[3-1]
当たり前のように自分の隣を歩く存在が嬉しかった。
何も諦める必要はないのだ、と背中を押されている気がした。
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事故があった、と桂介はポツリと呟いた。
野次馬から少しはなれた駐車場の片隅には、今は青いビニールシートが敷いてあり、爆発と火事で軽症を負った人々とその付き添いが、目の前で行われる消火作業をざわつきながら見ている。
理科室という性質上、規模は大きくなってしまったが、場所がよかったのか幸いにも被害は少なく抑えられたようだった。
隣の理科準備室に居た教師と、たまたま質問に来ていた生徒が爆発の衝撃で怪我を負い病院へと運ばれていたが、あの爆発でも壁は一部しか崩れなかったらしくそこまで重傷ではなかったそうだ。その二人を助けに行った別の教師が火傷を負ったが、これも軽いもののようだ、と、捕まえた消防隊員から聞いた。
もしかしたら、一番重症だったのは駐車スペースに停められていた車の持ち主だったかもしれない。たまたま理科室側のスペースに停めていたその車は、見事にフロントガラスにヒビが入っていた。ボンネットも凹んでいるようだ。とうとう車を買ったんだよ!と子供のように生徒たちに自慢していた新人教師が、その車の前でがっくりと肩を落としていた。
その他軽傷者は少なからずいたが、桂介のように振動で壁に身体をぶつけたり、爆風で煽られて倒れたりした者だけだった。念の為にと病院へ行く者もいたが、大概は警察からの聞き取りが終わった後は自宅へ直帰するだけという人間が、ぼんやりとシートに座って燻った建物を見ているのだった。
桂介はずれた薄い毛布を肩へ引き上げなおし、手に持っていたカップに片手を添えた。湯気の立ち上る暖かいココアは、日が落ちてわずかに冷えてきた空気の中で、小さな安堵感を与えていた。
――あの後、ぼうっと立ち尽くしていた二人だったが、桂介の額から血が滴っていることに気付いた要が慌てて桂介を図書館から引きずり出したのだった。
外に出ると、閉館の札が掛かっていたせいかまさかその中に人が居ると思っていなかった消防隊員に、有無を言わせずこのビニールシートの張られた救護スペースまで連れてこられ、手当てを受けさせられた。最初の爆発の時どこかにぶつけたのだろう、さして痛みも感じなかったから、病院に行くかと聞いてきた消防隊員に桂介は小さく横に頭を振って否と応えたのだった。
「それにしても、いくら閉館の札が掛かっているとはいえ、間近にあってモロ余波を食らった図書館内に誰かいるかぐらい確かめたっていいよなぁ」
不満そうに口を尖らせた要に、桂介は返事を返すこともなくただ消火作業を見ていた。それをちらりと見て、要は口をつぐんで視線を落とした。
近くにあるデパートから入れ替わり立ち替わり野次馬が集まり、一向にいなくなる様子はなかった。それらのざわめきと、サイレンと、放水され続ける水の音が未だある種騒然とした空気を作っていたが、もはやほとんど消えかかった火は、一先ずの落着を示していた。
「……事故があったんだ」
しばらくして、ポツリと呟いた桂介の言葉に、要は顔を上げた。
桂介は、街特有の明るい夜の闇に浮かび上がっている黒い校舎を見上げたまま言葉を続けた。
「小学に上がったばっかりの頃、じいさんが死んで、それからやつらが現れるようになった」
最初は気付かなかった。黄昏――『誰そ彼』とはよく言ったもので、極限まで傾いた霧のような夕日の光の中で、彼らはただ夕暮れにすれ違う見も知らぬ人だと思っていた。ただ、すれ違う瞬間に感じる、問いかけるような、求めるような、悲しい視線だけが気になっていた。
だから、声を掛けるようになった、と桂介は続けた。小さな子供に笑顔で声を掛けられてあからさまに不快に感じるものはいまいと思ったし、祖父の言葉が耳から離れなかったのだ――出会いを怖がるな、その人はきっとお前を必要としているはずだから、と。
近くに寄れば、彼らがただの人間ではないことはなんとなくわかった。黄昏の中、普通の人間ですら顔が見えなくなる時刻とはいえ、いくら近づいてもその影はその容貌も、輪郭ですらはっきりと見えることはなく、ただ影の中に沈みこんでいた。けれど、話しかければ影の中で安堵したように息を漏らしてくれるのが嬉しかった。その後いつの間にかその人はいなくなっていたけれども、数日すればまた違う影が黄昏の中悲しい目でこちらを見ているのだった。
「何度も繰り返したけど、別に嫌だとかそういうのはなかった。役に立ててると思えたしな」
しかし、その日は違った。いつもと同じ赤い世界で、相変わらず顔も見えないその影は、何かいつもの人達とは様子が違うように感じられた。同じものだとはわかったが、何かが違った。
いつもはただただ立っている彼らだったが、今回はこちらに近づいてきた。そして、何も言わぬうちにその影は桂介の手首を掴んで力任せに引き上げたのだった。
どこかに連れて行こうとするその影に必死で抵抗したものの、子供の力では敵うはずもない大人の握力で手首を握られ、影の中からこちらを見下ろす双眸に暗い悪意を感じた時、本能的な恐怖が身体の中を駆け巡っていくのを感じた。
必死で暴れて、何かの拍子に拘束が緩んだのを感じた瞬間、飛び出すようにそこから逃げ出していた。後ろを振り返る余裕もなく、必死で足を動かし続け――。
いつの間にか真横に現れていた車のフロントの中から、一瞬恐怖に顔を歪めた運転手の表情が見えた。
「……それで?」
そう言った要の声は、わずかに掠れているようだった。
そこで初めて桂介は要のほうに顔を向けて、肩をすくめて苦笑してみせた。
「運転手の兄ちゃんはそのまま電柱へ突っ込んで重傷。まあ、無事退院したみたいだったけど、俺がむやみやたらに首突っ込んだ巻き添えだったからな、悪いことをしたと思ったよ」
「お前は?」
「俺?俺はただの入院」
撥ねられた子供の入院にただもなにもないだろうと要は思ったが、ただ溜息を吐いて口をつぐんだ。こういう場合、本当にわかっていないのだということは短い付き合いの中で学んでいたから、聞いても無駄である。要は質問を変えた。
「その影のことは誰かに言ったのか?」
「いや、あいつらがいる時は決まって誰もいなかったし。こんなことは『ただの子供の虚言』だからな。言っても無駄だろう」
そう言って手に持ったカップからぬるくなったココアを一口口に運んだ。
両親なら、おそらく信じてくれたのだろうと思う。けれども何故だか話す気にはなれなかった。もしかしたら、祖父になら話せていたのかもしれない、そう思って桂介は目を細めた。事故について、ただ不注意で飛び出してしまったのだと説明した息子に、両親は何か言いた気な目をしていたけれども、それ以上聞いてくることはなかった。
ただ、それから桂介は夕暮れを避けるようになった。無関係な運転手を巻き込んでしまったという自責の念もあったが、それ以上にあの時感じた影に対する本能的な恐怖を忘れることが出来なかったからだった。
桂介は手を握り締めて要の顔を見た。一度は自分の口から放ったあの言葉を、もう一度言わなければならない。問わないわけにはいかなかった――お前は何者なのか、と。けれども、どうしても言葉が出てこなかった。
そんな桂介に、要はぽつりと呟いた。
「――お前は、『道』を持ってるんだよ」
その言葉に、思わず「は?」と桂介が眉を寄せる。それにかまわず要は言葉を続けた。
「誰だっていつの間にか道を見失う時がある」
行くべき道も、帰るべき道すらわからない。それまでただまっすぐに歩いてきたはずだったのに、いつの間にか知らぬ場所に放り出されていたように。ふと立ち止まると誰もいなくて、己がどこへ行くはずだったかも思い出せない。
「お前は、道を持っている。……と言うと少し違うか。道を見失って彷徨っている者の、本当に望む帰る道への扉を持ってるんだ」
要は桂介の胸をトンっと叩いた。
「そこにある水鏡に映る月に手を伸ばすと、本当の月に帰れるみたいに。……黄昏は世界の境界が曖昧になる時間だ。いろんな世界が、少しずつ重なり合う」
だから、と言って目を伏せた要に、桂介は息を吐いて訊ねた。
「……お前も?」
ああ、と要は小さく答えた。視線を上げた要の目を、桂介もゆっくりと見返した。
「帰りたいのか?」
どこかへ――。そう言って覗き込んでくる蒼い双眸を見つめながら、要はふっと笑って立ち上がった。
「……さあな。――じゃあ、帰るか」
そう言いながら、大袈裟に巻かれた桂介の頭の包帯をパンっと叩く。
「……ってぇな!俺は怪我人だぞ!大体、警察は待たなくていいのかよ?」
「もう遅いし、連絡先も言ってあるから大丈夫でしょ。怪我人さんは、送っていってやりますよ」
その言葉に、桂介は一瞬目を瞠ったが、すぐに苦々しく表情を歪めた。
「大体、なんなんだよお前。結局意味わかんねぇよ」
「うわー、わかんないのー?あほだなー」
「……おーまーえーなー」
「幼馴染だって、おさななじみ」
「んなわけあるか!」
ネオンサインに照らされた明るい闇の中、無駄に騒々しく喚き散らしながら去っていく二人の姿を、数人の野次馬たちが目を丸くしながら見送っていた。