船の上の晩餐
「……こんばんは。さっきの波はもしかしておじさんが?」
「波? いや、気づかなかったが……」
そんなわけないでしょ、とアレッサは胸の内でつぶやいた。
「帽子を流されちゃって……それと」
すきっ腹具合にうっかり言及しそうになって、ためらいで口ごもる。だが次の瞬間。
――グギュウ……ギュル
隠蔽の努力をきれいさっぱり吹き飛ばすような、盛大な音が響いた。
「やだっ!」
思わす熱くなった頬を両手で押さえ、ダメ押しのようにもう一声「キュウ」と鳴いた腹を呆然と見下ろす。
「あの、これは……お昼から何も、いや、そうじゃなくて!」
「帽子とお腹か。なるほど、ちょっと待っていなさい」
山高帽の紳士はそんなアレッサをちらりと一瞥すると、竿をひと手繰りしてまるで毛バリで渓流のマスを狙うかのように、優雅に大胆に釣糸を宙に走らせた。川面に浮かんで遠ざかっていく小さな物体を、糸の先端が捉える。引き戻した糸から彼はずぶ濡れになったキャスケット帽を取り外した。
「よぉし、何とか捕まえたぞ。君の帽子ってのはこれかね!?」
「それです!」
紳士が手に取ったのは間違いなくアレッサの帽子だった。彼はキャスケット帽を手の中でくるりと回しながら一通り検分すると、横向きの回転をつけて綺麗な軌道で投げてよこした。
「マークを見る限り、『リーフ&ガンデ工業所』か。相変わらず従業員の事なんかろくに考えずに操業してるみたいだな……露天商の休業日にもこんな時間まで残業とは」
「……なんか、詳しいですね?」
呆れるアレッサの手元に帽子が吸い込まれるように飛んできた。びっくりするような正確さだ。
「古巣だからね、モルガノ・シティは。腹が減ってるなら、この船に乗りたまえ。美味いものをご馳走しようじゃないか」
「ええ……?」
アレッサは船を凝視して首を傾げた。屋台にあるような調理の設備は何も見当たらない――ただの夜釣り客とも思えないが、弁当でも分けてくれるのだろうか?
「大丈夫、僕は露天商の組合には入ってないから。今夜何の営業をしようと、見つからない限りおとがめなしさ」
違う、そうじゃない。
「営業……? えっと私、あんまりお金持ってないですけど……」
「ふふ……まあ初回だ、サービスにしておこう」
どうしたものか。普通に公用語でしゃべっているし内容もわかりやすいのに、言ってることの意味がさっぱりわからない。戸惑うアレッサが見下ろす桟橋の下で、紳士は再び釣竿を振って、優雅に釣りを始めた。リール付きの長い竿をあちこちへ動かし、水面の広い範囲を掃くように探っていく。
「来た!」
そう一声叫ぶと、彼は竿をぐっと引き起こし、リールを回して糸を巻き取り始めた。やがてボートの間近まで手繰り寄せられた、30センチばかりの平べったい魚がタモ網で船上に引き上げられた。
「よしよし。いい型じゃあないか……お嬢さん、今夜のディナーはノヴァリースズメのムニエルでどうかな? その後は船で夜の水上散歩としゃれこもうか」
指を鳴らす合図とともに、ミニサイズの調理テーブルと流し台が出現した。さっきまでボートの船底に据えられていた木箱が、機械仕掛けで本来の形に繰り出されたらしい。紳士は器用な手つきで魚をさばくと、あっという間にキラキラした白身の大きなフィレを二枚とって、塩とハーブを擦りこんで表面に粉をはたいた。
船尾の蒸気罐からでも熱を引っ張ったのか、調理台の隅に置いた五徳の上で、油を引いたフライパンがパチパチと小気味のいい音をたてはじめる。調理台の反対舷からは公衆浴場にでもあるような蛇口がせり出し、彼は魚を扱った手をきれいに洗ってバスケットから大きな丸パンを取り出した。そしてナイフを振るって、切り出された分厚いパン二枚。
アレッサは自分がいつのまにか桟橋から降りてボートに乗り移っていたことに気づいた。たぶん彼が魚を捌いて下味をつけたあたりで、体が動いていたのではなかったか。
じゅわじゅわと油のはぜる音をたてながら、金色に揚がった切り身がパンの上に載せられた。瓶詰のピクルスと薄切りのタマネギが添えられ、サワークリームらしきものを上にぼてっと載せて――
「さあ、召し上がれ」
普段は敬遠して食べない種類の魚だが、このムニエルのオープンサンドは素晴らしく美味しかった。紳士は調理テーブルをざっと片づけると、背の低いグラスをふたつ置いてそこにわずかに泡立つ飲み物を注いだ。口当たりのいいリンゴ酒が、油と塩の味を洗い流していく。
「いい顔になったじゃないか。良かった良かった、女の子がさっきみたいなしょげかえった顔をしてるのは、気持ちのいいものじゃないからね」
ボートは月明かりの下、桟橋を離れて川の中ほどへ滑り出した。さざ波に砕けて踊る月光の下で、アレッサはすっかり満ち足りて幸せな気分だった。
だがやがて吹き始めた西風と共に雲が空を覆い、月が隠れてしまうと――彼女は再び元の桟橋に戻された。手を振る紳士が川下へとボートで去ってしまうと、あとには夜更かしの疲れと、少しづつ醒め始めた酔い心地だけが残されていた。
これから叔父の家に戻って、家族を起こさないように部屋に潜り込んで寝なければならない。アレッサは眠い目をこすりながら再び家路をたどった。