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スローライフを送りたいだけなのに、異世界転移者が多すぎる

作者: 海坂依里

佐久良(さくら)ー、佐久良は今日も欠席かー」


 レトナークと名のつく異世界が、世界中に転移陣を出現させて早数年。

 異世界や転移という言葉に馴染みのある日本人は新しい人生を始めるために、率先して魔法陣を踏みに行くという時代が到来した。


「あと三日で学校に来なかったら、異世界転移扱いと……」


 ある日、突然クラスメイトがいなくなってしまう。

 ある日、突然、一緒に働いていた人がいなくなってしまう。

 昨日まで一緒に、ご飯を食べていた家族がいなくなってしまう。

 転移陣を踏んで、人々が異世界転移してしまうのは日常茶飯事となった世界。


(って)


 自分の腹と父の腹を満たすため、今日も腕を振るって料理をしようと思っていた。

 いつも通り高校に通って、夕飯の買い物を済ませて自宅に帰ろうと思っていた。

 でも、俺は自宅に帰ることを失敗した。


「どうすればいいんだよ!」


 近道をしようとして慣れない道を通ろうとしてしまったがために、アスファルトに描かれていた転移陣の存在に気づくことができなかった。

 よって、俺の体は異世界へと運ばれてしまった。


(は? は? 高校は? 家は?)


 異世界転移が日常茶飯事になってきたとはいえ、まるで物語の中から飛び出してきたかのような西洋風の街並みが目の前に広がっていることに愕然とする。


(ヨーロッパに転移してきたとか、そういうオチは……)


 石畳の道が続く街並みの中に、古いレンガ造りの建物が立ち並んでいる。

 へえ、こういうのを石畳って言うのか、なんて感心したところで言葉を返してくれる人は現れない。

 建物の窓には色とりどりの花が飾られ、降り注ぐ太陽の光が花々を優しく照らす。

 異世界転移が流行しているだけであって、よくよく周囲を観察すると日本からヨーロッパに転移させられただけのような気もする。


「だったら、飛行機に乗って帰ればいい……!」

 

 ふと目の前に、西洋の街並みには相応しくない看板が設置してあることに気づく。


「異世界転移者の方はギルドへお越しください……」


 丁寧な案内板を見つけると同時に漏れ出る溜め息。

 西洋の街並みに染まりきらない高校の制服を来た俺は、現実を受け止めるために心を整え始めた。


「魔法を使うことができない地球出身の人々は、一つだけ好きな魔法能力を得ることができます」


 神様や女神様が現れて特殊能力を授けるという展開にはならず、ギルド職員は親切になんの疑問も抱くことなく説明をしてくれた。

 何をどうやれば、ただの人間が異能力を授かることができるというのか。


「この世界、モンスターとか魔王と……あとは戦争か。そんな感じの危機は?」

「モンスターに襲われることと、人間から危害を加えられること以外の危機はないと思われます」

「日本と似たような環境ってことか」

「熊? という動物に襲われるようなものだと考えてもらえれば」


 残念ながら、熊に襲われた経験はない。

 熊に襲われるということが、どういうことなのか。

 理解できていない人間は、モンスターに襲われるというシチュエーションに妄想力を働かせることもできない。


「じゃあ……食べる物に苦労したくないから、幸運度を高めてほしい」

「異世界転生ではないので、能力を高めることは無理ですね」


 食材の確保に苦労したくなかったため、食材に恵まれるように幸運度を高めてもらおうという案が浮かんだ。

 だが、あくまで異世界が俺に提供できるのは異能力であって、もともと備わっている能力を高めることはできないという残念な現実を迎えた。


「新たに魔法を授かるとしたら……か」


 どうやって電球を変えるんだってツッコみたくなる馬鹿みたいに高い天井に目を向け、自分で選べる選択肢が多すぎることも大問題だということに気づく。


「調理用の火は、どうしてるんだ?」

「魔道具を使います。調理用の火が発動する魔道具の一般家庭普及率は、百パーセントです」

「じゃあ、飲み水は……」

「同じく一般家庭の普及率は、百パーセントです」


 異世界転移してきたはずなのに、日本と対して変わらない環境下に頭を抱える。

 唯一の違いは、モンスターが存在することくらい。

 だが、日本のように熊の遭遇率とモンスターの遭遇率が似たり寄ったりだとしたら、ここでモンスターと戦うための力を得るのはもったいないような気もする。


「ジュンリ様、こちらは転移者に支給される一週間分の食料になります」


 欲しい能力が決まらない異世界転移者の扱いに困ったギルドの受付は、紙袋いっぱいの食料を目の前に運んできた。


「あとは転移陣を世界にばらまいてしまったレトナークという名前の国から送られてきた、お気持ちの慰謝料になります」


 自分が異世界にやって来るのは初めてのはずなのに、異世界での言語を読むことができる仕様なのは助かった。

 見慣れぬ紙幣や金貨、銀貨、銅貨の類のはずが、あっという間に親しみある金へと変わっていく。


「異世界転移者は半年間、賃貸一軒家の家賃が無料になります」

「至れり尽くせりの異世界転移だな……」

「レトナークという国が犯した罪は、それほど大きいということです」


 受付から紙袋を受け取ると、想定していた紙袋の大きさを遥かに超えていた。


(さすがは一週間分の食料……)


 紙袋の中を覗くと、更に紙っぽい素材で水分が漏れ出ないように工夫された魚や肉の類が入っていることに気づく。


「っ、そうだ! 冷蔵庫! 冷蔵庫は!?」

「冷蔵庫とは?」


 魔法に馴染みある世界を生きてきたギルドの受付は冷蔵庫の存在を知らなかったため、日本では食材を冷やすための大きな箱が存在することを伝えた。


「そうですね……こちらの世界では氷魔法が、冷蔵庫に該当すると思います」

「その氷魔法、永続性は?」

「術者本人の魔力が枯渇してしまうので、永遠に食材を保存することは難しいかと」

「食材の鮮度を長持ちさせる魔法が欲しい」


 基本的に世界が平和だというのなら、まずは衣食住を充実させることが最優先だと思った。


 ギルドに案内された一軒の賃貸物件に足を運ぶと、この世界に台風や地震といった自然災害はあるのかと心配になるような古めかしい建物が俺を出迎えた。


「まあ、半年はタダだもんな……」


 キッチンに向かうと、日本人でも使い勝手の良さそうな造りが俺のことを待っていた。

 木製の棚の中を確認すると、様々な調理器具や食器が整然と並べられている。

 石造りの調理台も、使っているうちに慣れるだろうと前向きに考えたい。


「とりあえず、食材を冷凍させるか」


 これといった夢も希望を抱くこともなかったが、人生に絶望しているというわけでもない。

 高校生だから、高校に通っていたという当たり前をこなしていくのに、なんとなくの気だるさを感じていたところでの異世界転移は幸運に恵まれていたのか。それとも、不運なことなのか。


「今日、食べる分は除いて……」


 夢も希望もない日々を送ってきたこともあって、自分の好きな物を食べられる瞬間だけは、ほんの少しの輝きが宿る自覚はある。


(食べることくらいしか、楽しみがなかったんだよな)


 食材の鮮度を長持ちさせる魔法という斬新な魔法を授かったと、我ながら自画自賛。


「frofreez【冷凍保存】」


 ギルドの受付の説明通りに呪文を唱えると、魔法に一切馴染みのなかった日本人高校生にも食材を凍らせるための魔法を使うことができた。


「野菜は、冷凍できるのとできないのがあるか……」


 食材の鮮度を長持ちさせる魔法を授かったため、もちろん冷蔵技術も付与されているはず。

 だが、初めてみる異世界の野菜たちは、どれが冷蔵向けで、どれが常温向けなのか。もっと欲を言うのなら、冷凍できる食材も知りたい。


(見た目だけは、日本で食べてきた野菜なんだけどなー……)


 見た目はトマトに見えて、実はニンジンっていうオチが待っていないわけでもない。

 そう思って、今から食べる分を除いて、野菜はすべてが冷蔵保存へと回した。


「coolcoldf【冷蔵保存】」


 あとは、この魔法がどれだけの期間、持続するものなのか調べる必要がある。

 魔法を授かった本人も、ギルド職員にすら分からない、未知なる魔法を俺は授かったということ。


(その、未知なる魔法を授けることができるギルド職員も凄いけどな……)


 乱雑に置かれている木箱の中に凍らせた食材を入れ、なんとか冷凍庫っぽいものを完成させることができた。

 見た目が衛生に宜しくなさそうな汚い木箱という点は、早々になんとかしようと思った。


「異世界での初の食事……」


 異世界で支給された食材の味を確かめるために、ハムっぽい見た目の食材とたまごっぽい食材を用意。

 ふわふわのパンで食べたかったと贅沢なことを思っても、紙袋の中に焼き立てのパンが存在するわけない。

 炎の恩恵を受けられる魔道具で、パンに熱を通して温める。


「おっ、香ばしさが出てきた」


 見た目はレタスとトマトだが、味の保証ができないところが異世界というもの。

 トーストしたパンに、レタスとトマトっぽい野菜を挟む。


「これで、実は肉だったとかないよなー……」


 加熱しなければいけない肉を生で食べようとしていることに恐怖がないわけでもないが、何事も経験しなければ異世界を生き抜けるわけがないと意気込み、もう一枚のパンを重ねる。


「こっちは、ちゃんとゆでたまごになったか」


 たまごっぽい食材に熱を通すことで、理想通りのゆでたまごが完成した。

 マヨネーズが見当たらないため、適当に酢の香りがする酢っぽいものと油と塩を混ぜて完成させた。

 マヨネーズっぽいものと、ゆでたまご、塩こしょうを混ぜ合わせ、パンにたっぷりと塗る。

 そこにハムっぽい見た目の食材も重ね、二種類のサンドイッチが完成した。


「ただ、サンドイッチを作っただけなのに……」


 疲労感が、半端ない。

 見た目は日本で暮らしていたときと大差ない食材の数々なのに、異世界の食材を扱っているってだけで心臓は抱える負担の重さに耐えられそうもない。


「はぁ、いただきます」


 いつか脚が折れてしまうんじゃないかって不安になるくらい古びた木製のテーブルに、出来上がったサンドイッチを運ぶ。でも、この食事に不釣り合いなテーブルのおかげで、サンドイッチの美しい色合いが引き立てられたような気もする。


「…………」


 パンの香ばしさ、ハムの旨味、レタスとトマトの新鮮な味わいを感じられたのは成功だと思う。

 見た目と味が違うっていう、恐ろしい展開を迎えることはなかった。


「味、普通だな……」


 初めての食事が美味いと感じるのは、どうやら夢や物語の世界だけのことらしい。

 現実は、特にコメントすることのないごく普通の味を摂取することしかできないということ。


「満足できない……」


 腹が満たされたことだけは合格点。

 でも、夢も希望も抱いてこなかった人間は、こんな腹に収められたらOKとなるような食事で満足することはできない。


「ドレス姿では、お寒いでしょう」

「そんなことは……」


 換気のためにギルド職員が開けておいてくれたのか、借家の窓が開きっぱなしだったことに気づく。

 外で言葉を交わしている男と少女の声が、家を借りている主に丸聞こえだった。


「足は痛くないですか? ヒールで歩き回るわけにもいきませんよね」


 外の景色を眺めるために窓を覗くと、こんな粗末な家くらいしか存在しない森の中に二人の人物が向かい合っていた。

 一人は桜色の腰までの長さある髪が特徴的だが、森を歩くような恰好をしていない。


(異世界転移者か)


 これから結婚式に行くようなドレス姿の少女に、身なりが良さそうに見えない中年の男が話しかけているという展開。


「おーい、さっさと帰ってこい」


 男と戦闘になったら、ごくごく平凡な日本人として生きてきた俺に勝ち目はない。

 だが、声をかけるだけで十分な効果を発揮したことは幸運だった。

 森の中に佇む一軒家に人がいたことが分かると、男はすぐに視線を逸らして立ち去ってしまう。


「あの……」

「安心しろ、俺も異世界転移してきた人間だから」

「どうして、そのことを……」

「こんな森の中で、花嫁に遭遇するわけがないだろ」


 命が奪われるようなことにはならなかったことに安堵しながら、彼女を落ち着かせるために家の中から声を投げかける。


「どこかのご令嬢ってところか?」

「……捨てられ令嬢です」


 彼女は『捨てられ』という残酷な言葉に対して、にこりと微笑んで見せた。

 数えられるほどしか会話を交わしていないのに、彼女は誰かに捨てられたことが理由で異世界転移をしてきたと察してしまった。


「紅茶が飲みたいかもしれないが、まだ水くらいしか出せなくて悪いな」

「いえ、お気遣いありがとうございます」


 異世界に転生してからの初めての住まいがどんなもなのか、彼女は胸の高鳴りを抑えきれないように見えた。

 だが、みすぼらしい外観の家の中が華やいだ内装になっているわけもなく、俺はさぞ彼女の期待を大きく裏切ったことだろう。


「きっと怠惰な生活を送りすぎたのでしょうね。私は嫌われ者の聖女だったみたいです」


 甘やかされた環境で育ったことが原因で、婚約破棄をされたという彼女の名前はレイス。

 真偽を確かめる術はないため、俺は彼女の話をただただ受け入れることしかできない。

 話の内容は暗い以外の何物でもないのに、レイスは他人()に心配かけないように口角を上げて笑顔を維持してみせた。


「何か食べたいのないか」


 なんだか格好つけたセリフを投げかけてみるものの、自分が彼女にご馳走できた物といったら、魔道具から放たれた飲み水のみ。

 格好つかない事態に陥り、自分ができる最低限のことを彼女に提供しようと思って声をかけた。


「いえ、そこまで面倒を見ていただくわけには……」

「異世界転移者は、一週間分の食材を支給してもらえるらしい」

「そこまで面倒を見てもらえるのですね」


 なんて至れり尽くせりの異世界生活だろうと感嘆の声を上げたくなる展開を迎え、レイスは目を丸めて、初めて作り笑顔以外の驚いた顔を見せた。


「ギルドから支給される食材を、あとで返してもらうっていうのでどうだ?」


 こっちから一方的に食事を作ってやると提案しても、人の厚意を受け取ることが苦手そうなレイスは首を縦に振らない。

 食材を返してもらうという条件をつけることで、レイスが食べ物を口にできるように促してみる。


「えっと……」

「答えは?」

「温かい物が食べたいです」


 お客様に出した物が、ただの水で申し訳ございません。

 内心では、そんなことを思った。

 でも、その申し訳なさすら打ち消してしまうような明るい笑みをレイスが浮かべてくれるものだから、彼女は人々を癒すために生まれてきた聖女って話は本物なのかもしれない。


「炎魔法と水魔法が必要ないなんて……」

「そっちの世界は魔法が、かなり重要な立ち位置なんだな」

「ジュンリさんが住まわれた世界は、どんな世界だったのですか」


 そんな面白い話なんて何ひとつしていないっていうのに、レイスの瞳は輝きを取り戻し始めた気がする。

 調理に時間をかけて、レイスのきらきらとした期待を失うという展開を向かえないために手を動かしていく。


「包丁、使ってみるか?」

「血の惨劇が待っていそうなので……」

「聖女だった……あ、異世界に転移したら、治癒魔法が使えるか分からないか」

「です、です」


 新しく生きてきた世界でも治癒魔法が使えると確認してからではないと、下手に怪我をするという状況は招かない方がいい。

 薬草や薬の値段を把握できていない段階で、率先して怪我はするわけにはいかない。


「トマトが使えて助かった」

「トマトは私の世界にもありますよ」


 異世界に転移して戸惑っているはずなのに、レイスはにこやかな笑みを絶やすことがない。


「苦手か?」

「大好きです」

「じゃあ、遠慮なく味つけに使わせてもらう」


 トマトの味はサンドイッチで確認済みのため、遠慮することなくトマトを角切りに切り進めていく。


「このお肉、なんのお肉でしょうね」

「考えたら負けだろ」

「……ですね」


 レイスの指摘には反応しないように、謎の肉を炒めるという作業を進めていく。

 個人的には、鶏肉っぽい食感と味を期待したい。

 鶏肉の役割を果たしてくれたら、これから作る煮込み料理に大きく貢献してくれる。


「あとは、きのこっぽいものを、トマトを加えて炒める」


 コンソメっぽい物が見当たらなかったため、味を出してくれそうな四角い茶色の固形物を鍋に突っ込む。

 カレーの香りがするかと思って期待はしたものの、ちっともカレーの香りがしないことからカレー粉という案は消滅。

 だったら、この四角くて茶色い固形物の正体はなんなのか。


「肉とトマトの煮込み料理ってことだな」

「これが異世界料理なんですね!」


 レイスも異世界出身だろと突っ込む前に、自分もレイスにとっては異世界転移者だということに気づいて口を閉ざした。


「聖女様の口には合わないかもしれない」

「いえ、心も体も、とても温まります」


 スプーンは全世界共通のカトラリーらしく、レイスは美しい所作で食事を進めていく。

 彼女に温かい料理を提供することができて、ほっと一息吐くものの……コンソメかどうか分からない謎の固形物を鍋に入れたことだけは後悔している。


(どうかコンソメ味を発揮してくれ……!)


 聖女がどんな存在かは分からないが、レイスはどんなに食事が不味くても文句を言わない人柄だと思った。

 自分の舌で謎の固形物の味を確かめるために、火を通したパンの上に煮込み料理を乗っける。


「コンソメだ……」


 固形物がコンソメの役割を果たしてくれたおかげで、口の中には馴染みある味が広がっていく。

 コンソメスープに馴染みがありそうなレイスは俺が何を口にしたのか気にかけることもなく、煮込み料理に夢中になっていた。


(コンソメの固形物があれば、味つけが楽できそうだな)


 問題はコンソメの固形物を購入するのに、どれくらいの金が必要になるのかということ。

 異世界での食事に舌鼓を打ちながらも、これから異世界で生活していくには金が必要になる。


「この世界、家賃いくらなんだろ……」

「やちん、とは……?」


 聖女様が家賃を払うような生活を送っていないことに頭を抱えながらも、俺たちに貸し出される賃貸物件には大家という恐ろしく権力のある人物が背後にいることを伝える。


「どうして住む場所にお金がかかるのですか? 生きていくためには、住居が必要ですよね?」

「俺も、家賃を払わなくていい聖女様生活送ってみたいよ……」


 いくら満足いく食事と一軒家を借りることができたところで、近いうちに家賃の支払いというものが待っている。


「とりあえずギルドに行って、無償で食料をもらってくるところからだな」

「腹が減っては聖域に行けず、ですね」

「……なんだ、それ」

「え? ご存じないですか?」


 異世界転移が流行している昨今、こうして別の世界で暮らしていた同士が言葉を交わし合えることは奇跡なんじゃないだろうかと思えてくる。


「モンスターの危機を感じることなく出歩けるなんて……」


 森を抜けている最中、レイスは魔物に襲われないかどうか念入りに視線を巡らせていた。

 やっと石畳の道を歩けるようになって、ようやく彼女は大きく息を吸い込めるようになったらしい。


「これでは聖女の力も、役には立ちませんね」


 世界が平和にできていることに安堵したのか、それとも自分の活躍の場がないことに落ち込んだか。

 複雑そうな表情を浮かべながら、レイスは気丈に振る舞うために口角を上げた。


「俺が怪我したときは、持ち前の治癒魔法で助けてくれ」


 どんな異世界を生きていたとしても、誰もが自分の居場所を探しているんだろうなと思った。

 レイスには人々のために役立つ力があると声をかけるだけで、彼女の表情は一気に明るいものへと変わっていく。


「見てください、ジュンリさん!」


 色とりどりの花が花壇に並んだ街並みを見て、レイスは転移してきた世界が安全だってことを少しずつ理解し始める。


「こっちのお店は……」


 活気が溢れた店では、異世界の珍しい果物を使ったケーキやタルトが販売されていた。

 商人の賑やかな声が響き、人々は店の菓子を求めて群がっていく。


「ジュンリさん! 疲れたときは、甘い物を食べるといいらしいですよ」


 目を輝かせながら菓子店を覗き込むレイスだが、その期待に応えられるだけの金が手元にあるわけもない。


「甘いものより、先にギルドに……」


 焼き菓子一つ買う余裕はないと節約精神を働かせながら、レイスの手を引こうとしたときのことだった。


「っていうか、この街……」


 異世界転移してきたばかりのときは気づかなかったが、腹が満たされたおかげで頭が回るようになった。


「ジュンリさん、何かお探しですか?」

「この街……」


 人が集う店がある一方で、寂れた店も存在する。

 客で賑わっているのは食べ物を扱っていると分かるが、色褪せた看板の店はなんの店なのか想像することも難しい。


「なんか、人が集まるところと、そうじゃないとこの差が激しいなと思って……」


 賑やかな店の前を通り過ぎると、楽しそうに笑い合う人々の声が聞こえてくる。

 食事時間を美味しいという感情で満たすために、買い物客は充実した時間を過ごしているように見える。


「寂れたお店の前は……とても静かですね」


 埃が積もっている木製の扉や窓硝子を見つめながら、俺たちはギルドへと足を運んでいく。


「……店……異世界転移者の料理店とか、いいかもな」


 自分が異世界転移してきた、この都市。

 近くの森でレイスと出会うことができたのも何かの縁だと思い、この寂れた街のためにできることを思い浮かべてみた。


「ジュンリさんのお料理は、世界で一番の美味しさです」


 レイスが柔らかな笑みを浮かべながら、異世界で浮かんだ初めての夢を肯定してくれた。


「それは、さすがに大袈裟だけどな」

「そんなことありませんよ! だって、私の心はジュンリさんの料理に、こんなにも喜んでいるんですから」


 家庭料理程度の腕しか持っていない自分に対して、レイスは期待の気持ちを言葉に込めてくれるから調子に乗りそうになる。


「異世界転移者の料理店、とても斬新だと思います!」


 都市を訪れる人々に美味しい食事を提供することで、寂れた一部の店に少しでも活気を取り戻すことができたらと夢が膨らんでいく。


「……やってみるか」


 夢を持つことなく、ただただ訪れる毎日を過ごしてきた。

 何かに情熱を注ぐこともなく、目標もなく、ただ流されるままに生きていくのが楽だと思ってきた。でも、自分は初めて未来に希望を抱くことができた。


「私は治癒魔法を駆使して、食材を集めてみます」

「待った! いくら戦う力を持たないからって、治癒魔法で死なない体もどきを手に入れるとか……」

「治癒魔法の新たな活用方法です」


 恐ろしい提案をしてくるレイスだが、それだけ転移先の異世界では必要とされたいのかもしれない。


「異世界転移者の料理店は、俺の夢であって……」


 しかし、異世界転移者が希望を持ったことが悪かったのかもしれない。


「異世界転移者の飲食店なんて、もう既に飽きられているわよ」


 風に揺れた黒いワンピース姿が印象的な幼き少女が現れ、異世界転移者である俺とレイスに鋭い眼差しを向けてきた。


「だって、この世界」


 三角帽子をかぶった魔女風の少女は厳しい口調で、異世界転移者を諭してくる。


「異世界転移者の数が多すぎるんだから」


 異世界転移者の多くが飲食店を始め、よりにもよって日本の食生活を広めようと開業し始めた。

 多くの飲食店が廃業に追い込まれた結果が、今だということを目の前の魔女っ子は語ってくる。


「私たちは、異世界転移者の料理に飽きたの」


 魔女っ子は一歩前へと進み、俺の目を見据えた。

 どっからどう見ても小学生くらいの身長しかない魔女っ子なのに、淡い紫色の髪色の美しさに異世界らしさを言葉を詰まらせてしまう。


「料理店を始めたいなら、この大魔導士ルルセ様の舌を満足させてみなさい」


 かっこよく決めポーズを決めた魔女っ子に拍手を送ってしまいそうになったが、少女の腹が馬鹿みたいに大きく鳴る。


「ふっ」

「くすっ」


 魔女っ子を怒らせてしまった俺とレイスだったが、三人の間には明るい空気が広がっているような気がして一緒に笑い声をあげた。


「っ、笑うな! そこの異世界転移者!」


 威厳ある三角帽子と真っ黒なローブが台無しになってしまうくらい怒り狂っている少女がいるっていうのに、これから始まる異世界生活が賑やかなものになるんじゃないかって期待がやまない。


「飲食店なんて経営しても、すぐに潰れちゃうんだから!」


 異世界転移者だらけで、職業が見つからないところから始まる異世界生活。

 俺はスローライフを送るつもりでも、まずは金を稼ぐ手段を探すのに苦労する羽目になるらしい。


「美味い飯を提供する」


 異世界のことを教えてくれる人物が目の前に現れたのなら、話は早い。


異世界転移者()が金持ちになるために、知恵を貸してくれないか」


 この出会いが幸運によって導かれたものでありますようにと祈りを込めて、俺は彼女に交換条件を提示した。

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