8:問題発生
その日は唐突に訪れた。
仕事終わりの夜。今日は珍しくエクレアは先に寝床に付いており、一人起きていたフリントは真剣な表情をさせながらダイニングテーブルで新聞を読んでいた。
それはこのラピラ連合王国で発行されている物ではない、異国の新聞。街の立ちんぼや雑貨屋からすぐ購入できるようなものではない。フリントが懇意にしている書店にわざわざ注文して、一週間おきにまとめて七部手に入れているものだ。
「それナルナ新聞だな。ロードラガ王国で発行されてるんだっけか。よく手に入ったな、ここで」
熱心に記事を読み込んでいたせいで、ログが奥の自室から現れたのにフリントはまるで気付けなかった。夜も更けた頃だからか、出てきたログの顔には疲れが張り付いていた。
「ええ、まぁ。こんなの頼めば簡単に手に入りますから」
フリントは答えつつも記事の内容を見せたくないという気持ちが働いて、無意識に紙面を伏せて隠していた。しかしむしろその態度がログに興味を持たせてしまった。ログは目の前の椅子に腰掛けつつ言う。
「俺にも少し見せてくれるか? どういうことが書かれているのちょっと見てみたい」
「いいですよ」
断る理由もなく快諾しつつも、フリントにはばつの悪さがあった。
手渡した記事にログは黙って目を通していた。
「ほう、アイン宰相か。すごいもんだな。少し前までは騎士団の一介の団員だった男が、宰相まで上り詰めたか。すごいサクセスストーリーだな」
記事の内容はアインが以前から内定していた宰相の地位へと立つことが遂に正式に認められ儀典が行われたことについてのものだった。
そこには儀典の内容はもちろん、アインの今までの成果も含めて、それらを称揚するようなことが長々と書き連ねられていた。あとはフリントのことについても少しだが載っていた。
『――アイン宰相はシュラウ王子暗殺の犯人を暴く見事な功績を収めた。惜しくも犯人逮捕にまでは至らなかったが、誰一人として見抜くこと叶わなかった〝裏切りの英雄〟の罪を暴いた慧眼は驚嘆の一言である』
そんな提灯記事の短い数文だったが、一応自分の存在が忘れられていないことに安心感があった。同時に、アインが上手くやっていることが嬉しかった。
おそらく今の地位はフリントを追い落とすことを望む何者かとの契約で得た物だろう。その善悪や是非はともかく、自分を裏切ってまで手にしようとした地位をアインは遂に掴んだ。それは喜ばしいことだろう。
もちろん今、フリントの内に苦い気持ちがないと言えば嘘になる。それでも本当に素直にアインを祝福したい気持ちも確かにあったのだ。
「本当ですね。彼は……俺みたいな一般人には想像も出来ないような人生を歩んでるんでしょう」
自分の複雑な思いを出来るだけ隠して、客観的な意見を紡ぐことは思いの外ストレスがあった。
「そうでもない。お前だって波瀾万丈の人生だろ? 確か、前の職場を親友に追い出されてこの国に来たって言ってたよな」
話の流れからすると、もしやこの記事にあるロードラガの英雄と自分を重ねてログは疑っているのかもしれないとも思ったが、しかし飄々《ひょうひょう》と話すログの態度に他意は見えなかった。
「まあ、そんなとこですね」
嘘くさい作り笑いをしながら言うと、ログは訊ねる。
「戻りたいのか? 前の生活に」
難しい質問を投げかけられて、フリントは視線をテーブルの上に落とした。
懐かしい記憶が蘇る。突匙騎士団の中で、フリントはその団員全員と仲が良かったが、それでもとりわけ長い時間を一緒に過ごしたのはアインだ。
自分たちがまだ無名の頃からギルドで仲間を探し、最初に出会った相手なのだ。そこから様々な功績を挙げ続け、躍進を続け、最後には国が抱える直轄鉱床攻略隊の証たる『騎士団』の名も手に入れた。
まさに苦楽を共にした仲であり、アインとの思い出はこうなったからもうきっぱりと切り捨てようと、そんなこと思って捨てられるような生半なものではない。
今でもよく夢に見る――あの日々の懐かしい時間。でも。
「以前はそんなことを思ったこともありました。でも何より今のこの日々が気に入ってるんですよ、俺。だからもう戻りたいとかそういう気持ちはありません」
ログの目を真っ直ぐに見据えて答えると、何故かログは悲しげに目を細めた。
「そうか。だとすると、今からお前にとって少し辛い内容を話すことになるかもしれん」
そんな前振りをされて、フリントは身構えながらログの話を聞くことになった。
「お前もあのベルグって男がこの街の名士、貴族の息子だってことは知ってるな?」
ホットミルクの入ったカップを傾けつつ、ログが言う。
「ええ。なんか鉱床関係で功績があって、それで成り上がったとか」
「ボルズ・ラーベランド。ベルグの父親の名前がそれだ。この辺じゃ誰でも知ってるような名だ」
「そういえば噂話とかで小耳に挟んだこともあるような」
ベルグに嫌気が差していた客たちの一部が小さな声で話していたのをフリントは偶然立ち聞きしたことがあった。
「で、まあ簡単に言うとだな、この土地も上物もそのボルズに借りているものなんだ」
「……そうだったんですか。なのに俺は自分勝手にベルグを追い返してしまった」
後悔に満ちた苦い声音でフリントが言うと、それをログが制した。
「いや、それはいいんだよ。俺だってヤツがエクレアちゃんに手を出そうとして、あまつさえコーヒーぶっかけられりゃあ追い出すさ。お前を責めるつもりは一切ない。だからお前も自分の責任だとかは考えるな」
「ありがとうございます」
ふう、と一息吐いた後、再びログが話し始める。
「で、だな。あのベルグだが、たぶん父親のボルズに掛け合ったんだろう。地代の契約を更新して値段を吹っかけ、一気にうちの土地や店を取り上げようとしてきてな」
「それって、つまりここから追い出されるってことですか? で、でもメープルは繁盛してるし、場所を移転してもやっていけますよ」
青天の霹靂とも言える事態にフリントの声は上ずっていた。そして頼みのログの表情も思わしくない。
「さあな、商売は難しい。俺はそう楽観視は出来ない」
ここでフリントの言葉に「そうだ」と頷くことは容易いが、この王都で曲がりなりにも生き残ってきたログの経営者としての精神が、それを拒んでいた。
「しかも厄介なことはもう一つある。お前も覚えてるだろうが、最近俺は新しいオーブンを買い付けたよな」
「そういえばそうでしたね」
納品されてきて、珍しくログははしゃいで、その性能などを何度もフリントに語っていた。本当に最近の出来事だし、あれをこの短期間に忘れるというのは無理がある。
「このオーブンの代金、結構値が張ったが、それは店の今後の売り上げから払っていくつもりだったんだ」
「でも店を開けられないならお金は用意できない……」
唐突に閉塞し始めた未来を見て、フリントの顔色がどんどん曇っていく。
「これが支払えなくなったらこの店は完全に終わりだ。もう俺は王都で商売することは出来なくなるだろう。
最初俺も移転は考えたが、それにも相当費用がかかる。加えて新しい場所で客が来てくれるかも分からない。そんな曖昧な未来に当て込むのは都合が良すぎる」
ログの言い分は確かに正しかった。言い返すことも出来ずにフリントが口をつぐんでいると、少々の逡巡の後、ログは言う。
「だから、お前らには悪いが、ちょうどいい機会だし、店を畳もうと思ってな」
遂に放たれた決定的なセリフに、フリントは返すべき言葉が見つからなかった。
「正直俺も結構年喰ってきたし、お前に店番を任す時間も多くなってきたろ。何というか自分の意思で決めたわけじゃないから優柔不断に感じるかもしれんが、これも古霊ヴァルカ様の思し召しかとも思うんだ」
ログはまるでフリントに言い訳するように、縷々《るる》と言葉を繋いでいく。
「ただここは土地も借り物だから居を移すことになる。居候してるお前らには迷惑な話だろうが、よければまたどこかで一緒に暮らそう。借金はなにか手堅い仕事でも探してそこから少しずつ返していけばいい……」
ログは笑いながら淡々と言っていたが、しかしそのいっそ飄々《ひょうひょう》とした態度が、もうすでに深く悩み、悔やみ、苦しみ、そして現実を受け入れてしまった男の悲哀をむしろ強く際立たせていた。
フリントは決然とログの顔を見据えて答える。
「断ります」
「ん? あぁ、そうか。まあお前たちも宿無しだったから俺と住んでくれていただけだろうしな。仕方ない」
「いえ、店を畳むことの方ですよ」
そのセリフに少々面食らったログは力ない声で返す。
「断るって、言ってもな……難しいぞ」
「でも、ログさんの話を要約すると、つまりお金があればいいってことですよね?」
「簡単に言うが、それで困ってるヤツはこの世界にわんさといるんだ」
世の中を動かす中心、人間の欲望の根源のようなものだ。カネとは。それを十分に集める好意が容易いわけもない。
しかしフリントの様子はどことなく不敵で、自信ありげだった。
「でもあるじゃないですか。この近くに、誰であろうと一攫千金出来る場所が」
「まさかお前……」
唖然としていたログに、フリントは寂しげな笑みを添えながら答えた。
「……俺が鉱床に潜ります。実は昔、採掘者をやってたことがあるんです」
その言葉を絞り出すのは思いの外、苦々しいことだった。
また誰かとパーティを結成して、鉱床へ潜る。それだけのことなのだが、当然、アインとの出来事が頭をよぎった。
その上、鉱床やそのギルドなどは言うなればフリントの古巣。ここが異国であっても六傑の一人として名前は知られている。そしてフリントの正体がバレればこの街、いやこのラピラ連合王国からさえ退去せざるを得なくなるかもしれない。
それでも。
それでも、得体も知れない自分たちを拾ってくれた恩人のログを助けられない人間に、この先どこに居場所があるというのだろう。
自分の中にある心の古傷と、恩人に報いること。
天秤にかけるには軽すぎる。
さっきまでは諦念に支配されていたログの瞳には、僅かに希望の光が浮かんでいて、それがフリントには単純に嬉しかった。
「いいのか? お前、採掘者の仕事が嫌だからこの店で働いてたんじゃないのか?」
「そんなことないですよ。別にそういう機会がなかったからってだけで。――任してください。きっちり大金を稼いで来ますから」
尚もログはフリントを気遣い、止めようとしていたが、フリントの意思が堅いことを見て取ると、小さく何度か頷いた。
「わかった。そうまで言ってくれるなら任せよう。でも、嫌になったらいつでも言ってくれ。お前の気持ちが一番だからな」
その後、いくつか細かい話をした後、早くも数日後、フリントが鉱床へ潜ることが決まった。
そして鉱床へ潜る前日。
フリントは物の散らかった自室で床に座りながら、縦長大型のケトルにフォークで穴を開けていた。
そのケトルはログにもらったもの。側面に小さめの穴を二つ穿って、後は湯を注ぐための口を力ずくで強引に広げた後、それを被ってみた。
その様子を姿見の鏡で見てみると、まあ何となく兜に見えなくもない。ただし左には依然として湯を吐き出す細い口と右には取っ手が付いている。
改めてそれを見ると、やはり兜には見えなかった。
何故こんな珍奇な格好をしているかというと、今から行く場所がマイナーギルドであり、そこだと流石にフリントの素性がバレるリスクが結構にあるからだ。
しかしながら街場の喫茶店のマスターが鉱床攻略用の兜を持っているわけもなく、さりとて購入に充てる金もない。そもそもお金があればこういう問題に発展していないのだから。
ということで、渋々即席お手製兜を作ることにしたのだ。
しかし見た目が酷い。その上で背中に背負っているのはエクレアなのだ。誰がどう見ても旅芸人か、物見遊山で鉱床に飛び込もうとしている変人か、そんなところにしか映らないだろう。
色々絶望的な気分になるが、それでも何も身につけないよりはバレるリスクが下がるのは事実。加えて今回限りというのなら、さほど見た目に拘る必要もない。
『大丈夫だよ。フリントくんはかっこいいから』
剣になったエクレアがお世辞なのか本気なのか分からないが褒め言葉をくれて、フリントの精神も少しは楽になった。
「あ、ありがとう……」
ともかくフリントたちは、店を救うため、その旅芸人のような格好で翌日、鉱床ギルドへと向かうことになった。