6 好きなタイプは浮気しない人です
「それでは、詳しい話をお聞かせ頂けますか」
夕さんがいつも通りの人の良さそうな仮面を被ってそう言うと、目の前の女性は酷く緊張した面持ちで小さく頷いた。
今日は事務所から出てとある喫茶店で依頼を受けている。というのも、この女性――依頼人である稲垣さんがそうしてくれとあらかじめ電話で頼んでいたからだ。まあこういうケースは少なくない。まだ信用できるかも分からない探偵の――しかも個人事務所に一人で足を運ぶのはちょっと怖いのだろう。
実際目の前の依頼人は気が弱そうだし、もし法外な値段をふっかけられても断れるかも分からない。……勿論うちはそんなことしないが。
「実は……夫が浮気しているんです」
開口一番に告げられたのは、何ともまあよく聞く一言だった。
「スーツのポケットに髪ゴムが入っていたり、ワイシャツに口紅が付いていたり……極めつけには出張だと言って三日ほど帰って来なかった間に、スマホにこんな写真が送られてきて」
稲垣さんが自分のスマホをテーブルに置いて私たちに見せてくる。そこには男性らしき裸の上半身の一部と、ネイルが目立つ女性の手がピースサインを向けていた。
「きっとその浮気相手が私を挑発する為に送って来たんです」
「うわ……」
「今までもそうだろうと思ってましたけど、ここまではっきりした写真が送られてくると一気に気持ちが冷めちゃって……。幸いと言っては何ですが子供も居ませんし、友人に相談したら、離婚するならしっかりした証拠を集めてもらって慰謝料もらって方がいいって」
「なるほど」
稲垣さんの目に薄く涙が浮かぶ。その体には悲しみや悔しさの色が見えて、こういう時毎回思うのだけど、相手の男滅べと私まで苛立ちが強くなる。
「分かりました、承りましょう」
「ありがとうございます……」
「まずは夫の写真と詳しい情報、それとこれ以外に何か証拠になりそうなものはありますか?」
「他に証拠は……夫の名前は稲垣一、写真は此処にあります」
「!」
稲垣さんが何処かの海で取ったらしいツーショットを差し出す。そこに映っている男とそして男の名前を聞いた瞬間、私は頭が真っ白になった。
「分かりました、こちらでこの男性の調査をいたします。では契約書の作成と報酬の交渉に移りましょうか。竜胆さん、いつもの」
「……」
「竜胆さん?」
「あ、はい! なんですか」
「ですから書類、出して下さい」
「ああ……はい」
夕さんに呼ばれてぼんやりとしたまま契約に関する書類一式を取り出す。それを渡した後も、私はじっとテーブルに置かれたままになっている写真に釘付けになっていた。
「……はい。では調査の進展があればその都度ご連絡しますので」
「ありがとうございます。……竜胆さん、でしたか。何かありましたか?」
「あ、いえ何でもありません!」
「そうですか……?」
「はい! 必ず証拠をしっかり揃えてみせますので!」
心配そうに私を見る稲垣さんに笑って見せたが、隣の夕さんの目はじっと私を見ていた。
■ ■ ■ ■ ■ ■
「さて、明日から調査開始ですね! いつも通り私が尾行すればいいですか?」
そのまま二人で事務所に帰って、明日から始まる調査の準備を始めようとする。しかしそこで、帰り道ずっと黙っていた夕さんが鋭い眼差しでこちらを振り返った。
「そのことなんですが……竜胆さん、あなた何を隠しているんですか」
「え?」
「先ほどから急に空元気のように明るく振る舞って。あなた普段加神さんでも関わらないとそんなに元気にならないでしょう」
「し、失礼な。別になずな様が絡まなくても私はいつだってこんなんですよ!」
「……先ほど、依頼人の夫の写真を見たときからでしたか」
「!」
「彼と知り合いなんですか? でしたら尚更話して頂かなければ。仕事に私情を挟んでもらっては困りますし、事情は把握しておかなければなりません」
「……別に、大したことでは」
「まあどのみち、明日朝一で彼については陽太が一通り調べます。あなたの口から聞くか、陽太の報告を聞くか、そのくらいの違いしかありませんが」
「……」
そうか、どっちにしろ知られてしまうのか。力無く応接用のソファに座り込むと、夕さんもその前のソファに腰掛けて話を聞く体勢に入った。……どちらでも同じならば、きっと自分で話した方がいいのだろう。
「夕さん、依頼人の夫の名前、稲垣一っていってましたよね?」
「ええはい、そうですね」
「私、一度名字が変わってるんです」
「は? あなた一度結婚を……?」
「え? ふっ、そんな訳ないじゃないですか」
予想外にも夕さんが妙に焦った顔でそんなことを言ってちょっと笑ってしまった。おかげで少し緊張が緩んで、今まで頭を覆っていた霧が少し晴れたような気がした。
「十四年前、離婚した母について行く時に竜胆の名字になりました。その前の名字は稲垣……稲垣一は、私のお父さんです」
「!」
「驚きました? はは、あの時もあの人が浮気したのが原因で……それを私が見抜いてしまって、離婚することになったんです」
目を閉じると、あの時のことが鮮明に思い出される。あの頃、お父さんは仕事で遅くなって中々会うこともなかったが、それでも見る度におかしな色を纏っていた。当時の私はそれが何を示すのかはっきり分かっていなかったものの、それでもその色が不穏なものだと分かった。
ある日、父親の部屋の前を通りかかった時に話し声が聞こえ、私はつい出来心でそっと数センチ扉を開けた。
「……ああ、来週は楽しみにしている。愛してるよ」
電話に向かってそんなことを言っている父の背中からは、またあの不穏なピンク色が見え隠れしていた。――そこで、私ははじめてその色が何を示しているのかはっきりと認識したのだ。
「私、その後お母さんの前でお父さんに言ってしまったんです。『お父さん、浮気してるでしょ!』って。……その時はお母さんに怒ってもらって、それで浮気を止めてもらおうって、そんな甘い考えだったんですよ」
「……ですが、別れてしまったと」
「お父さんがね、激怒したんです。『嘘を言うんじゃない!』って。私もついつい『嘘じゃない、お父さんにピンク色見えたもん!』って言い返しちゃって。それにカッとなったお父さんが私に手を上げようとして……それでお母さんと口論になって、結局別れることになっちゃったんです」
あの時、私が余計なことを言わなければ、普通の家族のままで居られただろうか。この目がなければ、お父さんの浮気に気付かなかったんだろうか。
「お父さんは元々、私の目に懐疑的でした。だから余計にそれが理由で浮気を指摘されたことが気に食わなかったんでしょうね。お母さんは信じてくれていたけど……だからこそ浮気が本当だって知ってしまってお父さんに愛想を尽かしてしまった」
「別にあなたの目が悪い訳ではないでしょう?」
「夕さんはそんな簡単に言ってくれますけど、私の目が普通だったら、今でも私は稲垣姓で両親は幸せに暮らしていたかもしれないんです。本当のことでも言っちゃいけないことがあるって、あの時は知らなかったから」
「……」
夕さんが酷く難しい顔をしている。こんな従業員の身の上話を真剣に聞いてくれるなんて、普段横暴なのにちょっと優しい所もあるな。
「お母さんにはすごく苦労を掛けました。多少は養育費も貰っていたとは思いますけど、女手一つで子供を育てさせて。挙げ句の果てに自分が楽をする暇もなく、私が高校を卒業すると同時に事故に遭って亡くなってしまいました。お母さんの人生、私がねじ曲げてしまったんです」
「それは」
「すみません、余計な話まで聞かせてしまって! という訳で依頼人の夫、稲垣一は私の実父です。ですが勿論私情は交えずに仕事をするので安心して下さい!」
「……そうですか。事情は分かりました」
私が無理矢理話を打ち切ると、夕さんは何か言いたげだったがそれ以上何も突っ込んでくることはなかった。
……とにかく、仕事の対象が誰だって私がやることは変わらない。尾行していつものこの目で怪しい所をチェックして、証拠を探し出す。それだけだ。
今の私は竜胆瀬名、青海探偵事務所の従業員だ。彼とは何の関係もないのだから。
■ ■ ■ ■ ■ ■
あれから数日、私はひたすら稲垣一の尾行をして女性と会っている所を写真に収めたり、陽太君が集めて来た情報を整理したりと慌ただしく過ごした。
なお夕さんはどこかへ出かけたかと思えば何故か酷く疲れた様子でよれよれになって帰って来た。話を聞くと「聞き込みをしていたらご婦人方に長々と絡まれまして」と少しずれた眼鏡を直しながらため息を吐かれた。おばちゃん達のパワーに揉まれてきたらしい。
まあそうこうしながら一週間も経たずに調査は終了し、私たちは稲垣さんに連絡を取った。「もう終わったんですか!?」と驚いていたが、仕事が早いのがうちの事務所のウリである。
今度はファミレスで待ち合わせだ。土曜日の昼間だけあって店内は中々混み合っており、皆楽しそうに食事をしている。あー、いい匂い。ちょっとお腹空いてきた。
私達は十分前に到着して稲垣さんを待っていたのだが、時間になっても彼女はなかなか姿を現さない。
「夕さん、ちょっと注文してもいいですか」
「飲み物程度にして下さいよ」
ちょっと小腹が空いているが仕方ない、ドリンクバーで我慢するか。ささっと店員を呼んで注文していると、ちょうどその時小走りで稲垣さんが私たちのテーブルへとやって来た。
「遅れてすみません、出かける時に夫に捕まってしまって」
「いえ、問題ありませんよ」
「あ、私お水持ってきますね」
この店は水はセルフサービスなので、ドリンクバーの所まで取りに行かなくてはならない。ちょうどいいやと立ち上がった私は、稲垣さんに軽く会釈をしてテーブルを離れた。
ささっと氷を入れたグラスに水とジンジャーエールを注いでいそいそとテーブルに戻る。しかしやけに立ち止まっている人が多い。ちょっと邪魔だなと思いながら両手がふさがったまま何とか人をかいくぐって席戻ろうとすると、「浮気だな!」と叫ぶ男の声が聞こえてきた。白昼堂々こんな所で騒いで迷惑な……。
「え……」
私の足が止まった。その男が居たのは私達のテーブルの目の前で、稲垣さんを怒鳴りつけているのだ。その後ろ姿は、そして声は、確証は持てないもののきっとあの男のはずだ。
どうしよう。きっとあの男は私が離れてから二人を見つけて浮気だと言い始めたのだろう。だったら私があそこに割り込んで事情を説明すればいい。そう分かっているのに、足は床に貼り付いたように全く動かない。
ふと、夕さんがこちらに気付いた。男に気付かれない程度に小さく首を横に振って「来るな」と言いたげに私に合図を送ってくる。本当ならそれに甘えたいが、むしろそんなことを言われたら余計に何かしなくてはと思えてくる。
「誤解しないで頂けますか? 彼女は私の依頼人でーー」
「うるせえ! 間男は黙ってろ!」
とにかく店員を呼んできて騒ぐ男を何とか外に引っ張り出してもらおうとその場から離れようとしたその時、男に怯えて身を竦ませていた稲垣さんがはっとした顔で私に視線を向けた。
「竜胆さん!」
……あー、呼ばれてしまった。いやそりゃあ呼ぶだろう。稲垣さんは私の事情を知らず、夕さんと二人で居た訳ではないと証明できるのは私だけなのだから。
「竜胆……?」
「私は! あなたの浮気調査を探偵さんに依頼しただけです! 青海さんだけじゃなくてそこの竜胆さんにも……」
「……お前、まさか瀬名か」
男――父が驚愕の表情でこちらを振り返った。十六年も経っているのだから気付かない可能性も考えていたのだが、名前を言い当てられた時点でもう言い訳も何もできないだろう。
震える手を握りしめ、出来るだけ毅然とした表情を作って彼らの元へと近付いた。目の前の男がどんどん怒りを増幅させているのが色を見ずとも分かってしまう。
「あの、私は――」
「このっ、親不孝者が!!」
「っ!」
「竜胆さん!」
刹那、素早く手を上げた父が私の頬を叩いた。その勢いで持っていた飲み物を全てぶちまけて、よろめいた私は濡れた床に膝を着く。じんじんと熱を持つ頬を押さえて顔を上げると、そこには鬼の形相をした父が私を見下ろしていた。
「お前は、どれだけ俺の邪魔をしたら気が済むんだ! その気味が悪い目で一度離婚に追い込んだかと思えば二度までも俺の人生を滅茶苦茶にしようとして……! おまけに何だ? お前人を殺して捕まったってニュースで見たぞ。人様にまでそんな迷惑を掛けて……お前が娘なんてまったく恥ずかしくて仕方が無い!」
「……」
ざわざわと、周囲から囁き声が聞こえてくる。私は色々と言い返そうとしたのに、言葉が喉に貼り付いて出てこない。昔怒鳴られたあの時の光景が蘇ってきて、ただただ体を振るわせて父を見上げることしか出来なかった。
鉈を持った犯罪者には立ち向かえたのに、素手の父親がこんなにも怖くて仕方が無い。
「おと、……」
もう一度腕が持ち上げる。思わず歯を食いしばって目をきつく閉じたが、何秒経っても衝撃は訪れなかった。
「いい加減にしてもらえますか」
「お前、放せ!」
「それ以上うちの従業員に暴力を振るうようでしたらすぐに警察を呼びますよ」
恐る恐る目を開けると、父は振り上げた手を夕さんに押さえつけられて……いや、夕さんが割と必死に両手で腕を掴んでぎりぎりで止めているところだった。
夕さん、あんまり力無いのに無理して……。その光景を見て、私も震える体を押さえてなんとか立ち上がった。
警察、という言葉に反応したのか父が苛立たしげに夕さんの腕を振り払ってその腕を下ろす。
「大体……何でお前こんな所に居るんだよ! 捕まって刑務所にいるんじゃ……」
「言いたいことは沢山ありますがとりあえず、彼女を犯罪者呼ばわりするのは止めて下さい」
「はあ? 何言ってんだ、こいつは人殺しで」
「おや、ご存じ無い? 竜胆さんは真犯人に罪を着せられて誤認逮捕されていたんですよ。勿論真犯人はすでに逮捕されてそのこともニュースになったかと思いますが……まさか? 中途半端な情報だけで鬼の首を取ったかのように彼女を侮辱したんですか? まるで知ったかぶりで知識をひけらかす子供のようですねえ」
父の顔がカッと赤くなる。ああ、夕さん悪い顔してるなあ。しかも周りの野次馬に言い聞かせるようにわざとらしいほどの身振り手振りで……あんなに恐ろしいと思った目の前の男が随分小さいものに見えてくる。
「ああそれにしても、まったく恥ずかしい人ですねえ。同じ男だとは思いたくも無い」
「何だと!?」
「皆さんも聞いているようですし、あなたがやっていることを客観的に教えて差し上げましょうか? あなたは十四年前、自身が浮気したことを実の娘に指摘されて逆ギレし、妻に離婚されたことを娘の所為だと逆恨みした。そして更に今、再婚して再びあなたは他の女性に浮気した。それを知った奥さんが私たち探偵に調査依頼をしたところで、自分のことを棚に上げて浮気だと声高に叫び、挙げ句の果てにたまたま探偵事務所で働いていた娘にまたもや逆ギレして手を上げた」
改めて聞くとホントに最悪だな、と恐れどころか今度は怒りすら湧いてきた。周りがざわつくのと同時に、怒りに震えた父……とも思いたくない男が夕さんを射殺さんばかりに睨み付けた。が、彼はというと涼しい、どころか氷点下の顔をしてその口元だけで笑みを形作っている。
「何か反論でもありますか? まあ何も言い返せないかと思いますけど。ちなみに今回の浮気の証拠もしっかりと揃っていますので言い逃れも出来ませんよ」
「……黙れ、黙れ黙れ! こそこそと人のことを嗅ぎ回りやがって! 何が探偵だ、ストーカーの間違いだろうが! お前らみたいなやつが居なきゃこんなことには――」
「っ夕さん!」
ぺらぺらと挑発するように話し続けていた夕さんにどす黒い色を持った父が殴りかかる。私を叩いた時なんかとは違う、殺意と見紛おう色と力を込めた拳に私は咄嗟に夕さんに駆け寄って彼の腕を引いた。
「いい加減にして!!」
しかし、その拳が夕さんにも私にも届く前に、ばしゃりと音を立てて父を冷水が襲った。大声を上げて夕さんが飲まずに置いていたお冷やをぶちまけた稲垣さんは、怒りで体を震わせながらぎっ、ときつく父を見上げ、そして鞄の中から紙を取り出して彼の眼前へ突きつけた。
「離婚して」
「は……」
「あなたの身勝手に付き合うのはもう沢山よ。自分は自由に遊び歩いて、私はちょっと出掛けようとするだけで『何処に行く、誰と会うんだ』って詰問されて。ましてや自分が浮気したのに調べられて逆ギレ? 私は探偵に調べてもらったから浮気を知ったんじゃない。浮気してるのを知ったから離婚する為に証拠集めをしてもらったのよ。あなたは私が浮気にも気付かない鈍感なやつだと思ってたみたいだけどね!」
大人しそうだった妻がまさか反撃してくると思っていなかったのか、彼は怒りさえせず呆然と彼女を見つめた。稲垣さんはそれを酷く冷めた目で見返すと、テーブルに離婚届を叩き付ける。
「女を馬鹿にするのもいい加減にして」
「次に会う時は弁護士を通しましょう」と、稲垣さんはもう彼も見ることもなく店を出て行った。
■ ■ ■ ■ ■ ■
あれから時間を置かずに警察がやって来て一悶着あったものの事態は収束した。何でも私が殴られた時点でファミレスの店長が警察に通報していたらしく、更に父が暴れる前に警察が到着し事情を聞き始めたので、彼も大人しくならざるを得なかった。
ちなみに警察から解放されてすぐに稲垣さんから連絡が入った。「頭に血が上って飛び出してしまった、巻き込んで申し訳なかった」と何度も謝る彼女を宥めて後日再び調査報告の時間を取る約束をし、そうしてようやく私たちはファミレスを出て車に乗り込んだ。
「何というか……我が父ながら本当にクズでしたね。巻き込んですみませんでした」
「いえ、竜胆さんが謝ることではありませんから」
助手席から窓の外を眺めながらため息を吐く。あんなのでも私の父親で、そして私はその血を引いているのだ。
「でもそんな父でも、母は愛していたんですよね……。私が余計なことを言ったから別れて、その所為で結局稲垣さんにまで被害が……」
「あなたの所為じゃありませんよ」
「別に気を遣ってくれなくてもいいですけど」
「いえ、気など遣っていませんが。私は事実を述べているだけです」
「は?」
「あなたのお母様、竜胆さんに指摘される前からとっくに夫の浮気に気付いていたらしいですよ」
思わず運転席を振り返ると、ちょうど赤信号で止まった夕さんがこちらを見ていた。
「ですがまだ幼い子供もいて簡単に別れる訳にはいかない。まあ浮気ぐらいは仕方が無いと見逃していたようです。ですが竜胆さん、あなたが父親に浮気を指摘した時にあの男はそれを誤魔化すどころか娘に手を上げようとした。その時にあなたのお母様は一瞬で愛想を尽かしたんです。この男を娘の父親にしておく訳にはいかないってね」
「な……なんで、そんなこと夕さんが」
「稲垣一について調査する過程で彼の前の家族についても調査したのでね。以前暮らしていた団地の奥様方に話を聞いたらぺらぺらと喋って下さいましたよ」
「……」
「それから念のためあなたのお母様が生前働いていたスーパーでも少し話を伺いました。まだ当時一緒に働いていたパートさんが何人も残っていましてね、前の夫のことや娘のことをよく話していたそうですよ」
「……なんて、言ってたんですか」
「夫のことは「あんな男と別れて清々している」と、一から十まで愚痴だったようです。娘のことは」
信号が青になって、言葉が途切れた。
「あまり友達が居なさそうなのが心配だと」
「そんなの職場で話さないでよ……もう」
「それに……何処に出しても恥ずかしくない自慢の娘だと、よく言っていたそうですよ」
「……」
夕さんの言葉に何も返せなくて、私は膝の上に置いた両手をじっと見つめる。
「……夕さんの嘘吐き」
運転席にも聞こえないくらい、小さく口の中で呟いた。
今回の依頼に前の家族のこと、しかも別れた後のことなんてまったく調べる必要もないはずなのに、わざわざそんな所まで足を運んで聞き込みまでして来て。
……そういうところ、本当に。
「あーあ! それにしてもホント、ここまで来ると浮気しない男なんてこの世にいないんじゃないかと思えて来ますね!」
無理に話題を変えて、今までの空気を振り払うように明るい声を上げる。すると夕さんは運転しながら、眉間に皺を寄せてこちらを一瞥した。
「私も男なんですがその私の前でそれ言いますか」
「あ、陽太君はそういう点では信頼出来そうです。あの白は絶対に浮気しなさそう」
「陽太には未来がいます」
「そりゃあ知ってますよ。別に付き合いたいとか思ってませんから」
「……では、私はどうですか」
「んー、夕さんですかー?」
……。
「夕さんは何というか、浮気とかそれ以前に何か別のベクトルで陥れられそうな感じが……」
「私それ怒ってもいいですよね」
「いやだってご自分の色見て言って下さいよー」
茶化すようにそう言って、私は窓の方を見てぱたぱたと顔を煽いだ。あー空調効いてるのに何かやけに暑いな……。
 




