[2-1]
――気がついたら、ただただ呆然と立ち尽くしていた。
行くべき道を共に歩むものも、帰るべき道を示してくれるものも、もう居なかった。
[2-1]
「っつ……」
唐突に訪れた爆音と振動に、桂介はバランスを崩して勢いよく棚に身体をぶつけた。
キィィィと耳鳴りがするのは気のせいではないだろう。乱雑に積まれた司書室の資料は見事なまでに崩れ落ち、床の色を白一色に変えていた。
「……な、に」
傷む頭を抑えて立ち上がり、フラフラと司書室を出る。
「……な」
そこに広がる悲惨な光景に、桂介は思わず声を失った。
改装されたばかりの図書館は、すでにその真新しい姿を失っていた。床に散らばる沢山の本とガラスの欠片。隣の本棚に寄りかかり、かろうじて立っている本棚。
北側の窓は全て無残に割れ、取れかかったブラインドを風が荒くはためかせていた――そしてそこから覗く赤い光に、桂介は目を逸らせることも出来ず立ち尽くした。
(……夕日、じゃない)
回らない頭を叱咤して思考を紡ぐ。
(あっちは北側だ。ここまで激しい光が届くはずはない……)
じゃあ、と、そこまで考えた時、また風が荒く吹き、持ち上げられたブラインドがこらえきれずに音を立てて床に落ちた。
(――火?火だ)
太陽と同じ性質、同じ色でありながら、全く違う存在。暖かさを与えながら、小さいものでも本能的な恐怖を抑えきれない現象。
それが、窓の外に巨大な影を落としながら轟々と音を立てて立ち上っていた。
南と北、二つの校舎棟に挟まれた図書館。割れた窓の向こう、北校舎の一階、西の最奥で今もなお炎を上げ続けているのは。
(理科室だ)
ということは、何か薬品にでも引火したのだろうか。
もう時間も遅い。北棟は一、二年の教室しかないから、この時間に残っている人間はいないはずだった。北棟のさらに北側は広い駐車スペースになっているから、その奥にある部活動が行われている体育館や武道館にもそこまで被害がないはずだ。近くにある図書館でさえ建物が崩れるほどではなかったのだから。しかし、理科室のすぐ隣、理科準備室には担任の教師がよく居残っていたから、それが気掛かりだった――見たところ準備室の窓からは炎は出ていない。無事ならばいいのだが。
回りだした頭はぐるぐると思考を紡ぎ続ける。たとえ生徒が残っていたとしても、理科室に入る人間がいるとは思えない。ならば何故――。
窓の外でざわめきが徐々に広がっていくのを感じながら、それでもなお桂介は動くことが出来なかった。
出なければ、と思う。校舎と図書館の間に今年の春植えられたばかりの若木が、くすぶりながらも倒れて図書館に寄りかかっているのが見えた。理科室から立ち上る炎も煙も、弱まる気配を見せずどんどん勢いを増しているように見える。距離があるのに、肌に当たる空気もチリチリと熱くなっているようだった。
本に飛び火したら、あっという間に全て燃えてしまうだろう。今まで生徒たちからのリクエストに応えて地道に増やしてきた沢山の本。一冊一冊に歴史と想いがあるとわかっている分、それらが失われることは入学して三ヶ月足らずの桂介にとっても悲しいことだった。
(学校の損失もかなりのものになるだろう)
本もガラスも安くはない。大体、今火が消えてもあの理科室の復興となるとかなりの金額が飛ぶのが目に見えるようだ。倹約思考の強い桂介にとって、学校の金だとはいってももったいないとしか言いようがなかった。
そんな事を考えながらも、桂介は炎が起こす赤い影に視線も身体も縫い止められたかのように少しも動かすことが出来なかった。
出なければいけない。今すぐこの建物から出て避難するのだ――けれども。
(出たら、今度こそ、逃げ切れないだろう)
無意識に頭に浮かんだ言葉に、桂介は思わず目を瞠った。
そうだ、昔、黄昏の世界で見たのは。あの赤い光ではなくて――。
そこまで考えたところで、バン!という音と共に無事だった東側の扉が勢いよく開けられた。
「要――」
乱暴に開け放たれた扉から息も荒くこちらを見ている人影に、ゆっくりと目を向けて桂介は驚いて口を開けた。
「なにを……」
「なにをしてるんだっ」
桂介の言葉に重なるように声を荒げて近づいてきた要に、再度桂介は目を瞠る。
胴着姿のまま肩で荒い息をしている要は、いつもと違って真剣な顔つきでこちらを睨んでいた。いつもへらへらした顔で締まりなく笑っている姿しか見たことがなかったのだが。
(こいつでも怒ることがあるのか)
その表情が意外すぎて、逆に張り詰めていた身体の力が抜けるのを感じた。
「なに怒ってるんだ?」
そう言った顔は、むしろ笑ってしまっていたかもしれない。案の定、カウンターを飛び越えて入って来た要はその言葉に目を吊り上げた。
「なに暢気なこと言ってるんだよ!こんなところでボサっとしてる暇があったらさっさと避難しろっ!あほ!」
そう言って湯気を出しそうな勢いで顔を真っ赤にして怒鳴る要を見ていたら、なお笑いが止まらなくなって。桂介は大きく息を吐きながらその場に座り込んだ。
「お、おい。どっか怪我でもしてるのか?」
片手で顔を覆って俯き、堪えきれないように肩を揺らす桂介に、一転して要は不安そうに声を掛ける。その様子にさらにツボを刺激されて、とうとう桂介は腹を抱えて笑い出した。
「おい……」
腹を抱えて床を転げまわる桂介を、さすがに要は憮然とした表情で睨み付けた。また要の機嫌が悪くなり始めているのを感じ、さすがに桂介は笑いをこらえて涙を拭く。
「い、いや、悪い。で、どうしたんだ?」
台詞を間違えたらしい。要の視線がさらに冷たくなった。
「……避難しろっつってんだよ、避難しろって」
怒りに震えながら拳を握る要に、桂介は慌てて手を振る。
「わかってるわかってる。悪かった」
「じゃあ、行くぞ」
そう言って差し出された手を、桂介は座ったまま黙って見つめた。
「……悪い。行けない」
「……なんで」
座り込んだままそう言った桂介を見て、要は呆然と呟いた。
「もしかして、どこか本当に怪我してるのか?」
「いや」
「じゃあ……」
声を途切れさせた要に、桂介は安心させるように笑みを向ける。
「もうすぐ消防車も来るだろう?そうすれば火も消えるさ」
答えになっていないその言葉に、要は舌打ちを漏らして首を振った。図書館に倒れ掛かっている燻った新木に目をやり、その奥でさらに激しさを増しながら火の粉を散らす炎に視線を移して、再度首を振る。
そして、こちらを見上げる桂介の腕をつかんで、ぐいっと無理矢理引きずり上げた。運動神経が良いといっても桂介はパワータイプではなくスピードタイプだ。本格的に剣道に打ち込む要の力には敵うわけもなく、いとも易々と立たされていた。
立ち上がったことで再度目に入って来た窓に視線をやって身体を少し強張らせた桂介に、要は息をついて引っ張り上げたままの手を引いた。
「……大丈夫。誰も来ないよ」
そう言った要の言葉に、桂介ははっと振り向いて目を細めた。
「どういう、意味だ」
その言葉は、熱を帯びてきた空気に思ったよりも低く響いた。それに気圧されるように要は気まずそうに目を伏せる。
その様子に、桂介は黒い染みが広がるかのような違和感を覚えていた。
大丈夫、火はまだ来ないよ、ではなく、誰も来ないよ、と言った。
(こいつは、何故、知っているんだ)
自分が、恐れているものを。
帰宅に付き合っている人間ならば、夕刻を避けていることぐらいには気付くだろう。夕日が嫌いなのだと、思うかもしれない。しかし、その理由は誰にもわからないはずだった。
わかるとすれば、それは――。
「お前、何者だ?」
桂介にも、己の声がやけに低く聞こえた。