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夢の中  作者: フライバイ
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ー現実と夢の狭間でー

 僕は夢を見ていた。

 夢の中の僕は、魔法が使える。そしてその夢の中で僕は自分を完璧に作り替えた。容姿や身体能力、人間性を完璧にするよう神に願うと、鏡の前に立った僕は世界で最も美しいと思えるほどの容姿を手に入れていた。嬉しくなった僕は、この自分で今までの自分の人生をやり直そうと思った。神にこう願った。

 「物心つくときの自分の年齢まで戻してください。

  そして、いつでも時間を進めて、人生のおいしいところだけを味わう人生をやらせてください」


 気がつくと僕は懐かしい故郷の保育園にいた。何歳かは忘れてしまったけれど、確かに僕が通っていたあの保育園だ。歳は若返っても、心は今のままでいられることを知って、安心した。時間を進めると、そこには騒ぎながら遊ぶ男女がいた。美しい黒髪が揺れている。僕はあの女の子のことを好きだったと、そのとき思い出した。

 僕は、部屋の隅にある読書コーナーで本を読んでいた。ページは全く進んでいない。この頃から僕は恰好をつける癖があったな、と思いだしながら、目の前で楽しそうにはしゃぐあの女の子を見て、自分がなぜこの時間に来たのか理由を探していた。きっとなにかやり直したいことがあって、完璧な容姿と人間性があれば面白いほどうまくいくのだろう。

 ふと、女の子たちが男の子にスカートを捲られているのに気がついた。どうやら彼らは男対女で「スカート捲りゲーム」みたいなものを始めたらしい。もう一度僕は本に目を落とす。「俺はあんな低俗な遊びには参加しない」そう自分は思った。そう思った瞬間、現代に戻ってきていた。ただし、まだ夢の中だろう。僕は未だ完璧な容姿で、鏡の前に立ち尽くしていた。完璧な人間性とはなんだろうか。僕は理想の自分、完璧な人間性を持った僕から出た言葉の中に「低俗」などという言葉が出てきたのがまだ信じられなかった。神に問いかけた。

 「完璧な人間性とはあなたが決めたのですか」

 神は答えた。

 「これは君の夢だ。私が決めたとして、その私を夢の中に作ったのは君だ。神が完璧な人間性を定義したとして、結局は君が決めたことになる。君の描く神の理想像が、神の描く完璧を定義しただけだ」

 僕は問い続けた。

 「だとしたら、この容姿も私が決めたのですか」

 同じように神は答えた。

 「ああ、そうだ。それが君の思う完璧だ。何一つ不満はないはずだ。

  他人がどう思うかはまた別の問題だ。美しいと言わない人も、醜いと言う人もいる」

 「そうですか、だったら今度は誰の目から見ても完璧な僕を作ってください。

  他人の思考をも支配できる人生を俺にやらせてください」

 「いいだろう、ではまた会おう」 



 次に神に会えたのは、一週間ほど後のことだった。夜更かしをしていた。

 その日僕は、見たかった映画を時間を気にせず、一気に見た。コメディもラブロマンスもミステリーもSFも全部微妙だった。アパートの玄関を開けて外に出ると、少し肌寒い。もう夏は終わりかけで、夏の声と秋の風音が僕の耳をくすぐった。午前三時、右上の空にはオリオン座が光っている。街灯の灯りだけが道を照らす住宅街をひとりで歩いていた。

 歩いて公園に辿り着き、ベンチに横になってスマートフォンを見ていると、寝落ちしていた。


「少年よ、久しぶりだ」

「どうも。今日こそは完璧な自分で人生を生きさせてくれるんですよね」

「そうだ、誰の目から見ても君は完璧で、他人の思考をも支配することができる」

「わかりました。では生きてきます」


 そこは、小学校の運動場だった。周りには歓声と砂の匂いが立ち込めていて、あの時の夏を思い出した。

 運動場を見渡すと、そこには体操服を着て走る何人かの子供が見えた。今はリレーの競技中みたいだ。横に並ぶ人たちの顔を見ると、なんだかみんな足が速そうで、肩からはそれぞれ別々の色のタスキがかけられている。体を見ると、赤色のタスキが自分にもかかっていることに気がついた。タスキを掛けるのは一番足の速いアンカーだ。今、この運動場で僕はきっと一番足が速い。列に並んで自分の走る番が来るのを待つ僕は、この後の輝かしい展開を妄想した。今から僕にはビリでバトンが渡ってくる。先頭との距離は大きい。もうほとんど希望がなくて、このままアンカーの僕はビリのままゴールインしてしまいそうな状況を迎える。でも、そこで僕は驚異的なスピードで走り始める。ぐんぐん相手を抜いて、残りギリギリ数十メートルで、先頭のランナーに追いつく。その後ギリギリで競り勝って、一位でゴールテープを切るのだ。そのあとは友達から称賛されるに違いない。

 ひとり、ひとりと僕の目の前からは人が減っていく。その数が減っていく分だけ、心臓の音は大きくなった。でも、緊張は全くしていなかった、流石は完璧な自分だ。

 

 「ねえ、椿くん。今日は手加減して走ってよ。今日俺、おじいちゃんとおばあちゃんと家族みんなが見に来てるんだ。今は黄色が先頭だから僕には先頭でバトンが回ってくるでしょ。それでも多分椿くんは僕を追い越すぐらい足が速いから、きっと僕は負ける。でもさ、たまにはいいでしょ?先頭だったのにビリに抜かされるなんて僕恥ずかしいよ」


 この世界で僕の名前は、「椿くん」らしい。名前までかっこよくなったことに驚いたけれど、案外名前は人生を決めるかもしれないとも思った。もし僕の名前が「ゴンゾウくん」とか、逆に物凄いキラキラネームで「だいまおう」とかだったりしたら、人生のあらゆる場面で自分の名前にコンプレックスを感じることになる気がした。

 「椿くん」でよかった。椿の花はきれいだ。椿の花はいい匂いがする。僕はこの名前が好きだ。


「だからさ、お願い。椿くん今日は僕に一等賞取らせて!」

「うーん、でもさ、僕が今から手を抜いて走って君が一番をとってもさ、それは本当の一番じゃないよ。

 だから、今日はお互い本気で走ろうよ。もしかしたら君は僕に勝てるかもしれない。

 そしたら君は本当に一番をとったことになる。正真正銘のかっこいい君になれる」

「正真正銘のかっこいい僕か〜、いいね!そうしよう!」

「うん、頑張ろう」


 いい答えだ、誰も傷付けない返答だった。

 僕は今からこの勝負に勝つだろうか。勝つことだけが完璧を定義するのだとすると、勝つことだけが人生の幸せを決めるのだとすると、人生は全然面白くない。負けにも、「いい負け方」が、勝ちにも「幸せになれない勝ち」がある。


 僕は、夢の中にまた戻っていた。鏡の前に立ち尽くしている。鏡の中の僕はやっぱりまだ完璧な姿だ。

 視界はぼんやりとしているのに、鏡に映った自分の姿だけは、やけに鮮明だった。

「神様、いい時間でした。僕は完璧でしたか」

「完璧だったよ。誰の目から見ても完璧だった。君の選択は誰も傷付けなかった。あの運動会、あの時間の中で君は美しい生き方を、美しい人生を選んだ」

「前にお会いした時、「誰の目から見ても完璧で、他人の思考をも支配できるように」と頼みました。「他人の思考をも支配できる」とは、どういう意味を持ちますか?」

「他人とは、凡そ君が描いた他の人間の予想や想像に過ぎない」

「予想、ですか?」

「そうだ。予想なのだ。トマトをばくばく食べて「大好きなんだ」と言い張る男の子がいて、君はその男の子は「トマトが大好きな男の子」だと信じるだろう。しかし、本当にトマトが大好きなのかどうかは、その男の子本人にしか分からない。人には言えない理由があって、トマトを好きでいなければならないのかもしれない。その男の子はもしかしたら、「トマトが大好きだ」と一生嘘をつき続ければ、大好きな女の子と結婚できる約束を交わしているのかもしれない」

「そんなヘンな約束、あるわけないですよ」

「ヘンな約束かどうかが問題なのではなく、君には一生本当のことは分からないということだ」

「だとしたら、他人の思考を支配したことになるんですか?もしも、夢の中の僕が他人の思考を支配できるのだとしたら、そのトマトが好きな男の子の頭の中まで全部透けて見えて、本当のことが分かるんじゃないですか?」

「分かるさ。夢の中ではね。今話したトマトが好きな男の子の話も、君の夢の中では何の意味も持たない。君は、そういう世界を生きているのだから」

「じゃあ、僕は夢の中で生きます。分からないより、分かったほうがいい。僕の好きな人とか、学校の友達が僕のことどう思ってるとか知りたいし、今嫌いだったら、みんな僕のこと好きになるように変えればいいでしょ」

「君がそう望むのなら、そういう人生を生きればよい。

 夢は無限だ。好きなように、好きなだけ生きなさい」

「全部分かることで、嫌な思いをしなくて済むと思いますよ」

「少年、また夢の中で会おう」


 夢から覚めると、陽の光がカーテンから漏れている。枕元の時計に目をやると、時刻は昼の十一時過ぎだった。布団を体から剥いで歯を磨きに行く。階段を降りながら、夢の中のことを考えていた。ずっとあの夢の中に居られればいいのにと思った。

 僕は高校一年生だ。今日は土曜日で学校はない。歯を磨いたらキッチンにあるパンでも食べて、午後は図書館に行こう。最近、小説を読むことにハマっている。小説は僕に想像力を与えてくれる。最近見る神様が出てくるあの夢も、きっと読書の影響だと思う。

 それにしても夢の中の僕は名前がとてもかっこいい。現実での僕の名前は、田中タケオ。田中という苗字も、タケオという名前も、どちらもまだかっこいいと言われたことはない。

 洗面台に立って歯を磨いていると、夢の中とはぜんぜん違う姿の僕が映っていた。校則に従って、眉毛にかかるか、かからないかぐらいに切った扱いにくいストレート髪の毛、撫で肩で痩せている、身長は男子の中で低いほうの部類だ。目は細くて、黒目も小さい。普通の表情をしているつもりなのに周りからは睨んでいると思われる。おまけに団子鼻だ。

 容姿が良ければ、もっといい人生が送れただろうなと思った。世の中にいるイケメンのほとんどは大体のことでいい思いをする。世の中にいるほとんどのイケメン以外の男子は大した得をしない。生まれてきた時点でもう全て決まっているんだ。いい人生を送れるか、送れないか。順風満帆に生きていくか、何かを諦めてそれでも生きていくか。どちらかに決まっている。

 髪を濡らして、タオルで雑に髪の毛から水分を拭き取った。ドライヤーをかけるのはめんどくさい。

 駅に着くと、電車の待ち時間が十五分くらいだった。ずっと前から友達とみんなでやっているスマホゲームでもして時間を潰そう。今日はまだログインしてないから、ログインボーナスが貰える。ガサゴソとポケットを探った。あれ、ない。家に忘れてきた。

 ポケットにスマホがないと不安になる。いつも暇な時間や、何もすることがない時間になると僕はスマホを触る。スマホは、世界を映し出す長方形の無限の窓だ。指一本でゲームの世界に入ると、そこにはリスクのない無限の命と、自分の思い通りにできる世界がある。指一本でここにいない誰かと話をすることができる。電話をかければ声を聞くことだってできるし、世界のどこかにいる誰かの日常の一部を動画や写真で見ることだってできる。まるでスマホは、夢みたいだ。

 どうしよう、家に取りに帰ろうかな。誰かから連絡きてないかな。恋をしていたら、きっともっと寂しくなるはずだ。でも、さすがに時間がない。家から駅までは10分かかるからもう今日はスマホなしで出かけよう。別に死にはしない。小学生の頃はスマホななんか持っていなかったのだから。

 スマホがないと、急に自分の身の周りのあらゆるものたちが意識の中に入り込んできた。こんな看板あったな。ここにあったの壁の色ってピンク色だったんだ。待合室の明かりはこんな色してたんだな。俺今日、白い靴履いてるわ。あー、暇だな。することないな。前のおじさんの帽子ダサいな。俺もおじさんになったらこういうファッションになっちゃうのかな。あー、暇だな。あと電車何分で来るかな。時計とか普段つけずにスマホで時間見てるからわかんないや。まあ、すぐ来るでしょ。天気いいな今日。太陽の光って、優しいよな。微笑んでるよないつも。大好き、愛してる太陽。何クサいこと考えてんだろ俺。靴紐解けそう、結び直そう。

 靴紐を結び直していると、自分がちょっとシャキッとする。ああ、俺今靴紐ぐらいは結べてるわ、ちゃんと生きてるわ俺って。結び終わると、遠くから電車の音が小さく聴こえた。頭の中でどうでもいいこと考えること以外の時間は、思ったよりも速く進んでいく。人生をあっという間に終えたくて、生き急いでいるのなら、とにかく考えないことが大事なのだろうか。友達と話す、勉強をする、遊びに行く、享楽的に今を生きる、明日のことなんか考えずに今日だけを生きる。胡散臭い自己啓発本で見た「今を生きろ、過去に囚われるな、未来に不安を持つな」という一行が僕の頭の中を泥のように鈍く通り過ぎていった。

 電車のドアが開いて入ろうとすると、視界の左側に、ゆっくりと荷車みたいなカートみたいなものを押しながらドアに入ろうと、こちらに歩いているおばあちゃんがいた。

 「あっ」

 なぜだかそのお婆あちゃんに先を譲りたくなって、手の平で合図した。「お先どうぞ」なんて紳士みたいなセリフはは言えなくて「あっ」という声だけが僕の口から飛び出した。

 「ありがとねえ」

 柔らかな雰囲気に包まれたその笑顔は、まるで世界の優しさに映し出された黄金色の鏡みたいで、幸せな気持ちになった。別に幸せがなにかを知っているわけじゃないけれど。

 電車の中に入ると、席は空いていた。土曜のお昼だけどみんな遊びに行ったりしないのかな。ブラックコーヒーを飲みながらぼーっとしているおじいちゃん、ガラケーにものすごい速度でメールか何かを打ち込む中年、煌びやかな化粧をして、手鏡を片手にスマホを触る女性、普段は気にしないはずの他人が自分の世界の一部になっている。

 席に座っても、当然やることがない。小説を持ってくればよかったと思った。車窓の先には、あまり栄えていない街並みと高度のある太陽が見えた。今から、図書館がある場所の駅までは30分ぐらいある。次は必ず、小説を持ってこよう。スマホでいいか。いや、腕時計をしてくれば時間はわかる。


 電車から降りると、また視界に新しい景色が映った。よく図書館には来ているのだからそんなに新しくはないはずだけれど、スマホのない僕にとってその景色は初めてみたいに新鮮だった。いつか旅に出よう。スマホも持たず、もっというと時計も持たずに。そんな日があってもいい。

 道に花が咲いている。コンクリートの隙間から頑丈に咲く一輪の花は、群れないことや、享楽的に生きないことの美しさを語るほろ酔い気分の女性みたいだった。

 今日、図書館に着いたら、今読んでいる『アルケミスト』を読み終えよう。それを読み終えたら、ずらっと並ぶ本棚からピンときた小説を背表紙だけで決めて読もう。裏表紙に書いてある要約なんて見なくていい。そんな選び方があってもいい。

 ぼとぼとと道を歩いていると、目先に自動販売機が見えた。なに買おっかな。今日はブラックコーヒーにしよう。前に飲んだのは小学六年生の時で、その時は苦過ぎて結局お姉ちゃんに全部飲んでもらった。お姉ちゃんは「大人になったら飲めるようになるよ。美味しいと思ったら、それはタケオが大人になれたってことだよ」と言っていた。

 大人になれたかな、俺。飲んでみよう。あったかいのが飲みたかったけれど、まだ秋なので「あったかい」はなくて、「つめたい」のボタンを押した。

 「タケオ、ブラックコーヒーなんて飲むんだ。大人!」

 後ろから聞いたことのある声がした。振り返るとそこにいたのは、橘さんだった。自分よりも少し背が高くて、秋風に靡く黒髪が「イイ女感」を漂わせていて、「ああ、俺とはぜんぜん違うわ」と落胆した。


 「の、飲むよ」

 「へえ」

 橘さんが訝しく僕の目を見た。橘さん、嘘ついてごめん。多分俺飲めない。

 「タケオ今からどこいくの?」

 「図書館行く」

 「あたしも、小説読みたくて。タケオは何しに行くの?」

 「俺も小説読みたくてさ。橘さんは元から行く予定だったってこと?」

 「うん。そうに決まってるでしょ!タケオに予定合わせるなんて物好きすぎる」

 「・・・そうだよね」

 「ん?なんかあたし悪いこと言っちゃった?」

 「言ってないよ、俺が価値のない人間だから。予定を合わせるに値しない人間だから、俺が悪い」

 「え?別にあたし、価値がないなんて言ってないでしょ」

 「うん。言ってない」

 橘さんと歩く速度を合わせて、一緒に図書館に入って、入ったら隣に座って、ときどき話したりして。なんて考えていた僕の淡い期待は裏切られた。というか、僕があんなこと言わなければ、もしかしたらそうできたかもしれないのに。夢の中の椿くんなら、いい答えを出して、そんな妄想も全部叶うはずだ。余すことなく、二人で話せる未来が待っていたはずだ。

 ちょっと口喧嘩みたいになっちゃったからずっと沈黙が続いて、でも二人並んで歩くことはできるだろうと思っていた。でも、今僕が歩いているその速度と歩幅は橘さんのそれとはぜんぜん違って、気づけば僕は橘さんに追い抜かれていて、もうすぐで前方を歩く橘さんの影が僕の視界から消えそうになっていた。

 ブラックコーヒー飲めるかな。かちゃっ。缶の蓋を開けると苦い匂いが鼻をついた。ああ、飲めそうにない。ペットボトルにすればよかった。何度だって、蓋を閉めて、開けて、飲みたい時に飲みたい分だけ、その味を味わうことができる。夢の中に似ている。夢はペットボトル、現実は缶、一度開けると、もう閉めることができない。揺らしてこぼれないように、手に持って歩いている。

 ゆっくりと一口だけ飲んだ。やっぱり苦かった。「あー、タケオ、残念」頭の中でお姉ちゃんが喋る声が聞こえた。僕の妄想の中で。いや、現実でもお姉ちゃんはそう言うか。

 遠くで橘さんが信号が青に変わるのを待っている。後ろ姿も綺麗だ。追いつけるかな。小走りで、でも缶に入ったコーヒーはこぼさないように橘さんが立つ信号へと足をすすめた。歩幅はいつもより大きく、歩く速度はいつもより速く。

 もうすぐで着きそうだ。だけど青信号が点滅し始めた。横断歩道にはゆっくりと歩くおじいちゃんが見える。行けるか。もう少しだけ速度を上げて、もうほとんど走っているように信号へと急いだ。コーヒーがこぼれて手についたのが感覚でわかる。行けるか。

 結局、ギリギリで追いつくことはできなかった。ここの信号って長かったっけ。落胆するよりも前に、冷静に次の状況について考えている自分に少し驚いて、目の前を忙しない速度で通りすぎる車やバイクを眺めていた。いつもだったら次のことなんかすぐには考えられずに、あーだる、とか思っていただろうし、この信号待ちの時間はスマートフォンを触っていただろうなと思った。何かを失ったというよりも、新しい何かが得られたような気がした。何かを捨てるということは、何か他のものを手に入れることなのかもしれない。もっぱら、それが良いものか、悪いものか、価値のあるものか、ないものか、なんてことはわからないのだけれど、そんな基準や区別を考える必要なんてないのだと思えるほどに、今自分の目の前を流れる景色が大切で、美しいものに思える。

 信号が青に変わったのを確認して、足を踏み出した。一歩、二歩、三歩・・・。

 「バタンッ」

 後ろで何か大きなものが落ちる音がした。なんだろう。後ろを振り返ると、女性が持っていた紙袋の底が抜け、大量の書類が横断歩道の上に落ちていた。もう何枚かは風に乗ってひらひらと飛び始めている。

 「拾います!」

 「あら、拾ってくれるの?・・・ありがとう」

 「いえいえ、大丈夫です」

 時間的に信号はもうすぐ赤になる。あと何枚か紙が落ちている。

 最後の一枚が目の前に見えて、取ろうと手を伸ばした。風に飛ばされた。追いかけた。自分が交差点の中に入っていることには、気づけなかった。微かに視界の端から車体が見えた気がした。


 「タケオ!・・・大丈夫?」

 なかなか目を開けることができなかった。手足の感覚も、今自分の鼻が掴む匂いも、薄くて満足に感じることができない。でも、耳へと入る人の声だけははっきりと聞こえて、それが誰だったのかはわかった。今日、自動販売機で後ろから聞こえたあの声、遠くに見えて必死に追いつこうとしたあの声だ。

 「んん、大丈夫だよ」

 「顎から血が出てる、意識があってよかった。私絆創膏とか買ってくるね」

 「待って、橘さん。俺どうしたの」

 「交差点で後ろから来た車にぶつかりそうになって、

  当たりはしなかったみたいなんだけど倒れたらしいよ」

 「それって、急にものが飛び出してきたことにびっくりしすぎて、意識失っちゃったってこと?」

 「そうみたい。ちゃんと喋れてて安心したよ」

 橘さんが向日葵みたいに笑う顔が見える。

 「うん、大丈夫、気をつけて買ってきてね、急いだらだめだよ」

 「あんたそんな言葉言える余裕いつできたの」

 また橘さんの笑った顔が見えた。


 「買ってきたよ、タケオ。絆創膏貼ってあげる」

 橘さんとの距離が近くなって、初めてこの人の顔をこんなにも近くで見たと思った。

 「ありがとう」

 「いいよ」

 「なんで僕が倒れてるってわかって助けに来てくれたの?」

 「いや、待ってたんだあたし、信号渡ってすぐの角で。タケオに謝ろうと思って」

 「何を謝るの?」

 「そんな気はなかったけど傷つけたかもしれないなと思って」

 「そんなに考えすぎなくて良いよ、僕のことなんか」

 「君はもっと自分を大切にするべきだよ」

 「橘さんが羨ましい。人を励ます余裕があって」

 「そんなことないよ。

  タケオは自分が傷を受けてもあたしのこと心配できるんだから、ちゃんと余裕あるんだと思うよ」

 「うん」

 「人間はね。みんな優しいの。なにに優しくできるかとか、いつ優しくできるかとか

  ただそれがひとりひとり違うだけだよ」

 「橘さんみたいでいたいな、俺も」

 「いいよ〜、あたしの真似、してみる?」

 イタズラそうな笑顔が可愛くて、なんかこう、おこがましいんだけど、守ってあげたくなるっていうか、大切にしたいっていうか、消えそうな火を両手で包み込むみたいな、そういう優しさをこの人に届けたいと思った。


 「いま、橘さんの真似してみたくなったよ」

 「タケオ、一緒に図書館行こ」

 「うん、行こう」


 橘さんが、僕の横を歩いている。つい何分か前まで自分が考えていたこと、妄想していたことはぜんぜん現実と重ならなかった。

 「ねー、ブラックコーヒーどうしたの?」

 「あれ、ない」

 「どっかに忘れてきた?」

 「忘れてないよ、多分さっきの事故の時に手から落として、そのままどっかにいった」

 「あー、そういうこと」

 「で、飲めるの?ほんとは飲めないでしょタケオ」

 イタズラそうな笑顔を橘さんがこちらに見せている。この笑顔は別に好きじゃないかも、いや、好きか。

 「飲めるよ。あー、もったいないことしたわ」

 「あそう、あたしが買ってあげよっか、もう一本」

 「ん〜、今はブラックの気分じゃないかも。もっと甘い気分」

 「もっと甘いのって、カフェオレとか?」

 「ヤクルト」

 「小四か」

 「カルピス」

 「ださい」

 「カルピスはダサくないでしょ!」

 「ごめん、勢いで」

 「てか、橘さんは自販機で何買ったの?」

 「炭酸水だよ」

 「味のないやつ?」

 「そ」

 「何がいいのあれ」

 「女の子はね、可愛いを保つために

  飲み物も食べ物も、ちゃんと考えてるの」

 「へえ〜、俺、知らなかったわ」

 「あたしってさ、可愛い?」

 「え」

 どうしよう。慣れてない僕は、不意打ちのこの質問を切り返すボギャブラリーを持っていない。椿くんならどう答えるか。考えろ、考えろタケオ、考えろ俺。

 「ずっと思ってたよ。橘さんって可愛い」

 「え、ほんとに?そんなこと言われると、あたし照れるな〜」

 「俺、黒髪好きなんだ」

 「は?黒髪なら誰でもいいってことなの?」

 「あーそれは違うんだけどね」

 明らかに不機嫌な顔になった橘さん。ミスった。初手はともかく二手目でミスった。詰めが甘いな俺。

 次こんな場面があったらなんて言えばいいんだろうな。

 「まあ、あたし可愛いって言ってくれたから、なんでもいいよ」

 「よかった」

 橘さんは俺とは違う。何か気に触ることがあっても、それをきっかけに繋がれていた糸を切ろうとはしない。離れかける糸を、自分で結んでくれて、まあこれでもいいと許せる人なのだ。それなのに俺は、俺は、さっきの自動販売機の前であんなことを言って変な雰囲気にしてしまった。いいなあ橘さん、俺もこの人みたいになりたい。

 図書館に着くと、電車の中に人が少なかったことと同じように、そこにも人は少なかった。ついさっきまで大きな声で会話していたけれど、もう入るとそんなに大きな声で話すことはできない。

 話さなくてもわかる、僕たちが歩いている方向は同じだ。小説が並ぶ二階の右奥の角のコーナー。

 僕が今日することは二つ、まず残り半分の『アルケミスト』を読み終える。そしたらその後は背表紙だけ見て、次に読む本を決める。隙あらば、橘さんの隣に座って、隙あらばヒソヒソ話をこっそりする。いや、妄想はやめよう。どうせ現実とは重ならないのだから。

 「あたし、あの角の席座る。外の景色が好きなんだ」

 じゃあ俺もそこ座ろ、と言いかけて、その席が一席しか空いていないことに気づいた。まあ、そんなもんか。橘さんは俺に合わせようとしてないんだし。生活の一部に本を読むことがあって、生活の一部に誰かと話す時間があって、その中に今日という日があって、田中タケオがたまたまいて、自分の好きな生活を優先している橘さんはとても逞しく見える。なんだかちょっぴり寂しい気がするけれど、そんな橘さんもまた綺麗だな、と思う。

 「俺はあっちに行く、電車が見えるから」

 「そう」

 本を持って、二人は違う方向へと歩き出した。そういえば何の本にしたんだろう橘さん。『アルケミスト』を読み終わって、もし運良くタイミングが重なって二冊目を取りに行った時に会えたら聞こう。

 

 本を読み終えると、時刻は午後三時をちょうど過ぎたあたりだった。何時までいるのかも話してなかったな。いつ帰るのか聞いてみよう、運良く会えたら。

 本を返しに行くと、本棚から遠目に、橘さんが座っている席が見えた。まだ、読んでいるみたいだ。

 そう思っていると、橘さんが椅子を引いて立ち上がった。あ、読み終わったのかも。こっちに歩いてきている。僕には気づいていないみたいなので目線を逸らして、本の背表紙を眺めた。

 「タケオ」

 小さな声が耳の後ろから聞こえる。

 「橘さん」

 「読み終わったの?」

 「うん、それで次のやつはさ、背表紙だけで決めることにしてるんだよね」

 「おー、それいいね。あたしも一緒にやっていい?」

 「うん」

 「じゃあ、せーので指で背表紙にタッチしよう」

 「せーの(せーの)・・・」

 「いてっ(いてっ)」

 ふたりの人差し指の先がほとんど同時に同じ本を指して、当たった。ふたりとも痛いと言ったのに、ふたりともなぜか笑顔だった。

 背表紙のタイトルには『色彩とそのすべて』と書かれている。

 「すごい!」

 「ね」

 「ごめん、大きな声出しちゃった」

 「大丈夫だよ、多分」

 そう言うと、橘さんは両手を合わせて、頭を少し下げながらくるりと一回転した。

 「なに?今の」

 「今、声出しちゃってごめんなっさいってみんなにした」

 可愛い、と声が出そうになった。女の子はどうしていつも可愛いことを知っているんだろう。

 きっと炭酸水を飲んだって、どんな方法で可愛いを作ろうとしても、女の子は、男の子には一生手に入れられないものを生まれた時から持っている。両手に持って、こぼさないようにと、大事に持っている。

 「いいね、俺もやってみよ」

 「なんで?タケオは大きな声出してないじゃん」

 「あ、そうだった」

 「じゃあ、指痛かったからお互い謝ろう」

 「わかった」

 僕たちは、小説がずらりと並ぶ本棚の前で向き合って、静かにごめんなさいのポーズをした。

 橘さんの目を見ると、なんともないような目をしていた。

 僕は今、こんなにもどきどきしているというのに。

 「なんでこの本を選んだの?」

 「『色彩とそのすべて』ってタイトル、なんかハッピーそうだったから」

 「えー、そうなの?あたしは逆に、悲しそうだと思ったけど」

 「悲しいのかな、色彩が全部ってことは虹色ってことでしょ」

 「そうなんだけど、色彩って全部混ぜると、黒色になるよね。

  だからなんか悲しいストーリーなのかな〜って」

 「深読みしすぎだと思うよ」

 「そうかな〜」

 「一緒に読んでみる?」

 我ながら、積極的な自分にびっくりした。「一緒に」なんて、女の子を何かに誘うのは人生で初めてかもしれない。そもそも、「一緒に映画」とかならよかったけれど、「一緒に本を読む」っていうのはちょっと無理があるような気がして、言ったことをすぐに後悔した。

 「一冊読み切るのって、結構時間かかるよね」

 「やっぱそうだよね」

 「でもせっかく同じの選べたんだし、ひとりで読んで、後で感想言い合うことにしよう」

 「そうしよう」

 「他の人に借りられると嫌だから、カードで借りとくよ」

 「うん、ありがとう」

 橘さんは、カウンターへ向かっている。揺らぎのない足取りを見つめながら、僕も着いていく。

 その足取りを見るたびに、自分より遠く、前の方に橘さんが歩いているような気がして、不安になっていた。今日のお昼の自動販売機の後、図書館へ着いた後に席を決める時、ごめんなさいのポーズを二人でした後。

 「じゃ、帰りますか〜」

 「うん」

 「タケオは今日本読めた?」

 「読み終えられたよ」

 「何てタイトルの本?」

 「『アルケミスト』、夢を叶えようとする羊飼いの少年の物語」

 「へー、面白かったの?」

 「うん、なんていうか、まだ読んだばかりでうまく言葉にできないんだけど、すごく良かった」

 「そういう時はね、「すごく」じゃなくて、「とても」って言うんだよ。

  あの本は、「とてもよかった」って」

 「なんで「すごく」はダメなの?」

 「「すごく」は悪い言葉の前につけて、「とても」はいい言葉の前につけるのが

  最初の使い方だったんだって」

 「へ〜、全然知らなかった。でも、どうでも良くない?みんな普通にどっちも区別なく使ってるし」

 「どうでもいいよ。でも、なんかね、なんかいいと思わない?

  愛を込めて、言葉を使ってる気がする。

  ご飯は、メシって言わない。犬を飼ってるって言わない。犬と一緒に暮らしてる、って言う。

  そういう、言葉がきれいな人って、すてきだと思うの」

 「優しいね、橘さん」

 「でしょ?ちゃんとあたしの真似してね」

 「覚えてるんだ、今日の事故の時のこと」

 「もちろんだよタケオくん」

 図書館からふたりで帰る途中、たくさんのことを話した。橘さんとは小学校から同じなのに全く話したことがなかった。いつも美しい橘さんに憧れていただけで、何一つ接点も、干渉もなかった。

 今こうしてふたりで話しながら歩いている時間が、珍しいもの、であることはわかっているのだけれど、それ以上に、貴重で、大切なもの、みたいな感じがしている。そんな時間が夕方の僕の目の前を、緩やかな速度で流れていた。

 駅のホームに着くと電車を待つ時間はほとんどなかった。橘さんと僕は来た方向が別なので、帰る方向も別だ。じゃ、あたしあっちだから、と言って橘さんはすぐに僕の前を歩いて行った。

 歩道橋を渡って反対側のホームへ歩いている橘さんの横顔が見えて、遠くてよく表情は見えないけれど、きれいなんだろうな、と思った。

 今日は、いい一日を過ごせた気がする。すごくいい一日。いや、とてもいい一日を。

 橘さんが向こう側のホームに着いてこっちを見ている。どきどきする。近くにいる時よりもずっと。

 目が合っているような気がして、目を逸らした。少しして、視界に揺れ動く何かが見えた。もう一度目線を橘さんの方へ向けると、こちらに手を振っているのだと気がついた。手を振りかえそう。

 少し照れくさそうに、手を振りかえす。その瞬間、向こう側のホームに電車が近づく音がした。まるで、今日はこれにておしまい、と一日の終了の合図を告げる音みたいだった。

 電車が来るまでの時間、やることがないのはいつものことだ。いつもは、スマートフォンを触るだけのこの時間を今日はどうやって使おうか、そう考えるのは今日で二回目のことだった。今日、スマートフォンがなかった一日、というのを過ごしたけれど、橘さんと一緒にいられたおかげで、時間の流れを感じることや、その間を過ぎてゆく中の時間を潰す必要がない一日だった。

 薄く闇の中に姿を際立たせ始めた月を見ていると、電車がこちらにも近づいてくる音が聞こえ始めた。

 もう本当に一日が終わりそうだ。今日はよく寝られそうな気がする。疲れたわけではない。気をたくさん使ったのだ。心臓の音は普段より大きく、鼓動は普段より速く。

 家に着くと、母親が美味しい料理を作って待ってくれていた。どんな日を過ごしても、家族や自分の身の回りの人たちは普段と変わらない様子で自分に接してくれている。そんな人たちのことを頑丈だと思って、いつも羨ましくなる。何かに嫉妬したりするのだろうか、何か自分を否定されることがあると無言になったりしないのだろうか。いつまで経っても頑丈には生きられない自分のことを青いままで愛してみようなんていう寛大な心は持てない。卑屈になって、どうしようもないのが自分の人生であり、生きるということなのだ。

 椿くんは、橘さんは、自分より強く、逞しく生きているだろうか。うまくいってそうに見える人に置いていかれそうになった時、どんなことを考えるんだろう。何も考えたりはしないのか。素敵な答えを出してみせるのか。

 「タケオ、おかえり」

 母さんが食器を洗いながら僕に声をかけて、父さんはビールを飲みながらこちらを向いた。向いただけ。向いて、またすぐビールを飲み始めた。いつもと同じだ。

 「今日も図書館?」

 「そうだよ」

 「最近多いわね」

 「うん」

 「図書館では勉強してるの?」

 「そう・・・だね、友達と勉強してた」

 「お友達は何ていうの?名前」

 「え、橘って名前」

 「へぇ〜、大学に行きたいならスタートが肝心だから、まあ、早めにやるのはいいことね」

 「大学は、頑張るよ」

 「学費はちゃんと払ってあげるから、行きたいところに行きなさい」

 「別に、将来に夢とかないから、行きたいところに行くっていうより、

  行けるところに行く感じになりそう」

 「そう、まあ、頑張りなさいね」

 「夢ぐらい見つけた方がいいんじゃないのか」

 父さんが口を割り込んできた。こういう時、すぐに自分の部屋に入りたくなる。父さんと話しても、父さんの思いが答えになっていく。思い通りに答えが寄っていく。そういうのが嫌いで父さんと話すのは子供の頃からずっと避け続けてきた。

 「父さんは、夢あったのかよ」

 「俺はな、総理大臣になりたかった」

 「総理大臣?なれるわけないじゃん。父さん、頭良くなかったでしょ」

 「頭がいいかどうかは関係がない。大事なのは能力より動機や理由だ。

  能力は執念を産まない。動機は執念を産む」

 「じゃあ、父さんはなんで総理大臣になりたかったの?」

 「理由はなかった。だから今こうして普通のサラリーマンなんじゃないか」

 父さんはそう言って、自分の話を笑い話のように聞かせてくれた。いつもは答えを出そうとする父さんが今日は珍しく、正解を探そうとするのではなく、不正解を自分の懐から取り出した。そういう振る舞いをする父さんを見るのは、初めてかもしれない。

 いつもなら、親と話なんかせずに、帰ったらすぐに二階に上がって自分の部屋に入り、スマートフォンを触っていただろうと思い、もしかしたら今日、こういう会話ができたのは、自分がスマートフォンを持っていなかったからではないか、とまるでスマホを呪いの物体のように感じた。

 スマホが世界を映し出す無限の窓だとするならば、ついつい窓の外ばかり見てしまって、部屋の中が汚れているかだとか、部屋の中に誰がいるかだとか、そういうことを置き去りにしてしまうのかもしれない。

 夕飯は、カレーだった。誰も辛口のカレーを食べられない我が家では、カレーに卵を入れるのが習慣になっている。とろみや甘さが増して、とても美味しかった。

 お風呂に入っていると今日自分が言った言葉、聞いた言葉が次から次へと頭の中を緩やかに流れる。橘さんに僕が言った言葉、橘さんに言われた言葉、事故にあったこと、あたしの真似してね、と言われたこと、一周回ってお辞儀をしていた変な、でも可愛い瞬間、そのどれもが自分の視界に映る景色で、美しい眺めだった。僕の目はスマートフォンとは違って、世界を映し出す無限の窓ではない、有限だ。見たいものを自由に選択することもままならない。それでも、雑踏の景色にきらりとひかる群像が、僕にとってはかけがえのないものに思えた。明日からこんな生き方ができるかはわからない。明日は既にまた気が変わって、スマホに依存しきっているかもしれない。でも、それでも、今日一日は、いい一日だった。とても。

 気がつくと、僕は夢の中にいた。鏡の前には完璧な姿の僕が立っている。久しぶりだ。椿くん。

 椿くんになれたのは、これが三回目のことだった。

 「神様、どうして僕はここにいるんですか?」

 「夢の中だからだ」

 「いや、なんで今日僕はこの夢をまた見ているのかってことです」

 「それは、私にもわからない。気づけば君が鏡の前に立っていて、私はそれを見ているのだから」

 「不定期な夢ですよね」

 「ああ、そうだな」

 「それで、今日もまた人生をやり直させてくれるんですか」

 「勿論だ、君がそう望むのなら、何度でも」

 「わかりました」

 「ああ。ところでどうかね、現実の世界の君は。どんなふうに生きているのだ」

 「現実世界の僕、ですか。まあ、どうしようもないですよ」

 「何か嫌なことでもあるのか?」

 「人生自体が嫌で、その中にいいことがたまにあるってだけです」

 「うん、しかしいいことがあるならそれでいいじゃないか」

 「いいこと多い方が人生は楽しいでしょ、僕は、いいことが少ない人生だから」

 「それは、君自身で確かめることができる。この夢の旅を生きることで」

 「そうですね。生きてみます。

  話が変わるんですけど、今日、いいことがありました」

 「いいことか、珍しいことだな」

 「そうです。珍しかった。でも、いい一日だった。

  ずっと憧れてた人と、図書館に一緒に行って、いろんなことを話したんです。

  帰り道、今日みたいな一日が、ずっと今日とおんなじような景色と速度で自分の人生の目の前を流れていればいいのにな、って思いました。完璧じゃないけれど、今日ぐらいでいい、って思いました」

 「そうか、夢から覚めても、続いていくといいな」

 「はい」

 小学六年生の時、僕は非行に走っていたことを覚えている。学校の帰り道、畑沿いにある野菜の無人販売所で、料金箱に目をつけた。金属製の箱で、横から見ると小さな隙間があった。何か細い針金のようなものがあれば小銭を取り出すことができるだろうと思い、登校するときに家からこっそり、針金を持ち出したのだった。学校の帰り道、僕たちはその無人販売所の前で立ち止まった。まず、料金箱を思い切り蹴って小銭を箱の隙間の端の方まで寄せる。あとは針金で掻き出すだけだ。最低百円、運が良ければ五百円玉が出てくる。そのお金で自販機のジュースを買って、飲みながら帰るのが毎日の楽しみになった。

 だが、そんな日にも終わりが来るのだということを僕たちはあの頃、想像もしていなかった。僕たちの帰り道の楽しみが唐突に終わったのは、いつもより多くの友達と下校していた時のことだった。わいわい話しながら、噂の無人販売所へ向かう僕たち。その日、周りにあった雰囲気と喧騒の温度で、いつものメンバーが普段持っていた警戒心と冷たい緊張感が溶かされていた。

 いつものように無人販売所について料金箱を蹴る。犬を散歩させていたお姉さんがこちらを気にしながら携帯電話を取り出して、電話をかけた。やばいかも、今学校に電話かけてるのかも、とヒヤヒヤした。その日直接注意されることはなかったので、大丈夫だろうと高を括って、あまり気にせず、小銭を掻き出し、自動販売機でみんなでジュースを買って、楽しく帰った。その日は珍しく、五百円玉が取れたのだった。

 次の日の朝、内容は知らされず「全校集会をやります」という校内放送の声が天井から聞こえた。

 丁度、朝のホームルームが終わりかけていたころだった。

 「ねえ、やばくない?昨日の俺らのことじゃね?」

 「そうかな、でも大丈夫でしょ」

 「そう?だって内容知らされず全校集会とか初めてじゃない?」

 「そうだっけ」

 「そうだよ、ぜったいヤバいってタケオ」

 「そうだったら俺、中学受験、できないかも」

 「うん、終わった、あー、俺も終わった」

 手に汗を滲ませながら、僕たち主犯格のメンバーは体育館へと歩いた。

 結果、予想通り、僕たちのことだった。校長先生は名前を言わなかったが、今回起こった事件について、非常に残念なことが起こった、とその内容について説明した。集会が終わっってすぐ、「ねえ、誰だろ?馬鹿じゃない?」という女の子の声が聞こえた。事を起こした僕たちは集会が終わってすぐ、担任の先生と一緒に校長室へと連れて行かれた。そんなことしたら、教室に帰ってこないメンバーがやったってクラスメイトにバレるじゃないか、と不満だった。

 校長室へ向かう途中、担任の先生も僕たちも誰一人として、一言も言葉を発さなかった。

 「君たちがっやったことは、立派な犯罪です」

 冷たい声で校長先生はそう言った。

 「お前ら、十二歳にもなってやっていいことと悪いことの区別もできないのか」

 「はい」

 「人のものを盗むってことがどういうことかわかってんのか」

 「はい」

 「お前ら中学に行っても、そういうことすんのか」

 「はい」

 「はいじゃねえよ!金を盗むってことはな、相手にどれぐらい迷惑なことかわかんのか?

  わかってねえだろ、おい」

 「はい」

 僕たちは担任の先生が話す言葉のどれもを否定も、口答えもしてはいけなかった。返答が日本語として答えになっていなくても、ただ「はい」と何度も答えることしかできなかったのだ。

 結局その後、警察沙汰にすることはない、と無人販売所の農家の方が言ってくれた。

 内心、僕たちはほっとしていた。

 「良かった、まだ中学受けられる可能性あるわ」

 「それな、良かったわ」

 「農家の人ナイス〜」

 「いや〜、もっと見とくべきだったよな〜」

 「そうだよ、お前ちゃんと見とけって言っただろ」

 その後も僕たちは次の非行のアイデアと計画を学校の帰り(みち)に話しながら帰る事をやめなかった。

 

 気がつくと、僕は帰りのホームルームの時間にいた。

 「じゃあ、日直、帰りの号令をかけてください」

 担任の先生がそう言った。

 「しせい、れーい、かえりましょー」

 教室の全員が色とりどりの声で帰りの挨拶をして、みんなランドセルを背負い始める。心の中の僕は高校一年生の田中タケオなのだから、その景色は新鮮で、しばらくその様子を棒立ちで眺めていた。

 突っ立っていると、主犯格のひとり、戸田がニコニコしながらこちらに小走りで近づいてきた。

 「ねえねえ、椿くん!今日みんなついてくるらしいよ!あのお金のとこ!」

 「うそ?マジ?ぜったい楽しいじゃん」

 「だよね、今日は五百円玉でてくるといいなあ」

 「あれたまにしかでないしなあ」

 あの頃のことを思い出して言葉を返しながら僕は、「今日がバレた日だ」と確信していた。あの日もこんな会話を田中タケオはしていたのだ。ワクワクしながら。

 ここは夢の中だ。そして僕は椿くんになっている。今さっき戸田に「椿くん」と言われて、僕は今、夢の中にいて、椿くんになっているのだということを再認識した。

 「よし、じゃあいきますかー」

 やっぱりそうだ、今日だ、あの時の、あの日だ。椿くんはこの事件を()めるのか。どう()めるのか。

 僕たちは悠々と夕陽が照る帰り(みち)をぞろぞろと闊歩(かっぽ)し始めた。


 「いや〜、みんなで行くとより楽しいよね、椿くん」

 「うん」

 「ねえ、椿くん!誰が最初にやり始めたの?これ」

 「え、誰だっけ、僕かな」

 「椿だよ。椿は頭いいもんな」

 「まあ、誰でもいいでしょ。結局みんなやってるんだし」

 「赤信号、みんなで渡れば、怖くない、ってやつか!」

 「そうじゃない?多分」

 早くこれを止めなければいけない。この流れを。

 「今日はさ、やっぱりやめとかない?」

 「えー!なんで!?」

 「だってさ、だって・・・

  せっかくこんなに人数いるんだし、逆にお金めっちゃ入れた方が面白くない?、野菜何も貰わずに。

  普段めっちゃお金とってるでしょ?俺たち。だからさ、逆に今日はめっちゃ入れてみようよ。

  農家の人絶対びっくりするから!」

 「ええ、結局ジュース飲めないの?」

 「自分のお金で買ってみようぜ、たまには」

 「えー」

 「面白くねーわ、椿」

 「そうだよ椿くん!約束したじゃん!」

 「・・・でもさ、あのお金ってさ、

  人が感謝して、人を信用して、やっと貯まった大切なお金だと思うんだ。

  無人販売所なんて、誰も見てないんだから、お金入れずに野菜だけ持っていってもバレないでしょ。

  でも、ここに住んで、ここで生きて、ここにいる人を信用して、

  あそこにお金を入れてくれる人がいる。

  そうやってあったかい心で生きてる人たちの大事なお金なんだよ、きっと。

  僕たちが金を盗むべきなのは、悪い奴らからだ。

  世の中にはさ、人を(さら)って、その体を売り捌いてる奴なんかいるんだよ。

  いい人から金を盗む暇があるなら、悪い奴らを懲らしめる方法を考えた方がいいじゃん」

 「なにそれ!めっちゃ怖い!人の体売り捌く人いるの?解体されるってこと?」

 「そうだよ、油断してるとあの角からそいつ出てきて、お前を攫うかもしれないんだよ!」

 「やだやだやだ!やめます!お金盗むのやめます!」

 「なんか、やる気なくなったわ〜」

 「俺もやーめた」

 「おれも〜」

 「さんせーい」

 思っていた方向とは違う、でも、なんとなく収まったような気はする。ほっとした。

 「じゃー、やっちゃいますか!」

 「え!なにを?」

 全然反省していないのかと思って、一瞬焦る。もしかしてまだやる気なのかな。

 「お金めっちゃ入れるんだよ!」

 「いぇーい、恩返しだあ!」

 「いいねー!、じゃあその後は戸田の家でエロ画像みるぞー!」

 「さいこう!」

 馬鹿だなあ、と思って、でも、こんな時代もあったなあと思って懐かしくなった。

 「ねー、椿くん。次はどんな悪いことするー?」

 「もう悪いことしないよ、今日から俺たちは、悪い奴らを懲らしめる計画を立てる。

  ヒーローになるんだ」

 「かっけー!俺らヒーローになるんだって!」

 「うっせー」

 「じゃ、俺らこっちだから」

 「おう!じゃーな、金忘れんなよ!戸田ん家集合な〜」

 「うぃー」

 帰る方向が分かれて、いつもの登下校のメンバーに戻った。

 「なーつばきー、椿らしいな」

 「何が?」

 「何がってさー、なんていうかそういう、だれも傷つけない感じっていうの?」

 「そんなことないでしょ」

 「あるよ」

 「いっつも、なんか椿はさ、巧い答え、みたいなのを出すんだよなー」

 「へえ〜」

 「俺も椿みたいになるわ、いつか。なんでもできる奴。完璧な奴」

 「じゃあ、将来のライバルだね、僕の」

 「とだー、お前はどうなんだよ〜」

 「俺はね!エロ画像だけ見れればいいかな!」

 「アホかお前」

 夕陽が沈みかけている。記憶の断片はやけに現実的で、嫌なものもあった。

 その記憶を一つ一つなぞって、不完全な隙間を埋めていくような、そんな夢の中だった。


 時刻は朝の7時半。今日は月曜日で、学校がある。いつもの出発の時間は8時、十分間に合う準備までの時間だ、と思った。手を触れる布団の生地の感覚、鼻へ入る柔軟剤の匂い、朝の陽の光が作る優しい温度、ひとつひとつ、限りなく、繊細な感度で体が感じている。ここは現実だ。

 「タケオー、起きなさーい!七時半よー」

 「んんー!」

 眠いなあ、学校行きたくないなあ。なんで学校行かなやならないんだっけ。





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