4-2 物騒なマネージャー体験
「おはようございます! なずなさん、本日からよろしくお願いします!」
「すみません竜胆さん、今日からよろしくお願いします」
翌日、待ち合わせ場所である彼女の事務所へ向かうと、相変わらず眩しすぎるなずなさんが控えめに微笑んで待っていた。ああ今日も最推しが尊い……。おっと今は仕事中だ、集中しなければ。
事務所で仕事のスケジュールについて説明を受けてからなずな様を車に乗せて例のテレビ局へと向かう。今日は特番とは別の情報番組のゲストらしく、しかも生放送だ。遅刻は許されないしトラブルがあっても困るので随分早くスタジオ入りするとのことだ。
「なるべく早く犯人を見つけられるように頑張りますね」
「あの……竜胆さん。無茶はしないで下さいね? もしまた私の所為で誰かが怪我したら」
「大丈夫ですよ、そうなる前にできるだけ被害を防ぐように努力します。それに色々と秘密兵器もありますから」
「?」
実は今日の朝なずなさんの所へ向かう前に陽太君に呼び出されて「兄さんに頼まれて色々準備して来たからちゃちゃっと身につけてねー」と軽いノリであれこれ預かって来たのだ。
如何にも便利なものやちょっと物騒なものまで混じっているが、夕さんが依頼して陽太君が作ったものなら頼りになること間違いないだろう。
テレビ局の地下駐車場へ車を停め、なずなさんに案内されながら局内を進む。一応ビル内の構造は陽太君が見せてくれたものを今朝死ぬ気で覚えてきたが実際に歩くとまた印象が違う。時折すれ違うスタッフらしき人達に挨拶しながら色を確認するが、大体は忙しくてたまらないといった様子でなずなさんにしっかりと意識を向けている人は居なかった。
「なずなさんお疲れ様」
「お疲れ様です、幸田さん」
と、前から一人の男性がなずなさんに近づいて来た。見覚えがあるなと一瞬だけ考えたが、なずなさんの言葉ですぐにたまにドラマで見る俳優だと気付く。涼やかな塩顔イケメンだと評判だったはずで、実際間近で見ても顔がいい。
幸田さんはちらりと私の方を見ると「あ」と小さく声を上げ、気遣わしげになずなさんに視線を移した。
「その……大丈夫? 色々大変だって聞いたけど」
「……はい。心配して下さってありがとうございます」
なずなさんの件は他の人にも結構知られているんだろうな。幸田さんの色はなずなさんの言う通り心配するような色とそしてそれに紛れるようにほんの少し淡い桃色が混じっている。
おや、おやおや? これはもしや。
「あら、なずなさんに幸田さん。お疲れ様」
「ん?」
熱愛報道で炎上されるのは困るが推しには幸せになって欲しい勢としては、中々人の良さそうな幸田さんは優良物件なのでは? などと勝手に考えていると、突如二人の間に割り込むように声を掛けて来た女性が一人。
「逢川さん」
「こんな所で時間つぶしていたら間に合わなくなるわよ。さっさと移動したら?」
つん、とした如何にも気高そうな長身の女性。中々に派手なメイクをした彼女はなずなさんを少々冷たい目で一瞥した後「幸田さん、次移動でしょ? 行きましょう」と彼の服を軽く掴んで連れて行ってしまった。
「……あー」
このなんとも言えない気持ちをどうすればいいんだ。
彼女は逢川椎名。なずなさんと同時期にデビューした歌手で、アイドル路線のなずなさんとは違いロックスタイルの曲が多い強い印象の女性だ。
正直言って、結構好きだ。曲もダンスもかっこいいし女王様って感じで華がある。だから実際に目にしてちょっと性格が悪かったとしても「そこがいい」と言ってしまいたくなる。解釈一致。
……が、今私はなずなさんを守る探偵である。私情は排除して冷静に見なければならない。
「なずなさん、逢川さんとの関係を伺ってもいいですか」
「椎名さんは私の同期で、とっても歌唱力がある人なんです。私は仲良くしたいんですけど……」
向こうは敵視してくると。テレビ局で迂闊なことは言えないので言葉を濁したなずなさんに分かったと頷く。
一目見ただけで随分なずなさんに対抗心を抱いているのはよく分かった。幸田さんに対する態度も彼に好意を抱いている色は無く、ただなずなさんの邪魔をしたいというものに見えた。まあなずなさんは彼のことを何とも思ってなさそうだが。
……一応、候補者に入れておくべきだろう。なずなさんにマイナスな感情を抱いているのは確かなのだから。
「なずなさん入りました、お願いします!」
さて、今回は特に何事も無かった楽屋を通過してスタジオに入るとすぐにスタッフの人達が気付いてくれて対応してくれる。数が多いがさっと一通りに目をやって不審な色が無いかを確認する。
多少好意が滲み出ている色はあるが、まあそんなに危なそうな色は――。
「なずな君」
「プロデューサー、お疲れ様です」
あったー……。
なずなさんの側にプロデューサーと呼ばれた男が来る。五十代くらいでラフな格好をしたいかにもって感じの男だ。この男が警察を呼ぶのを止めたのか。
「君、代理のマネージャー?」
「そうです」
「しっかり頼むよ、これ以上問題起こされて困るのは僕なんだから」
「……は?」
「なずな君も、くれぐれも気を付けてくれよ? 君一人の体じゃないんだからね」
プロデューサーが至極馴れ馴れしくなずなさんの肩に手を置いて去って行く。は? 何? 一人の体じゃないって。アイドルだから大衆の為に怪我するなってことだろうけど言い方が気持ち悪すぎる。
というか色も不快だ。薄暗い色ばかりが全身を覆っていて、その中にもさらに暗い赤や紫、様々な色がぐちゃぐちゃに混ざっていて頭が痛くなる。これだったら完全真っ黒な夕さんの方が余程目に優しい。まあやつ自身は全く優しくないが。
なずなさんの表情も微妙に硬く、これは要注意人物だと頭の中でしっかりチェックマークを付けた。
「CM明けまーす。5、4……」
3、2、1とADが指でカウントを取った後、番組が始まった。
「今日のゲストはなんと今一番熱いアイドル、なずなさんです!」
「こんにちは、なずなです」
「今日は番組のラストに歌も披露して頂く予定ですので、皆さん楽しみにしてて下さい!」
にこ、とカメラ目線で完璧な笑顔を見せたなずなさんが軽く会釈する。そうそうなずな様は今一番熱いんです! っていうか前からずっと一番なんです! 司会の人そこんところもっと言って下さい!
今までのプライベートらしい彼女も最高だったが、いざカメラを向けられるとマジでアイドルだ。完っ璧な表情と所作、それなのに色も濁らずに全力で頑張っているその姿に、スタジオの端で見守っていた私は思わず顔を覆いそうになった。でもなずな様を目に焼き付けたいので覆わない。
「なずな様、マジ尊い……」
「分かります」
「っ!?」
独り言に返事をされて驚いて肩を飛び上がらせる。いつの間にか私の隣でうんうんと頷いていたのはADの男性のようだ。スタジオの端は照明も少なく薄暗い為、側に来たのにまったく気がつかなかった。
「こう何というか、他のアイドルとはオーラが違いますよね」
「ほんとそれです。なずな様は神が生み出した奇跡……」
撮影中のなずなさんに視線を向ける男に完全に同意、と頷いて私もなずな様を見つめる。どうやら今はIT企業の最新技術についてVTRを見ているようだ。画面の中では脳波を読み取って頭の中で考えていることがディスプレイに表示できるようになるという、喋れない人の為の機械について説明している。最近の技術の進歩すごいな。今私の頭の中覗いたら絶対になずな様への愛で溢れ返っていることだろう。
「――はい。という訳でなずなさん、いかがでしたか?」
「本当にすごいとしか言いようがないですね。言葉に出そう、って思った言葉しか表示されないっていうのもすごい技術で」
「はい、そこが一番評価されている部分なんですよ。ちなみにこの会社、ミスズテクノロジーはここ十年ほどで他の追随を許さないほどのさまざまな技術革新を見せていて、今一番注目の企業なんですよね。……さて、次のコーナーは若者に人気沸騰中の最新スイーツ特集です」
あ、なずなさんの色がちょっと華やいだ。かっわいい……スイーツ好きなんだね嬉しそうな色しちゃって。
「……ところであなた、仕事しなくていいんですか?」
「あっ」
なずなさんに見とれていたらしいADさんに声を掛けると、彼ははっと我に返って慌てて離れていった。大丈夫かあの人、というか――。
「……変なこともあるんだな」
■ ■ ■ ■ ■ ■
一旦番組が天気予報からの最新ニュースへと移った頃、なずなさんは次に歌の出番があるまで待機することになった。スタジオのセットも素早く入れ替えられており、その間司会であるアナウンサーの男性と共に隅に置かれている休憩用のテーブルでお茶を飲んでいる。
「竜胆さんも座って下さい。ずっと立ちっぱなしじゃないですか」
「いえ、私はマネージャーなので……」
「そんなの気にしないで座って下さいよ。ほら、椅子も空いてますから」
普段から長時間の尾行もしているので平気だと首を振るがアナウンサーさんにも促されて悩みつつも席に着く。いやだって、この小さな丸テーブルに三人だと必然的になずなさんの隣に座ることになるんですよ! 滅茶苦茶緊張するじゃん!
「いやーしかし、さっきのミスズさんのVTRすごかったですねー! 私工学部出身で機械に目が無いんですけど、あの会社本当にすごいんですよ! ね、なずなさんもそう思いませんか!?」
「はい、本当に……」
「それにまだ公式には発表されてませんけど、あの会社近いうちに人工知能を搭載したロボット――アンドロイドの試運転するって噂があるんですよ!!」
ぐいぐいと身を乗り出して興奮気味に話している男になずなさんがちょっと引き気味になっている。というか近くないか、ここはマネージャーの出番では?
「あの、ちょっと」
なずなさんはアイドルなんでもう少し離れてもらえますか。私がそう言って彼を引き剥がそうと立ち上がったその時――私は何かが視界に入った気がして顔を上へ向けた。
撮影を邪魔しない為に頭上は照明が切られて真っ暗だ。特に何もないなと思い直して首を戻そうとした直前、私はそこに……なにやら、嬉しそうな色を見た。
「は?」
瞬間、大きな音を立てて何かが降って来る。
「っなずな様!!」
なずな様なずな様なずな様が危ない!!
私は咄嗟に近づいていた二人にテーブルを倒しながら飛びかかった。驚いた二人の顔を見ながら三人で床へ倒れ込むと、ほんの一秒もしないうちに酷く大きな音を立てて照明が叩き付けられる。
「っ……!」
その場の誰もが沈黙して息を飲んだのが分かった。割れて飛び散った照明の破片が痛いが、今はそれどころじゃない。急ぎ犯人を確認しなければと顔を上げるが、しかしすでに逃げられたらしく先ほどの色はどこにも見当たらなかった。
「に、逃がした……!」
「竜胆さん!」
地団駄を踏みたくなるほど悔しい気持ちになっていると、我に返ったらしいなずなさんが泣きそうな顔で私に手を伸ばして来る。いや駄目ですよ、こっち来たら破片とかが危ないですから。
「何の騒ぎだ!?」
プロデューサーも慌てた様子でこちらへ走ってくる。そして床へ叩き付けられた照明を見て怒りの色を露わにした彼は、しかしすぐにはっと時計に視線を落として「まずい」と呟いた。
「なずな君、時間だからステージに立って!」
「え」
「こ、こんなことがあってもやるんですか!?」
「当然だろうが! 今日の放送はこの歌に数字が掛かってるんだぞ! ほら早く」
「で、でも竜胆さんが」
「たかがマネージャー一人怪我したくらいで番組中断させてたまるか!」
ぐ、となずなさんが手を握りしめると共にその穏やかな色に強い怒りが混じるのが見える。今にもプロデューサーに怒鳴り掛かろうとしている彼女を見て、私は慌てて彼らの間に体を割り込ませた。
「なずなさん! 私のことは気にせず歌って下さい!」
「竜胆さん何を言ってるんですか! そんな怪我してるのに」
「自分の所為でなずなさんの歌を生で聞くチャンスを逃すとかあり得ません!! 私の為にもどうか聞かせて下さい!!」
「……」
いや無理でしょ、私の所為で最推しの歌聞けなくなるとか。そもそも此処で中断したらそれこそプロデューサーの言う通り視聴率が減ってその責任をなずなさんに押しつけられるかもしれないし。
「……分かり、ました」
「ありがとうございます!」
思いっきり頭を下げたら何か温かいものが顔を伝った。あ、やば、血出てるわ。
知られたら絶対に気にされると思いそのまま頭を下げ続けているとぱたぱたとなずなさんが走り去る音が聞こえ、ほっとしながら顔を上げた。
「ふん、新人の割に中々弁えてるじゃないか」
「……どうも」
満足げなプロデューサーに本心を隠して笑って見せる。あんたの為じゃなくてなずな様……というか自分の為ですから!
……なお、その直後血を見てしまった他のスタッフが慌てて私を医務室に担ぎ込んだ為、結局私はなずな様の生歌を聞く機会を逃してしまったのは余談だ。
■ ■ ■ ■ ■ ■
「やっぱりプロっていうかですね、なずなさんあの後も完璧に歌ってくれたらしいんですよー」
『はあ』
「というか真面目に悔しいんですけど。せっかく陽太君が作ってくれた内ポケットにも入る超コンパクト救急箱の出番だと思ったのに有無を言わさず引きずられて……」
『その話はどうでもいいんですが。私は怪我の具合を聞いてるんですよ』
翌日、私は朝早くから仕事だった為事務所には行けず、例のテレビ局の楽屋近くで夕さんに昨日の報告をしていた。
「怪我は然程。ちょっと頭切った所為で血が出ましたけどすぐに止まりましたし。大したことはありません」
『……ならいいんですが。あまり依頼人の精神に負担を掛けないようにして下さい』
「あ、それはかなり反省してます。あの後医務室でなずなさんに泣かれてしまって……推しを泣かせるとか本気で罪深いことを」
『必要なこと以外喋らないでもらえますか』
夕さんの声が死ぬほど冷え切っているのを感じて流石に黙った。
『昨日の映像は全て確認しました。そこで気になったんですが、どうやら犯人は加神さん本人を傷つけようとはしていないみたいですね』
「え?」
『正確に言うと身体的なものに限り積極的には、ですが。あなたのヘアピンに付けたカメラ映像を見る限り、照明の落下地点に居たのは加神さんではなく竜胆さんです。確かに飛んできた破片などで怪我はするかもしれませんが、落ちた照明が直接当たる場所ではなかった。あなたの犯行直前に犯人が頭上に居たという証言から考えると、わざと加神さんではなく竜胆さんを狙ったと考えていいでしょう』
「……あ、そっか。それに前のマネージャーさんも」
『そうです。わざわざ一人になった時にその女性も狙われた。しかも楽屋にあれだけのことをするということは、犯人は加神さんを精神的に追い詰めたいんでしょうね』
「ほんっと、見つけたら絶対に許さない……」
『ああそれと、嫌がらせがエスカレートした一ヶ月前ですが、どうやらその頃から特番の収録が始まったようです。ですからやはり、局内でもその番組に関連した人物が犯人である可能性が高いですね。不審な人物は居ましたか』
「んー……そうですね」
夕さんの言葉通りなら、昨日会った幸田さんと逢川さんは特番には出ておらず容疑者から外れるだろう。それにあの二人なら、特に逢川さんとなずなさんは以前から歌番組とかで共演も多かったので今更犯行に及ぶ意図が分からない。
では残った中で番組に関与していて怪しいのは……。
「プロデューサーは……正直かなり嫌な色してましたけど」
『ですが自分の番組でわざわざ評判を下げかねない行動をするとは考えにくいですね。……いえ、それを逆手に取っている可能性もありますか。警察に連絡させないと言ったのも彼ですし。他に不審な色を持った人物は?』
「不審な色……」
はっと、そこで私はふと昨日少し話した彼を思い出した。
「あのー……不審とはちょっと違うんですけど、一応いいですか」
『どうぞ。何か気付いた点は全て共有して下さい』
「番組のADの一人が……色が見えなかったんです」
『見えない?』
「はい。何故かその人だけ全然色が見えなくて」
昨日収録中に仕事をさぼっていたなずなさんのファンらしきADさん。同士である彼は何度見ても一切の色が見えず、おかげで近づいて来るのにまったく気付かずに驚いた。
「もしかして私と同じ体質なんですかね? 私も自分の色見えませんし」
『どうでしょうか。そんなに同じ共感覚の人間がほいほいいるとは思いませんが』
「まあどちらにしても彼は犯人ではないですね。だって犯人は色見えてましたし」
照明を落とす直前に見えたあの途轍もなく嬉しそうな色はしっかりと目に焼き付いている。人を怪我させる瞬間にあんな感情を抱いているとかマジでやばいやつだ。
『……一応、そのADの名前を伺っても?』
「あ、すみません。すぐに居なくなったので聞いてません。撮影中になずなさんについて喋ってた人なんですけど」
『カメラ映像で確認するので少し待って下さい……ああ、彼ですね。分かりました。一応プロデューサーと共に調査しておきましょう』
「お願いします」
『本日も昨日と同じ手筈で。ですがくれぐれも、これ以上の怪我には気をつけて下さい。それでは、何かあればすぐに連絡を』
「はい」
ツーツー、と途切れた電話の無機質な電子音から耳を離して楽屋へと戻る。そこではなずなさんが女性スタッフ二人にメイクとヘアセットを施されており、まだまだ時間は掛かりそうだった。今日は特番内でのライブ映像の収録らしいので昨日よりも準備がいるようだ。
「なずなさん、私少しお手洗い行ってきます」
「はい。……気をつけて下さいね」
本番が始まる前にささっとお手洗いに行っておこうとなずなさんに声を掛けると、鏡越しに私を見た彼女に心配の色が浮かぶ。とはいえたった数分のことなので大丈夫だと軽くて手を振り、忘れないようにカメラ付きのヘアピンを鞄の上に置いてから楽屋を出た。うっかり付けて行ったら私も夕さんもいらんダメージを食らってしまう。
特に何事もなくお手洗いを済ませ楽屋に戻る。道中も一応周囲を警戒しながら慎重に足を進め、そして辿り着いた楽屋の扉を開けた時、何故かその部屋は先ほどの楽屋ではなく薄暗い資料室になっていることに気付いて私は首を傾げた。
「あれ? なんで……ん?」
冷静に思い直してみると、そういえば戻る時に昨日の楽屋の方向へ行ってしまった気がした。階数が違うので部屋は違うが、どちらにしろ今日の楽屋は逆方向だ。
あー、びっくりした。一瞬時空が歪んだかと思った。自分のミスをすぐに他の何かの所為かもと考えるのは良くないなと小さく首を振って、私は改めて楽屋へ戻ろうと資料室の扉を閉めようとした。
「……ぁ」
完全に扉が閉まるまであと数センチ。しかしちょうどその時、私は薄暗い部屋の中に微かな色を見た。間違えるはずがない――絶対に忘れやしないと目に焼き付けた、あの色を。
「……」
どうする私。生憎カメラは楽屋に置いてある為こっそり隠し撮りはできない。そしてここでドラマのように「お前が犯人だな!」と声高に飛び出すのは勿論却下だ。犯人が誰かにもよるが恐らく返り討ちに遭うだろうし、そもそも物理的な証拠もないので言い逃れされたら勝てない。
だがここで見逃してしまえばまたなずなさんの周囲の誰かが被害に遭う。せっかく犯人が特定できる機会をむざむざ逃す訳には行かない。せめて夕さんに指示を仰ぎたいがスマホはヘアピンと一緒に鞄の上だ。だってお手洗いに持って行くとうっかりポケットから落とした時悲惨なことになるし……。
落ち着け、冷静になれ。……とにかく今一番大事なのはこの部屋の中にいる人物が誰なのか特定することだ。何てことは無い、別に私は道に迷っただけのただのマネージャーだ。正直にそう言って楽屋への道を聞く、それだけでいい。こちらが下手を打たなければ犯人だってわざわざ尻尾を出そうとしないだろう。犯人さえ特定できれば後は夕さんが何とかしてくれる。
「あ、あのー……誰かいませんかー? 迷ってしまったんですけど……」
部屋の電気を付けて資料室内をぐるりと一瞥する。が、誰も居ない。というよりも誰か居たとしても資料が詰め込まれた棚がいくつも並んで視界が遮られている為、誰かが居たとしても分かり辛い。
先ほどの色は見えない。入り口は一つなのでまだこの部屋の中にいるのは確実だと思うのだが……。
「すみませーん……、ぎゃっ!」
絶対に色を見逃すものかと周囲を見回しながら歩いていると、不意に何かを踏みつけて思い切りバランスを崩した。そのまま転けそうになるのをすぐ側の棚を掴んで防ぐと、私は一度ほっとため息を吐いて踏みつけたものを見下ろした。
「ビン?」
落ちていたのは栄養ドリンクが入っていそうな小さなビンだった。ラベルには“HCI”と書かれている。なんだろう。
「何かの略称? 英語苦手なんだけど、――っ!」
ビンに目を向けたその一瞬、視界の端に色が見えた。
私が咄嗟にそちらを振り返ると、次の瞬間目の前が覆われると同時に強い衝撃が額を襲った。
「いっ……」
何か固いもので殴られたことだけ分かる。
痛い、痛すぎる。よくもやりやがったなと犯人を見ようとするが目の前がぼやけて誰なのか分からない。すぐに立っても居られなくなってそのまま床に倒れ込むと、滲んだ視界の中であの色が広がったのが分かった。
「やっちゃった、な」
あー、悔しい……。また犯人を喜ばせてしまう。また、なずなさんを悲しませてしまう。
後悔してももう力も入らなくて、私はそのまま意識を手放した。