レストラン行進曲
昼下がり、東京のとあるイタリアンレストラン。
平日のランチタイムはサラリーマンたちでにぎわっている。テーブルに二人の男性会社員。同僚の二人はパスタを食べながら談笑していた。
「いやぁ、やっぱりここのパスタうまいよなぁ」
斉藤がフォークをくるくると回しながら言った。
「ほんと、よくこんな店知ってたな」
国木田が感心したように答える。
「まぁ、この会社員の数年は、どうやったら女を口説き落とせるか、そればっか考えてたからな」
「はは、お前らしいよ」
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ここで、皆さんにご挨拶させていただきます。
私の名前は国木田慎二、34歳、血液型はA型。趣味はバードウォッチングです。突然ですが、先ほどの会話を聞いてどう思われたでしょうか?
おそらく、大半の方は「別に普通の会話じゃないか」と感じたはずです。
……ですが、違います。違うのです。
その違和感に気づかなかったとすれば、それは私の演技が完璧だったから───。
では、私が何を隠していたのか?
私が隠していた、誰にも言えなかった真実───それは……。
"私は今、猛烈にうんこがしたい"ということです。
正確には、パスタをすすっていたその瞬間も、既に私は肛門の限界と戦っていました。
しかし、それを悟られてはならない。私はあくまで“自然体”を装い、演技に徹したのです。
普通の人間なら、腹痛を誤魔化すために体をくねらせたり、ベルトを緩めたりするでしょう。
ですが、私はそのようなことは一切行っていません。それどころか、会話にすら違和感はなかった。証拠として、リプレイしてみましょう。
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斉藤「いやぁ、やっぱりここのパスタうまいよなぁ」
私「ほんと、よくこんな店知ってたな」
斉藤「まぁ、この会社員の数年は、どうやったら女を口説き落とせるか、そればっか考えてたからな」
私「はは、お前らしいよ」
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ファインプレー!!!
私は今、あらゆる肉体的苦痛を乗り越え、“自然な会話”というゴールに完璧なパスを通したのです。そして、最後のすかし具合の"はは、お前らしいよ"ファインプレー!!!
ですが、皆さんはこう思うかもしれません。
「だったらうんこしに行けよ」
その通り。正論です。しかし、私には“行けない理由”があるのです。
それは───恥ずかしいから。
いやいや、恥ずかしくねぇだろと思われる方もいるでしょうが、いい歳した男が「ちょっとトイレ行ってくる」と言って、十数分も席を外す。すると、斉藤はきっとこう思うでしょう。
「あいつ、うんこしてたな」
そうなれば私は"パスタうんこマン"として一生のレッテルを貼られることになります。
次にまた斉藤とランチに行くとき、たとえメニューがハンバーグだろうが焼き魚定食だろうが、彼の脳裏にはこうよぎるのです。
「こいつ、前パスタのときうんこ行ったよな」
パスタうんこマン、さらに進化してピザうんこマン、ラーメンうんこマン、あんぱんうんこマンになってしまいます。そしてついに、食事時という枠を超えて、常に社内においてデスクワークうんこマンとして周囲から冷ややかな目で見られることは、想像に難くありません。
そんな未来、私は断固として受け入れられない。
そう葛藤していたそのとき、起死回生の一言が斎藤の口から飛び出しました。
「ちょっと、トイレ行ってくるわ」
斉藤が立ち上がり、去っていったのです。
私はこの千載一遇のチャンスを逃すまいと、すぐさまベルトを緩め、体重を片側にシフト。
これで少し落ち着きました。そして、この機を逃してはならないと、私はすぐさま立ち上がり、トイレへ目掛けて走ろうと決意しました。
しかし───。私の中である考えが過ります。
斉藤は「トイレに行く」と言った。が、彼は大をしに行くとは一言も言っていない。
もしかすると、彼はただの小。つまり小便。
私は「彼もきっとうんこだ」と思ってしまった。これは心理学でいうところの投影です。
私がうんこをしたいがあまり、彼もそうだと信じ込んでいたのです。
だが、もし斉藤が小便だった場合、どうなるか。
私がこのタイミングでトイレに行ったら、「大便してる」と確定してしまう。(ちなみに私がうんこに要する時間は相当長いです。)
小をしに行った人間が大をしに行った人間を馬鹿にできたとしても、大をしに行った人間が小をしに行った人間を馬鹿にできるはずがありません。また、仮に彼がうんこだったとしても、そうこう思案しているうちに大幅に時間が経過しています。ですので、今トイレに行けば、既に用を足し終え、手を洗っている斉藤と鉢合わせてしまう可能性があるということです。それではやはりトイレに潜ってからの時間があまりに長いことが露呈してしまい結局私にはパスタうんこマンのレッテルが貼られてしまいます。それだけは避けねばならない。しかし私にはもう時間がありません。刻々と私の身体の中のうんこが下界に生まれ落ちやんと体勢を整えているのです。もう限界です。私は理性を保つことができず本能のままに席を立ち、トイレへ走り出しました。しかし、数歩進んだ時のことです。
「おう、ただいま。どうした?」
斉藤が戻ってきてしまいました。
しまった。鉢合わせてしまった。
この時点で、うんこは出口にスタンバイしている。無理をすれば、漏れる───。
しかし私は、ここまで我慢してきたのです。
やはり行くべきではない───。
私は斎藤と泣く泣く席に戻りました。
すると、斎藤が口を開きます。
「いやぁ、あそこのトイレ狭くてさ。小便器一個と個室一個だけだぜ?あんなとこでうんこしたら、小便してるやつに丸わかりだよな!」
最悪です。
彼は、完全に大便を笑いものにしている。
つまり、もし私が彼の後を追っていたら、個室にいた私の正体はバレバレだったのです。
私の全身を冷や汗がつたう───。
そうしていたそのときでした。何処からか携帯の着信音が鳴り響いたのです。
斎藤が携帯を取り出しながらこう言います。
「ん? おれか? 違うな……。おい国木田、携帯鳴ってんぞ?」
チャーーーーーーーンス!!
私は瞬時に策を思いつきました。
携帯に出るフリをしながら席を立つ───。これはまさしく完全うんこトリック!!
私はすぐさまこう答えました。
「ああ、俺か。ちょっと出てくるよ」
すると、なんの不信感も抱いていないような素振りで彼はこう答えたのです。
「おう」
───さぁ、ここからの私はメロスでした。
脳内ではモーツァルトの『トルコ行進曲』が流れ出しました。店員さんにトイレの場所を聞き出し、トイレへ直行。個室に留まっていたうんこマンを外へ出して、なんとか個室の鍵を閉めて、便座へ着席しました。
──────!!!!!
人類が宇宙へ行ったとき以来の開放感。
ああ、なんという解放。
なんという平和。
なんという……尊厳の回復。
私は完全に勝利したのだ。そう思いました。
まさにその瞬間───。
ガチャ。
斉藤「ん? 国木田か?」
私「……あっ!」