[2-3]
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静かだった。
轟々と音を立てる炎も、熱に耐えかねたガラスが小さく割れる音も、同時に聞こえる野次馬の息を呑んだような悲鳴も、全てが一瞬静まったように感じだ。
静寂と共にゆっくりと時間が過ぎていく。自分が発した追求の言葉ですら、もはやずいぶんと前のことのように思われた。
要は、相変わらず目を伏せている。わずかに俯いた顔に、半端に長い髪がかかって表情がよく見えなかった。けれども、その手は桂介の腕を離すことはしなかった。
「……今は、避難だ」
俯いたまま、要は呟いた。
それでも動かない桂介に、ようやく顔を上げて目を合わせた。
「後で、話すから……」
そう言ってしまえば、もう答えを言ったようなものだった。桂介は唇を噛み締めた。
これで、わかった。彼が何故桂介と一緒に居たがったのか。何故、最初から知り合いのようにこちらを見つめて話しかけてきたのか。
何のことはない。最初から『知っていた』のだ。もしかしたら、幼馴染と言っていたのもあながち間違いではなかったのかもしれない。幼い頃、まだ遅くまで外で遊んでいた頃に会った『やつら』の一人だったのだろう。
噛み締めた唇から血が滲んだのか、口の中に鉄の臭いが広がった。じゃあ、今までの関係はなんだったのだ、と思うと息が詰まって仕方がなかった。
「最初から……」
そのつもりだったのか、と。そう言うつもりで顔を上げ、桂介は凍りついた。
落ちたブラインド。割れた窓。炎だけではない、気持ちよく晴れ渡った夕暮れの光に照らされて、その影がこちらを見つめていた。
「桂介?」
要は言葉を途切れさせた桂介を訝しそうに見遣り、視線の先に目をやって、そしてもう一度桂介の方へ顔を向けた。
「なにか、いるのか?」
一言一言確認するように言われた言葉に、桂介はびくっと肩を揺らした。
「……見えないのか?」
お前らは、仲間じゃないのか?と、視線を逸らさずに呆然と呟く。知っている以上、あちら側の者ではないのか、と。
「いや」
桂介の言葉に、要は短く首を横に振って返した。要の目には、荒れた室内と、割れた窓ガラス、そしてその外に広がる混乱しか見えてはいなかった。それでもそちらに視線を向けながら、立ち尽くす桂介を半分隠すように前へ出た。
逃げるか?と、後ろに居る桂介にちらりと視線をやって小さく聞いた。否、とさらに小さく答えが返ってくる――外は今まさに黄昏の世界。もう逃げても無駄だ、と。
「じゃあ、名を問え」
「……は?」
要が淡々といった言葉に、桂介は思わず間の抜けた声を発してしまった。
「名前はなんだと聞くんだよ」
そういう要の言葉に、桂介はゆっくりと影から視線を外す。温度の上がった空気の中で、顔からは自然と汗が落ちていっていた。しかし要は前方に視線を固定したままにやりと笑って見せた。
「大丈夫だ。いざとなれば、つれて逃げてやるさ」
握られたままの腕にぐっと力が込められるのを感じて、桂介はゆっくりと目を閉じた。
ずいぶん前から、心臓の鼓動は乱れっぱなしだった――いや、もしかしたら止まっているのかもしれない。ただ、恐怖で胸がつかえるように苦しかった。
たとえあちら側の者でもいい。要が今ここに居ることに苦い安堵を感じている自分に、桂介は思わず口を歪めて嘲笑を漏らした。
ひとつ息を吐いて、再びゆっくりと目を開ける。視線を上げると、まだそこには赤い光に照らされた影が居た。人のようにも思えたが、違うようにも見えた。
逆光のせいか、いくら目を凝らしても顔はわからなかったが、その目が不安げにこちらを見ているように感じた。在るべき場所、帰るべき道を見失ってしまったというように、ただただ立ち尽くしているようだった。
「……名前は?」
眩しい光に目を細めて、その影から視線を逸らさないようにしながらゆっくりと桂介は問うた。影が、一瞬ゆらりと揺れた。
要に掴まれたままの腕から暖かい体温を感じた。次の言葉は自然と口から零れ落ちた。
「――どこへ、帰りたいんだ?」
その言葉と共に、ひゅうっと風が吹いた。影がゆっくりと近づいてくる。
少し身を硬くした桂介の視界に、前を見つめたままの要の横顔が映った。桂介の視線に気付いた要が、ちらっと目線をよこして、大丈夫と言うように口の端を持ち上げてみせる。
それを見て、桂介は自分の腕をつかんだままの要の手に自分の手を乗せて下ろさせた。視線を上げて、要の前に出る。
間近まで来た影が、こちらを見ていた。暗く翳った影と、後ろから照らす霧のような光に、すれ違うほどの距離になっても顔は見えなかった。
ゆっくりと影が手を伸ばした。影で遮られていてもわかる、節くれだった指の、無骨で大きな手。桂介がゆっくりとその手を握ると、すさまじい音と共に風が逆巻くのを感じた。その突風に思わず顔を背けて反対側の手で顔を覆う。高い鐘の音のような水の音が、暗闇の中で一度だけ聞こえたように思った。
――次に目を開けた時には、そこには桂介と要、そして濃い水の匂いを含んだ空気だけが取り残されていた。