2-1 私と彼らの始まり
「暇だあああぁ-」
依頼が立て続けにやって来てものすごく忙しい日もある。だが逆に、全く何の予定も入っていない日だってある訳で。
私が事務作業をしながら陽太君の方を見ると、彼は大きく伸びをした後ばたりとデスクに倒れ込んで無意味に「あー」と声を上げていた。相当暇らしい。そもそも探偵なんて商売で毎日安定して依頼が来る場所もそんなに無いだろう。特に個人事務所ならなおさらだ。
依頼は無くとも細々とした事務作業はあるのだからやればいいのにとは思うが、実際にそれをやられると私が手持ちぶさたになるので言わない。私もあんな暇すぎる状態になりたくない。
「瀬名ちゃんおやすみー」
「え」
とか何とかやっているうちにとうとう陽太君が顔を上げずにひらひらと片手を振って本格的に寝始めてしまった。相変わらず自由過ぎる。夕さんは依頼が来なくても何かしら調べ物をしていたり新聞や本を読んでいたりするのであまり暇そうにしている所は見られない。
今この事務所に居るのは私と陽太君だけで、夕さんは不在だ。というかそもそも、この二人は一日置きで交互に出勤してくるのでこの事務所に三人がそろうことは、絶対にありえない。
先ほどまで騒がしかった事務所の中が途端に静寂に包まれる。カチカチと掛け時計の秒針の音と私がキーボードを叩く音だけが聞こえる中淡々と作業を続けていると、不意にノックの音と共に事務所の扉が開かれた。
はっと顔を上げるといつの間にか三十分も経っていた。途中で時計が割と大きな音で鳴ったはずだがまったく覚えていない。
「あ、笹島さん」
「どうも、竜胆さん。連絡しても全然反応無いから勝手に入ったがあいつは……」
扉の向こうに現れたのはスーツ姿の男性だった。此処で働き始めてから何度も目にしたことのある彼は、私に軽く会釈をしてから室内を見回して完全に寝入っている陽太君を見て呆れたような表情と色を浮かべた。
「今日は陽太か……平日の真っ昼間から暢気に昼寝しやがって」
「はは……今日は随分暇でしたから」
笹島雅人、それがこの人の名前だ。青海兄弟とは小学校からの知り合いで、二人よりも少し年上の彼は昔からよく世話を焼いていたらしく、今でも時々二人に会いに来る。
まあ、ただ理由もなく会いに来る訳ではない。大体の場合は仕事だ。
「それで今日は何のご用ですか? 陽太君起こしますけど」
「ああ、それはいい。今日は竜胆さんに用があったから」
「私に?」
「例の件の最終報告をな」
「例の……あ」
はっとした私に笹島さんが分厚い封筒を差し出して来る。私はそれを受け取るとなんともいえない気持ちで封筒を強く握りしめた。もし自分の色が見えていたら、私は今どんな色をしているんだろうか。
「……色々と、お世話になりました」
「いや、それよりまずはしっかり中を確認して欲しい。何か気になる点があるなら聞いてくれ」
笹島さんの言葉に頷く。私は彼をソファに座るように促してお茶を出すと、一度深呼吸をしてから封筒を開けて中の書類を取り出した。
彼の職業は弁護士だ。時折この探偵事務所に調査の依頼をしてきたり、逆にうちで浮気調査をした結果離婚調停になった場合などに担当してくれることもある。
しかし今日は事務所は関係ない。いや実際仲介してくれたのは夕さんだが、これは私の事件に関するものだ。
――私の人生が一転した事件。青海夕に初めて出会ったあの事件だ。
■ ■ ■ ■ ■ ■
青海探偵事務所に勤める前、私はとある小さな印刷会社の社員だった。長い就活の末ようやく貰った内定に飛びついた先のその会社で、私は事務職として電話対応や経理などの仕事をしていた。
同じ部署――といっても小さな会社なので事務職は私を含めて六人しか居ない――で働く先輩達は皆割と親切な人達だったが、時々来る上司はそれはもう最悪で、パワハラセクハラなんでもありの独裁者のような人間だった。
新人である私は当然として先輩達も軒並みいびられ罵倒されており、その上司が来る日は本当に死にたくなるほど嫌だった。全員が同じことを考えていたので妙な同調意識が生まれて、基本的に人間不信の私でも先輩達とはそれなりの関係を築けていたのは不幸中の幸いだったというべきか。
正直言って転職できるのならばしたい。でも辞めても当てはない上、また同じような上司が居たらと思うと二の足を踏んでしまう。そんな日々が一年ほど続いた頃、その日重役出勤でやって来た上司は普段の数倍機嫌が悪かった。
三つ上の男の先輩には「死んだ方が社会の為だ」「生きててすいませんって土下座しろ」と喚き、私の他にもう一人いる女の先輩にはべたべたと肩や背中を触って「この体でも使って取引先に媚売って来い」と最低なことを言っていた。かく言う私もクズだの無能だのさんざん罵倒され、泣きそうになりながらその時を耐えた。
……そして、その翌日。ふらふらになりながら会社に行った私を出迎えたのは、変わり果てた姿をした憎き上司の姿だったのである。
「……なんで、こんなことに」
暗く狭い部屋の中で私は小さく独り言を呟いた。
此処は留置所、警察に逮捕された犯人が連れて行かれる場所。そう、そんなところに私が居るってことは、つまり私は逮捕された訳だ。
まるで他人事のようにそう考えて、それが自分のことだって余計に実感して、頭の中が滅茶苦茶になりそうになる。
会社で上司の遺体を発見して気絶してしまった後、私は気がつけば殺人罪で逮捕され此処に連れて来られていた。
「何で、私が犯人になってるの……」
私は殺してなんかいない。なのに警察は問答無用で私に手錠を掛け、全く犯人であることを疑っていなかった。
なんで、どうして。そんな言葉しか考えられず、冷たい床に膝を抱えてうずくまる。
「出ろ、面会だ」
そうしてどれだけの時間が過ぎただろうか。部屋の外から声を掛けられてはっと顔を上げた私は、耳に入ってきた言葉を頭の中で繰り返して首を傾げた。
面会……誰だろうか。親類は全員疎遠で友人も殆ど居ないというのに誰が殺人犯なんかに会いに来るんだ。
ふらりと立ち上がると目眩が酷い。けれどもそのまま歩いて係官の後を付いて行き、面会室とプレートの付いた部屋の中へ入った。
その瞬間、今まで何も考えられずにぼんやりとしていた頭が一瞬にして覚醒した。
「こんにちは、竜胆瀬名さん」
「!」
部屋の中央を区切る頑丈そうな透明の仕切りの向こう側、そこには一人の男が座っていた。髪は黒、カジュアルなジャケットを身につけて眼鏡を掛けた理知的な顔立ちのその男は、私を見てにこりと微笑み指を組む。
見たことのない男だ。一体この男は誰なんだとか、なんで私に面会に来たんだとか、普段ならばそう考えたことだろう。
「ま、」
しかし私はそんなことよりも何より、目の前の男を見た瞬間に頭に浮かんだ言葉を叫ばずには居られなかった。
「真っ黒くろすけ!!」
「……」
「え、何このどす黒い色! こんな人初めて見た! っていうかホントに人間!?」
「……随分な言われようですね」
「あ」
全部ぶちまけてから我に返った。黒い男はやや口の端を持ち上げ笑うように笑みを形作っているが、その目はまったく笑っていない。
しまった。初対面の人間に滅茶苦茶言ってしまった。精神的に疲れストッパーが外れていたということもあるが、本当にこんな“真っ黒”な人間を初めて見たので思わず言わずにはいられなかった。
……まあ、他の人間には一体何を言っているのか分からないだろうが。
「どうぞ、お座りください」
「あ、はい」
促されておずおずと用意されている椅子に座り、透明の仕切り越しに男と向き合う。いやしかし、顔もそこそこ整っているしスーツに皺一つなく隙が無い雰囲気なのに、彼を覆う真っ黒が全てを台無しにしている。
「あ、あのー……失礼しました。それであなたは一体どちら様ですか? 会ったことはありませんよね……?」
「……成程。道理で」
「?」
「いえ、改めて……申し遅れました。私は青海夕、探偵をしています」
「探、偵?」
私は思わず胡乱な目で薄く笑う男――青海夕を見つめた。探偵なんて職種の人間、生で見たのは初めてだ。
「た、探偵さんが私に何か」
「何でも此処に殺人事件の被疑者がいらっしゃると伺ったのでね」
「……」
「まあ、あなたは容疑を否認し続けているらしいですが」
「何が言いたいんですか」
「助けてあげましょうか」
「……は」
青海さんが足を組んでにんまりと眼鏡の奥を弓なりに歪ませる。如何にも何か企んでいますと言っているような表情に思わず寒気がして椅子に大きく背を預けて心なし距離を取った。
「何言ってるんですか」
「私が、あなたを、助けて差し上げると言っているんですよ」
妙に恩着せがましい言い様だ。それだけでこの男に対する警戒心が強くなる。何を考えてるんだ、何が目的だ真っ黒くろすけめ。
「一体どういうつもりですか。初対面の人間をいきなり助けてやろうとか」
「ただの善意ですよ」
「怪しすぎる……」
「では聞きますが、あなたは実際に人を殺したんですか?」
「違う! ……と、思う、多分」
「多分とは?」
「……もしかすると……本当に万が一、私が殺したのかもしれない」
警察には言えなかった。もしそんなことを口にすれば自白と取られるかもしれない。だが本当はあの日……警察が死亡推定時刻としている時間、あの夜のことを。
「覚えてないんです。あの上司の死体を発見した前日の夜、私どこかで飲んでて……それで酔っ払って記憶が全部飛んじゃって」
「……まあそんな所だと思いました。正直社会人としてどうかと思いますけどね」
「し、仕方が無いじゃないですか! やけ酒したくなるほどあのクソ上司に腹が立ってたんですよ!! ……だから、記憶がない間にうっかり殺してしまってる可能性がゼロではないというか」
無言で肩を竦められた。相当呆れられているらしい。私だって何もこのタイミングで記憶を飛ばさなくてもいいだろうと自分でも思う。普段あれほどまで泥酔することなど滅多にないというのに。
「ちなみに、あなたは今回の事件についてどの程度把握していますか?」
「実はあんまり……。警察に最初色々言われたと思うんですけどその時は頭が真っ白だったし、それからはお前がやったんだろうの一点張りで」
「まったく……。仕方が無いので軽く概要を説明しましょう」
「お願いします」
「被害者はあなたの上司である田所幸夫、五十二歳。死亡推定時刻は遺体発見の前日午後十一時から日付が変わって午前一時までの間。死因は頭部外傷――棚の角に頭をぶつけたのが決定打になったみたいですね。現場には争った形跡があり、そして事件当時……午前零時頃に会社付近から慌てた様子で立ち去るあなたの姿が複数人に目撃されている」
「!」
「付近は住宅街でも繁華街でもない為殆ど監視カメラもありません。よってその証言が重要視され、あなたは捕まったという訳です」
「……」
記憶は全く無いが、私はあの夜会社に居た……?
必死に頭を捻るがやはり何も思い出せない。やっぱり酔った勢いで私が殺してしまったのか。でも、そんなことしてないとどうしても思いたい。
「ああ困りましたねえ、大変ですねえ。このままだとあなたはあっという間に有罪になって罪を償わなければならなくなる」
「……」
「さて。そこで私が今し方言った言葉を思い出して頂きましょうか」
「言った言葉……あ」
「助けて上げましょうか?」
青海さんが再度繰り返した言葉に私はがばりと勢いよく顔を上げた。
「……できるんですか?」
「勿論です。あなたの無実の証明と、真犯人を見つけ出して差し上げましょう」
「私……本当に殺してないんでしょうか」
「ええ、間違いなく」
簡潔に、そしてはっきりと断言された肯定の言葉は、たったその一言でどん底に落ちていた私の心に突き刺さった。ずっと私が犯人だとしか言われてこなかったのに、初めて会ったこの人はあっさりとそれをひっくり返してくれる。
「で、どうしますか?」
正直な所、罠かもしれない。あとで何かとんでもない要求をされるのかもしれない。何しろ目の前の男は今までに見たことのないほどの真っ黒男だ。その腹黒さが全身から滲み出ている。普通の状況だったらまず信じてはいけない部類だと即座に判断するだろう。
「青海さん」
信じるべきではない、これはきっと悪魔の囁きだ。冷静な頭ではそう考える、だが。
「……私を、助けてください」
結局の所、追い詰められた私に選択できる余地など無かった訳だ。助けてくれると伸ばされた手を、振り払うことなんてできなかった。
もう、どうにでもなれ!
「はい、助けましたよ」
「……は?」
その男が再び私の前に現れたのは、たった半日後のことだった。