲れてきた水野は喋り詰まり、その際に沢辺がぐいっと隣へ寄ってきた。および、何も言わない。水野はますます面食らい、いざ隣り合ってみると同じくらいの背丈である沢辺を意外に感じた。沢辺が計らった甲斐あって水野の熱がさめる。

 隣接する人物とは沢辺だ。たとえ沢辺が水野の想っていた沢辺ではない、知らない存在にしろ、大切な友人であることには変わりない。今更気がついた水野はいの一番に羞恥し、並びに行いをいやというほど後悔した。それから、恥じらいを真っ先に感じるだなんて勝手だなと、自己嫌悪に陥る。

 めぐりめぐる悔恨ののち、へばりつく倦怠が水野の体内と精神を占領した。冴える視界に映る沢辺は、きまりが悪く、頭を掻きながらよそを向いていた。


「すまん。本当に、……本当、すまん。どうかしてたよ」


「ああ、してた。今からでも学校に向かおうぜ」


 沢辺は若干呆れがちに、そのうえ安堵している身のこなしで出発を促し、ほどなくして二人ともども歩き出した。経過した刻限を考えるに、すでに遅刻は免れない時間帯だが、被害者の沢辺は嫌としていない。

 水野は沢辺へのありがたみを再確認する。なおかつ改めて認識するその声色は、中性的な印象がした。かすれて低いが、よくよく思えば女性らしい。ふと脇見をすると、沢辺が着用する生地の薄いワイシャツから、女性らしい体のラインが浮き出ている。うろたえて息を吸うと粉ミルクを溶かした匂いが鼻腔をさすった。



甘い痺れがあとからやってくる



 沢辺はやはり異性なのだとわかる。一瞬まずいと思うが、別段、心臓が細かくちぎられて焦りと歯痒さに浸されるようなことはない。念のため体を強張らせて、感情が噴きあがるのを待ち堪えるも、そんなものはいつまで経ってもやってこなかった。 


「んだよ。水野は男に興味あんのかよ」


 嫌悪の表情はないにしろ、まじろぎもせず見澄ましてくる水野に、沢辺がしたり顔で冗談めかす。ぎょっとした水野はぎこちない薄笑いを漂わせて、それが偽りの軽口であることを沢辺に認めさせようとするが、意図がわからない沢辺はきょとんと彼を見つめる。案の定それは現実である。水野の腹から小幅な振動の地鳴りが立ち昇り、鳥肌として還元される。いや、もとより予測はついていたが、都合の悪いことはわかっていないふりをしていたに過ぎない。

 とはいえさほど取り乱さずに居られたのは、沢辺の行動による恩恵だし、幸運だ。また確かに現実を叩き付けられはしたが、これはチャンスだとも勘付く。はからずしてだが、なにせ環境に取り巻く現象の一角を捉まえたのだ。


「沢辺って、性別、男か?」


「さっきからなんかの皮肉かよ。わかんないから、どういう嫌味か教えてくれ。質問については、その通りだ」


 先ほどから一人勝手に落ち込んだり舞い上がったりする水野の機嫌に、もうお手上げの沢辺は返事を放り投げる。沢辺の態度をよそに、水野は重荷を感じつつなお確信する。


「沢辺。俺たちって、友達だよな。友達なら、不安や恥ずかしいことを、打ち明けられるよな」


「そうだけど。いきなり言われて、気色悪いぜ」


「男は、男らしい服装、それこそ今着てる制服とかをしてるよな。スカートだの、異性向きの衣装は着ない」


「そうだな」


「俺の性別は男か?」


「……そうだぞ。水野、今日、大丈夫かよ」


 解き明かすべき事柄がとんとん拍子に判明し、事態が著しく進行する。されどもまともな枠組みを好ましくないとするここの常識が、はたと水野を妨げる。

 何故沢辺が男の認識なのに、自分も男の認識なのか、先走りする意識を一度立ち止まらせて深く深くを探ると、性別は何も決まって反転している訳ではない可能性に行き着いた。また本当は、自分が女性の概念に当てはまる存在にもかかわらず、水野を配慮する沢辺がわざと調子を合わせたのかもしれない。それは世間一般が異性装におおらかな証拠に成りうる。ともなれば水野の世界のしきたり、すなわち既成観念に沿って物事を考察するのは、最初から間違いだったのである。そうだ、何より初めに、男性は男性で女性は女性であることが、ここでも普通なのではないだろうか。いや落ち着け、聞いたかぎりの男らしい服装とは水野の意識と同じものを指し、沢辺はそれを着ている。口調だってとても馴染んだものだし、演技とは思えない。極めつけに目撃したあらゆる通行人の服装が適していないではないか。大多数が活用しているからといって、それが正当な共通認識とは限らないが、九分九厘、残念ながら所詮女性は男性で逆もしかりなのだ。

 彼の主観があちこち散らばるその瞬間、考えるために必要となる情報の流通量が、水野の脳の許容量を大きく越える。最後にはリミッターが回路の遮断作業をとり行い、ぷっつりレバーが落ちた。朝から蓄積された疲労とたった今押しかけて来た謎の安心感が、ばかにならないほど思考を圧迫し、これ以上掘り進めようにもひらがな一文字浮かばない。

 これまでに得た知識をいったんまとめると、どうにも性別の概念が反転した、ひょっとしたらでたらめなそれこそ、不可思議な環境の正体の一部分である。名称が異なるだけで、性の機能やら本質は、水野の意識するものと同一の様子だ。しかしである、男性は女性として、女性は男性として文明が栄えたなら、機能性がことさら伴っていない衣類を着用するのはおかしい。不可思議な環境はやはり不合理な環境でしかない。そして、それをする理由付けが実存するからこそややこしくなる。

 ふと、むず痒さを知覚した水野がそのほうへ向き直ると、面白くなさそうな物腰でにょっと腕を伸び出す沢辺が居た。二の腕が指で抓まれている。水野は肘をちびと揺らすことでむずむずの根源を解こうとするが、片側の沢辺は頑なとして離さず、そのままの気配でうめき声を呟く。

 目視した水野は反省した。この次こそ他愛無い話題を振り、沢辺も呆れたなりに受け答えし、ほがらかに進む二人はやがて駅前まで到達する。

 服装倒錯した人々で溢れ返っているうえに、ときおり声色と口調の入れ替わった喋り声が入り浸る目先の景観は、大きな威力を持った。現在では水野にとって人一人が爆薬であることを、すっかり失念してしまった結果である。加えて彼と格好タイプが同じ人なぞ、まるきり見かけられないのだ。自分が例外であることを悟るとともに、異色が基本の色彩となっているそこを、毛穴が広がる思いでいっぱいの水野はもう直視できない。はたまたで、人通りの多さ自体に辟易しているものの、光景自体は一切平気である沢辺は、逐一動揺する水野を気にしないことにした。沢辺はゆうゆうと、水野は人目を盗む足運びで、団地前の路地にさっと入る。そこにも第三者がまばらにいるが、感覚が麻痺する今となっては気にしない程度だ。異変より過ぎ去って一安心する水野だが、逃れていないことはわきまえている。

 頭で理解しつつあった事柄のいっぺんの体感が、安易な推量とは段違いだったと認めざるを得ない。気疲れが気疲れにまみれて、全身が泥のようになる一方で、その傍らなぜか視界はすっきり開放する。性役割に属していない事実を決定的と見なすと、権田や母親、学校が、強いては生活がどうなってしまうのかを思い巡らしてしまい、暗澹たる心模様がいっそうにじむ。それでも水野は口を開き、何も言わない沢辺へ、沢辺が何も言わないままに茶々を入れた。相手の沢辺はいまにへとへとの水野をからかった。

 二人は学校の敷地前まで着いたが、無論正門は柵で閉じられている。裏へ周り、そこの門は鍵がかかっているかを調べてみるが駄目だった。沢辺は仕方なしに荷物を塀の上へ置き、ひょいとそこをよじ登り、敷地に飛び降りる。見習って水野も侵入しようと、鞄を沢辺へ投げ渡してから塀に手をかけ、見事成功した。昇降口へ向かいはじめたとき、沢辺は引け目を感じている仕草で、監視カメラに映ってるけどなとちょっぴり呟く。

 下駄箱でローファーと上履きを履き替える。現在の時刻が授業に食い込んでいる関係上、廊下では生徒と出くわさなかった。教室の外壁から外壁をつたって移動する最中、とある壁にはめ込まれた窓越しから窺える、数式を板書している他クラスの生徒たちの普遍の姿も、異性装の異変にまぶされていた。水野はわけもなく覗いてしまう。瞬く隙に待ち伏せる未来の予測密度が縮小し、応じて胸騒ぎが拡散するが、知らずして敵陣に乗り込むくらいの気負いを担いでいた表れか、網膜の末端がちりつくものの動じない。

 二人は無人の職員室に立ち寄るや否や、通行口付近の引き出しから遅刻カードを取り出して必要事項を記入し、手前にてこじんまりと配備されたポストへそれを押し付ける。晴れて学校生活となるが、もちろん特別な感情は涌かない。その場から退室しつつ時間割の覚えを呼び起こす彼らのうち、授業先が自分の教室であることを先に把握した水野は、未だ思い出せずにいる沢辺にしたり顔で伝えて先を歩いた。やり込められた沢辺は納得と無念を足して割ったなりふりを漂わし、彼の後ろを渡る。 

 たちまち目的の教室に着いた二人は後ろから室内へ侵入する。いつもどおりの日常が奇怪に染められた空間の場景は、抵抗体を所持した部外者をとにかく排外してやまない。空気の出入りを感じ取った住民どもはそこへと視線を別々に積み重ねて、監視塔を作り上げる有り様だが、されど水野は目撃による体験も手伝って平気だった。しかしながら平気なだけで、緊張は持て余すほどしている。飾り気のない振る舞いで入ってきた位置から近い席へ移動し、沢辺が窓際列の前から二番目の机に着席するのを見届ける。その他では権田が席で寝そべっていた。

 被験者がめぼしい反応を起こさないことで興味を失った集合体は、次々解散し、即座に跡形を消す。こちらが手を出さなければ、存外なんてことはない。当然だが意外にも思う。眠気はないのに瞼が重く、とても授業に参加できない状態の水野は、机上に顎を乗せてぐったりとくつろぐ処置をとる。教師が咎めてくるが知らんぷりだ。しかし、水野の知るこの教師とは、生徒が何をしようがとやかく喋らない人格だったが、もうあやふやである。

 生活様式に関しては、水野の意識から微塵にも変化していない様子だ。それこそ今しがた注目を浴びたのも、彼らが水野を奇異に思ったわけでなく、単に遅刻者が刺激になっただけ他ならない。前々から確信していた仮説が的中しただけだが、水野は不必要に酔いしれる。一つを手繰り寄せられれば他も推測できることが、心弛びの大体を占めているのだろう。

 嫌だ嫌だとだだをこねて思弁を放棄するのは簡単だった。そう考えると、朝に沢辺が身をもって暴走から引き止めてくれた行為には、沢辺が思っているだろう以上助けられている。そこで水野は、沢辺とは何故親密なのかの思案を悶々と繰り広げる。他人から親友まで熟達するに至ったきっかけが、あくまで自分に心覚えがないだけで、あったのだろうか。当然沢辺は経過の思い出を所持していることになる。偽造された、もしくは空洞である経験の実在に割り切れなさが残る水野だが、いやいや自分の記憶がただしい前提でいるからひっかかるのだ。自我の芽生えから昨日まで渡った膨大な精神の刷り込みも、詮ずるところあいまいで、事実を後押ししてくれる証人はいない。

 なお言えば、こちらの立場のほうが容易く偽造できる。はしなくも水野がそれを思い起こした瞬時、血液のなかで、じわじわがきらめいて失せた。確かに時が凍てつき、なすすべがないままそれを甘んじると、顔面の皮膚が、寒気がするほど熱くなり、毛孔がかゆみを引き連れる。次第に彼は自分が誰なのかを考え始める。

 未来とは常に過去からの演算に過ぎない。ここに降り立ってから二時間すら経過していない自分の過去・歴史では、自分が誰なのかは愚か、何をすべきかさえ突き止められないのだ。すなわち、抽象的な自我があるだけで、内容は持っていない。しがらみが何も無い、生まれたての存在とも言うべきだが、それは皮肉だ。自由にまみれるということは自由の前で狼狽することだと知る。

 ある種の記憶喪失症なのかもしれない、いや、認めたくないだけで、まさしくそのものだ。信じられないが、名前や職業、日常生活、幸福や失意といった激しい幅振りの感情、全ての記憶と体験は、詰まるところ胎内での夢想だったのだろうか。一方で確かなことは、しゃにむに信仰し、頑なとして庇護していた常識の塔は、ほかならぬ瓦礫の幻だったのである。

 そもそも幻と現実の違いとは、その人が認めるか認めないかだけであり、ただ区別のみがなされた空虚な概念ではなかろうか。それの実体化や、効力の現れは、別の領域からやってくるのだ。幻が猛威を振るうこともあれば、現実がことさら影響を及ぼさないケースもある。そう、そうなのだ、要は自分の気の持ちようだ。それが全てだ。しかし大多数は反対者なのだ。砂漠に砂粒をこぼしたところで、砂漠である。とろけてしまう。混ざってしまう。塗られてしまう。

 一体、なんなのだ。そのとき、肉感的な頭の重みがずしりと増す。

 それこそ異変に直面してから、頭のてっぺんにて薄々と存在の影をちらつかせていた、肩幅ほど大きさがある、使い古されてくすんだ丸砥石が、初期微動に反応して鈍く動き始めた。螺旋運動によって、つむじの表皮、肉、頭蓋骨が、無思慮そして無遠慮に、痛み無く擦り削られる。丸砥石は重みのため沈み行き、そのうちに脅威が脳まで侵攻する。脳みそに付着するくすんだ汚れを丁重に洗い流す、されどそれは果肉をも刈り取っている、うずきを率いた救いだ。

 やりきれない。プラスチック製の安い水鉄砲に、水を詰めすぎた結果、把手からひび割れ、ぱかんと二つにわかれた残骸が今の水野だ。それでも虚脱は、淀みなく、とめどなく溢れて、水野を満たす。

 居ても立ってもいられない水野は出入り口へ駆けた。机の引き出し下に大腿を潜り込ませた有り様から立ち上がったので、それがけたたましい物音を沸かせてひっくり返り、内部のプリント類が自由を求めて散らばる。事情が飲み込めていない教室の一同は等しく呆ける。水野は構わず、前のめりに引き戸を開け放ち、その平衡を崩した態勢で逃げ出した。

 廊下を抜ける水野の後ろから教師の静止がかかるが、顧みるには疑問が圧し掛かりすぎた。振り切るために加速すると、眼球の隙間に風が入る。水野一人が足音を立てようが、遠慮がちに無音が張り詰められている廊下では、何一つ影響を及ぼさない。昇降口へ赴き、とにかく靴を履き替える。時間を節約するため上履きはそこらへ蹴り捨てた。足首から地面の足ごたえを感じるのが、また憎たらしい。

 いくらもせず自宅の門口前まで着いていたが、そんなことはどうだってよかった。熱に浮かされた腕を動かし、ドアノブを掴んで引くも、当然開かず、鍵を取り出して穴に挿し、回し、またドアノブを掴んで引くが、これまた開かない。呻きをあげてからとっさにねじり開け、扉が開き放しの玄関を無視して寝室へ駆け込む。敷かれた状態で放置された布団に飛びかかって、唇を布にあてがい、喉からわめいた。

 必死のあまり、ちゃぶ台など家の備品をなぎ倒してしまったように思える。感触を確かめるに、なんとか靴は脱いでいるみたいだが、それ以外のことはわからない。されどもいいのだ。寝れば元通りになる。元通りとは、水野が自己の正体に悩まされないですむ環境を指す。

 うつ伏せから仰向けに直ると、快適な揺らぎが襲い来た。からっぽの頭部と半分磨耗した脳みそには、掘り動かされるくらい大規模な重力が丁度いい。とにかく寝た。寝ることは、水野の仕事だった。

 知らず知らずのうちに、赤レンガ造りの巨大な時計台を中心として構成される市街の光景が、目をかすめたのだが、よくわからない。


 体感にして五時間は経過した。物音が生じるにしたがい薄目をあけると、正座した制服姿の沢辺が、手さげたビニル袋よりプラスチック容器に収まったぶどうを取り出すのが見える。一粒が大きいタイプのぶどうで、学校の帰りがけに買ってきたのか、商品ラベルが貼られていた。それに取り巻くラップへ沢辺の指が突き立てられ、破り外されると、鼻腔をくすぐるかぐわしい匂いが水野まで届く。

 嗅覚を認知した水野は慌てて飛び起きた。感じ取っていた時間の速度にしては、意外にも一帯は明るく、縦縞の列をつくる障子の影が陽光に焼かれて揺らいでいる。上半身を起こした姿勢でいる水野に、たちまち寝違えによる痛みが腰を刺し、へこませた。不快な源を解消しようと腰部をねじるが、ますます打撃を被るうえに、新たな箇所まで腰痛が引き継がれてしまった。情けない始終を見受けた沢辺はヘ段とハ段を活用して笑い、落ち着いたのち、水野へ向けてぶどうの房よりもいだ一粒の果実を突き渡す。


「開けっ放しで、無用心だぜ」


 ぶどうを貰うだけ貰っておどおどする態度の水野をよそに、沢辺が寝室からは覗けない玄関の位置へ目線を合わせた。沢辺の言わんとするところを把握し、うろたえた水野はすかさずそこへ点検に赴くが、閉じていた上に鍵までかけられていた。加えて蹴飛ばした覚えの強い居間の在りようも、危惧した乱れようとはさっぱり無縁で、整頓されている。ところが、あちこちの家具配置は水野の記憶と違っていた。少なくともちゃぶ台は中央に出しっ放しである筈だが、現在のそれは、足が仕舞われた状態でたんすに寄りかかっている。すなわち沢辺が直してくれたのだ。

 遅い歩みで寝間まで戻る。空間の同居人をちらと視認してから傍に座り、握っていたぶどうを掌の上で転がしていると、その共存している人がすり寄り来て、奪われた。取り上げた人は抜け目なくぶどうの皮に爪を立て、亀裂から正反対の箇所を指で摘む。溢れる汁と相まって食欲をそそる、緑色の光沢を放つ姿が紫色の外皮よりあらわになった。丹念に剥いたそれを、水野の口許へ運び、食べさせる。しなやかに固まった彼の指へ、剥ぎ皮をちょこんと与える。

 出来事が急だったせいで、水野は果実どころか差し出された人さし指をも吸ってしまったが、された沢辺は慌てない。甘さを堪能し終えた後は、口内に残った種を皮に吐き出し、それごと容器の端に置いた。夢見心地に舌で唇をさすると、湿り気が感じられる。


「あれ、なんなんだよ」


 仕掛け人にも仕掛け人なりの気恥ずかしさが生じるためか、沢辺が己のズボンに指をなすり付けながら話題を振ってきた。沢辺が見やったどんづまりにはバナナ型の置き時計が存在し、和室にて不恰好な雰囲気を放っている。水野はそのことを平然と受け入れているので、なおさらおかしい。そのとき水野は時刻に注目し、現在が四時過ぎで、少なく見積もっても六時間は気絶していた事実を知る。

 気軽に頬を緩めた彼は、腕を精一杯伸ばして遠くにある置き時計を掻き取り、沢辺へ渡した。手に持ってみると質感や重さが本物とそっくりである。驚いた沢辺だが、時計として備わる理由付けにはならない。友人からの贈り物かどうかを尋ねると、水野は自前で買ったと応じ、なんとなく引き下がれない沢辺は好きなのかと聞き返した。


「好みじゃないな」


「それじゃあ、なんで使ってんだよ」


「嗜好のままにふるまう自由も、いいな。しかし、嗜好から逃げ出す自由もある」


 とんちんかんな物言いに、沢辺は理解できていない。そうであっても煙に巻かれたことは明察し、やや不機嫌に腕を組む。それきり静かになるが、どうも沈黙はスプーンを巧みに使えないらしく、ぎごちない手さばきで界隈をくるんだものだからしっくりしない。

 水野の肩の裏から、西日が通風孔より細長く分け入り、室内塵が照らし浮かぶにつれてふしどが縦に拡大する。彼から見て、沢辺が平行の囲いと共に遠のくと思えばにじり寄って、また離れた。人体の大きさは変わらないので不思議だ。かといって沢辺から見る水野は、ただふらつくばかりだが、その向こうでは重そうに下顎をゆるませて笑っていた。

 突如思い立った様子を示した沢辺が、残りのぶどうを容器ごと水野に差し出して立ち上がる。水野の死角となっていた位置から荷物を取り寄せて、畳の上で散らばったごみを中に詰め、居間へ歩き出した。帰る仕草を読み取った水野が呼び止めるも、沢辺は反対向きのまま広げた手を低くかざすのみで、飾り気ない。せめて見送ろうと考えた彼は後を辿り、玄関で靴を履く沢辺へ追いついたが、拍子に粘質を感じるまどろっこしい臭いが鼻筋にはずんだ。肝を冷やした水野は一歩二歩と下がり、沢辺がたじろがないことを視認してから、臭くなかったどうかを尋ねる。

 帰り支度以降、初めて見返った沢辺は、臭かったとこぼす。とはいえ笑顔で、引けた様子は見当たらない。その後立ち上がりざまにドアノブを掴み、現実でいっぱいの屋外へ踏み出し、ここにて沢辺がじゃあねと告げた。扉が外の情報を閉ざす直前に、水野は垣間見えた沢辺へ力無く手をもたげたが、その所作とはしおれた花をなびかせたに過ぎない。

 扉の開閉が聞こえて少し経った家は、ますます広くなった。改めて脇を嗅ぐと、寝汗も影響してか、バターがとろけている。苦笑いしかできない水野はへたばる瞼で台所を渡り、甘いもの目当てに冷蔵庫を漁る。すると中央の棚に、見慣れない箱が鎮座していた。抱えてみると軽く、蓋を開けると小ぶりのチョコレートケーキが二切れ、不自然な空きをちらほら窺わせて入っている。すかさずケーキの一つへ指を伸ばしたが、硬直のあとに退かせ、箱の蓋を閉じて元通りの位置に戻した。懲りもなく寝室へ引き返し、若干薄暗くなった部屋に混ざり合う。そうすることで、流体が隙間へ差し込み、やすらぐ。

 所持する記憶上では、自分は学校の生徒で、今も生徒として受け入れられている。が、本当に生徒なのか。水野は自分ではなく、自分は自分ではない。空の向こうから、悩む己を眺めている意識こそ自分だ。水野とは、誰なのだ。疑点はぽつぽつ沸いてくるが、線にはならず、すぐさまいなくなった。

 真なる環境は愚か、自分を見失っていたのでは、とんだお笑い種である。幸いかりそめでも自分を手放さずに済んだのだ。目先はともかく、終着点における何をするべきかはおいおい考えていったほうが懸命だろう。対処にあぐねる問題が立ち塞がった際、逃避する駄目さ加減も再認識した。頬と額に熱が生まれ、発散させようとじっとする。


「ただいま。帰ったぞ」


 巨視的な位置から、礼儀ただしくすました母の声がこだました。揃った足並みで寝室まで顔をだすと、水野に寝てるのかと呟きかけ、台所へ行った。水野の知る母というのも程ほどにがさつだったので、現在の折り目正しい人格と寸分も一致しない。

 いくつもの疑惑が突発するが、受け入れた。寝室から居間へ出向き、大声で自分の在住を知らせる。台所からは調子はずれな人声がした。


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