腹ペコの月夜と怪しいおぢさま
大聖堂の鐘が二一時を告げた。夜勤組との引継ぎを済ませたアレッサは、あたりを漂う石炭の粉塵とススに咳き込みながら、モルガノ・シティの夜道を歩き始めた。
理学院の高い塀越しに、蒸気式計算機の排気塔がシューッと甲高い音を立てる。空中に吐き出された燃えカスが酸素にありついて、一瞬ぱあっと明るいオレンジ色に輝いた。
あそこでは今も列車砲の弾道計算とか、そういう大掛かりな仕事が進められているのに違いない。町はこの時間も活発に動き続けている――だけどアレッサにとっては、そんなことはもうひたすらどうでもよかった。彼女はひどく疲れていたし、お腹がすいていたから。
それというのも昼前からずっと立ちづくめで、蒸気変換炉の圧力計や回転計を見張り続けていたせいだ。
(叔父さん家の台所にはもう、何も残ってないよね……)
残業は急に決まって連絡もできなかったから、食事を残してある見込みはほぼない。あの意地汚い年下の従兄弟たちと来たら、叔父か叔母が止めない限り、目の前にある物を残らず平らげてしまう。
この時間ならまだ、ノヴァリー川河畔の桟橋沿いに、何か安い食べ物の屋台が出ているかもしれない。そう思いついてアレッサは足を速めた。
ベーコンと玉ねぎでダシを取ったスープに浮かぶ、ジャガイモたっぷりのニョッキ。カリッと焼けたパンに厚切りのハムや卵、マスタードの効いたチキンを挟んだパニーニ――それに温かい代用コーヒーでも胃に収めれば、明日の朝まで何も考えずに満ち足りて眠れるだろう。
ところが河畔までたどり着くと、アレッサは自分の目を疑うことになった。
いつもならオレンジ色をした灯油ランプの明かりが並んでいるその界隈には、この夜に限って何もなかった。川面のさざ波にちらちらと反射する月の光が、街灯の鉄柱やら、置きっぱなしで中身のわからない木箱やらの輪郭を、くろぐろと浮かび上がらせているだけだ。
そういえば、と思い出す。今日は月に一度、露店組合の取り決めで夜の屋台は二十時までで店じまいになる日ではなかったか。
「静かだと思ったら……なんだよ、もう」
アレッサが勤める工場は何の組合にも入っていなくて、露店の休みなどお構いなしだ。今日のような日にはあらかじめ、自分の部屋になにかすぐ食べられるものを用意しておくべきだったのだ。
だが今夜に限って、彼女の部屋にはカビの生えかけたパン一切れすら残っていなかった
アレッサは舗道の端にあるベンチを見つけると、そこに座り込んでぼんやりと川面を眺めた。大きなため息を一つつくと、それっきり歩く気すら失せてしまった。叔父の家に帰らなければならないのはわかっている。でも――
堂々巡りに入り込みかけたそのとき、不意に奇妙なものが見えた――銀の砂を撒いたようにちかちかと光る川面が突然歪み、月明かりの反射が目に届かなくなったのだ。そうやってできたその影は、水中から浮かび上がろうとする、何か見慣れない物の形をおぼろげに描いていた。
「何よ、あれ……?」
巨大な人型をした何かの、上半身と頭部が水面に現れる。だがそれはすぐさま、弾みをつけたように水中に没して再び消えていった――その体積に釣り合う量の水を巻き上げて。
「ひゃああっ!!」
冷たい水しぶきがアレッサを真正面から襲った。作業員のトレードマークになっているキャスケット帽が頭を離れてどこかへ吹っ飛ばされるが、何とか転倒だけは免れたようだ。
「やだ、もう……何でこんな目に遇うのよ」
踏んだり蹴ったりの巡りあわせに、流石のアレッサも涙声になる。と、その時。
――こんばんは、お嬢さん。何かお困りかな?
深いバリトンの朗らかな声が先ほどのしぶきの音と入れ替わるように、静まり始めた川面へ滑り込んできたのだ。
アレッサがそこに見出したのは、船尾に小さな蒸気罐を設置した、長さ4メートルばかりのボートと、その艫近くに座り込んだ、山高帽とインバネスコートに身を包む妙に場違いないでたちの紳士だった。
刈り込んだ黒い鬚で縁取られた四角い輪郭の顔に、ハシバミ色の瞳。その手には、丈夫そうな釣竿が携えられていた。