「親友でいたい」と婚約破棄されましたが、親友もお断りします
「そのヴェールを外してくれ。お前とは夫婦ではなく、親友でいたいんだ」
婚礼まで、あと一か月だった。
私室で婚礼衣装を合わせ終え、侍女たちが退出した直後だった。
白いヴェールをつけたままの私の手を、王太子ユリウス殿下は取った。
不安になると私の指を握るのは、子どもの頃からの癖だった。
私も、考えるより先に握り返した。
殿下の肩から、わずかに力が抜けた。
「ユリウス様。それは、どういう意味でしょうか」
「そのままの意味だ。お前を妻にはできない」
正面の鏡には、白いヴェールをかぶった私と、その隣に立つ殿下が映っていた。
「……ほかに、愛していらっしゃる方がいるのですか」
「ミレイユ侯爵令嬢を愛している」
鏡の中の花嫁が、急に私ではない誰かに見えた。
私が黙ると、殿下は言葉を継いだ。
「彼女といると、夫婦になる未来を思い描ける。お前といるときに思い浮かぶのは、昔と変わらない親友の姿だけだ」
「それで、婚約を破棄なさるのですね」
「お前に嘘をついたまま結婚するより、誠実だと思った」
私が何も答えないでいると、殿下は焦ったように続けた。
「だが、お前を失いたいわけではない。私を一番理解しているのは、今もお前だ」
「侯爵令嬢ではなく?」
「彼女を愛していることと、お前を信頼していることは別の話だ」
迷いのない答えだった。
殿下にとっては、本当に別の話なのだろう。
「なぜ、婚礼の一か月前になっておっしゃるのですか」
「私も、もっと早く気づくべきだった」
殿下は視線を落とした。
「婚礼の日取りが決まり、夫婦の住まいや、将来の子どものことまで話が進んだ。お前を妻と呼ぶ未来を何度考えても、私の中では何も変わらなかった」
「私はずっと、殿下の親友のままだったと」
「それが悪いとは思っていない。むしろ、誰より大切だ。だからこそ、夫婦という形にして壊したくない」
「代わりに、侯爵令嬢を妻になさるのですね」
「代わりではない。彼女は愛する女性で、お前は失いたくない親友だ」
そう言い切っても、殿下は私の手を離さなかった。
殿下は、私を傷つけない言葉を選んでいるつもりだった。
けれど、言葉を重ねるほど意味は明らかになった。
妻になるのは彼女。
私に残されるのは、婚約者ではなくなっても、親友としてこれまでどおり殿下を支える役目だった。
「婚約を解消しても、今までどおりでいられる。明日からも、朝の相談には来てくれるだろう?」
「ご結婚後まで私が毎朝伺えば、侯爵令嬢を不安にさせます」
「問題ない。結婚したからといって、お前との関係を変える必要はないだろう。重要なことを決める前には、お前の意見を聞きたい。私が弱っているときに、何も言わなくても分かってくれるのもお前だけだ」
殿下が王太子として初めて大広間で演説した朝、呼び出しの直前に、殿下は私の手を強く握ってから出ていった。
私が初めての舞踏会で踊りを間違え、恥ずかしさで眠れなかった夜には、殿下が夜明けまで話し相手になってくれた。
婚約者だから始めたことではない。
十五年、私たちはそうして互いのそばにいた。
「ご結婚後も私を毎朝お呼びになることを、侯爵令嬢はご存じなのですか」
「話してある。彼女も理解してくれている」
「毎朝、殿下と二人で話すところまで、伝えてはいないのですね」
「お前が私に必要な人間だということをだ。彼女なら分かってくれる」
毎朝二人で会うと伝えたのか。
その問いに、殿下は答えなかった。
「それから、父上にはもう話してある。お前も婚約解消に異存はないと伝えた」
「『異存はございません』とは、一度も申し上げておりません」
「十五年、お前は誰より私を分かってくれた。今回も、最後には同じ答えになると思った」
私がまだ出していない答えを、殿下はもう父上へ伝えていた。
「両家への説明も手伝ってくれ。新しい婚約の発表文も、お前に一度見てもらいたいんだ」
「殿下と侯爵令嬢の婚約発表まで、私に整えさせるおつもりなのですね」
「お前なら、どのように伝えれば両家が納得するか分かるだろう。彼女を不安にさせたくない。お前の言葉なら安心するはずだ」
婚約を破棄する相手の手を握ったまま、殿下は新しい婚約の相談をしていた。
私は、この人を愛している。
親友のまま近くにいたかったのではない。
妻になりたかった。
一か月後からは、朝の相談が終わっても、もう帰らなくていいのだと思っていた。
夜明けまで話したあとも、別々の屋敷へ戻らなくていいのだと。
その未来は、私ではなく、ミレイユ侯爵令嬢のものになる。
それでも、ここでうなずけば、明日の朝も、王太子ではない殿下に会える。
一瞬だけ、差し出された「親友」の場所に残ろうと思った。
けれど、その場所を残すために、妻となる侯爵令嬢へ何を我慢させるのだろう。
そして私は、愛する人が別の女性を妻と呼ぶそばで、いつまで親友でい続けるのだろう。
私が黙っていると、殿下の指先に力がこもった。
「殿下は、私に親友でいてほしいのですね」
「ああ」
殿下の表情が緩んだ。
私が口にした「親友」だけを、殿下は受け取った。
「では、発表文は明日の朝に持ってこさせよう」
「いいえ。明日から、朝の相談には参りません。お二人の婚約発表にも関わりません。両家への説明も、殿下ご自身でなさってください」
「待て。なぜ、そこまでする」
「親友として、お断りしているだけです」
「婚約は解消するが、親友であることまでやめろとは言っていない。仕事の話も、これまでどおりでいいだろう」
「これまでどおりにはできません」
「なぜだ。私が彼女と結婚しても、お前との信頼は何も変わらない」
殿下は、本当に分からないという顔をしていた。
私は、握られていた指を一本ずつ外した。
「殿下がお求めなのは、親友ではございません」
一本。
「結婚だけはしないまま、これまでどおり殿下を支える婚約者です」
もう一本。
「その立場は、お断りします」
最後の指が離れた。
私は自分の手でヴェールを外した。
鏡の中から花嫁だけが消え、私はそこに残った。
「私はお前を捨てたいわけではない」
「ですが、私との結婚はお捨てになるのでしょう」
「夫婦にならなくても、私たちの関係は続けられる」
「殿下だけが何も失わずに済む関係でしたら、私は続けません」
私室の扉を開ける。
「今後、御用がございましたら、客間でお会いいたします」
「アドリーヌ。そこまで他人のようにする必要はないだろう」
「婚約者ではない男性を、私室へお通しするつもりはございません」
殿下は扉の前で立ち止まった。
「アディ。こちらを向いてくれ」
子どもの頃なら、その呼び名だけで振り向いた。
今日は、開いた扉から目をそらさなかった。
「怒っているのなら、そう言ってくれ。私たちは何でも話してきただろう」
私は、離したばかりの手を胸元へ戻した。
「殿下のお気持ちは分かります。ですが、もう、殿下の手は握り返しません」
殿下は、先ほどまで握っていた私の手と、開かれた扉を見比べた。
今度は何も言わずに、私室を出ていった。
扉を閉めると、外したヴェールが腕から床へ滑り落ちた。
拾おうとは思わなかった。
机の上に、まだ開いていない手紙が一通あった。
侯爵家の紋章が刻まれた封蝋が押されている。
封を切ると、整った文字が並んでいた。
『王太子殿下より、婚約解消はあなた様もお望みのことだと伺いました』
『また、殿下のご結婚後も、毎朝一番の相談相手としてお支えになるとのことですが、本当にそれをお望みなのでしょうか』
返事は書かなかった。
殿下の嘘を、私が代わりに訂正するつもりはなかった。
殿下は、私に尋ねもしないまま、私の答えを作り、彼女へ伝えていた。
◇
「承認式が終わりましたら、殿下とは二度とお会いにならないと約束してください」
「承知しました」
ミレイユ侯爵令嬢の用意していた次の言葉が、唇の上で止まった。
「……そんなに簡単に、承知なさるのですか」
「簡単ではございません」
今日は、私と殿下の婚約を解消し、続けてミレイユ侯爵令嬢を新たな婚約者として承認する式だった。
私は婚約解消の当事者として、王宮の控室で彼女と向かい合っていた。
扉の向こうで、開式十分前を告げる鐘が鳴った。
「簡単でないのなら、私へお伝えになることがあったはずです」
ミレイユ侯爵令嬢の親指が、指輪の縁をなぞった。
「なぜ、手紙には何も返してくださらなかったのです」
「殿下の嘘を、殿下の代わりに訂正したくなかったからです。それでは、お二人の間を取り持つことになります」
「では、私が七日間も嘘を信じたままでよかったと?」
「その嘘をついたのは殿下です。私ではございません」
「ですが、私が嘘を信じていると知りながら、黙ることを選んだのはあなたです」
奥歯に力が入った。
すぐに頭を下げれば、私はまた、殿下が壊したものを整える側へ戻る気がした。
「私が返事を書かなかったことより、殿下があなたへ語った言葉をお確かめになるべきではありませんか」
「確かめました。何度も。殿下は、あなたも同じことを望んでいるとおっしゃいました」
私は、彼女の目を見返した。
「それでも私へ手紙をくださったのは、殿下の言葉を信じ切れなかったからではございませんか」
「殿下を信じ切れなかったからこそ、あなたからお返事がないことが怖かったのです。七日間、私はあなたに嘲笑われているようでした」
その言葉には、押し返せなかった。
「……手紙に返事を書かなかったのは、殿下の後始末を拒むためだけではございません」
指先が、膝の上の布をつかんだ。
「私を捨てた方と結婚する女性へ、親切にして差し上げられるほど、私はできた人間ではありませんでした。意地です」
「意地で黙られては、嘘をつかれたのと変わりません」
返す言葉がなく、私は頭を下げた。
「申し訳ございません」
「謝れば、なかったことになるとお思いですか」
「思っておりません」
「私は、あなたから殿下を奪ったつもりはありません」
「私も、あなたへお譲りしたつもりはございません」
自分の声が、思っていたよりも低く出た。
「私は、捨てられたのです」
ミレイユ侯爵令嬢は、指輪を押さえた。
「では、なぜそのように平然としていられるのです」
「泣けば、殿下が戻ってくるのでしょうか」
「少なくとも、殿下を愛していたようには見えません」
「今も愛しております」
ミレイユ侯爵令嬢は何か言いかけて、やめた。
花嫁になる未来を奪われて、まだ七日しか経っていない。
殿下と過ごした十五年を、過去形にはできなかった。
「でしたら、なぜ身を引けるのですか」
「身を引いたのではございません。愛したまま、戻らないと決めただけです」
私は、誰にも握られていない手を見た。
「あなたが何も求めずに去れば、殿下を奪ったのは私だと思われるではありませんか」
「私の人生を、あなたが善人でいるために使わないでください」
ミレイユ侯爵令嬢の頬から、さっと色が引いた。
「殿下は、私を愛しているとおっしゃいます」
「存じております」
「けれど、迷うたびに殿下はおっしゃるのです。『アドリーヌなら分かる』『アドリーヌの前でだけは王太子でなくてもよい』と。私がすぐそばにいるのに」
彼女の声が、初めて崩れた。
「妻に選ばれたはずの私が、ずっとあなたの後ろに立っているようでした」
私は答えられなかった。
ミレイユ侯爵令嬢は、そこで言葉を止めなかった。
「十五年もそばにいて、妻には選ばれなかった方に、私の不安を笑われたくありません」
指先から、温度が消えた。
「ええ。妻に選ばれなかったのは、私です」
認めるだけで、喉の内側がひりついた。
「妻に選ばれたのは、あなたです。それなのに、あなたが向き合った相手は、殿下ではなく、捨てられた私でした」
「殿下へ、『私だけを見てください』とおっしゃればよいのです。私を追い払うのではなく」
「ひどい方」
「お互いさまです」
扉の向こうで、開式五分前を告げる鐘が鳴った。
ミレイユ侯爵令嬢は唇へ触れかけた指を、何もせずに膝へ戻した。
私も、いま返した言葉を飲み込めるなら飲み込みたかった。
「……私は、あなたが婚約解消を望み、殿下を毎朝お支えになると伺いました」
「どちらも事実ではございません。私が殿下から伺ったのは、あなたが結婚後も私と殿下が会うことを受け入れているという、逆のお話です」
「そのようなことは、申し上げておりません」
「私も、申し上げておりません」
二人の間に落ちた沈黙は、先ほどまでのものとは違っていた。
私は、卓上の招待状を彼女へ向けた。
「発行日をご覧ください」
ミレイユ侯爵令嬢の目が、記された日付の上で止まる。
「殿下が私へ婚約破棄を告げた、三日前です」
その招待状には、式の目的として「双方の希望による婚約解消の確認」と記されていた。
「『双方の希望』……。最初から、あなたの答えを待つおつもりがなかったのですね」
「はい」
同封されていた式次第を開く。
婚約解消を確認した直後、新たな二人へ祝辞を述べる者として、私の名前がある。
殿下の希望だと、そこには書かれていた。
「あなたに、ご自分を捨てた方の婚約を祝わせるのですか」
「そのようです」
「私には、あなたも祝福していると……」
ミレイユ侯爵令嬢は、最後まで言えなかった。
「私は、あなたも望んでいると聞いたから、この指輪を受け取りました。誰からも奪っていないと思えたからです」
彼女は指輪を見下ろした。
「この指輪さえあれば、殿下の一番になれると思っていました」
「私にも、殿下は『お前が私を一番理解している』とおっしゃいました」
「私には、愛しているとおっしゃいました」
「どちらも、殿下にとっては本当なのでしょう」
「ですが、その二つを私たちが受け入れるかは、尋ねなかった」
私はうなずいた。
「殿下へ、確かめますか」
「はい。私たち二人がいる前で」
「殿下が私を選ぶとおっしゃっても、私は戻りません」
「今も愛していらっしゃるのに?」
「愛しております。だからこそ、妻にならないまま、そばには残れません」
ミレイユ侯爵令嬢は、指輪をつけた右手を握りしめた。
「私も、愛していると言われるだけでは署名できません。私の答えを必要としない方とは、結婚いたしません」
「殿下が事実と異なることをおっしゃったら、私はその場で訂正いたします」
「私も。殿下を庇うための嘘は申しません」
決めたのは、自分の心を殿下に都合のよい答えへ変えないことだけだった。
やがて、開式を告げる鐘が鳴った。
扉の向こうで椅子を引く音が重なり、司式者の声が響き始める。
『続きまして、アドリーヌ公爵令嬢とミレイユ侯爵令嬢にご入場いただきます。婚約解消を確認したのち、アドリーヌ公爵令嬢より、新たなお二人への祝辞を賜ります』
「まずは、殿下のお答えを伺いましょう」
一度だけ目を合わせる。
扉が開き、祝福を待つ拍手が流れ込んできた。
◇
「アドリーヌ公爵令嬢、婚約解消書へ署名を」
拍手のやんだ広間で、私の前へ一枚の書面が差し出された。
正面の玉座には国王陛下が座し、その一段下に殿下が立っていた。
私とミレイユ侯爵令嬢が並んで入ってきたのを見て、殿下は安心したように笑った。
二人が控室で何を話したのか、殿下は尋ねなかった。
署名欄には、ユリウス殿下の名がすでにあった。
その隣へ、アドリーヌと記す。
司式者が書面を確かめ、王家の印を押した。
乾いた音が、広間の隅まで響いた。
「ただいまをもちまして、ユリウス王太子殿下とアドリーヌ公爵令嬢、両名の婚約解消が成立いたしました」
署名と印の揃った書面が、卓の端へ移される。
代わって中央に置かれたのは、二つの署名欄が空白のままの、新たな婚約の誓約書だった。
司式者が、新たな婚約の次第を読み上げようとした。
殿下が片手を上げ、それを止めた。
「皆に、先に伝えておきたいことがある」
殿下が参列者へ向き直った。
「今日の婚約解消は、私とアドリーヌが話し合い、互いに望んで決めたことだ」
隣で、ミレイユ侯爵令嬢の袖がかすかに鳴った。
けれど、彼女も私も、まだ口を挟まなかった。
「アドリーヌは、妻ではなく親友として私を支えていくことを選んだ。ミレイユも、私たちの絆を理解し、結婚後も変わらない関係を受け入れてくれている」
殿下は穏やかに微笑んだ。
「三人で話し合い、全員が納得したうえで迎えた日だ。どうか安心して、私たちを祝福してほしい」
私たちが黙って並んでいることまで、殿下は同意の証として差し出した。
話し合ってなどいない三人が、殿下の言葉の中でだけ、同じ答えを選んだことにされた。
司式者が、私の名を呼んだ。
「それでは、アドリーヌ公爵令嬢より、新たなお二人へ祝辞を」
殿下は私と目を合わせ、小さくうなずいた。
私は一歩、前へ出た。
参列者たちが、祝辞のあとの拍手を待って居ずまいを正した。
「殿下。今のお話には、三つの嘘がございます」
祝福を待っていた広間から、音が消えた。
司式者が、玉座の陛下を見た。
陛下は動かなかった。
「一つ。私は婚約破棄を望んでおりませんでした」
殿下の微笑みが止まる。
「二つ。親友として殿下を支え続けるとも、申し上げておりません」
「アドリーヌ」
「そして、三つ」
ミレイユ侯爵令嬢が、自ら一歩前へ出た。
「私は、お二人が結婚後もこれまでどおり会い続けることを、了承しておりません」
殿下がようやく、彼女だけを見た。
空白の誓約書を前に、参列者のざわめきが広がった。
「ミレイユまで、何を言い出す」
「事実を申し上げております」
「二人とも誤解している。細かな行き違いがあっただけだ。最後には分かってくれると思っていた」
殿下は、ミレイユ侯爵令嬢から私へ視線を戻した。
「嘘ではない。十五年、頼まれる前から私を支えてきたのはお前だろう」
殿下の声が、初めて私を正面から打った。
「朝に会うことも、私が弱ったときにそばにいることも、誰かに命じられたわけではない。お前自身が望んでしてきたことではないのか」
返す言葉が、すぐには見つからなかった。
殿下が王太子として初めて大広間で演説した朝にそばにいたのも、夜明けまで話し相手になってもらったのも、私たち自身が望んだことだった。
その時間まで、嘘にはしたくなかった。
「はい。私が望んで、そばにおりました」
殿下が、安堵の息を吐いた。
「殿下を愛していたからです」
「なら――」
「ですが、何でも分かることと、何をされても許すことは、同じではございません」
殿下の言葉が止まった。
「私が望んでしてきたことです。だからこそ、やめるのも私が決めます」
「私は、お前から何も奪うつもりなどなかった」
「私の答えを聞かずに決めることを、奪うというのです」
殿下は、答えなかった。
「毎朝の相談も、弱音を聞くことも、お断りします」
今度は、指一本ぶんの迷いも残さなかった。
「もう、殿下を支えません」
幼い頃から積み重ねた時間が、その一言で終わった。
ミレイユ侯爵令嬢が、殿下へ向き直った。
「殿下。私と結婚したあと、アドリーヌ様とは何を続けるおつもりだったのですか」
「何をと言われても、これまでと変わらない。朝に会い、重要な判断の前には意見を聞く。私が弱っているときには、そばにいてもらう」
「それを、私に一度でもお尋ねになりましたか」
「アドリーヌは幼い頃から私を支えてきた。ミレイユも、それを知っているだろう」
「存じております。ですが、それは殿下のお考えです。私の返事ではございません」
彼女の声は震えていた。
それでも、視線は殿下から外れなかった。
「私がすぐそばにいても、アドリーヌ様をお呼びになるのですか」
「アドリーヌにしか話せないこともある」
「では、殿下が苦しいとき、最初に呼ぶのは私ですか。それとも彼女ですか」
殿下は、すぐには答えなかった。
答えに詰まるたび私を見るのは、幼い頃から変わらない。
殿下の視線が、私へ向いた。
「それが、お答えなのですね」
「違う。愛と信頼は別だ。私が愛しているのはミレイユだ。だが、アドリーヌも必要なんだ」
殿下は、私たちを交互に見た。
「どうして、どちらかを失わなければならない」
「私は、殿下を愛しております」
ミレイユ侯爵令嬢が、右手の指輪へ指をかけた。
「私の答えを聞かない方とは、結婚いたしません」
ゆっくりと指輪を外す。
「この誓約書には、署名いたしません」
指輪を、空白の誓約書の上へ置いた。
小さな音が、先ほどの王家の印よりも鋭く響いた。
「待ってくれ、ミレイユ」
「失礼いたします」
彼女は殿下へ一礼し、そのまま一人で広間を出ていった。
祝福のために集まった参列者たちが、次々と目を伏せた。
卓上には、王家の印が押された婚約解消書と、指輪だけが載った署名のない誓約書が並んでいた。
沈黙を破ったのは、国王陛下だった。
「司式者。関係する書面を、すべて証拠として封じよ」
「父上、これは三人の間の誤解です」
「二家の令嬢の意思を確かめず、王家の名で招待状を発行し、承認式を開いた。これは男女の行き違いではない」
陛下が玉座から立ち上がった。
陛下は、王家の紋章が入った招待状を取り上げた。
「ここには、『双方の希望による婚約解消』とある。お前は、聞いていない一人の返事を王家の文書に載せた。さらに、もう一人の沈黙を了承と呼び、承認式まで開いた」
殿下の顔から、色が消えた。
「ユリウス。本日をもって王太子の地位を解き、王位継承権を剥奪する。すべての公務と、王家の名による権限から外れよ」
「お待ちください。私はただ、二人とも失いたくなかっただけです」
「王になる者へ、国の答えまで同じように作らせるわけにはいかぬ」
陛下が片手を上げると、侍従長が銀盆を手に進み出た。
「王太子章を返せ」
殿下は胸元の徽章を外し、銀盆へ置いた。
硬い音が、一度だけした。
「アドリーヌ。父上に説明してくれ。お前なら、私が悪意で行ったのではないと分かるだろう」
「分かっております」
私は、殿下から視線を外した。
「ですが、陛下へお取りなしはいたしません。悪意がなくても、私たちの答えを奪ったことは変わりません」
視線を落とせば、印の押された婚約解消書の隣で、指輪を載せた誓約書だけが空白のままだった。
成立したのは、私との別れだけだった。
私は殿下へ背を向け、広間の扉へ歩き出した。
「お前は、私の親友だろう」
背後で、殿下が手を伸ばす衣擦れがした。
私は振り返らなかった。
「親友でした」
背後から、二度目の衣擦れは聞こえなかった。
私は足を止めず、広間を出た。
「お前とは親友でいたい」と言った王太子は、その日、王位を継ぐ未来も、妻になるはずだった女性も、親友だった私も失った。
◇
婚礼を挙げるはずだった日、私は公爵家の執務室で、父の代理として隣領との共同事業の発表文を組み立てていた。
先に両家が負う責任を置き、得られる利益はそのあとへ回した。
そこへ、ミレイユ侯爵令嬢から手紙が届いた。
彼女は侯爵領へ移り、領地経営を学ぶことにしたという。
誰に勧められたのでもなく、自分で決めたことだと記されていた。
私は書きかけの発表文を脇へ置き、便箋を一枚広げた。
今度は、返事を書いた。
『お知らせくださり、ありがとうございます』
『それが、ミレイユ様ご自身のお答えであることを、うれしく存じます』
封を閉じる。
婚礼を挙げるはずだった日に、私は自分の答えを書いた。
最後までお読みいただき、ありがとうございました。
アドリーヌとミレイユ、それぞれが選んだ答えを見届けていただけて嬉しいです。
少しでも「面白かった」「読んでよかった」と思っていただけましたら、下の☆☆☆☆☆から評価していただけると、次の作品を書く大きな励みになります。




