身辺に迫る不穏
「おや」
少し驚いた様子でそう言うと、彼はアレッサに向かって軽くウインクした。
「なるほど、そうだったのか」
何ごとかに深く納得したようにうなずくと、ルーカス叔父の目の前にあるカウンター席にふわりと腰を下ろした。そうして彼はコーヒーとバタートーストのセットを注文し、アレッサを呼びつけようとするルーカスの、肩のあたりをぐっと掴んで押しとどめた。
「それには及ばないよ、ご主人。彼女はもう仕事に行かせてやるのがいい。それに僕はあんたに大事な話があってね」
「は、話ぃ?」
ルーカスはどういうわけか、酷く狼狽して脂汗を流している。
「うん、ご主人にとってもきっといい話だと思うんだがね……?」
「あ、アレッサ! 店はもういいぞ、早く仕事に行け。ち、遅刻すると給金が減らされっからな!」
「ありがと、おじ……店長。じゃああたし行ってきます!」
こういう時は素早く動くに限る。叔父の気が変わらないうちにさっさとここを離れよう――屋根裏部屋に戻って工業所の制服に着替え、濡れて少し形の崩れた帽子を気にしながら通りに出たちょうどその時。
――また、あとでね。
こちらを不思議な笑顔で見送る紳士の口元が、声を出さないまま短い言葉の形に動いたのが分かったような気がした。
工業所で今日も半日、蒸気変換炉の計器を見張ったり、欠員の出たラインに補充人員としてねじ込まれたり。やっとのことでむかえた休憩時間も、体力を温存するために涼しい休憩室で水道の水を飲んで塩を舐めるだけで終る――そう思っていたが、その日だけは少し様子が違っていた。
「姉ちゃん。アレッサ姉ちゃんってば」
自分を呼ぶ声に振り向くと、休憩室の入り口に七つ年下の従弟ティミーがいた。
「何あんた。駄目じゃない、前にも言ったでしょ? ここ部外者立ち入り禁止よ」
「主任さんに頼んで通してもらったんだ、大丈夫だよ。父ちゃんから姉ちゃんに伝言があるんだ」
「えー? またなんか買い物でもあんの?」
面倒くさいな、とアレッサはため息をついた。給料の八割がたを養育費だ食費だ家計に入れろと掠め取るくせに、叔父は平気で自分の買い物をアレッサに押し付けてくるのだ。
店の仕事にかかりっきりで自分の時間がないのはまあわかるが、それにしたって払いを立て替えさせられてそのままうやむや、というのは繰り返される回数ごとに恨みが蓄積してくる。
「いんや、違うんだよ。父ちゃんがさ……アレッサ姉ちゃんは、今夜はうちに帰ってきちゃダメだ、って」
「はあ!?」
じゃあどこで過ごせって言うのよ。
アレッサの中で怒気が膨れ上がる。危険を察知して逃げ出す体勢になったティミーに、彼女の手がさっと伸びた。
「どういうこと? 詳しく話しなさいよ」
「昼前に来た変な、黒い服着たおっさんがさ。姉ちゃんの事引き取るって言って……父ちゃんに金貨を見せたんだって。父ちゃんはふざけんなつって追い返したんだけど……」
「なに、それ……」
ルーカス叔父のことだ、金貨など見せられたら、あの欲にまみれた頭が何を考えるかわかったものではない。追い返したというのも、値段を吊り上げるための布石ではないかとさえ思えた。
(じゃあつまりなに? あのおじさん、優しそうな顔して女衒か何かだってこと?)
アレッサももう子供ではない。世の中で、自分のような不安定な立場の女がどういう目に合うか、くらいのことはなんとなく身に染みているのだ。
この工業所で働く若い娘も、年に何割かはきらびやかな見せかけや甘言に釣られて、赤いランプの灯った裏路地の甘ったるく腐った界隈へ消えていく。
「どうしよう……」
工業所と叔父の家を往復する暮らしにも、正直ろくな希望も展望もないのだが。そんな世界に引きずりこまれたら、死んだ母親に申し訳が立たない。
そうだ。あのボートの似非紳士が本当にそんな手合いなら、つまりは「叔父の店に顔を見せた怪しいやつ」ということになる――
(残業で遅くなるかもしれないけど、仕事が終わり次第ヤネック警部に相談しに行こう……!)
女衒や人買いにしてはおかしいところも多々ある――あの時川の中にいた得体のしれない大きな影とか。だが、アレッサにとってそんな違和感は今のところどうでもいい事だった。