がさつ過ぎるよ、北上くん
北上稔貴はイケメンである。
山田律子は今、とある理由による小競り合いの末に、そんな彼によって壁際まで追い詰められた上に、顎を乱暴に掴まれて凄まれている。
状況だけなら、イケメン、プラス、壁ドンに顎クイという、少女漫画ファン垂涎のシチュエーションだ。
近づく彼の顔に思わず視線を向けると、力強く黒目がちな目が律子の心を射抜いた。一見中性的だが内面のものと相まってバイタリティを感じさせる容貌が、特撮ヒーロー番組の俳優のようだと、律子は彼にそんな印象を抱いた。
ちなみに律子、スー●ー戦隊系やライ●ー系と呼ばれるジャンルには、割と好きな俳優が多かったりする。ところで「●」は何かというと、まあ人によって「良心」と呼んだり、「自重」と呼んだりするものだが、詰まるところの「保身」である。
それはともかく。
ならば、それに近い雰囲気のイケメンである北上に、これほどまで接近してさぞやときめくことかと思いきや、残念ながらそこまでには至らないのが現実である。今実際にされていることは、どちらかといえば恫喝だ。少女漫画というより青年漫画。しかも、暴力や乱闘ありのまあまあエグイやつ。
「ふざけんな、律子コラ! 俺は珠里に用があるんだよ!」
北上は、大変威勢のよい調子で、絶妙な巻き舌も交えながら怒鳴るように捲し立てる。これはこれで、ある意味正しい壁ドンのあり方ともいえるのかもしれない。
彼はこちらのことを「律子」と親しげに呼ぶが、まともに対面したのは今日が初めてである。なかなかに距離感が掴みづらいが、律子は負けじと歯向かう。
「だ……駄目! 珠里ちゃんに近づかないで……!」
北上は、律子が所属する県立赤嶋高校漫画研究部――漫研部の平泉倫のクラスメイトであり、彼の勧めで見学に来ていたところだった。
ところがこの北上、見学に来た目的は漫画やイラストへの興味ではないのだった。彼は最近漫研部に加入した宮古珠里という女子生徒を追っていたのだった。
当初こそ、さも絵を描く趣味があるかのように装っていたが、やがて自ら本性を現した北上。
訪れた部室に珠里がいないと分かった彼は、他の部員達から彼女の居場所を執拗に聞き出そうとした。それが叶わないと分かると、彼女の行方を追うべく、持ってきた荷物も放ったまま、部員達の制止も押し切って部室を飛び出したのだ。
律子はそんな彼の様子を窺いつつ、珠里と接触するのを食い止めようと、こっそり単独で追跡していたのである。
ストーカーをストーカーするようで、何だか滑稽な状況だと思い至ったのも束の間。律子は、部室から近い階段を下りた先の廊下で、下の階から戻ってきた北上と呆気なく鉢合わせと相成ったのだった。
「お前に何の関係があるんだ。いいから、そこをどけよ、ほら」
「そんな態度の人は、尚更珠里ちゃんには会わせられません!」
面倒臭そうに手をぱたぱたさせて、律子を払いのけるような仕草の北上。
だが、律子にもそこで退いて堪るかという思いがあった。
「どうせ、あれでしょ……君、珠里ちゃんの元彼なんでしょ。それで、よりを戻したいとか何かで、追いかけ回してるんでしょ。あのね、気持ちは分かるけど、そういうのがいちばん嫌われるんだからね」
「はあ!?」
律子が苦言を呈すると、北上はあからさまに顔を歪めて反応する。
「誰が誰の元彼で、よりを戻したいって? ふざけんな、コラ。妄想も大概にしろ。俺はそんな女々しい奴じゃねえ。初恋もまだの、真面目な男なんだっつーの」
「どさくさに紛れて何てことをカミングアウトするの!」
この男、律子の夢という夢を悉く壊してくる。
勿論こちらにも、顔立ちがいいというだけで、それこそ妄想に近いようなイメージを抱いていた身勝手な部分はある。
宛ら自分が少女漫画のヒロインになったかのように空想しても、結局否が応でも北上に付き纏う「初恋もまだ」のレッテル。
初恋がまだということは、要するに「恋愛経験ゼロ」ということ。
そうなってくると、目の前のこのイケメンが、この先俺様ヒーローのように強引に迫ってこようと、キラキラした王子様のように甘く囁いてこようと、常に「でも君、恋愛経験ないんだよね……」と律子の脳内が勝手に突っ込みを入れ、空気を乱しかねない。
律子の少女漫画風妄想物語、終了のお知らせである。
「……君、一応イケメンなんだから、もっと色々とイメージを大事にした方がいいよ。初恋もまだとか、他の人には絶対言わない方がいいと思う。その見た目で恋愛経験ゼロなんて、残念だもん」
「イケメンって、“イケてる顔面”の略かと思ったら、“イケてるメンズ”の略なんだってな。つーことは、イケメンって本来顔の問題じゃないってことだよな」
言葉を拾って思い浮かんだことをひとしきり呟いたのち、北上は言う。特に呟きに意味はないようだ。
「それはさておき、別にいいじゃねえか、初恋がまだでも。恋愛経験がそんなに偉いのかよ。俺は女と付き合ったことはなくても、ゴキブリを素手で掴んだことはあるぞ。家のなかに出た時に、叩けるものも殺虫剤も近くになかったんだけど、とにかく仕留めないとと思って咄嗟に手が出ちまってな」
「……恋愛とゴキブリを手掴みすることの、何が関係あるのよ」
「恋愛とゴキブリを手掴みすることの、どっちが難しいか考えてみろよ。誰かと付き合う奴は世の中にいっぱいいるけど、ゴキブリ掴む奴はあんまりいねえと思うんだ、俺」
先程から薄々感じていたが、北上との会話はどこかおかしいと、律子はいよいよ現実を見る。
否、会話がおかしいのか? 価値観がおかしい? 世界観がおかしい?
とにかく色々おかしい!
「……がさつ過ぎるよ、北上くん」
そう。
この男、がさつなのだ。喋り方も、行動も。
だから先程から自分のペースでしか話をしないし、部室でも一方的に自分の目的だけを果たそうとしていた。この調子なら、恐らく珠里を追う理由も、大方自己都合のものではないかと思われる。
「――とにかく、このまま探しても見つかりそうもねえから、俺は一度部室に戻って珠里を待たせてもらうことにする」
話を巻き戻して、そんなことを言う北上。
部室に戻って云々と言っているが、彼は部員ではない見学者である。何故その立場で、個人的な待ち合わせ場所のように部室を行き来できるのか、その了見が律子には理解不能だった。
「その調子で部室に戻って『珠里が来るまで待たせてください』って、通用すると思ってるの!? 衝撃の図々しさに、鼻血出るかと思った!」
「自分の荷物も部室に置いてきちまったんだよ」
「もう!」
そういえばそうだった。どのみち、北上には一度部室に戻らなくてはならない理由があった。
「……荷物なら私が持ってくるから、君はここで待ってて。珠里ちゃん以外の部員も、君のことは怖がって大変なんだから」
先ほど部室を訪れた際の北上のあまりに荒々しい態度に、部員一同戸惑いと戦慄で、彼に対してはかなり拒否的な空気が出来上がっている。とても部室に再入室できるような雰囲気ではないのである。
「何でそうまでして、俺を部室に行かせたくねえんだよ」
そう言ったのち、はたと思い立ったように、北上は続ける。
「――――あ! さては、やっぱり今、部室に珠里がいるんだな。ちくしょう。危うく出し抜かれるところだった」
「珠里ちゃん関係なく、君はもう部室に行ったら駄目なんだってば!」
踵を返す北上の手首を思わず掴んで、律子は制止しようと試みる。
どうしてこうも話が通じないのだろうか、この男は。
廊下や学年集会で遠巻きに見かけていた頃の彼に対して、少々つんとした印象だけれども格好いい男の子だなあという、実に呑気な夢を抱いていた律子。実際に会話を交わす機会に恵まれたわけだが、現実はつんとしたどころの騒ぎではない。オラついているし、会話も成立しない。
「何て残念な人なの……っ!」
律子は心の内を絞り出すように呟いたのち、歯を食いしばる。
北上との力の差は圧倒的で、律子一人の力では物理的に抑えることは不可能なのは明らかだった。両手でその腕を引っ張ろうとも、北上はそんな律子をずるずると引きずるように歩みを進めて部室がある方向へ向かおうとする。
ただ、そんな微力な妨害だが、彼にとっても煩わしくはあったようだ。
「――――あーもう!」
地団駄を踏むように立ち止まり、彼は苛立ちを露にする。
「分かったよ。そっちがそのつもりなら――」
こちらへ向き直ったかと思うと、北上は少し屈んで体勢を低くとった。彼は律子に身体を寄せたかと思うと、こちらが怪訝に思うよりも早く、膝の裏と背中に手を触れてきた。そして、その場所を軸に腕で支えるようにしながら、そのまま律子の身体を横抱きにするのだった。
「ちょ、ちょっと! 何……何なの!?」
所謂お姫様抱っこと呼ばれる、これまた少女漫画的な状況なのだが、律子は戸惑いと恐怖の方が先立って、気が気ではなかった。
「やめて……! 怖い、落ちちゃう!」
小さな子どもでもない身体の自分が、そんなことをされる状況がにわかには信じ難かった。163センチと、女子の平均以上の背丈がある律子だ。
抱き上げられた身体は、普段の自分の目の位置とほぼ変わらぬ高さにいる。しかも、それを支えるのは北上の腕のみだ。
それでも北上にはそこそこ腕力があるのか、然程ぐらつくことはなくしっかりと持ち上げられている。だが、根底の信頼関係がないままのこの状況。律子にとっては、不安で心許ないものなのは言うまでもない。
「我慢しろ。お前がいつまでもぴいぴい騒ぐから、俺が連れていって、部員の皆さんに返してやる」
「嘘でしょ!? 私が騒いでたことになるの!?」
この男、自分をまるで客観視できていない。
騒いでいたのは、彼自身だろう。
勇気があれば即座に暴れて抗議してやりたいところだったが、律子にはそれができなかった。この滑稽な状況に気持ちの整理がつかないことと、落下の可能性を恐れて大人しくしているより他なかったのである。非常に不本意ではあるが、北上の首元にしがみついて手近な支えにする。非常に不本意ではあるが。
「……もう何でもいいよ。とりあえず、絶対落とさないで」
「楽勝だっつーの」
諦めに近い境地で律子が言うと、北上は自信を隠すことなく笑みを浮かべた。にっ、と横に広げた口から、透き通るような揃った歯が覗く。
そして、その宣言のほどを見せつけるかのように、彼は律子を抱えたまま階段を駆け上がるのだった。