父と息子
父上に夜も遅くなって呼ばれるなど、これまでになかった。すくなくとも、寝室に呼ばれることなどなかった。
用件はわかっている。
夕方の図書館での出来事に違いない。
近衛隊のメンバーが隊長に報告し、隊長が父上に報告したのだ。
まったくもう。
責任の所在の云々について、かもしれない。
隊長は、いまごろ寮で戦々恐々としているに違いない。
夕方のメンバーは、わたしのことをよくわかっている。もちろん、アマートとディーノほどではない。だが、彼らはわたしが図書館に通う理由は気がついているだろう。
夕方のことも、その理由からきていることだとわかっているだろう。だからわたしが口止めをし、彼らも心情的には見なかったことにしてくれようとしただろう。
だが、実際のところは出来ない。
後日、かならずあのことは公になる。なぜなら、わたし自身がそうするからだ。
そのときになってだれも何も報告していない、何もきいていなかったということになれば、それこそ大事になってしまう。あのときいたメンバーは、アマートも含めて職務怠慢になってしまう。
彼らは、わたしを守れなかったということになる。
わたし自身が意図し、アリサの叔父を挑発した。わざと暴力をふるわせたのである。
それでもやはり、王太子は殴られたことになるのだ。
結局、彼らは隊長に報告せざるを得ないわけだ。
「すまないな、こんな時間に」
父上の寝室に入ったのは、もう何年も前のことである。
中の様子がかわっていたとしても、わからないほど前のことだ。
だけど、においはかわっていない。
このにおいは、父上の寝室に出入りすることを許されていた幼いころのにおいと同じである。
父上は、夜着の上にガウンを羽織っている。
「いえ」
一言ですませた。
思っていた以上に口の中を切っていた。それだけでなく、殴られた右半面が腫れあがっている。
この時になって初めて、アリサの気持ちがほんの少しわかったような気がした。
実際、自分も腫れあがっている右半面を隠すようにしている。
明日になれば、痣になるだろう。そうなれば、しばらくの間隠すようにしなければならない。
「ほら、付き合ってくれ」
眼前にグラスを差し出された。
室内に射し込む月光が、琥珀色の液体の中で煌めいている。
窓に視線を走らせた。テラスへと通じているガラス扉の向こうに、手を伸ばせば届きそうなほど近くに月が浮かんでいる。
「ありがたく」
酒はあまり好きではない。だけど、今夜は飲みたい気分だ。だから、素直に受け取った。
父上と二人っきりで酒を飲むこともない。
「いい面構えだ。好きな女性を侮辱されて暴力を振るい、振るい返した英雄に乾杯」
父上がやわらかい笑みとともに音頭をとり、グラスを合わせた。
「カチン」
小気味よい音が耳に心地いい。
一口だけ飲んだ。きつい醸造酒が、口の中の傷と喉を焼く。
「コルネリオとユベールからきいている」
寝室内にある籐の椅子を勧められ、腰をおろした。
コルネリオは、ソフィアの父である。
ソフィアのティーカネン侯爵家と、アマートとディーノのプレスティ侯爵家は、五家ある侯爵家の筆頭を競い合っている。が、現在の当主であるコルネリオとユベールは、同年齢で幼馴染という間柄である。二人が軍に所属していたときも、コルネリオは前線で、ユベールは後方でそれぞれ違う分野で活躍し、お互いを認め合っていた。
軍籍を退いてもなお、二人の親交は続いている。
その子女であるソフィアとアマートの仲はよろしくない。不可思議でならない。
もっとも、わたしからすれば、その二人の仲もどうかと思う点があるのだが。
「クースコスキ伯爵夫妻が亡くなって何年だ?彼らの慈善活動、それから自然環境保持の活動の功績は大きい。そのお蔭で、わたしたちも多くの民衆から支持されている。じつは、伯爵夫妻にその功績に報いたいと何度か打診したんだ。その度に断られてしまったよ。いまさらだが、その功績に報いなければな」
無言でうなずき、同意を示した。
「だが、それと彼女のことは別問題だ」
父上は、向かいの籐の椅子で姿勢を正した。
「国王ではなく一人の父親として、息子を叱りたい。マルコ、あまりにも不甲斐なさすぎる。おまえは自分の臆病さや自信のなさを、地位や環境のせいにしている。そんなことでは、愛する女性を守ることなど出来ん。ましてや、その心をつかむことなどな。ほんとうに彼女のことを愛しているのなら、強くなれ。地位や環境のせいにするな」
何も言い返せなかった。
まさしく、父上の言う通りだと思った。
それこそ、うなずいたりうなったりすることも出来なかった。
そのかわり、グラスを傾けいっきに飲み干した。
かならずや彼女をしあわせにする。彼女を振り向かせ、その心をつかんでみせる。
決意とともに、父上の寝室を出て行った。




