[1-2]
[1-2]
図書館は建物と建物に挟まれるようにしてひっそりと佇んでいた。
独立した建物でありながら、小ぶりな平屋でしかない図書館は、『図書館』と呼ぶにはあまりにも質素で静かだった。
図書館として建てられたにもかかわらず、つい昨年まで食堂として使われていたその建物は、改装されて図書館となってからも、それまで校舎棟あった図書室を利用してきた学生たちから変わらず『図書室』と呼ばれ慣れ親しまれていた。そういった事情を知らない新入生達にも『図書室』という名前が定着したのは、『図書館』にとっていいことだったのか悪いことだったのか。少なくとも新しく静かな部屋は、話したことがなくともお互い見知った顔ぶれの常連達には落ち着ける空間を提供していた。
「お、来たね、こんにちは」
扉を開けて入ってきた桂介に声をかけてきたのはカウンターに座っている角川直澄である。
二年だという話だが、無駄に落ち着きを備えたその表情は新人教師と言われても納得出来たかもしれない。
「どうも」
桂介は笑顔で会釈をした。
放課後にしか図書館に顔を出さない桂介だが、たまたま通りがかった時に窓から覗くと朝だろうが昼だろうが角川の姿をカウンターに見ることが出来た。その姿からいつの間にか生徒達に与えられた異名は『図書室の番人』――何故か本探しだけではなく、進路相談や人生相談、果ては教師達からの本年度の各種大学試験出題傾向などという相談まで行っているらしいと聞くから驚きである。
いつも図書館で見ることが出来るのに、授業にはきちんと出ているというから、実は双子なのだ否ドッペルゲンガーなのだ、遂には教師が怪しげな依頼の代わりに単位を与えているのだ等々、様々な噂が影で囁かれていたが、どれもありえないと言い切れないのが角川の恐ろしいところだった。いつの間にか学校の七不思議とまで言われるようになった角川を見ながら、桂介は笑顔で訊ねた。
「司書室空いてます?」
そんな桂介に、角川も笑顔でカウンターの仕切りを引いた。
「空いてるよ。今日はもう予定はないから好きに使っていい」
そう言うのは、例の『相談』をその司書室を使って行うからだった。図書室の奥、カウンターのさらに奥に仕切って作られた司書室は、意外な事に防音に優れたものだったから、色々な人間に重宝されていた。
「じゃあ、お借りします。何かあったら呼んでください」
そう言って軽く頭を下げ、桂介は司書室に入った。
司書室は六畳ほどの広さがあったが、大量の資料と棚に埋め尽くされて実質三畳ほどの広さしかない。その貴重なスペースも、机と椅子によってほぼ埋め尽くされていた。申し訳程度に設けられた小さな窓はとうの昔にその存在をなくしていたから、桂介はこの場所を初めて見つけた時は、驚きと共にかなりの幸運を感じたものだった。
ただ、角川が『依頼人』と共に使用している時は、図書室の奥に設置された小さな読書スペースで本を読んだ。本を日焼けから守るためにいつもブラインドが落とされているため、その小さい読書スペースでも全く問題はなかった。しかし、いつの間にか角川に資料の片付けを頼まれるようになり、そうしているうちに仕事がなくても司書室が空いている時は司書室のほうへ足を向けるのが日課となっていた。
思えば、と桂介は首を捻った。角川は静かに本を読みに来る他の常連にはわざわざ仕事を頼むことはしない――本を読みに来る人間は大抵喋りかけられることを好まないからだ。昼休みなどにカウンターを溜まり場にするグループとは楽しげに話をしていたが、貸し出し業務の手伝いしかさせていないようだった。それなのに、放課後来るだけの桂介に仕事を頼んだのは、何か事情を知っているのか、それともただ単に目に付いただけだったのか。聞いても怪しげな笑みが返ってくるだけのような気がして、あえて訊ねるのは躊躇われた。
(まあいいか)
そう結論付けて、桂介は一番手前の椅子を引いて鞄を放る。とりあえず角川に悪意があるわけではなさそうだし、生きた『学校の七不思議』に対してあれこれ頭を悩ませたところで無駄なことだろう。そう思いながら鞄から先ほども読んでいた本を取り出して開いた。
「今日は相方は?」
開いていた司書室の扉の向こうから、カウンターに座ってこちらを向いた角川が声をかけてきた。
その言葉に、桂介は苦虫を噛み潰したような顔になった。ここで言う相方というのはもちろん要のことである。しかし、本当にいつの間に角川までそんな認識をするようになったのか。確かに気のいいやつではあるし、非常に気が合う友人だとは感じるが、初めて会った三ヶ月前から無駄に馴れ馴れしく付きまとわれっぱなしの桂介としてはどうにも釈然としないものがあった。
「迎えに来るのかい?」
苦々しい顔をしたまま返事をしない桂介を面白そうに見やりながら、角川は再度訊ねた。
「はい」
そう、要は最初からやけに桂介と一緒に居たがった。その為、いつもなら逃げるように教室から消える予定の放課後だったのが、四月早々から押し切られるように一緒に帰宅するようになったのだった。要が剣道部に入った五月中旬からは「部活が終わるまで待っていてくれ!」という要の必死の懇願に折れて待つようになった。何故そこまでこだわるのか疑問ではあったが、ああ見えて頭の回転の速い要との会話は案外楽しいもので、意外なほどに素直に桂介の生活に馴染んでいった。梅雨時期は室内にいる必要のない桂介が武道館まで足を運んで、終了間際の練習を見ながら隅で本を読んで待つこともあった。
晴れた日は要が図書館まで迎えに行き、曇りや雨の日は桂介が武道館まで足を運ぶ――これがいつの間にか二人の間で決められた暗黙の了解となっていた。
そういえば、と桂介は思う。小学に上がった時にはもう放課後は一人室内で過ごすのが定番となっていたから、誰かと帰るというのは初めてだったかもしれない。
人当たりのいい桂介だったから友人は多かったが、そういうこともあってどこか人に一線を引いていた気がする。要は初対面のくせにやけに嬉しそうに付きまとってきて、そういう関係が桂介には嬉しくも困惑した感覚を呼び起こさせるのだった。
(あいつはあいつで、謎の多いやつだよなぁ)
彼方を見上げて息を吐いた桂介に、角川はちらりとした笑みを浮かべた。
「じゃあ、私は帰るから」
そう言う角川の声に、本に没頭していた桂介は驚いて顔を上げた。
時間はまだ六時半。遠くのブラインドからは赤い光がかすかに漏れている。
角川が帰宅するのはいつも桂介よりも後だった。つまり、日が沈んだ後である。
時たまふらりとどこかへ消えることがあり、そういう時は桂介がカウンターを頼まれたりもしたが、自分より先に帰宅する角川を桂介は見たことがなかった。
「……どうかしたんですか?」
だから、思わずこういう言葉が出たのも仕方がなかった。目を丸くする桂介に、角川は小さく笑ってみせた。
「ちょっと今日は用事があってね。こちらには戻ってこれそうにないから」
だから、戸締りを頼んでいいかな?そう言って、ポケットから鍵を取り出して桂介に放る。
「もう窓は閉めたし、閉館の札も掛けておいたから、後は入り口の施錠だけでいいんだが」
「……わかりました。あ、でも、朝はどうするんです?」
渡された鍵を指しながら眉を寄せた桂介に、角川はポケットからもう一本の鍵を取り出して見せた。
「合鍵があるから。それは明日返してくれればいい」
「わかりました」
「じゃあ、また明日」
そう言ってカウンターを出る角川に、はい、と桂介は答えた。
「珍しいこともあるもんだ」
図書館を出た角川を遠目で見送りながら、桂介は思わず声に出して呟いていた。
確かに自分はまだ入学して数ヶ月しか経っていない。他人の習慣など知っているはずはなかった。しかし角川がまさか帰宅するとは思ってもいなかった自分自身に、少し笑いがこみ上げてくる。
(まあ、先輩も人間には違いないからな)
図書館に泊り込んでいるわけでもあるまいし、と、自分の考えにまたこみ上がってきた笑いを慌てて噛み殺した。ひとしきり笑いの発作に耐えた後、時計を見るとすでに角川が出て行ってから五分以上も経っていた。
あと三十分も経てば日没である。剣道部の練習は大体七時までだから、要が迎えに来るまでまた本でも読んでおくかと司書室に踵を返した、その時――。
ドン!という鈍い音と共に建物が震えるのを感じた。