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君が描くんだ

作者: 久遠 睦

序章:ほどける糸


水面に落ちた一滴のインクが、予期せぬ模様を描きながら静かに広がっていく。それが、倉本水希くらもとみずきの物語に対する考え方だった。27歳、小説家。彼女の仕事は、混沌とした現実の中から言葉という糸を紡ぎ出し、ひとつの世界を織り上げること。その世界は、彼女自身のものでありながら、決して彼女の意のままにはならない。登場人物たちは勝手に歩き出し、物語は自らの意志でうねり、作家である彼女を予期せぬ結末へと導いていく。その不確かさこそが、彼女の創造の源泉だった。


水希の住まいは、横浜の山手にあった 。窓から見えるのは、きらびやかな港の夜景ではなく、静かな瓦屋根の連なりと、季節ごとに表情を変える木々の緑。その控えめな風景が、内省的な彼女の気性に合っていた。彼女の一日は、この街の多彩な質感を巡る小さな旅から始まる。インスピレーションを求めて、彼女は山手の丘を歩いた。ベーリック・ホールやエリスマン邸といった西洋館の前に立つと、その瀟洒な壁の向こうで繰り広げられたであろう遠い日々の暮らしに想いを馳せた 。元町の石畳沿いにある「STAR JEWELRY CAFE & Chocolatier」のような洗練されたカフェでは、窓際の席に陣取り、熱いコーヒーの湯気の向こうに、自分と同じくらいの歳の女性たちの楽しげな会話や、きらびやかなショーウィンドウを眺めながら、物語の断片をノートに書き留めた 。


感覚的な刺激が欲しくなると、彼女は坂を下り、中華街の喧騒に身を投じた 。八角や香辛料の匂い、飛び交う中国語、店先で湯気を上げる点心の熱気。その混沌としたエネルギーが、停滞した思考をかき混ぜてくれる 。彼女は鋭い観察者だった。目に映るすべて、耳にするすべてが、彼女の世界を構成する素材となった。


小説家として、水希はささやかな成功を収めていた。熱心な読者はいたが、ベストセラー作家というわけではない。締め切り、創作の行き詰まり、そして自分の未来に対する静かだが執拗な不安。それは、確かなものを求める心の、かすかな予兆だったのかもしれない。


その日は、火曜日の午後だった。雨がアスファルトを黒く濡らし、街の輪郭を滲ませていた。みなとみらいの出版社での打ち合わせを終え、水希はタクシーの後部座席に深く身を沈めていた。ワイパーが規則的な音を立ててフロントガラスを往復し、濡れた路面に反射するネオンの光が、車内に虹色の残像を引いては消える。国道1号線、市内の主要な幹線道路は、雨のせいでいつも以上に交通量が多く、渋滞が始まっていた 。


「ひどい雨ですね」


運転手がバックミラー越しに言った。水希は曖昧に頷き、窓の外に目を向けた。ぼんやりと、次の小説の冒頭部分を考えていた。雨のシーンから始めようか。そんなことを考えていた、まさにその瞬間だった。


甲高いブレーキ音。金属が軋む絶叫。そして、クリスタルが砕け散るような、あまりにも透明で暴力的なガラスの破砕音。衝撃が体を打ち、視界が真っ白に染まる。それが、彼女が最後に認識したすべてだった。


あとは、ただ、沈黙と暗闇。


意識は、水に溶けるインクのように拡散していった。時間も、空間も、自分という輪郭さえも失われ、彼女は漂う粒子になった。物語を紡ぐ者から、書かれるのを待つだけの、真っ白なページへと変わってしまった。


第二部:機械の中の幽霊


最初に感じたのは、消毒液の匂いだった。次に、規則正しく繰り返される電子音と、肌に触れるシーツの硬い感触。水希は、みなとみらいにあるけいゆう病院の集中治療室で目を覚ました 。真っ白な天井を見つめながら、自分が誰で、ここがどこなのか、すぐには思い出せなかった。


医師の説明によれば、彼女は数日間、遷延性意識障害と呼ばれる状態にあったという 。命の危機は脱したが、脳に受けた衝撃がどのような後遺症を残すかは、まだ分からない。家族は安堵と不安が入り混じった表情で彼女を見つめていた。


その「声」が聞こえ始めたのは、意識が戻って数日後のことだった。それは耳で聞く音ではなく、思考の隙間に滑り込んでくる、ささやきのような明晰な断片だった。


――看護師が、あと3秒でトレーを落とす。3、2、1……。


ガシャン、というけたたましい音と共に、金属製のトレーと注射器が床に散らばった。水希はそれを、事故後の混乱した脳が見せる幻覚、一種のせん妄だろうと考えた 。重篤な患者が経験することは珍しくないと、どこかで読んだことがあった。脳損傷による一時的な錯乱状態。そう自分に言い聞かせた。


だが、声は続いた。そして、その予言は恐ろしいほど正確だった。


――午後2時5分、担当編集者の田中さんから電話。原稿の感想について、彼は嘘をつく。


病室の電話が鳴ったのは、壁の時計が正確に2時5分を指した瞬間だった。受話器を取ると、案の定、田中の明るい声が聞こえてきた。水希は声の予言を胸に秘め、彼の言葉の裏にある躊躇や偽りを見抜きながら、冷静に対応した。電話を切った後、彼女は自分の腕に残る鳥肌を撫でた。これは単なる幻覚ではない。


声は感情を伴わなかった。ただ淡々と、未来に起こる事実だけを告げる。それはまるで、完成された原稿を読み上げるナレーターのようだった。水希の心は、恐怖から慎重な同盟へと傾いていった。この声は、コントロールを失った彼女の世界で、唯一確かな羅針盤だった。リハビリテーションでは、声は痛みが来る瞬間と、どこまで体を動かすべきかを正確に教えた。彼女は驚異的な速さで回復していった。医師たちはそれを奇跡と呼び、彼女の強い意志の力だと賞賛した。だが水希だけが知っていた。これは意志の力ではない。これは、未来を知る力なのだと。


退院の日、彼女は窓の外に広がる横浜の街を眺めた。あの事故で一度は断ち切られた世界との繋がり。しかし今、彼女の手には、その世界を完璧に渡り歩くための、秘密の地図が握られていた。


第三部:書かれざる完璧な人生


退院後、水希は声の導きに従い、完璧な人生という名の建築を始めた。まず住まいを変えた。かつて愛した山手の静けさを捨て、みなとみらい21地区の超高層マンションに移り住んだ 。ガラス張りの窓からは、計算され尽くした美しい夜景が広がる。ランドマークタワー、クイーンズスクエア、そして色とりどりの光を放つ大観覧車コスモクロック21 。そのすべてが、まるで精巧なジオラマのように完璧だった。埋立地の上に築かれたこの人工の街は 、これから始まる彼女の人工的な人生を象徴しているかのようだった。


彼女のキャリアは、ありえないほどの飛躍を遂げた。声は、読者の心を掴むプロット、次に流行るテーマ、アプローチすべき編集者を的確に教えた。彼女の文章は技術的に洗練され、寸分の狂いもない構成を持つようになった。しかし、かつてあったはずの「揺らぎ」が消えていた。物語を発見する喜びはなく、ただ、あらかじめ用意された筋書きを書き写すだけの作業。彼女は作家ではなく、優秀な速記者になった。


私生活もまた、最適化された。声は、パーティで誰と話すべきか、どんな冗談が受けるか、どのタイミングで微笑むべきかを教えた。彼女は、その場にいる誰もが魅了される、完璧な女性を演じた。友人たちは彼女の幸運と才能を羨み、賞賛した。しかし水希の心は、厚いガラスの向こう側からその光景を眺めているように、冷めていた。彼女は、自分自身の人生の登場人物でありながら、その物語から疎外されていた。


ある晴れた午後、彼女は一人で汽車道を歩いていた 。桜木町と新港地区を結ぶこの遊歩道は、かつて港へ貨物を運んだ線路の跡だ。今は、未来的なビル群と、歴史を感じさせる赤レンガ倉庫を繋ぐ散歩道になっている 。その道すがら、小さな子供が転んで膝を擦りむいた。母親が駆け寄り、子供は顔を真っ赤にして、声を張り上げて泣きじゃくる。その予測不能で、生のままの感情の発露に、水希は心を奪われた。自分の完璧にコントロールされた日々の中では、決して起こり得ない出来事。その子供の涙は、彼女が失ってしまったものの象徴のように思えた。


彼女の中でささやき続ける声は、もはや未来の自分からの助言とは思えなくなっていた。それは、彼女とは別の意志を持つ、独立した存在。分身ドッペルゲンガー 、あるいは心理学で言うところの「シャドウ」 。痛みと不確実性を極度に恐れるあまり、彼女の意識を乗っ取ってしまった、臆病な半身。


ジャン=ポール・サルトルは言った。「人間は自由という刑に処せられている」と 。人間は、あらかじめ定められた本質を持たずにこの世に生まれ、自らの選択によって自分自身を創り上げていく。その根源的な自由は、同時に、すべての選択に責任を負わなければならないという、過酷な運命を強いる。


水希の状況は、その哲学の完璧な裏返しだった。彼女は、選択という苦役から解放された。失敗も後悔もない、保証された未来。誰もが望むであろうその人生は、しかし、人間であることの本質――自由――を奪われた、耐え難い牢獄だった。彼女は、その完璧な人生という名の檻の中で、静かに窒息しかけていた。


第四部:美しき破滅の行い


転機は、ある予言によってもたらされた。声は、いつものように淡々と、しかし決定的な未来を告げた。


――ライバル作家の桜井栞さくらいしおりが、プライベートで深刻な問題を抱える。彼女が過去に発表した短編に、盗作の疑いがあるという情報が、まもなく業界の一部で囁かれ始める。その情報を、懇意にしている文芸ジャーナリストに「偶然を装って」漏らせば、桜井は次の文学賞選考から確実に脱落する。賞は、あなたのものになる。


それは、文壇の頂点へと続く、確実な道筋だった。水希の心は激しく揺れた。野心と良心。保証された成功を求める「影」と、消えかかっている本来の自己。その葛藤は、彼女を夜の街へと駆り立てた。オレンジ色にライトアップされた赤レンガ倉庫から 、大型客船が停泊する大さん橋へ 。そして、暗い海を眺めながら、山下公園のベンチに座り込む 。街の光と影が、彼女の心の内を映し出しているようだった。


彼女は、決断した。


運命の日。ジャーナリストと会う約束をしていた元町のカフェ。水希は約束の席には向かわず、別のテーブルに一人で座っている桜井栞に近づいた。彼女は深呼吸を一つして、声をかけた。


「桜井さん、少しだけお時間をいただけますか」


水希は、すべてを話した。もちろん、「声」のことは伏せて。ただ、彼女の過去の作品に関する不穏な噂が流れていること、そしてそれが意図的に広められようとしていることを伝えた。そして、自分はそれに加担するつもりはない、と。桜井は驚きと疑いの目で水希を見ていたが、やがてその表情は、感謝と、そしてわずかな警戒心へと変わった。


水希は、予言に逆らった。利益よりも、共感を選んだ。


声が予言した通り、その代償は大きかった。桜井は、水希の名前こそ出さなかったものの、文壇内の倫理観の欠如を告発する手記を発表した。水希の最近の成功に不審感を抱いていた出版社は、彼女から距離を置き始めた。文学賞は、別の作家の手に渡った。彼女は一夜にして、築き上げてきた地位と信頼の多くを失った。


その日の夕方、水希は大さん橋のウッドデッキ、通称「くじらのせなか」に立っていた 。海風が頬を撫で、港の景色が目の前に広がっている。彼女の頬を、涙が伝った。それは後悔の涙ではなかった。安堵と、そして自分の人生を取り戻したという、確かな実感からくる涙だった。痛みは鋭く、現実的で、紛れもなく彼女自身のものだった。事故以来初めて、彼女は自分が生きていると、心の底から感じていた。


フリードリヒ・ニーチェは、自らの運命を、その喜びも苦しみもすべて含めて肯定し、愛することを「運命愛(Amor Fati)」と呼んだ 。もし、この苦痛に満ちた人生が、永遠に繰り返される(永劫回帰)のだとしても、「これこそが人生であったか。ならば、もう一度!」と喜んで受け入れる強さ 。それこそが「超人」の態度だと。


水希は、自ら破滅を選んだ。それは彼女にとって、究極の運命愛の実践だった。この痛み、この失敗、これは私が選んだものだ。この痛みを感じるために、私は完璧な未来を捨てたのだ。彼女は、自分自身の物語の「超人」になったのだ。


第五部:最後の言葉

破滅を選んだあの日から、声は沈黙していた。水希の心には、嵐の後のような静けさが訪れていた。彼女はもはや、声を恐れても、憎んでもいなかった。それは自分の一部なのだと理解していた。事故という極限の恐怖が生み出した、安全を渇望する臆病な自分。


彼女は心の中で、その「影」に語りかけた。


「今まで、守ってくれてありがとう。でも、もういいの。私はもう、安全なだけの人生はいらない。傷ついても、失敗しても、私は私の足で歩きたい」


それは、自己の全体性を取り戻すための、静かな宣言だった。恐怖を抱く自分も、それに立ち向かう勇気を持つ自分も、両方受け入れる。ユングの言う「影の統合」とは、こういうことなのかもしれないと、彼女は思った 。


その時、消えかけていた声が、最後にもう一度だけ、彼女の意識に響いた。それは反論でも、予言でもなかった。ただ、静かな受容があった。


――君が描くんだ。


その言葉は、まるで水面に落ちた雫のように、彼女の心に深く、静かに染み渡っていった。それは、未来についての答えではなかった。それは、未来を創り出す力を、彼女自身の手に返す言葉だった。予言される者から、創造する者へ。小説家である彼女の魂を、根源から肯定する一言だった。


その言葉を最後に、声は完全に消え去った。


数ヶ月後。水希は、山手の古いアパートに戻っていた。窓から見えるのは、見慣れた瓦屋根と木々の緑。彼女はパソコンの前に座り、新しい物語を紡いでいた。その文章は、以前よりも深く、痛みを知る者の優しさと、不確かさを受け入れる強さに満ちていた。


事故というトラウマは、彼女を破壊しなかった。むしろ、その経験を乗り越えたことで、彼女は人間としてより大きく成長していた。心理学で言うところの「心的外傷後成長(Post-traumatic Growth)」 。人生への感謝、他者との真の繋がり、そして自分自身の内なる強さ。彼女は、失ったものよりも多くのものを手に入れていた。


画面の上で、カーソルが心臓の鼓動のように点滅している。その先は、まだ誰も知らない、真っ白なページ。


水希は、静かな興奮を覚えていた。次に何が起こるかを知っていることの安心感ではない。次に何が起こるか、誰にも分からないということ。そして、その物語を描くのが、他の誰でもない、自分自身であるという、希望に満ちたスリルだった。不確実な未来はもはや恐怖ではなく、無限の可能性そのものだった。


彼女は、ゆっくりと指をキーボードに置いた。そして、最初の言葉を、打ち込み始めた。


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