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シロクロ男  作者: とど
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2-2 二人の秘密


 今の時刻は日が沈んだ午後八時。この男、青海夕と顔を合わせてからおおよそ半日といった所だろうか。


「は?」

「いえですから、約束通りあなたを助けて差し上げましたよ」


 口を開けて呆けているばかりの私を見下ろして青海さんは、「此処で突っ立っていても仕方ありませんから行きますよ」とさっさと歩き出す。私はそれに釣られるようにふらふらと彼の後を追って足を動かし始めた。


「あの……本当に釈放されたんですよね」


 ちらりと背後を振り返ると窓から明かりの漏れる大きな警察署がはっきりと映る。


「だからそうだと言っているでしょう。どれだけ実感がないんですか、まったく助け甲斐の無い人ですね」

「いやだって、あまりにも早すぎるでしょ!?」

「まあそこは色々と伝手があるので」

「こわ」


 意味深な表情にそれ以上突っ込むのを止めることにする。何はともあれ、私は無事濡れ衣を着せられずに済んだらしい。

 ところで何処へ向かっているのだろう。迷いない足取りに首を傾げて尋ねてみると「すぐに分かります」とだけ返された。


「此処です。見覚えは?」

「……いえ、無いと思いますけど」

「でしょうね」


 ならなんで聞いたんだ。

 辿り着いた先は繁華街から少し離れた場所にある一軒のバーだった。高い植木の所為で隠れ家のようになっている其処へ入っていく青海さんの後を追うと、ほどよく照明の落とされた雰囲気の良い小さな空間が広がっている。

 カウンターの中で何やら作業をしていた壮年の店員が青海さんの姿を見ると品良く微笑んだ。


「マスター、どうも」

「いらっしゃいませ青海様……お連れの方もお元気なようで何よりです」

「?」

「何呆けているんですか。さっさと座ってください」


 マスターの言葉が引っかかって立ち止まっているとまた青海さんに急かされる。そうして促されるままにカウンター席に座ると「また酔っ払われて記憶が飛んでも困りますのでノンアルコールにしてください」とメニュー表を差し出された。仕方が無いが根に持たれている。


「私はいつもので」

「よく来てるんですね……じゃあ、シンデレラで」

「少々お待ちください」


 普段ビールとかチューハイばっかりでこんな洒落たバーでカクテルなんて飲んだことないぞ……と軽く震えながら何とか名前を知っていたノンアルコールカクテルを頼む。

 すぐに鮮やかな手つきでカクテルを作り始めるマスターを眺めていると、「さて」と改まった様子で青海さんがこちらを振り返った。


「話を整理しましょうか。あなたは数日前に起こった殺人事件の容疑者として今日まで警察に拘束され、そして先ほど無実と認められて釈放されました」

「えっと……今更ながらありがとうございました。何をやったのか分かりませんが本当に助かりました」

「なに、簡単な話です。真犯人の情報を警察へリークしただけですから」

「そういえば真犯人を探してくれるって言ってましたけど……え、結局誰だったんですかあの上司を殺した犯人って」

「あなたの同僚の一人ですよ。確か飯田さんでしたっけ」

「飯田さん……飯田さん!? はあ!?」


 私は思わず店であることを忘れて立ち上がり大声で叫んだ。すぐにはっと我に返ってマスターを振り返ると、彼は特に咎めることなく微笑んで二つのグラスをカウンターへ置いた。


「お待たせいたしました。ジントニックとシンデレラです」

「あ、どうも……」


 慌てて席についておずおずと黄色のカクテルを受け取る。心を落ち着かせる為にそっと口に含むとすっとさわやかな甘みが広がった。美味しい。美味しすぎてあっという間に飲み干してしまうと「情緒が無い人ですね」と呆れたような声が隣から聞こえてきた。

 なんだと、と隣を睨むと青海さんは透明のお酒が入ったグラスをゆっくりと傾けている。

実に様になっているが全身から漂う真っ黒オーラで台無しだ。



 ……いつの間にか冷静になっていた頭で思考を巡らせる。そうだ飯田さん、あの人のことだ。飯田さんといえば会社で私以外に居るもう一人の女性であり、いつも優しく仕事を教えてくれた先輩だ。

 あの人があいつを殺した? 本当に? 確かにセクハラされていたし恨み事なら数え切れないほどあるかもしれないが。


「本当なんですか」

「はい、彼女自身も罪を認めたそうですよ。あの夜被害者に呼び出されて襲われそうになったところを突き飛ばしたら棚に頭をぶつけて動かなくなったと証言しています」

「……ほんっと、最後までクズだったんだあのクソ上司」


 そりゃあもうしょうがないと思う。先輩は全然悪くない。呼び出されて会社に行ったのだってあいつのことだからきっと何か言われて脅されたのだろうし、殺されても同情の余地がない。

 ……あれ、ちょっと待って。


「じゃあなんで私が殺したことになってたんですか?」

「何故だと思います?」

「分かりません!」

「少しは考えようとしないんですか……」

「もう今日は色々ありすぎて考えることに疲れたんですよ……じゃああれですか? 目撃者が私と先輩を見間違えたとか」

「全然似てませんが」

「そんなの知ってますよ」


 けど草臥れた頭で思いつくのなんてそれくらいだ。

 もう一杯カクテルを飲もうかとメニューに視線を向けていると、青海さんは大きくため息を付いた。


「人間不信だと伺っていましたが、どうやら近しい人間には随分甘いらしい」

「どういうことですか」

「まだ分かりませんか? あなたは飯田さんに罪を着せられたんですよ」

「……え」

「まあ正確に言うと飯田さん達、ですが。あなたが死亡推定時刻に現場から去った姿を目撃したのは飯田さんを含めたあなたの同僚五人の証言ですから」


 言葉が出ない。だってそれは、飯田先輩だけじゃなく皆が寄って集って私を犯人に仕立て上げようとしたってことで。

 沈黙した私を見る青海さんの目がわずかに細まる。


「ショックなのは分かりますが話を続けます。事件があった夜、彼ら五人は一緒に馴染みの居酒屋で飲んでいたそうです。何でも思い詰めた様子の飯田さんから何があったのか聞き出す為だったとか。あなたを除いた五人で飲むことはよくあったらしいですね」

「……」

「しかし彼女は結局何も言わずに早い時間で帰ってしまった。四人はしばらくそのまま飲んでいたようですが、数時間後帰ろうとした所で大泣きした飯田さんが店に飛び込んで来て被害者を殺してしまったと訴えた。最初は正当防衛だから仕方が無い、向こうが悪いんだと彼女を慰めていましたが、酔って冷静さを失っていた彼らは泣き止まない飯田さんを見て、最終的にこう言った。

 ――竜胆さん。あなたがやったことにしよう、と」


 からん、と青海さんのグラスを傾ける音で意識が引き戻される。


「それで……私が会社の近くから逃げるところを見たって先輩達が警察に証言したんですか」

「ええ。運良く第一発見者もあなただってので余計に都合がよかったんでしょうね。おまけに彼らも予想外なことに、あなたは事件当時泥酔して何も覚えていなかったときた。全て上手く行き過ぎていたんですよ」

「……はは、」

「ちなみに死亡時刻、飯田さん達五人はずっと一緒に飲んでいたと店の店主が証言していました。事情を聞いて口裏を合わせてもらったんでしょうね。確かに馴染みの客が望まずに人を殺してしまったのなら庇おうとする気持ちも分からないでもない」

「それで他の人間が罪を被ろうと構わないってね……は、ホントに、やっぱり誰も信じられないや」


 今まで生きてきた中でもなかなか親しくなれた方だと思っていた。それが同じ人間に虐げられた同調意識からだったとしても、それでも僅かな居心地の良さを覚えていた。だがそう思っていたのはどうやら私だけだったらしい。

 馬鹿みたいだ。人の色なんていくらでも見えるのに、結局心なんて分からない。


「どうぞ」

「え」


 そのままテーブルをじっと見つめて俯いていると、すっと眼前にグラスが差し出された。


「サラトガクーラーです」

「はあ」

「あちらのお客様からです」


 にこ、と茶目っ気のある笑みを浮かべたマスターの視線を追うと案の定青海さんがいる。


「さっさと話を聞ける状態に戻っていただけますか? まだこっちの話は終わってないんですよ」

「それは、悪かったですね」


 ちょっと突き放したような冷たい言い方にむっとしながら茶色のカクテルを口に含む……え、美味しい。シンデレラとは違って甘さ控えめで、かなりすっきりした味だ。さっきのもかなり良かったがこっちの方が断然好みだ。


「え、うま。これなんでしたっけ。なんとかクーラー……?」

「サラトガクーラーです」

「へー……うま」

「元気になったようですので話を続けますよ。そうして無実の罪を着せられて逮捕された訳ですが、実際は事件当時あなたは何処かで酒を飲んで泥酔していた」

「そうですね」

「では一体何処で飲んでいたのか」

「これっぽっちも覚えてないです」

「では教えましょう。此処です」

「は?」

「確か午後十一時前でしたか。私が帰ろうとしたところで酔っ払ったあなたがこの店に入って来て私に絡んできたんですよ」

「はい!?」

「ひたすら管を巻いて面倒くさい絡み方をされて……ああ本当に迷惑でしたねえ」


 思わず青海さんを凝視すると、彼は酷くわざとらしい仕草で肩を竦めた。

 つまり、記憶には無いがこの男とは初対面では無かったらしい。そういえば面会室で初めて顔を合わせた時、何やら含むような言い方をされた気がした。


「あなたは覚えてないでしょうが、あの時も人のことを真っ黒くろすけだの全身腹黒男だのさんざん好き勝手に言ってくれましてね」

「全身腹黒……ふ、」

「何笑っているんですかまったく」

「だって全身腹って……ん? あれ、ってことは……あ!」

「うるさい人ですね」

「犯行時刻一緒に居たってことは、私が犯人じゃないって最初から分かってたってことですか!?」

「だから最初に言ったじゃないですか。あなたは犯人じゃないって」

「いや確かにそうなんですけど!」


 なんというか、正直なところ拍子抜けしてしまった。別に私のことを信じて助けてくれると言ってくれた訳ではなく、ただただ知っていたから。いやそれでも十分にありがたいし、何の根拠も無く他人を信じると言われた方が怪しいのだけども。


「しかしながら、数日前にたまたま居合わせた人間が逮捕されているのテレビで見た瞬間は流石に驚きましたよ。しかもしっかりアリバイがあるはずなのに」

「それは確かに驚きますね」

「暢気に頷いている場合ですかまったく。まあ仕方なく? 善意で? 私が一から調査して真犯人を見つけて差し上げましたが?」

「滅茶苦茶恩を売ってくる……あ、というかなんで飯田さんが犯人って分かったんですか?」

「簡単なことですよ。あなたが犯人ではないことは前提として分かっている。ならば証言が嘘だということは明白でしょう。彼ら五人の事件が起こった前後数日の行動をあらゆる防犯カメラやGPS、SNS等から調べただけですよ。犯行現場付近にカメラが無くとも、居酒屋までの道のりでひとつも設置されていない訳でもないので」

「は?」


 防犯カメラ……は、まだいい。が他人のGPSって一介の探偵が見られるものなの? それって犯罪なのでは?


「あとは一人だけ飲み会中に外に出てかつ、翌日から情緒不安定な様子の飯田さんを軽く揺さぶれば、まあ」

「探偵こわ……」

「ああ勿論、GPS等は裏付けに使っただけでちゃんとした証拠は別に警察へ渡してありますよ。ですからこの辺の話はオフレコで」

「じゃあ別に私にも言わなくてよかったですよね?」

「あなたが助かるのにどれだけ労力を必要としたのかと伝えたかっただけです」

「ますます恩を着せてくる……」

「ところで話は変わりますが。竜胆さん、あなた明日からどうなさるつもりですか」

「え? どうって……」


 いきなり切り替わった話題に少し考え込む。そうか、これからのことか……。


「やっと容疑が晴れて家に帰れるんですから、まずはお風呂に入ってたっぷり眠って、それから美味しい物食べて撮り溜めしてるテレビ見て……」

「いや、いやいやそうじゃなくて。どこまで暢気なんですかあなた。仕事ですよ仕事!」

「あ……そういえば。流石にもうあの会社には行きたくないな……」

「当たり前ですよ。自分以外の同僚全員に罪を着せられて誤認逮捕なんてマスコミの格好の餌です。のこのこ会社に行ってみなさい、大量のフラッシュが焚かれてあらゆる尾ひれの付いた記事が書かれますよ」

「うわ、絶対に嫌だ」


 そういえば訳の分からないうちに逮捕された時も記者にたくさんカメラを向けられた気がする。……家も引っ越さないと駄目かな。


「いきなり無職か……。こういうのって名誉棄損とかで損害賠償とか訴えられるんでしょうか。……正直もうあの先輩達に何の情も湧かないので搾り取れるだけがっつり搾り取りたいんですけど」

「では私の知り合いの弁護士を紹介しましょう。腕利きで頼りになりますよ」

「お願いします……。何から何まで」

「いえいえ、見返りはしっかりといただきますから」

「え、」

「竜胆瀬名さん。私の事務所で働く気はありませんか? あなたのその“目”……是非ともうちで役立てていただきたいんです」

「! な、」


 なんで、私の“目”のことを知っている……?

 絶句してただただ青海さんを凝視するばかりの私を見て、彼は満足げに笑いその黒色を濃くした。


「なんで、それ知って……」

「あなたが酔っ払って絡んできた時に色々とぶちまけてくれましたよ。共感覚でしたか、非常に興味深いものだ」

「馬鹿……! ホントに私馬鹿!! ……って、まさか助けてくれたのは最初からそれが目的で」

「善意だと言ったでしょう?」

「嘘吐け!」


 そんな色してよくも善意なんて言えるものだ。


「まさか断ったりしませんよねえ暫定無職さん。わざわざ危ない橋を渡ってでも助けて差し上げたのに、ま、さ、か、断ったりしませんよね? 暫定無職さん?」


 こちらに身を乗り出してにっこりと迫力のある笑みを浮かべた青海さんを見て、私は「もう二度とやけ酒なんてしない」と強く心に誓った。




    ■ ■ ■  ■ ■ ■




 結果だけを述べるのならば、冤罪から救われ真犯人まで見つけてもらい、さらに弁護士の紹介と次の仕事の斡旋までしてくれた救世主……なのだが、どうしてこんなに印象が最悪なのだろうか。手のひらで踊らされていいように振り回された気しかしない。


 まあともかく、こうして私はあの最悪な会社からおさらばし、この探偵事務所で働くことになった訳だ。

 あれから色々と大変だった。探偵業務について一通り学んだこともだが、一番時間を掛け苦労させられたのが“目”の訓練である。とにかくひたすら人間観察を強制させられ、今まで感覚でなんとなく把握していた感情の色や波を徹底的に分析し、正確に読み取る精度を上げる特訓をさせられたのである。もう色見本とにらめっこはごめんである。




「……あれ、雅人君来てたんだー」


 資料を見ながらぼうっと物思いに耽っていた私の耳に、不意に酷く間延びした緩い声が飛び込んできた。どうやらいつの間にか陽太君が目を覚ましたらしい。


「おう、陽太。仕事中に爆睡しやがって相変わらず自由だなお前は」

「だって暇なんだもん。それに日差しが気持ちいいし……って、あ!」

「あーもう何やってんだ。ったくしょうがねえな」


 大きな欠伸をしながら椅子から立ち上がろうとした陽太君がデスクの足に躓いて盛大にずっこける。笹島さんはそれを見て酷く呆れた色を浮かべながら陽太君に歩み寄って腕を引っ張って起こしてやっていた。


「雅人君ありがとー」

「お前は昔からホントにそそっかしいな、少しは夕を見習え」

「えー、兄さんだって結構ぼけっとしてるとこあるけどなあ」


 夕さんを相手にした時もそうだが、陽太君に構っている時の笹島さんはまるで本当の兄のように世話を焼いている。


「……兄弟、か」


 楽しそうに笑っている陽太君の顔を視界に入れながら、私は不意に忘れようもないあの夜の出来事が頭を過ぎった。





 あれは確かそう、ようやく仕事に慣れ始めた頃のとある夜のことだった。

 その日は何人も飛び込みの依頼人が来て非常に忙しい日だったと思う。次から次へと依頼人の話を聞き書類を捌き、どっぷり日が暮れた頃にようやくある程度仕事が落ち着き「後はやっておきますので」と夕さんに言われ一足先に帰路に着いた。


「え、無い!?」


 しかし疲れた体を引きずって帰ると自宅の鍵が無い。代わりに出てきたのは事務所の鍵だ。……今朝事務所の鍵を開けた時にそのままポケットに入れてしまって、一緒にポケットに入っていた自宅の鍵の方を間違えて事務所に置いてきてしまったのだろう。

 もう自宅は目の前だ。ここまで来たらいっそ近くのホテルや漫画喫茶に泊まってしまって明日取りに行きたいのだが、このままだと夕さんが事務所の鍵を閉められずに帰れない。

 

 仕方無く再び職場へ戻る羽目になり、もう歩く気力もなく夜も遅い為駅前でタクシーを使った。また手痛い出費だ。今日はついてないと落ち込みながら事務所の前でタクシーを降りると、やはり未だに事務所の窓から明かりが漏れていた。


 ああ絶対に怒られる。滅茶苦茶嫌み言われまくる……。

 迫り来る嫌な予感に頭痛を覚えながら、私は恐る恐る事務所の扉を開いてそっと中を窺った。


「ゆ、夕さんすみませんー……って、あれ」


 室内は外から見たとおり電気が付いていた。しかし当の夕さんはといえばいつもの席に腰を下ろしたまま片腕を枕にして机に突っ伏していた。よく耳を澄ませば小さく寝息まで聞こえて来て、寝てしまったのかと少し拍子抜けしてしまう。

 音を立てないように静かに近づくと腕の隙間から眉間に皺を寄せて目を閉じている顔が見えた。あんまり夢見は良くなさそうだ。


「夕さーん……」


 控えめに声を掛けたが反応はない。


「夕さん、起きてくださいって」


 今度は普通の声量と共に軽く肩を揺さぶったが、不機嫌そうに唸る声と共に黒色が揺らぎ、両腕を枕にして本格的に寝入ろうとし始めた。意外に寝起き悪いなこの人。


「夕さん! 鍵持って来ましたから帰りますよ!」

「うるさい……」

「うるさいじゃなくて……ほら起きて下さい、もう真夜中で――」



 ゴーン。


 腹の底に響くような重低音。夕さんがお気に入りのアンティークの掛け時計が、その時ちょうど十二回音を鳴らした。


「え」


 私はその時の光景を一生忘れないだろう。


 机に突っ伏して眠っている彼のいつもの“黒”が、みるみるうちにかき消えていき、そして――見覚えのある“真っ白”へと変貌した。


「……んー、うん」


 いくら見ても先ほどまであったはずの黒が何処にも無い。それに唖然としている間に目の前の男は緩慢な動きで頭を揺らし、そしてゆっくりとその腕から顔を上げた。


「あれ……? 瀬名、ちゃん? こんな真夜中にどうしたの……?」


 眠っていた所為か外されていた眼鏡。それがない彼の顔は当然弟にそっくりで、寝起きの“白い”男はとろんとした目で私を見て不思議そうに首を傾げた。



 一日置きに、しかも別々に事務所に出勤するなんて変だと思っていた。お互い自分の兄弟のことを嫌っている様子は無いが、だがここまでするってことは本当は仲が悪いんじゃないかなんて、そんな風に思っていた。


 ……だが、そんな簡単な話ではなかったのだ。


 言葉を失い黙り込んだ私を見る目が細まり、そして再びかくんとその頭が腕に落ちる。

すうすうと暢気な顔で眠るそこには穏やかな白しかない。


 夕さんと陽太君。

 黒と白。


 彼らが――同一人物であると、私はその時初めて知ってしまった。



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