4-1 好きな人の前では豹変もする
「この日をどれだけ待ち望んだことか……!」
今日は平日、しかし仕事は休みである。何が何でも今日という日を休みにする為にここ数日全力で仕事に取り組み無理矢理有給をもぎ取った。夕さんは「いつもそれくらいやる気があれば」と呆れていたが、火事場の馬鹿力でもなければこんなに頑張れるもんか。
「もうすぐだ……やっと始まる」
水よし、キンブレよし、涙を拭くタオルよし。部屋は雨戸まで閉めて一切光が入らないようにしてあるし、平日の午前中なだけあって周りの住人はみんな仕事で居ないだろうから大声を出しても大丈夫。
映画館のようにテレビ画面の明かりだけが部屋の中を照らす中、徐々に迫る開始時間を今か今かと待ち続ける。
あと少し……少し……
「!」
画面がふっと暗転する。そして色とりどりの微かな光と共にわあ、とたくさんの人の歓声が聞こえてきた。
ばくばくと心臓の音が大きくなる。キンブレを握る手にも力が籠もって、照明が付き音楽が流れるステージをただただ見つめる。その人が現れるまで、じっと。
そして――。
『みんなー! 来てくれてありがとー!』
「っきゃああああ! なずな様!! なずな様来たああ!!」
待ちに待ったステージに現れたのはきらびやかな衣装を纏った女性――いや最早神、なずな様は笑顔で客席に手を振ると、一曲目に私の大好きな曲を歌い始めた。
「いや全曲大好きですけど!? はあああ好き……!」
誰に言ってんだとばかりの大声だが許してほしい。だってなずな様を前にしたら誰だってこうなる。曲に合わせて画面の向こうのファンと共にキンブレを振っていると、最高潮に達していたテンションに水を差すようにインターホンの音が鳴った。
「ひえ、なずな様スタイル良すぎ……お美しい……素晴らしい!」
しかし当然ながら無視する。そのままライブに集中しようとするが、何度も何度も耳障りな音に邪魔をされる。
しまいにはスマホまで着信を知らせて来て、私は苛立ちを高めながらちらりと着信相手の名前を見た。
“青海夕”
「い、いやいやいやいや……私は今日は有給、仕事なんてしないぞ」
一度切って見ても間髪入れずに再びスマホが鳴る。嫌な予感しかしない。電源を落とそうかとも考えたが、どう考えても家の前に来ているであろう人間は夕さんだ。あの人のことだからまた何かしらの妨害をしてくるのは間違いない。
はあああああ、と心底大きなため息を吐き、私は根負けしてスマホを耳に当てた。
「……はい」
「さっさと開けなさい」
ほらみろ。
「嫌です」
「仕事です」
「有給です!」
「緊急です。有給はまた別の日に振り替えますから出てきて下さい」
冗談じゃない。私が今日この日をどれだけ待ち望んでいたものか。絶対に仕事なんてしてやるものかと強気でいると、電話の向こう側で酷く呆れたような短いため息が聞こえてきた。
「そんなに頑なに断るって、一体今日何があるんですか……。とにかく、一度出てきてもらっていいですか。本当に退っ引きならない事態なら考慮しますから」
「……」
絶対に嫌だ、このままずっとなずな様を見ていたい。……が、流石に少し冷静になって来た。これでも一応社会人だ。推し活は大事だが、推しに貢ぐ為にも金がいるし仕事をしなくてはならない。
私は電話を切って立ち上がると部屋の電気を付け、玄関の鍵を開けた。当然のように目の前に待ち構えていた夕さんは、私の姿を見ると一度目を瞬かせ、そして一瞬の間をおいてぎょっとした。
「竜胆さん……」
「え、なんですかその顔? 何かありました?」
「何かというか……」
「あ」
言葉を濁す夕さんの視線に釣られて自分を見下ろしてようやく気づく。私が着ているのはいつも仕事で着るようなカジュアルなスーツではなくライブグッズの鮮やか過ぎるTシャツ。首には同様にグッズのタオルが掛けられて、片手には名残惜しげに掴み続けていたキンブレが一本、光りっぱなしの状態である。
「……えっと」
「随分、お楽しみだったようで」
「と、とにかく立ち話もあれなので上がって下さい」
なんとも言えない微妙な表情にちょっと居たたまれない気持ちになる。が、もう誤魔化しようがないといっそ開き直って部屋の中へと案内した。
テレビは相変わらずなずな様のライブが続いていて、夕さんがいるから切ろうと思ってもどうしてもリモコンに手が伸びない。
「これは……加神なずなさんですか」
「!!」
その瞬間、私は思わず夕さんの両肩にがしりと思い切り掴みかかっていた。
「夕さん!!」
「竜胆さん、何を」
「殆ど公表されずに一般的にはあまり知られていないはずのフルネームをご存じとは、つまり夕さんは私の同士――」
「違います」
あまりに即答だった。なんだせっかく仲間ができたと思ったのにがっかりだ。
「期待して損した……」
「あなた今日テンションおかしすぎでは……?」
「私は! この一週間このライブを見るためだけに頑張って来たんです! なずな様を見る時にテンション上がらない訳ないでしょうが!」
「なずな様って……というか、これを見る為にわざわざ有給取ったんですか?」
「何が悪いんですか!」
「悪いというか、この番組別に生放送でも無いでしょう? 録画もしているようですし、わざわざ仕事を休んでまでこの時間に見る必要あります?」
「はあ? 現場へ行けないドルオタにとって、たとえ生じゃなくても最推しの番組リアタイしたい気持ちが分からないと?」
「全然分かりませんが。そもそも何言ってるかもよく分からないです」
「というかなんでこのライブが録画だって知ってるんですか。やっぱりさっきは否定してたけど夕さんもなずな様の隠れファン……」
「じゃないです。はあ……このテンションに付き合うの疲れるな。単刀直入に言いますが」
「はい」
「もうすぐ加神さんが来るんですよ」
「何処に?」
「うちの事務所に」
「へー……うちの探偵事務所になずな様が。…………は?」
「この女性」
固まった私を無視して、夕さんはテレビ画面で華麗なダンスと歌を披露する彼女に視線を向けた。
「加神なずなさんが今回の依頼人です」
■ ■ ■ ■ ■ ■
「いいいいやああああああっ!」
「いい大人なんですから静かにして下さい」
「ここから……ここから出して!」
あの後さっさと身支度を急かされた後無理矢理車に乗せられた私は、どうにか事務所へ行かない方法は無いかと先ほどから必死にこの空間から逃げようとしている。
隣で運転している夕さんは酷く煩わしそうだがこれは私にとって死活問題なのだ。いいから早く下ろせ。
「お願い、お願いですからなずな様とは会わせないで何でもしますから」
「あなた彼女のファンなんでしょう。むしろ喜ぶと思っていたんですが」
「あのですね、世の中には推しに認知されたいオタクと陰からそっと見守りたいオタクがいるんです」
「はあ……」
「そして私は後者……と、言いたいところですが。正直いっちばん重要なことがあるんです」
「はいはい、なんですか」
「推しを直接前にして……今までのイメージを壊したくないんです」
悪夢が蘇る。いや冤罪になった時よりかはましだけど、それでも相当ショックだった思い出だ。
昔、私がまだ学生時代の頃、この目に振り回されて人間不信に陥りかけていた。誰も信じられないと思っていたそんな時に出会ったのが、アイドルだった。ステージの上でキラキラした笑顔で歌い踊る彼に初恋を奪われたのは今では非常に苦い思い出である。
彼をきっかけにして私はアイドルが好きになった。辛いときでも寂しい時でもいつでも楽しませてくれる彼らにどんどんのめり込んでいき、そしてそこで調子に乗ってしまった私は、一度だけ近くでラジオの公開収録があった時に本人を見に行ってしまったのだ。
『いつも僕を応援してくれてありがとう』
『ファンのみんな、愛してるよ』
彼の言葉に周りのファンが黄色い悲鳴で色めき立つ。しかしその中で私一人だけ、にこにこと微笑む彼の本心が透けて見えてしまったのである。
「あの時は明確に分からなかったんですけど、今思えば「あーブスばっかだしやる気出ねー」「言葉ひとつでちょろい馬鹿な金づる共だな」って色でした」
「滅茶苦茶具体的ですけど」
「ちょっと盛りましたけど大体あってると思いますよ。しばらく後にあの人トークアプリの内容晒されて炎上しましたし」
「そういえば画面越しでは色は見えないんでしたか」
「そうなんです。だから私は! 夢を! 壊したくないんですよ!!」
だからこそ今までライブもイベントも全て我慢して映像だけで応援してきたのだ。ここに来て、しかも最推しのイメージがばっきばきに壊れてしまったらもう立ち直れる気がしない。
私がいかに憧れは憧れのままにしたいかを熱弁していると、夕さんはうんうんと賛同するように頷いてくれた。
「事情は分かりました」
「本当ですか!?」
「まあ連れて行くことに変わりありませんが」
「夕さんの鬼! 腹黒! 悪魔! イメージ崩れる心配もないどん底!」
「はっ倒しますよ」
■ ■ ■ ■ ■ ■
「加神なずなと申します。今日はよろしくお願いします」
「……」
私が誘拐されて事務所に連れて来られてからおおよそ三十分後、その女性は少々緊張した様子で姿を表した。
机を間に向かい合いいざ最推しと顔を合わせた私はしばらく口を開けたまま呆然と彼女を見つめた後、とうとう堪えきれずに俯いて両手で顔を覆った。
「神が、神がいる……女神じゃん……」
「あ、あのー……」
「ああすみません。彼女、どうやら加神さんの大ファンらしくて。ちょっと言動がおかしいですがどうかお気になさらず」
ちゃんとしろ、と隣から夕さんに小突かれるがちょっと待って下さい。ちょっと心の整理が付いていないのだ。
ライブも行かず、初めて生で見たなずな様。彼女が体に纏うクリーム色の穏やかなそれを見て私は感動に打ち震えている。
私の“目”で見える色には大きく二種類ある。一つはその人本来の性質の色で、夕さんや陽太君でいうところの黒や白だ。基本的に全身にその色を取り巻いていて、大きくその人の性根が変わらない限り――それこそ人格が変わるだとかでなければ――変わらない色だ。
そしてもう一つはその時に抱いている感情の色だ。これはその時々によって自在に変化し、前者とは違い体のあちこちにぼんやりと現れてはそのうち消える。
そしてなずな様の纏う優しげなクリーム色は彼女の全身を覆っている。つまり何が言いたいかもう分かるだろう。
「え? そうなんですか、嬉しいです! 応援して下さってありがとうございます」
「ひ、あ、あの……すみません好きですCDもDVDも全部買ってますすみません!!」
本当に、心底嬉しそうな色を見せて表情を綻ばせたなずな様を間近で見てしまって、顔がとんでもない熱を持つのを感じる。
こんな嬉しい誤算があっていいのか。陽太君のような真っ白ではないが、むしろそれが逆に人間味があって余計に素晴らしい。正直陽太君は真面目に人間かと疑いたくレベルである。
あのトラウマになった男だけが最悪だったのか、それともなずな様が特別なのか。とにかくこんなことなら恐れずにライブに行くべきだった。次からは絶対に行く、たとえどんな仕事があろうが今度こそ有給をもぎ取る。
「竜胆さん……そろそろいいですか」
「は、はい。すみません」
あわあわと混乱しながらなずな様に好きですと言いまくっていると、痺れを切らした夕さんが穏やかな声で制止を掛けた。……表情も声も依頼人の前なので気づかれないようにしているが、分かりやすく苛立ちの色が見える。私にだけ「いい加減に仕事をしろ」と言うドスの聞いた副音声がよく聞こえてくるようだ。
「それでは、詳しく依頼内容をお聞かせ下さい」
「はい。……実は、嫌がらせにあっていて」
「なずな様に嫌がらせだと!? 何処のどいっ」
隣から足を踏まれた。
「失礼しました。続きを」
「え、はい。……えっと、前々から誹謗中傷の手紙とか脅迫状とか、そういう普通の嫌がらせは皆あることなので別によかったんですけど」
「芸能界闇深すぎじゃないですか……?」
「最近、ここ一ヶ月くらいで急にエスカレートして来たんです。それも、私だけを狙うようにして……」
「具体的な内容は」
「私が撮影する時に使う機材や小道具が壊されていたり、楽屋が荒らされていたりして。これがその写真です」
なずな様……今は依頼人なので自重しよう。なずなさんが差し出して来た写真を夕さんと共に覗き込む。何枚かの写真には壊されたカメラやマイク、そして引き裂かれた衣装などが写されており、そして最後の一枚を見た瞬間私は思わず息を飲んだ。
これが楽屋の写真だろう。机や床には割れた鏡やコップなどが転がっていて部屋中が滅茶苦茶に荒らされている。そして何より、その壁一面になずなさんの写真が貼り付けられており、その全てが赤い×印で顔を塗りつぶされていた。
「何これ、酷い……」
「これだけじゃないんです。一番酷いのは……私のマネージャーが、昨日階段から突き落とされました。誰かに背中を押されたって、それだけ伝えて今は意識不明です」
「なるほど、状況は分かりました。しかし何故探偵へ依頼を? 器物破損と障害事件、立派に警察の管轄かと思いますが」
「それは……」
なずなさんが俯く。膝に置いている両手は震えていて、そして彼女の色に怒りが混じるのが見えた。
「実はこの事件、全て同じテレビ局内で起こっているんです。今そのテレビ局で特番の撮影をしていて……少なくともそれが終わるまでは騒ぎにしたくないってプロデューサーが」
「ははあ、そういうことですか。まあそう言いたい理由は分からないでもない」
「え? 夕さん分かるんですか? なずなさんを危険に晒して放っておくやつの気持ちが!?」
「いいですか竜胆さん。これらの事件は全て同じテレビ局で行われている。そしてその被害は機材や楽屋、特に楽屋の惨状を見れば十分に時間を掛けて行われたのは明白です。つまり犯人はこの場所に出入りできる人間、スタッフや出演者などの関係者である可能性が高いという訳です」
「……あーつまり、公表されるとただ騒ぎになるだけじゃなくて、犯人が捕まった場合局の関係者が犯人だと知られてしまってスポンサー契約とかがやばいってことですか」
そりゃあただの被害者ではなく、加害者も身内だったと知られれば荒れるだろう。だがそれでなずなさんが危ない目に遭うというのなら私には知ったことでは無いが。
「でも流石に危ないからって、マネージャーと相談して探偵さんに調査してもらおうって話をしていたんです。彼女がこの事務所が評判がいいから行きましょうって言ってくれて。……でも、それを話していた後すぐあとに階段から突き落とされてしまったんです」
なずなさんは片手で目元を拭うと、一度顔を上げて私達を交互に見て、そしてまた深々と頭を下げた。
「お願いします、彼女を傷つけた犯人を探して下さい! デビューの時からずっとお世話になって来たのに私の所為であんなことになって……絶対に許せないんです」
「竜胆さ「はい!」
夕さんが手を差し出すずっと前から準備していた書類一式を食い気味に差し出す。この依頼を断るなんて全く考えていなかったし、もし夕さんが断っても説得するつもりだった。
「ご依頼承りました。依頼料と契約書の話に移りましょうか」
「ありがとうございます!」
「いえいえ、仕事ですから。ああそれと……この調査にあたって一つお願いがあるんですが」
「はい、私にできることなら」
「では調査期間中、あなたに付き人を付けることは可能ですか? もしくはマネージャー代理でも構いません」
「できると思います。というよりも、今事務所も人手不足で代理のマネージャーもすぐに手配できないって言われまして」
「なるほど、それは好都合だ。あなたには仕事中、この竜胆を側に付けます」
「え? ちょっと夕さん?」
「彼女は非常に“目”が良いんです。あなたに危険が迫る前に悪意から守ることも可能でしょう。竜胆さん、やれますね?」
「……もっちろんです!! 命に代えてもお守りします!!」
夕さんの意図を悟って強く肯定した。なるほど、確かにこれは私向きの仕事だ。おまけに依頼人はなずなさん、どんな手を使ってでも守らなければ。
「お気持ちは嬉しいですが、命には代えないで下さいね?」と心配そうに控えめに告げられた言葉に、私は最推しが優しすぎてつらい……、と顔を覆いたくなるのを必死に堪えて大きく頷いた。
■ ■ ■ ■ ■ ■
無事に契約書も書き終えて少しほっとした様子で帰って行ったなずなさんを見送ると、「さて」と改まった様子で夕さんがこちらを振り返った。
「竜胆さん、あなたのやるべきことは?」
「はい! 依頼人の周囲の人間を観察して怪しい色を持った人間を特定することです!」
「よろしい。悪意を持った人間を確認した場合はできる限り被害を未然に防いで下さい。こちらも外側から調査をしますが、何しろテレビ局なんて人も多い。ある程度容疑者を絞って頂ければこちらの調査も捗りますから。……あと、一応言っておきますが、くれぐれも公私混同だけは避けるように」
「勿論です。なずなさんの迷惑になるようなことだけはこの竜胆瀬名、絶対にしないと誓います!」
「いつもそれくらいのやる気があると助かるんですが。……いや、常時これだと鬱陶しいな。何でもありません」
「全部聞こえてますが」
「それはそうと竜胆さん、加神さんの代理マネージャーを務める訳ですから当然それらの業務について一通り学んで頂きます」
次の瞬間、重い音を立てて私のデスクの上に分厚い冊子が積み重なった。この人いつの間にこんなもの買ってきたんだ。もしかして依頼の予約が来たその時からもうこうするつもりだったのか……?
「明日までに完璧に叩き込んで下さいね」
「……」
「竜胆さん、返事は」
「ところで夕さん、この事件の調査にあたって、勿論依頼人についても知る必要があると思いませんか?」
「? ええ、そうですね」
「なら」
私は鞄から漫画雑誌ほどの紙束を取り出すと、それを力強く夕さんのデスクへと叩き付けた。今日の私はやられっぱなしでは済まされないぞ。
「加紙なずな様のデビューから現在まで、全て此処に詰まっています」
「は?」
「今日中に全部、完璧に叩き込んで下さいね?」
「……あなた、これいつの間に」
「いつでも推しを布教できるように準備しておくのは当然では?」
「……」
滅茶苦茶大きなため息を吐かれたが、「分かりました」と夕さんは観念したように私手作りのプレゼン資料に手を伸ばした。
これを期に夕さんもなずな様の魅力を知るといい!!