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シロクロ男  作者: とど
14/40

9 私じゃない


「……はい、それでは当日、お待ちしております」


 電話を切って一息吐く。ありがたいことにまた依頼が入った。いつも通り夕さんの出勤日で空いている日に合わせて予定を組んで完了だ。


「何の依頼でしたか」

「人探しです。なんでもお金を貸したまま逃げられた知人の行方を探して欲しいって。明後日の午後ラストに予定入れときました」

「分かりました。確認しておきます」


 必要最低限の会話だけをして仕事に戻る。事務所の中は静まりかえっていて、時計の針の音とキーボードを叩く音だけが耳に入ってくる。……それは別にいつものことなのに、なんだか妙に気になってパソコン越しにちらちらと夕さんを窺ってしまう。


 あれから、あの件については何も話をしていない。勿論すぐに何か言われるとは思っていなかったが、なんだかつい身構えてしまって空回りしている。

 ちなみに笹島さんもあの日から特に問題なく過ごしているようだ。相手も一度失敗したから警戒しているのか、まあもう陽太君の秘密兵器を沢山渡したので万が一が起きても大丈夫だとは思うが。


 ……と、また電話が掛かってきた。これならまた陽太君が暇だと嘆かなくてもよくなりそうだ。夕さんが空いている日、他はいつだったかなとパソコンでスケジュールを呼び出しながら、私はいつも通りごく普通に受話器を手にとって耳に当てた。


「はいこちら青海探――」

『夕!! あんたもうぜんっぜん電話に出ないんだから!!』

「!?」


 鼓膜が破れるかと思った。

 突然の爆音に咄嗟に受話器から耳を離す。なんなんだ一体、嫌がらせの電話か?

 『こら! 無視するんじゃない!』と、耳から離しても余裕で続きの声が聞こえてくる。私が思わず夕さんの方を見ると、彼は片手を額に当てて大きくため息を吐いており彼にしては非常に珍しい気まずそうな色を見せていた。


「……貸してください」


 夕さんは肩を落としながら受話器を受け取ると、少し離れた部屋の隅で「もしもし」と話し始めた。勿論耳と受話器の距離はかなりある。口だけ受話器に近づけて持ち方が無線みたいになってるんだけど……。


「……仕事中に職場に掛けてくるのは止めてもらえますか」

『あっ夕! やっと出た! っていうかさっき別の子だったよね!? 人雇ったの!? あんたが!?』

「話聞いてもらえますか」

『ちゃんとお給料払ってる? 女の子みたいだったけど虐めたら駄目よ! あんた人見知りなんだからちゃんと話せてるか心配で』

「……」


 ぺらぺらぺらぺら大声でしゃべり続ける電話の向こうにとうとう夕さんが黙った。というか夕さん人見知りなの? これで?

 ……今更だけど、多分電話の人お母さんなんだろうな。この感じうちのお母さんを思い出す。


『夕? 話聞いてる!?』

「……用件はなんですか。急ぎではないのなら就業後に」

『そうそう! 今度日曜日におばあちゃん家で集まりあるから来なさい! あんたってばもう何年も集まりに顔出してないんだから!』

「日曜日は仕事が……」

『はい嘘! あんた前に日曜日は休みだって言ってたじゃないの! 誤魔化そうとしたってお母さんにはバレバレだよ!』


 夕さんが負けてる……。ちなみに確かに日曜日は緊急の予約とかも入っていないので普通に休みである。


『そうそう夕、あんた彼女いないの? いるんだったら今度の集まりに連れて来なさい。皆あんたのこと心配してるんだからね!』

「余計なお世話です」

『なんてこと言うの! もう! そろそろ少しは身を固めることを考えなさい! 次来た時に彼女居なかったら今度はお見合い見繕って事務所に突撃するからね!』

「はあ!? 何を勝手に」

『ありがたいことに色々と習い事の知り合いからお話頂いてるからとりあえず会ってみなさい。出会いさえあれば後はどうにでもなるんだから』

「いや、だから」

『とにかく! 来週の日曜日は顔を出しなさい! 十二時からだから! じゃあお母さん社交ダンスのレッスン行くから切るわね』

「ちょっと待て勝手に終わらせ――」


 わいわい声が響いていた事務所がいきなり静かになった。どうやらぶつ切りされたらしい。夕さんはというと電話を握りしめたまま背を向けて動かない。

 あの夕さんが全く手も足も出ずに押し切られた……。お母さん強すぎる。なんだか圧倒されて呆然としたまま夕さんを眺めていると、不意に振り返った夕さんと目が合った。


「……」

「……」


 しばらく見つめ合うこと数秒。その時、疲れ切っていた顔をしていた夕さんがすたすたとこちらに近付いて来て手にしていた受話器を私のデスクの上に戻した。


「竜胆さん」

「はい……?」


 まずい、何か嫌な予感がするぞ。いや予感とかそれ以前に、見下ろして来る夕さんの表情がもう何ていうか「私今から人を陥れます」みたいな顔してる。いい顔してるなあ……いきいきしてる。


「来週の日曜日、暇ですね?」

「いやいやいや、私来週はなずな様の新曲発表ミニライブが」

「それ、外れたって言ってましたよね?」

「……」


 適当に誤魔化そうとして吐いた嘘があっさりと見抜かれる。というかその話、結構前にちらっと言っただけだし夕さんその時まるで聞いてない感じだったのに覚えていたのか。


「と、いうのは冗談で、仕方が無いのでアイドルショップ行って新しい子発掘しようかな、とか」

「あなた節操がないですね。加神さんにあれだけキャーキャー言っておきながら」

「なずな様は最推しです!! それは永遠に変わりません! けどそれはそれ、これはこれです。逢川椎名もかっこいいですし、この前デビューしたグループの」

「いやまあそれはどうでもいいんですけど……で、日曜日暇ですね?」


 そのままアイドル語りの勢いで流そうと思ったらあっさり堰き止められた。夕さんだってさっきお母さんにたじたじだった癖にこっちには強気でさあ……。


「……暇だったとしても、別に夕さんには関係ないですよね」

「是非、お願いしたいことがあるんですが。実はですね――」

「ああもう言わなくていいです! 行きません! 以上!」

「そんな冷たいこと言わなくてもいいじゃないですか。仕事抜きで頼みたいことがあっても任せて下さいって言ってくれたでしょう? ばんばん頼って下さいって、ねえ?」

「それ今言います!?」


 絶対こんなこと頼むつもりじゃなかったでしょこの人! 何かもっと深刻な話だったはずでしょ!?


「断らないって言って下さいましたね? ええ、じゃあよろしくお願いします」

「はあああ!?」

「私は先に忠告しましたよ、何も聞く前から了承するものじゃないってね」

「ホントにとんでもないこと押しつけて来たよこの真っ黒くろすけ!!」


 あまりにも綺麗な笑みでそう言ってくるものだから、私はデスクに突っ伏しながら「もう二度と軽率に頼み事を聞かない」と深く心に誓った。




    ■ ■ ■  ■ ■ ■




「今日は頼みを聞いて下さって本当にありがとうございます」

「……」


 そして私がどんなに嫌がっても時間は止まってくれず、その日はやってきてしまった。運転席で依頼人にするように愛想良く笑う夕さんが非常に憎たらしい。私はがっくりと肩を落としながら無言で助手席に乗り込み、隣の男をじろりと睨み付けた。

 走り出した車に、思わず逮捕されてパトカーで連行された時のことが蘇るレベルである。


「一応確認しますが、今日はこれから私の祖父の家に行きます」

「……はーい」

「結構な数の親戚が集まっているかと思いますが、まあそんなに気にせずに」


 気にせずに……出来るか!

 膝の上に置いた両手をぐっと握り込みながらわざと聞かせるように大きくため息を吐く。なんでわざわざ他人の親戚の集まりに巻き込まれなくてはいけないんだ。

 ちなみに今日は仕事着よりもお高めの上品な感じのワンピースを着ている。あれから失礼にならなそうな服を選別するのにもかなり時間が掛かったものだ。小物だって買って取りそろえたし……いやこれもう仕事でいいんじゃない? 経費で落とせないものか。


「それと……重要なことが二つ。竜胆さん、今日一日あなたは私の恋人として行動して頂きます」

「夕さん、ずっと思ってたんですけど私じゃなくてもいいですよねそれ。何か最近あるじゃないですか、レンタル彼女とか」

「人となり、好み、普段の様子、共通の思い出。それらをお互い全て把握してあらかじめ打ち合わせしてとなると一日じゃあ難しいんですよ。特にうちの母親は鼻がきくので浅い演技をされるとすぐにばれます」

「いや私だって偽物ですけど」

「ですから頑張って下さいね、瀬名さん」

「無茶苦茶言い過ぎでは……?」


 もう諦めて見合いでも何でも受ければいいと思う。夕さんなら口八丁で上手いこと躱せるだろうし。というか呼び方から変えるのか。私も変えた方がいいのか? 未来さんみたいに夕君、とか。

 ……いや絶対に間違えるから止めておこう。


「夕さん私に何かお礼とか無いんですかー?」

「中々豪華な昼食にはありつけると思いますよ」

「そういうのは別にいいんで。というか大勢の他人に囲まれた中で演技しながら美味しく食べられると思います?」

「それじゃあ何がいいんですか」

「……んー、そう言われるとぱっと出てこないんですけど」


 どうせなら何かすごいものを吹っ掛けてやろうとも考えるがいまいち良いものが思いつかない。それこそ今日のミニライブのチケットが欲しかったがどうせ行けないし……。

 あれこれと考えているうちに車が停まる。ぎりぎり県内といったところだろうか。目の前には如何にも、というような大きな日本家屋があり、もしかしなくても此処に入るのかと思わず夕さんを振り返った。


「……夕さんの実家って、結構大きいんですね」

「ただ古くて無駄に広いだけです。維持費が掛かってしょうがないと思いますよ。……ああ、ところでもう一つ重要な話ですが」

「あっ、そういえば二つとか言ってたような」

「あなたが考え込んでいたので黙っていたんです。それでですね――今日この家で会話をする際、陽太の話は一切しないで下さい」

「陽太君?」

「いいですね、くれぐれもお願いします」


 なんでいきなり陽太君の話が出るのかと首を傾げる。

 ……が、よくよく考えてみれば陽太君は夕さんのもう一つの人格だ。慣れてきてうっかり忘れていたが、青海陽太という人間自体は存在しないのだ。夕さんはあまり親戚の集まりに顔を出していないと言っていたし、なるほど彼が多重人格だと知っている人がいないのかもしれない。それなのにいきなり居もしない兄弟の話なんてしたらそりゃあ困惑されるだろう。


「分かりました」

「頼みましたよ。では行きましょう」


 敷地に入る前の青海、と書かれた古めかしい木製の門をインターホンを推してくぐり、夕さんの後について辺りを見回しながら玄関へと向かう。


「あー!! 夕! やっと来た!!」


 そして玄関の引き戸に手を掛ける前に内側からそれは開かれた。中から現れたのは見るからに快活な五十代くらいの女性で、その元気の良さと夕さんへの態度に既視感を覚える。


「どうも」

「どうもじゃないわよ! もー、ホントに脅さなきゃ全然来ないんだか……ん?」

「あの、こんにちはー……」


 確実に夕さんのお母さんであろう人の視線が夕さんの後ろに向く。緊張しながら挨拶すると、彼女はぎょっとした目で夕さんと私を交互に見て「うそ……」と小さく呟いた。


「も、もしかして彼女!?」

「あなたが連れてこいと言ったんでしょうが」

「竜胆瀬名と申します。あ、これつまらない物ですが」

「え、あ、わざわざどうも……」


 滅茶苦茶びっくりしてる。目を白黒させるってこういうことなんだな。お母さんがあまりにも驚いているので私は逆に落ち着いてきた。

 呆然としながら私が持ってきた物を受け取った彼女は、次第にじわじわと興奮するように顔を赤くしてばっと勢いよく踵を返した。


「み、みんなー!! 夕が彼女連れてきたー!!」

「!?」


 家の中に向かって走り出しながら大声でそう叫んだお母さんが廊下の奥に消えていく。取り残された私たちはぽかんと口を開けてしばらく動かなかったものの、ややあって夕さんを見上げると頭痛を堪えるようにこめかみに手をやっていた。


「行きますよ」

「はい」


 覚悟を決めて家の中へと足を踏み入れる。夕さんに連れられて長い廊下を歩いていると、何やら随分とざわついている部屋の前で立ち止まった。……絶対に此処じゃん。襖を開けるのがちょっと怖い。

 躊躇う私を余所に、夕さんは全く気にする様子もなく襖に手を掛けた。


「どうも、お久しぶりです」

「夕だ!! 本物!」


 開けた瞬間一瞬部屋の中で話し声がぴたりと止まり、そしてすぐさま更に大きな騒ぎになった。中にいるのはざっと十人ほどだろうか。夕さんよりも若い人はいないようで、皆ビールが入ったコップ片手に赤い顔をしている。


「しかもホントに彼女連れてるし! ほら、二人ともこっち座って!」

「お、お邪魔します」

「ちょっとビール無いんだけど! 誰か持ってきて!」

「こっちにあるぞ。ほらよ」


 大分酒臭い空間の中空いている席に座らされる。目の前のテーブルには確かに美味しそうな料理がずらっと並んでいるが、あまり減っている様子はない。酒ばっかり飲んでるんだろうな。私もすぐにコップにビールが注がれて半ば無理矢理持たされた。


「車で来ているので私はいりません」

「もー、ゆうちゃん久しぶりなんだし泊まって行けばいいでしょうが」

「明日も仕事があるので」


 隣に座った女性が夕さんのコップにも酒を注ごうとするが、それより先に夕さんが上から手でコップを覆って防いでいる。「ゆうちゃんは昔から固いんだからさー」と不満を漏らす彼女は仕方なく、といった様子でウーロン茶を差し出した。

 っていうかゆうちゃんって……すごい呼び方されてるな。


「はい彼女さんもかんぱーい!」

「か、かんぱい」

「ところで名前は? ゆうちゃんとの馴れ初めは?」

「付き合ってどれくらい? 結婚は考えてるの?」


 勢いのまま乾杯してビールを飲むと隣の席だけでなく正面のお母さんや斜め前の人達からも矢継ぎ早に色々と質問が飛んでくる。それにたじろいでいると少し中が減ったコップに更にぎりぎりまでビールが注がれ、もう情報量が多くて混乱してくる。


「あまり瀬名さんにちょっかい掛けないで下さい」

「瀬名ちゃんって言うんだー。あたしゆうちゃんの叔母ね、よろしく」

「よろしくお願いします」

「もうねえゆうちゃんは昔っから大人しくて引っ込み思案でね? ちゃんと結婚とかできるか心配だったのよー」

「あなた達と比べたら誰だって大人しいですよ……」


 はあ、と夕さんが肩を落としながら呟く。なるほど、酒で酔っているとはいえ夕さんの親戚は皆こんなノリなのか……。そりゃあ人見知りとか引っ込み思案とか言われる訳だ。


「今気付いたんだけど、もしかして瀬名ちゃんって夕の職場の人? この前電話に出た子?」

「はい、そうです」

「やっぱりー! じゃあ職場恋愛? 夕やるじゃない!」

「それでそれで? ゆうちゃんと付き合ったきっかけは?」


 隣の叔母さんがどんどん距離を詰めてくる。返答を考えているうちにもどんどん酒が追加されていって、それを見た夕さんが眉を顰めてコップを取り上げようとするがその前に「やっぱりゆうちゃんも飲みたいの?」と叔母さんに言われてその手を引っ込めた。


「えーと……その、私ちょっと前に冤罪で罪を着せられそうになったんですけど、それを夕さんが真犯人見つけて助けてくれて」

「きゃーゆうちゃんかっこいいわねー! 事件解決して無実の人救うなんて本物の探偵みたい!」

「本物なんですが」


 多分ミステリー小説とかの探偵のこと言ってるんだろうな。いやまあ言いたいことは分かるけど……。


「いやぁしかしあの夕が……」

「大きくなったものだなあー……ぐす、」

「道理で俺も年を取ったもんだ」


 離れた席でも話を聞いていたのか口々に感想が呟かれ、何か泣いている人さえいる。夕さんこの中でも一番若いし、多分ずっと可愛い末っ子枠だったんだろうな。


「瀬名さんだったね? はじめまして」


 と、ふと向こうの席で飲んでいた男性が一人近寄って来て私の側に座った。夕さんが嫌な顔をしているのを無視してにっこりと笑った彼はどこか依頼人を前にした夕さんに似ている。


「夕の父親です。いつも夕が世話になってすみません」

「いえ、こちらこそご挨拶にも行かず……」

「いやいや、皆自由に飲んでるから気にしなくていいんだよ。それで? 瀬名さんは夕の何処を好きになったんですか?」

「え」

「瀬名さん、酔っ払いの言葉に一々全部真面目に返す必要はありません」

「なによー、ゆうちゃんだって気になるでしょー? 彼女が自分の何処を好きかって」

「別に」

「照れちゃってもー」


 けらけら笑って夕さんに絡む叔母さんと、にこにこ微笑みながらも答えるまでは動かないとばかりに居座っているお父さん。そして更に聞き耳を立てるように私の方を見る他の親戚の方々……。プレッシャーがやばい。


「え、えーと、好きなところですよね。……その、とっても優し……くはないですけど」

「あの」

「何というか……か、顔はいいですよねー」


 無理矢理絞り出した答えは口に出してから「これどうなんだ」と自分でつっこみたくなった。しかし言ってしまった言葉は取り消せない。妙に静まりかえってしまった部屋の中を見回して思わず乾いた笑いを漏らすと途端にどっ、と爆笑が溢れかえった。


「あっは! 夕! お前好きなところ顔だってさ! よかったなイケメンに産んでもらえて!」

「ひぃ、腹痛てー……」

「しかも優しくないって言われてるし! 女の子には優しくしないと駄目でしょー」

「い、いや! 顔だけじゃないんですよ! 本当です! まだ何かあります!」

「瀬名さんそれ以上何も言わなくていいです」

「ちょっと待って下さい。……そ、そう! 仕事! 仕事の時はとっても有能ですし頼りになります! ホント、うちの事務所は夕さんとよう――」

「瀬名さん飲んでばかりで全然食べていないでしょう、これ美味しいですよ」


 夕さんと陽太君が居ないと成り立たないんです。そう言いかけたところで隣から箸が突然口の中に突っ込まれた。あっ、危な! 喉の奥まで入ったらどうするんですか!

 そう怒りたかったものの、隣を振り返った瞬間に向けられた絶対零度の視線に黙らざるを得なかった。……そうだった、陽太君の話をするなと言われてたわ。少々酔ってきてうっかり頭から抜けてしまっていた。

 ところでこれ何食べてるんだろ。何かの刺身だなと思いながら食べていると、目の前に座っていたお母さんが箸を取り落とすのが見えた。


「ゆ、夕が……」

「あーんって食べさせて……めっちゃいちゃついてる!?」

「は?」

「もうこれ結婚じゃね? 誰か婚姻届持ってない?」

「ちょっと今から役所行ってくるわ」

「いやちょっと」

「今日日曜日だからやってなくね?」

「いや婚姻届は年中出せるはず」


 いやいやいや、ちょっと話進みすぎじゃない!?

 役所に行こうと立ち上がろうとしたお父さんを咄嗟に押さえ「行かなくていいですから!」と叫ぶ。勝手に大盛り上がりを見せる周囲を止めようと夕さんに助けを求めるが、彼はそのまま食事を続けており「放っておいていいですよ」と疲れたように言った。


「酔っ払ってテンション上がってるだけなので酔いが覚めれば勝手に大人しく……まあ、ましになります」

「はあ……いや何かすみません。私の所為で」

「何をしても勝手に盛り上がるだけですのでどうせ変わりません」


「なんだ、今日はいつもに増して盛り上がってるな?」


 淡々と箸を動かす夕さんに習って私も大人しく食べようとエビフライを口に入れたその時、襖が開かれてまた新しく男性が一人入ってきた。 

 見れば他のおじさん達よりも若い、多分三十台前半くらいの色素の薄い茶髪の男だ。


「おお、はやて! 遅かったな!」

「今日はすごいぞ、夕が嫁連れてきた」

「は? 嫁?」


 不思議そうに首を傾げた男――颯さんというらしい――が部屋の中を見回して私を見たところで動きを止める。……と、途端ににやりと酷く楽しそうに笑った。


「なんだ夕? 久しぶりだと思ったら女連れ込んで、お前もやるじゃねえの」

「……」

「あ、初めまして。私は」

「この男には構わなくていいです」


 近寄ってきた颯さんに挨拶しようとするがその前に夕さんが阻む。じとりと剣呑な目で颯さんを見上げた夕さんは、他の親戚が騒いでいた時とは全く違う不快そうな色を見せた。


「相変わらず冷てえなあ。あ、俺は青海颯。こいつの従兄弟なー」

「……颯君、あっちにビールあるから飲んだら?」

「おー、それじゃあ楽しめよ」


 お母さんに促されて颯さんはひらりと片手を振って離れていく。「相変わらず仲悪いわねー、従兄弟なのに」と叔母さんが不思議そうな顔をしているのを見て、私はウーロン茶を飲む夕さんを振り返った。


「なんですか」

「あの人嫌いなんですか?」

「いえ、ただ生理的に合わないだけです」


 いやそれ嫌いじゃん。そう突っ込みたかったが、あからさまに濁っていく彼の色を見てそれ以上颯さんの話をするのを止めた。




    ■ ■ ■  ■ ■ ■




 それからしばらく宴会は続き、再び夕さんに関する質問責めに苦労しながらもようやく終わりを迎えた。


「あ、この果物も持って帰ってね。それから余ったビールも……」

「あの、そんなに頂けませんよ」

「いいのいいの、はい!」


 台所であれやこれやと夕さんのお母さんに大量のお裾分けを持たされて、しかし断っても問答無用で持たされた。諦めてお礼を言うと、彼女は「夕がいつもお世話になってるからそのお礼よ」と満足げに笑った。


「あの子、結構面倒臭い子でしょ? でもよかったらこれからも仲良くしてやってね」

「はは……私も見捨てられないように頑張ります」

「大丈夫よ。私たちに紹介したいほど好かれてるんだから」

「いやそれは脅されたから連れて来たんじゃ……」

「お見合いの話も断らないとねー。でも本当に良かったわ、瀬名ちゃんみたいな子が夕の側に居てくれて……あの子が気を張らずに接することができる人なんて殆どいないから」

「気を張らないというか容赦ないというか」

「そういう相手がいるのは大切なことよ。だから瀬名さん、夕のことお願いね……それに、陽太のことも」

「はい。……え?」


 頷いてから数秒、私は一瞬聞き間違いかと疑った。しかし目の前のしたり顔を見て、今聞いた名前が間違いではないことを悟る。


「な、なん」

「同じ職場で働いてるんだもん、そりゃあ一日置きに顔を出すあの子のことも知ってるはずよね」

「……知ってるんですね、夕さんのそのこと」

「それはね、母親だから」


 にんまりと笑っていたお母さんに、僅かに悲しみの色が過ぎった。

 冷静に考えてみたら、そうか。夕さんは子供の時から人格が分かれていたんだから、時々会う親戚はともかく毎日顔を合わせるお母さんが陽太君を知らないはずがない。


「あれ、でもこの前の電話、夕さんが出る前からどっちか分かってましたよね?」

「だって毎日数えているもの。今日は夕、明日は陽太、明後日は夕。会わなくて毎日今日はあの子なんだって、ずっと考えてる」

「……そうなんですか」


「瀬名さん、帰りますよ」


 少ししんみりした空気が漂う中、未だに酔っ払い組に絡まれていた夕さんが台所に顔を出す。彼は訝しげにお母さんを見た後「何か話でも?」と首を傾げた。


「ちょっと瀬名ちゃんと秘密の話をしてただけ。ねー」

「え、はい! そうです!」

「……まあいいですが」

「それはそうと帰りましょう。ね、夕さん」


 疑うような視線から逃れてさっさと彼の腕を掴んで玄関へと向かう。


「……何かろくでもないことでも吹き込まれていませんか」

「無いですって! っていうかろくでもないことって何ですか」

「昔の話とか」

「あ、それは聞いておくべきでしたね」

「だから聞くなと言っているんです」


 珍しく自ら藪蛇な事を言ってしまっているな。ちょうどいいから話に乗っておこう。どっちにしろ今聞いたことは夕さんに話すことではないだろうから。


「あれ?」


 ……何か、おかしくないか。


「瀬名さん?」

「あ、なんでもないです」


 何てことないように首を横に振った。しかし頭の中にはおかしな矛盾が生まれている。


 夕さんのお母さんが多重人格について知っていた。そして恐らく親戚の人達はそれを知らない。……これは何もおかしくはない。ただ、


『今日この家で会話をする際、陽太の話は一切しないで下さい』


 夕さんの言葉を思い出す。なんで彼はこんなことを言った? いや……なんで、夕さんはそれを言えたんだ。

 夕さんが陽太君のことを隠そうとしたのは、親戚の人達にもう一つの人格を知られたくなかったから。つまり――


「……夕さんは、全部自覚してる」


 外に向かうその背中を見て、思わず口に出した。

 夕さんは、自分が多重人格だって気付いている。だってそうじゃなければおかしい。親戚の集まりがあるんなら、自分だけじゃなくて弟の陽太君だって行くべきだと普通考える。いやそれ以前に……あの夕さんが、一度も顔を合わせない弟に対して何も違和感を覚えない訳がない。たとえ無意識の自己防衛で見て見ぬ振りをしていたとして、綻びはいくらでも見つかる。それを夕さんが全部見逃す? そんなことはありえない。

 夕さんは全て気付いていて、それでいて多重人格であることを隠そうとしているんだ。


 運転席に乗り込んだ夕さんを見て、だけど何も言えずにシートベルトを締める。


 ……言ってくれたらいいのに。一人で抱え込むくらいなら、ぶちまけちゃえばいいのに。そう思う一方で、まだ出会って一年も経っていないのにそこまで信用される訳ないな、とも思ってしまう。

 だって私はただの従業員でしかなくて、夕さんの本当の恋人ですらないんだから。




    ■ ■ ■  ■ ■ ■




「まったく……目を離した隙に一体どれだけ飲んだんですか」

「だってあの場でお酒勧められたら断れませんってー、夕さんが断った分全部こっちに来ましたし」


 知らない人達に囲まれていた緊張が緩み、更に余計なことをぐるぐると考えていたらいつの間にか随分と酔いが回ってしまったように思う。

 もうすっかり日も落ちた。だんだん見慣れた景色になって来た車窓を眺めながら落ちて来る瞼に抗って、眠気を紛らわすようにぽつぽつと会話を続ける。


「明日も仕事ですが大丈夫なんですか」

「あー、なんとかなります。多分」

「多分じゃ困るんですよ。あなた明日一日尾行でしょうが。途中で倒れられたりしたらこっちが迷惑なんですよ」

「そう、ですねえ……」


 本格的に眠くてあんまり話が頭に入ってこない。がくがくと頭を揺らしまくっていると、いつの間にか自宅前で車が停まっていた。


「着きましたよ。……ほら、起きて下さい」

「起きて、まーす」

「寝てます。はあ……仕方ないな」


 助手席のドアを開けた夕さんに腕を引っ張られて体を支えられる。そのまま寄りかかると「重……」と小さく呟かれた。


「ひどいですねー……そもそも夕さんが力なさ過ぎなんで……」

「はいはい、分かりましたから歩いて下さい」

「うん……」


 のろのろと足を進めてエレベーターに乗り込む。壁に背中を預けるとひんやりして気持ちがいい。私の部屋は二階なのであっという間だ。再び夕さんにしがみつくようにしてエレベーターから出て、「鍵」と手を差し出されたのでその手にポケットに入れていた鍵を落とす。


「……竜胆さん」

「あ、呼び方戻ってる」

「そんなことはどうでもいいです。が、あなた酒に酔うと警戒心ゼロになるのどうにかならないんですか。口は軽くなるはほいほい鍵を渡すわ」

「鍵って言ったの夕さんじゃないですかー……」

「まったく、普段は中々用心深いのにこれだ。……これだから目が離せないんだ」


 ぶつぶつ言っている夕さんが鍵を開けて家の中に入る。うちは1DKで部屋数もない為すぐに寝室の場所も分かる。私が説明するまでもなく寝室に辿り着いた夕さんは、私をベッドの上に置くと疲れたように肩を落とした。


「少しは自省して下さい。もうすでに一度私がいなければ取り返しのつかないことになっているんですから」

「はあ……」

「全然聞いてないですね」

「今言われても頭入って来ないんで説教は明日にして下さい……」


 体を横に倒すと都合良く頭の下に枕が来た。これはもう寝るしかない。お休みなさい。

 頭上で聞こえる大きなため息をBGMにして、私はあっという間に眠りに落ちた。

 





「……明日は、私ではないですよ」



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