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シロクロ男  作者: とど
39/40

番外2 数秒違いの世界

※大分暗いです。


 ……どうして、こんなことになってしまったんだろう。

 ふらふらと気力もなく警察署から外に出て、私は意味もなく空を見上げた。その雲一つない清々しいはずの空が今はとても憎らしいものとさえ思う。こっちの気も知らずに。


 何度も何度も書類選考と面接に落ち、ようやく内定をもらったのはパワハラセクハラお構いなしの最悪の上司がいる会社だった。それでも先輩達と共に必死に仕事をして頑張って来たのに……気がつけば、私は殺人犯として捕まっていた。

 意味が分からなかった。今も、どうして私が犯人にされたのかまったく分からない。会社に入っていく姿を見た目撃者がいると警察は言っていたが……あの日のことは殆ど覚えていないのだから、私にはそれが本当のことなのかも判断がつかない。


 私は殺してなんかいない。確かにあの上司のことは憎かったけど殺すなんて……だけど、記憶がない以上、私は何も言い返すことができなかった。結果的に証拠不十分だとかで不起訴処分になったけど、先輩達はきっと私が殺したと思っているだろう。先輩達だけじゃない、捕まって警察署に入る時にたくさんのフラッシュを焚いたあの記者達だって、世の中の人達みんな、私が犯人だと疑わないんだろう。


「竜胆瀨名さん、だな」


 ぼうっとしながら歩いていると、不意に背後から男に呼び止められた。カメラとレコーダーを持った記者らしき男は、振り返った私を見るなりにやっと嫌らしい笑みを浮かべてレコーダーをこちらに向けてきた。


「田所さんを殺した事件、不起訴になったみたいで。いやー運がいい」

「……なにか」

「少し話を聞きたくてね。ああ、俺は記者の青海――」

「言うことなんてありません。私は殺してなんか」

「まあ、法律上はそうなったな。で、やっぱり動悸は上司からのパワハラか? 他の同僚からもそういう証言が取れてんだ。『竜胆さんは悪くない。あんな上司だったから殺しても仕方が無い』ってな」

「……っ、」


 ぼんやりとしていた頭に切り込まれた言葉。そうかやっぱり、あの人達は私が殺したと疑っていないのか。

 ……やっぱり、私が殺したのかな。だって覚えてないし、そう思えば全部辻褄が合うのならきっとそうなんだろう。証拠が出なかったのも、たまたまそうだっただけだろう。


「あ、おい!」


 記者の言葉を聞かずに歩き出した。そうか、やっぱり私、殺人鬼だったんだ。それなのに証拠がないだけで罰を逃れたのか。今からでも自首した方がいいんだろうか。だけど警察署に戻る気力もなくて、またふらふらと足を進めた。

 途中まで記者が追いかけて来たがまったく声が耳に入ってこなかった。駅に着く頃にはいつの間にか男は居なくなっていて、私は喧噪の中を歩きながら駅のホームに下りた。


「……あ」


 しかしそこで、見覚えのある人を見つけた。飯田先輩と杉浦先輩だ。ちょうど到着した電車から下りてきた二人は何か話しながらこちらへ向かってきて……そして、私の姿を見て驚いたように目を瞠った。


「り……」


 恐らく私の名前を呼ぼうとした飯田先輩が杉浦先輩に手で制される。そして体を引き寄せるようにしてさっさと私の隣を通り過ぎていった。目を合わせないように、少し俯きながら。

 ……ああ、そうだよね。いくら殺して仕方が無いと思っても、実際人殺しとなんて関わりたくないか。私を見た時のあの二人の“色”は薄暗くて、とても見ていて気分のいい色じゃなかった。きっとあれは、私に対する軽蔑の色だったんだろう。


 電車に乗り込んで周りの人間を見る。誰もが私のことなんて興味もないだろうけど、殺人犯だと知った瞬間にこの色は一瞬で変わってしまうのだろうと思う。



「……はあ」


 久しぶりに家に帰ると、玄関には異臭と共に沢山のゴミが捨てられていた。扉には管理人から退去願いと書かれた紙が貼られていて、私はそれらをじっと見た後そのまま家の中に入った。今はもう、片付けるような気力もない。

 扉を閉めた瞬間、ようやく周囲と隔絶された空間に辿り着いて力が抜けた。ああ、私の家だ。私だけの空間、誰にも邪魔されない私だけのもの。


 そう思った途端にもう駄目だった。一気にどっと涙が溢れて、玄関にしゃがみ込んで泣き続けた。

 なんで、どうしてこうなってしまったんだろう。大っ嫌いな目とずっと生き続けて、必死に内定貰って、沢山怒られて馬鹿にされて、いつの間にか殺人犯になって。


「お母さん……」


 そう呟いても返してくれる声はない。当たり前だ、お母さんは……私の所為で死んだ。私があの時余計なことを言わなければお父さんと別れることもなくて、あんなに苦労も掛けさせなくて……それに、事故にだって遭わなかったかもしれない。だってお母さんが死んだのは、仕事帰りの夜遅くだったんだから。


「……」


 泣いて、泣いて。体が枯れるほどに泣き続けた。――そしてふと、我に返った。


 こんなになってまで生きている意味ってなんだろう。


 私はこれから一生人殺しとして生きる。誰もに避けられ、悪意を向けられて、存在を否定されて。家だって引っ越さなきゃいけなくて、その先できっとまた殺人犯だと噂されて……。

 そうまでして生きる必要なんてあるんだろうか。だって……私が生きていても誰も喜ばないし、死んでも悲しむ人も居ない。困る人だって居ない。私を必要としている人なんてこの世に居ないし、むしろ顔を見るだけで不快になる人間だっているだろう。あの上司の身内とか、それに先程の先輩達のように。


 死のう。

 そう思った瞬間、苦しくて仕方が無かったのに急に呼吸をするのが楽になった。何をする気力も無かったのに途端に体が動き出して、玄関から立ち上がって部屋の奥へと足を進めた。

 淡々と新聞紙を縛るビニール紐を取り出して、椅子に乗ってそれを電灯に括り付ける。ぎゅっと絞まるように輪っかを作って、それだけでもう死ぬ準備が出来てしまった。こんなにも呆気なく。


「……誰か」


 必要としてくれる人が居たら。死ぬなと言ってくれる人が居たら……なんて馬鹿馬鹿しい妄想が過ぎった。そんな都合の良い人間なんて居るはずがない。そんなものは小説やドラマの中でしかありえない。

 私は輪の中に首を通すとゆっくりと前方に体を傾けた。体に重力が掛かって、そしてバランスが崩れて椅子ががたんと音を立てながら倒れた。


「――けて」


 ぎし、とビニール紐が軋んだ。





ーーーーー 





「……十年」


 十年だ。弟が居なくなって、もう十年になる。

 仕事をしていたらいつの間にか部屋の中が暗くなっていて、私は明るいディスプレイに目が眩んで目頭を押さえた。

 陽太が居なくなって、探偵になって、何にも成果が無くて。一年の半分を“陽太”に渡しても、結局は何も変わらなかった。


 何で見つけられないんだ。どうして手がかり一つ得られない。そう自分を何度罵倒したことだろうか。未来はずっと陽太を待ち続けているのに、あいつの元へ弟を返してやれない自分が不甲斐なくて堪らなかった。


「陽太」


 未来の恋人、雅人の友人、それにプログラミングの天才。あいつを求めている人間は公私ともに大勢いる。私と違って沢山の人間に必要とされている、名前の通り太陽みたいなやつ。

 どうすればいい。どうすれば陽太を未来の元へ返してやれる。陽太がまたあいつの隣で幸せそうに笑っている姿を見る為にはどうすればいい。


「……陽太」


 陽太、陽太陽太陽太。あいつが……あいつが居れば。結局はそうだ。あいつさえ居れば、一瞬で陽太を見つけられる。あの天才が居ればなんでもできる。

 まがい物なんかじゃなくて、本物の陽太さえいれば。


「陽太が居ればいい」


 皆に必要とされる陽太が、天才で何でも出来る陽太が。だからもう――役立たずな私は必要ない。

 あれだけ消えるのを嫌がったのに、その瞬間私はすんなりと自分を手放すことを受け入れた。




 ――十二時を知らせる、時計の音が鳴った。





ーーーーー




「……ん? 電話か」


 仕事が終わって警察署を出ようとしたところでスマホに着信が入った。ちらりと画面に視線を落とすと、そこに表示されていたのは『夕君(弟)』という表記である。

 二つ年上の幼馴染みは、頭が良くて頼りになって……けれどもとても繊細だ。あの事件の所為で弟が行方不明になり、そしてそれが全て自分の所為だと思い込んで……三年前のあの日から、彼は壊れてしまった。

 あの“二人”はそれぞれ自分のスマホを持っている為こうして登録する名前を変えている。……彼の弟の方が名乗る名前を使うことはどうしたってしたくなかったから。


「もしもし?」

『あ、未来ちゃん! 今大丈夫?』

「ちょうど仕事終わったからいいけど」

『よかったー! あのね、明日非番でしょ? だから会いたいなって』

「また人の仕事スケジュール勝手に調べて……!」

『実は大事な話があるんだ。だからお願い!』

「……はあ。分かった、分かったから。明日ね」

『ホント? 未来ちゃんありがとう!』


 ……どうせ、明日は会えないけど。

 口には出さずにそう言って電話を切った。夕君の人格は一日置きに入れ替わる。だから今日明日の約束をしたって叶うはずがないのだ。いつもならば無意識に頭で理解しているのかこんな約束を持ちかけられたことはないのだが……それはきっと明日が特別だからだろう。


「……十年か」


 明日は自分の誕生日だ。恋人が居なくなって、彼に祝われなくなってもう十年が経過する。……これから何度、これを繰り返していくのだろう。

 きっともう陽太は生きていない。何となく分かっていた。だけど諦めずに弟を探し続ける夕君にそんなことを言える訳もなかった。私自身も、頭では確信している癖に陽太がもう二度と帰ってこないという事実に直面したら……おかしくなってしまうかもしれない。





「未来ちゃん!」


 だけどおかしくなってしまったのは、私よりも夕君の方が早かった。

 翌日、約束の場所に向かうとそこで待っていたのは夕君ではなく、彼よりも幼い表情をした、今日はいるはずのない男だった。


「な……んで」

「どうしたの? 驚いた顔して」


 へらへら笑う彼は、いつも勝手に私の恋人の名前を名乗っている男。私が何に驚いているのかまったく理解していない様子で、不思議そうに顔を覗き込んで首を傾げている。

 どうして、今日は夕君のはず。……昨日の電話はひょっとして夕君が弟の真似をして掛けてきた? いやそんなはずはない。夕君が私にそんな悪質な悪戯を仕掛けるはずがない。

 ……そこで私はぞっとした。そういえばこの前この男に会ったのはいつだった? その日から計算して……そもそも今日は、やはり夕君の番のはずだったのに。


「未来ちゃん、誕生日おめでとう!」


 ぱあ、とこの上ない笑顔で彼が笑った。そして私は、最悪の事態が引き起こされたことを理解した。夕君はもう……完全にこちらの人格に乗っ取られているということを。

 人格が分裂するほど自分を追い詰めていた夕君が、とうとう全ての自我を明け渡してしまった。そうして残ったのは……この、偽物だけ。


「これプレゼントなんだけど……はい、開けてみてよ」


 夕君だったものが白い小さな箱を取り出して私に差し出してくる。震える手でそれを受け取って開けてみると……想像もしたくなかった綺麗な指輪が姿を現した。


「未来ちゃん、僕と結婚してください」

「っ、」


 ひゅっ、と息が詰まった。ロマンチックなはずのプロポーズが、絶望の言葉にしか聞こえない。

 いやだ、いやだよ。私が好きなのは陽太で、この男じゃない。こんな偽物じゃない。

 私の陽太はもっとかっこよくて、もっと私のことを考えてくれて、もっとずっと私のことが好きで……。


「あ、れ」

「未来ちゃん?」


 こんな男とは違うんだと自分の恋人の姿を思い出そうとするのに……その輪郭が、声がはっきりしない。陽太はどんな顔だった? どんな声で、どんな風に私のこと好きで居てくれた……?

 前は全てはっきりと思い出せたのに、思い出そうとすればするほどその形が歪んでいく。必死に記憶を掴もうとすればすり抜けていく。


「陽太……陽太は」

「未来ちゃん、僕は此処に居るよ」


 最愛の人を思い出せないことに絶望して崩れ落ちると、すぐ側にいたあいつが支えるように私の腕を掴んだ。

 違う、こいつじゃない。私が好きなのは違うのに……じゃあ一体、誰が陽太なの。

 私は無意識のうちに腕を掴む男を見上げた。私の、私の陽太は――。


「……」


 陽太、こんな顔だったっけ。こんな声だったっけ。……そう、なのかもしれない。


「陽太……」

「うん、僕は陽太だよ」


 ……そっか。此処に居たんだ。なんで今まで気付かなかったんだろう。陽太は居なくなってなんかなかったのに、私は今まで一体誰を探していたんだろう。


「未来ちゃん、結婚しよう?」

「……うん」


 私が持っていた指輪を受け取って、陽太が私の指にそれを通す。きらきらと光ったそれを見て陽太は嬉しそうに笑って……私も、同じように笑い返した。





ーーーーー





 やっとだ。やっと、陽太に繋がるかもしれない手がかりを手に入れた。ミスズの資料室で盗み聞いた社長と専務の会話。これはもしかしたら、真実を知る為の鍵になるかもしれない。

 俺は急いでこの話を夕に伝えようとした。あいつならきっと此処から全てを暴いてくれる。そう期待してあいつに会いに行った俺は――“それ”を見て頭が真っ白になった。


「雅人君、実は……未来ちゃんと結婚するんだ」


 悪夢だと思った。

 目の前に居るのは、今日は夕だったはずの男。そしてその隣には……嬉しそうにはにかんで隣の男を見つめる妹の姿。


「な……んで」

「うん。結構遅くなっちゃったけどね、やっと未来ちゃんと結婚できるよ」

「……未来」

「何? 兄さんもしかして陽太との結婚に何か文句付けるつもり?」

「……」


 絶句するとはこういうことなのだろう。思考が纏まらない。言葉が出て来ない。

 未来、違うだろう。そいつは陽太じゃない、夕だ。そう言いたいのに、意思と反して口が動いてくれない。


「……夕、は。夕はなんて言ってたんだ」


 かろうじて口に出た言葉を聞いた二人は、どちらも不思議そうな顔で首を傾げた。


「ゆうって誰のこと? 雅人君の友達?」

「分からないのか……?」

「え? 未来ちゃん知ってる?」

「知らないけど……」


 十年前、陽太が居なくなった。そして三年前、“陽太”が現れて――そして今、今度は夕が消えてしまった。

 心底分からないという顔をした二人は示し合わせている様子もない。本気で青海夕という男のことを知らないのだ。


 また、俺は間違えてしまったのか。

 三年前の後悔が何倍にもなって返ってきた。あの時俺は、夕がそこまで追い詰められていたことに気付かなかった。だから今度こそあいつの変化を見逃さないようにと思っていたのに……結局俺は何も出来ず、それどころかとうとう夕は自分の存在を消してしまった。


「俺が」

「兄さん?」


 俺が悪い。全部、俺の所為だ。もう陽太を探すことは諦めろ、もうあいつのことは忘れて自分のことを考えて生きていけと、本当は心を鬼にしてでも、友人や兄妹という関係性をぶち壊してでも言わなければならなかった。

 一番陽太から遠い俺が、歯止めの聞かない二人を止めなければならなかったのに。


 後悔ばかりで吐きそうになりながら、俺は顔を上げて二人を見つめた。“陽太”と未来の顔に、憂いは一つも見当たらない。結婚を控え、幸せそうにしている。


「……未来、陽太。おめでとう。幸せになれよ」

「うん! 雅人君ありがとう!」


 こんな二人に、現実を突きつける訳にはいかなかった。たとえ二人が壊れてしまっても、それでもこんなに幸せそうならもういいんじゃないのか。

 現実は俺だけが持って行けばいい。夕の存在も、二度と戻ってこない陽太の存在も、この二人が知る必要はない。


 これが最善だ。これでずっと苦しみ続けて来た二人が報われるのなら、それでいい。









ーーーーーー



「っぁ、」


 目を開けると、そこはよく見慣れた自宅のベッドの上だった。

 酷く息が乱れて、目からは涙が溢れて、どっどっ、と心臓が早鐘を打っている。


 夢を見た。恐ろしく、悲しく、虚しい夢を。それは酷くリアルで、今私は本当に生きているのかと疑ってしまいそうになった。

 そっと首に手をやる。苦しくない。夢で見たように首吊り自殺をした訳じゃない。そう分かっても胸騒ぎが止まらなかった。


「私は生きてる……でも、夕さんは、未来さんは、笹島さんは」


 彼らはどうしている。そう考えれば先程の夢が一気に蘇って来て、私はベッドから飛び起きて慌てて身支度を整えた。

 朝食は食べずに水だけ飲んで、化粧も適当に済ませてすぐさま自宅を出る。車を運転する間も嫌な予感は止まらなくて、赤信号に足止めされるのが酷くもどかしい。

 早く、早く。その一心で青海探偵事務所に着き、車を停めて転がるように外に飛び出した。


「夕、さん!!」


 勢いよく事務所の扉を開くと、奥のデスクに誰かが座っていた。パソコンのディスプレイで顔が隠れている彼に急いで掛け寄ると、ようやくその顔が見えた。


「瀨名さん?」


 その男は眼鏡を掛けていて血相を変えて事務所に入ってきた私を見て訝しげに眉を顰めた。


「夕さん!」

「だから何で」

「本当に夕さんですよね!? 本物ですよね!? 未来さんと結婚してませんよね!?」

「……はあ?」

「どうなんですか!!」

「いやどうも何も……未来と結婚? してる訳ないじゃないですか……」

「してないんですね!? よかった……」


 私が思いっきり夕さんの体を揺さぶると、ひたすら混乱していた夕さんがちゃんと答えをくれた。よかった……本当によかった。あれは夢で、夕さんは白が混じった黒色で、未来さんと結婚もしてなかった。

 思わずずるずると床に座り込むと、ずっと訳が分からないという顔をしていた夕さんが私の腕を引っ張って立ち上がらせる。そしてそのまま応接用のソファの方まで連れて行かれると、そこに私を座らせた夕さんが隣に腰掛けた。


「……で?」

「は?」

「何故私が未来と結婚をしたなんて思ったんですか。きっちり説明して頂きたいのですが」


 安堵していたのもつかの間、こちらに詰め寄って眉間に皺を寄せる夕さんを見て、私はつい口を噤んだ。

 あんな悲惨な夢言える訳がない。誰も報われなくて、壊れていく姿は今思い出しても恐ろしくて堪らない。


「……言いたくないです」

「何故」

「言ったら絶対、夕さん不快な気持ちになりますから」

「理由も分からず浮気を疑われている時点で十分に不愉快です。いいからさっさと白状して下さい」

「……浮気って」


 それどころじゃなさ過ぎて全く考えて居なかったし、そもそも結婚したのは白君の方だからちっともそんな認識なかったな。

 夕さんそこで引っかかるのかとちょっと拍子抜けしてしまって、憂鬱な気分が少し浮上した。


「聞いた後に苦情は受け付けませんよ?」

「分かりましたから。で?」

「いや、ちょっと夢を見て……」


 私は覚えている限りの夢の内容を一つ一つ話し始めた。自分が絶望して自殺したこと、夕さんの人格が消えたこと、白君を本物だと思い込んでしまった未来さんと、全て手遅れになってしまったことを後悔する笹島さん。

 話しながら、ふと夢の中の私は死に際になんと言ったのだろうかと気になった。自分の夢の中なのにあまり聞き取れなかったな。


「――っていう夢だったんですけど。すみません、大分気分悪くなりましたよね」

「……いえ、なんというか」


 最後まで話し終えると、夕さんは暫し驚いた顔をしていたが……やがて、何故か納得するように頷いていた。


「実際、そういうことになる可能性も十分にあったんでしょうね」

「え?」

「あの日、あなたの上司が殺された時間に私と瀨名さんが会わなければ、きっとそうなっていた。そう考えるとぞっとしますが、否定する余地もない」

「……」


 確かに、私は夕さんに助けてもらえなければきっと何もかもに絶望して、生きる必要性を見失って自殺していたかもしれない。


「夕さんも、ですか?」

「……ええ。今思えば、当時私は酷く不安定でして。失礼な話ですが、あなたを勝手に精神安定剤だと思っていた時期もありましたから。ですからもし瀨名さんと関わりが無かったら、そういう状況に陥ることも十分に考えられた」

「……へえ、そう言われると濡れ衣着せられた甲斐があったってものですね」

「そんな軽々しく……」

「流石に過ぎたことだからそう言えるだけですけどね」


 確かに自殺する可能性があったとはいえ、結果的にあの事件が夕さんの為になったのならそれでいい。結果オーライだ。……でもそう思うと、今のこの状況は本当に奇跡的なことなんだなと思う。もしあと少しバーに行くのが遅かったら、夕さんが私が逮捕されたニュースを見ていなかったら、きっと全て変わっていた。


「話は分かりました。朝から嫌な夢を見ましたね」

「本当ですよもう……飛び起きて何が現実か分からなくなりましたって」

「それは災難ですが……瀨名さん」

「はい?」

「一応改めて言っておきますが……私は未来に対して一切恋愛感情を抱いたことはありません」

「はあ」

「あちらも陽太一筋だったんで私を好きになることはあり得ませんよ」

「いや未来さんの気持ちは嫌というほど知っていますけど……そんなに強調しなくても大丈夫ですよ」

「……あなた、浮気する男大嫌いでしょう。ですから念の為に言っているだけです」


 夕さんはそれだけ言うとソファから立ち上がって自分のデスクの方へ戻っていく。……そんな心配しなくたって別に疑わないんだけどな。幼馴染としての距離感を羨ましくなったことはあるけど、それだって最初だけだった。

 私も立ち上がってぐっと伸びをする。安心したし長々と話をしたらなんだかお腹が空いて来た。朝ご飯食べる余裕も無かったからな……。


「夕さん、ちょっとコンビニ行ってきます。何かいりますか?」

「いえ、私は結構です」

「分かりました。じゃあ……あ」


 気付かないうちに放り出していた鞄を拾って外に出ようとしたその時、ちょうど事務所の電話が鳴った。タイミングがいいのか悪いのか……これだけ対応してから行こうと、私はデスクに戻って電話を取る。


「はい、こちら青海探偵事務所ですが」

『あっ、探偵さん? ちょっとお願いしたいことがあって……』


 そう言って話し始めたのは高校生の子供がいるというお母さんだった。最近急に素行が悪くなった娘が何か怪しいことをしていないか調査してほしいという依頼で、勿論それは受け付けて直接会う日も決まったのだが……そこからが長かった。


「あの子、昔はとってもいい子だったのにいつの間にか私のことババアなんて言うようになって」

「はあ」

「この前なんて朝帰りして来て何処へ行ってきたのか聞いただけで椅子を蹴り飛ばして……」

「あの、ご依頼は承りましたので詳しいお話は後日伺いま」

「旦那なんてびびっちゃって何一つ叱っちゃくれないのよ! 少しは父親らしくがつんと――」


 あー! お腹空いた!!


「夕さん! 夕さーん!! ちょっと助けて下さい!!」

「……はあ、仕方がありませんね」


 切ろうとしても切ろうとしても全く切れない電話にとうとう私の空腹が限界に達した。押しつけるように受話器を差し出すと、呆れた顔でそれを受け取り私の代わりにそれを耳に当てた。






「助けて」と言って、助けてもらえる世界線。


夕に出会っていない瀨名の目は特別ではないので、当然濡れ衣を着せてきた会社の同僚の色が軽蔑ではなく罪悪感の色だったなんて気付かない。

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