ホットチョコレート
図書館で叔父様が王太子殿下を殴った後、動揺がおさまらなかった。
王太子殿下の口許に血がついているのを見た瞬間、目の前が真っ白になってしまった。
自分でも何を言ったか、何をしたかわからない。まったく覚えていない。
館長とアマートに支えてもらいながら、馬車に乗ったような気がする。
そして、気がついたら寝台の上で上半身を起こし、両手でカップを持っていた。廊下から差し込む灯りの中、カップから湯気がたちのぼっているのがわかる。
やさしく揺らめいている湯気を見つめていると、ようやく気分が落ち着いてきた。
湯気だけではない。寝台に腰を下ろし、肩をやさしく撫でてくれている館長の存在も、気分を落ち着かせてくれる。
「すごく熱いわよ。温めたミルクにチョコレートを溶かしたものなの。ほら、あなたが子どもの頃に大好きだった「ニックの冒険」のシリーズによく出て来たでしょう?自分への『おつかれさま』の意味で、ときどき作って飲むのよ」
館長のやさしい声に促され、カップを口に含んでみた。
甘い香りが鼻をくすぐり、口の中に甘さが広がってゆく。
火傷しそうになるほど熱いけど、甘くてとっても美味しい。
その甘さに身を委ねると、図書館であったことが思い出されてきた。
勝手に涙があふれ、頬を伝ってゆく。
館長が指先でそれを拭ってくれる。
プレスティ侯爵夫人に「泣いてもいいのよ」と言われてから、自分でも驚くほど涙が出てしまう。
「王太子殿下は大丈夫よ。アマートが言うには、殿下は武術に長けていらっしゃるから、殴られる瞬間に衝撃を緩めるためにうまく対処したらしいの。わたしにはよくわからないけれど。物理的な打撃という点では、あなたのくそったれの、いえ、失礼。あなたの無礼すぎる叔父の方が、よほどひどいことになっているわね。あの後、気を失ったみたいだし」
王太子殿下のケガがたいしたことがなかった。
館長の言葉に、心からホッとした。
もろもろの問題はあるけれど、ケガがたいしたことがないとわかっただけで安心出来る。
叔父様……。
いまは、何もかんがえたくはない。
「アリサ、それを飲んだらゆっくりおやすみなさい。明日も仕事ですしね。休みを取りなさいって言っても、どうせあなたはきかないでしょう?」
館長は、やさしく微笑んだ。
「それと、あなたはもっと自分自身に自信をもつべきね。あなたは、自分自身を卑下しすぎている。火傷のことも性格のことも、他人は案外悪く思ったりしないものよ。まぁ、あなたのあのくそったれの……。いやだわ、また失言ね。アマートとディーノがそう言うものだから、つい。とにかく、ああいう輩は特別なのよ。すぐにかわることは無理でも、少しずつ外に目を向けるべきだと思うわ。ほら、本を語るときのあなた、すごく積極的で自信に溢れているもの。読みきかせの会のときだって、子どもたちだけでなくその両親たちもうっとりきいているし」
館長は、やさしい微笑みとともにブロンドの髪をなでてくれた。
「こんなときになんだけど、大人向けに朗読の会を催してもいいんじゃないかってかんがえているの。それだと、本を読むのが嫌いな貴族子女だって参加してくれるかもしれない。あなたが常々言っている街の人たちとの交流もありえるかも、でしょう?もちろん、実現までには時間がかかるでしょうけど」
その館長の提案に、ハッとしてしまった。
じつは、わたし自身そのことをかんがえていたからである。
「アリサ、かんがえてみてくれるかしら?もちろん、企画も朗読をするのもあなたに任せるつもりだから。その為にも、あなた自身少しずつでもかわっていかなきゃ。自信を持つこと。卑下しないこと。これだけで、あなたはさらに素敵なレディになれるわ」
館長は、わたしを抱きしめてから立ち上がった。
「飲み終わったら、ゆっくり休むのよ」
館長は、扉へ向かいかけてこちらを振り向いた。
「アリサ。殿下のことなんだけど……」
ハッとして館長を見上げてしまった。
「殿下は、常日頃資料を準備してくれるあなたに感謝されているの。先程のスイーツは残念なことになったけど、殿下なりの感謝の気持ちだったのよ。ああいうときは、あれこれかんがえずに受け取りなさい。いいわね?じゃあ、おやすみなさい。いい夢を」
そうして、館長は部屋を出て行った。
甘いチョコレート入りのミルクを飲みながら、王太子殿下のことばかりかんがえていた。




