[1-1]
[プロローグ]
「――どうしたの?お兄さん」
赤く乾ききった世界でその声はやけに鮮明に響いて、その瞬間世界が時を取り戻したかのようだった。
逆光の中伸びた小さな影が、こちらを覗き込むように首を傾ける。
影の中に浮かぶ深青の目は、待ち焦がれた暖かな夜のように身体に染み込み、そしてゆっくりと伸ばされた小さな手と共に、静かな闇が訪れた。
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授業の終了を告げる鐘の音がなり、高里桂介は開いていた本を閉じて顔を上げた。
まだ教師がいるというのに、一気に授業中の緊張を失いざわめきに満たされた教室を一瞥して、窓の外を見遣る。今日の授業はこれで全て終了したはずだった。しかし時間はまだ六時前。夏に差し掛かった空は『夕方』と言うには青い色を残している。
今から帰れば確実に明るいうちに帰れるだろう。しかし家までの三十分という時間を考えると――そこまで考えて桂介は小さく溜息を吐いた。と、いきなり後ろからやってきた衝撃でしたたか机に胸をぶつけ、思わず舌打ちを漏らす。
「……っ痛ぇ」
「どうしたー?今日は図書室か?」
そう言って後ろから抱きついたまま馴れ馴れしく桂介を覗き込んできたのはクラスメイトの崎谷要だった。
要は桂介を「幼馴染」だと触れ回っていたが、桂介には全く覚えがなかった。それもそのはず、要がこの町に越してきたのは三ヶ月前――高校入学の時で、それ以前はずっと海外にいたというのだから覚えがなくて当たり前のことである。しかし入学以来絶えず纏わり付かれていたせいか、今では桂介と共に小中高と進学してきた友人達でさえ彼ら二人を「よくわからないが幼馴染なのだろう」と認識しているようだった。
「抱きつくなっつってんだろ、暑苦しい」
そう言って、先ほどから頬にひらひらと当たってくる要の中途半端に長い髪をお返しとばかりに引っ張った。肩口ほどでバラバラと乱雑に切られた髪は女性の髪のようにサラサラしていたが、この初夏の頃合にはうっとうしい以外の何物でもない。
「これも、せめて結べよ、暑苦しい」
再度暑苦しいと眉を顰めて言った桂介に、要はやっと身体を離して自分の髪を摘んで見せた。
「クーラーが効いてるからちょうどいいじゃん」
「そういう問題じゃない」
感覚の問題だ、と桂介は先ほどより深い溜息をついて頭を振った。教室にはクーラーが設置されているとはいえ、この不況の折、経費節減という名目で設定された温度は二十八度。外気温ほどではないにせよ、鈍く汗は染み出してくるし、閉められた窓からは近くの荒れ果てた雑木林からのくぐもった蝉の合唱が聞こえてくる。
蝉の声というのはそれだけで汗を誘うものだ、と、中学時代の担任が苦笑しながら言っていたのを思い出す。それと同じで、夏場に見る長い髪というのは、見ているだけで暑苦しく感じられるものだった。
「はいはい、結べばいいんでしょ、結べば」
そう言って要は器用に輪ゴムで後ろ髪を縛り始めた。
その間に、桂介は帰りの仕度を整える。こんな晴れた日にホームルームに出る気はさらさらなかった。
「今日は何時?」
仕度を終え、席を立った桂介に要が訊ねた。
「七時過ぎ」
「じゃあ、その頃迎えに行くから」
「ああ」
じゃあいってらっしゃい、と笑顔で手を振る要に手を上げて答えながら、桂介はクラスメイト達よりも一足早く教室を出た。
――いつのころからだっただろう、桂介が夕日を避けるようになったのは。
昼間とは違う大きな太陽が、揺らめきながら空を、建物を、人々を、赤一色に染めていく。
その明るさにも関わらず、すれ違う人の顔すらわからなくなり、音が遠ざかり、世界が渇きで満たされる。赤い世界と共にただ一人取り残される静寂の時間――黄昏。
幼い日々、その世界から逃れるために柄にもなく必死で考えを巡らせたことを思い出して、桂介は思わず口を歪めて小さく笑った。真面目に学校へ通い、学校でやりたいことがあると言えば、遅くまで家を空ける両親も、生徒を尊重する教師も、遅くまで学校に残ることを許してくれた。持ち前の器用さで他人に対する明るさと社交性を身につけてからは、自然とクラスメイト達とは良好な関係を築けたし、放課後慌てたように立ち去る彼に「付き合いが悪い」と笑って背中を叩く者はいたが、刺さるような視線を送る人間はいなかった。遊び盛りの年代の時でも、昼間に充分身体を動かしていたからか、放課後に室内で過ごそうと特に支障も不満も感じることはなかった。
ただ、必然的に日照時間の長くなる夏場は帰りが遅くなることになる。そういう場合、南向きで日当たりのいい教室ではなく、陽があたらないように工夫された図書室の奥に入り浸るようになったのは当然のこととも言えた。
建物の影になって涼しい風が吹き抜ける渡り廊下を渡りながら、桂介は視線を上げた。
(――今日はよく晴れたな)
七月に入ったものの、季節はまだ梅雨。『黴雨』という名前の由来どおり昨日までは黴がなくなる暇もないほど降り続いていた雨だったが、今日はそれが嘘のように晴れ渡っていた。
青い空は人々にも世界にも生気をもたらす。ホームルームが始まった教室からは、いつもより無駄にテンションが高くなったようなざわめきが漏れてきていた。
その声を聞くともなしに聞きながら、桂介は慣れた足取りで図書館へと足を向けた。